千島喜久男博士プロフィール


1899
10月10日、岐阜県上宝村本郷に生まれる。
1921
国立盛岡高等農林学校獣医科卒。陸軍獣医少尉に任官。
1923
依願休職し恵子と結婚。
1924

1940
藤枝農学校教諭(人体生理学)、熊谷農学校(同左)、群馬県勢多農林学校教諭(同左)を歴任し、九州帝大嘱託(組織学)となる
1944
満州国立奉天農大教授(畜産学)、満州医大講師(組織学)に就任。
1945
終戦。その後の抑留残務として東北中正大学・日本人研究員とされる。
1946
抑留解除により家族と共に内地へ引き揚げ。
1948
岐阜高等農林専門学校講師となる。
1949
京都大学医学部解剖学教室、名古屋大学理学部生物学教室に内地留学。
1951
岐阜大学農学部助教授。1953年、教授に昇進する。
1957
来岐された天皇陛下のご要望により、著書16冊を献上。
1958
東邦医科大学より医学博士の学位授与。
岐阜県内水面漁場管理委員会会長に就任。
1960
岐阜大学学芸学部・生物学教室主任教授に昇進。
1963
岐阜大学を定年退官。同年8月、ワシントンで開催された第16回国際動物学会に出席し研究発表後、欧米各地、インドを視察する。
名古屋商科大学教授(環境衛生論)、愛知淑徳短期大学教授(生物学)、名古屋栄養短大講師(同左)として再び大学で講義を担当。
同時に革新的医学・生物学理論『千島学説』を世界に対し提唱、本格的に普及 活動を始める。
1964
『新生命医学会』設立。第1回総会を東京新宿日赤病院講堂で開催。会長となる。月刊機関誌「生命と気血」創刊号発行。
国内外での民間企業主催の各種講演、講座に招かれ多忙なスケジュールに追われるようになる。企業数社の最高顧問に就任する。
1970
ロシア・コーカサス地方長寿村視察の後、ロシア各地を訪問。
1973
「千島・革新の生命医学全集」全10巻を刊行。反響を呼ぶ。
1978
10月23日、十二指腸尖孔による腹腔出血で死去。享年79才。
同日付けで正五位勲三等瑞宝章を授与される。

アカデミー1 アカデミー2
昭和44年度アカデミア賞授賞式記念
表彰を受ける千島博士

 1963年3月、私は岐阜大学を定年で退いた。同時に名古屋商科大学で環境衛生論を担当することになり、また途中から愛知淑徳短大と名古屋栄養短大で生物学を担当し、毎週5日間は大学の講義に費やし現在に至っている。
 「よくも、まあ、あんな異説を唱えて、定年まで国立大学の教授が勤まったもんだよ……」と人にはよく不思議そうにいわれる。確かに、在任中から学生たちに既成生物学や医学の根本原理に反する講義を続け今もなお、それを続けている。私が提唱する新説を、信念をもって学生たちに講義をできたこと、誠に幸せだったというほかない。
kikuo  アメリカでの学会に出席の折り、新聞記者とのインタビューの際に私は云った。
『私は学生たちに講義するとき、既成学説と自分の新説との双方を話し、学生に対して「その何れが正しいか試してみたり、それができない時には、自分の体に応用してみて、正しい判断力によってそれを検討してみなさい。どれをとるかは君たちの自由であることは云うまでもない。ただ、私の説を採る方が事実とも一致し、健康や幸せのためにも役立つものと私は確信している」と講義している。学生は私の講義を岐阜大でも、またその後の私大でも熱心にまた興味をもって聞き、卒業後も大変役に立ったと云ってくれる人が多い。事実を率直に述べ、それが学生の心身の健康に役立つようにと念じて講義をしている私に、文部省からも学者からも一度として注意を受けたことも、文句が出たこともない。陰では何をいう人があるか、それは私は知らない。ともかく、私は真実を語ることと、学生や人々のためにプラスになることを念じて講義をしているので、首を切られることもなく、63才の定年まで勤めることが出来たのである……』と話したことを覚えている。
 昔なら異端者として投獄や火焙りの刑などに処せられたことであろう私が、定年後今もって、異説を唱えこうして生きのびていられることは、上司の厚意、時代の変遷、そして天の恵みによるものと有り難く思っている次第である。


金婚…私の歩んできた道…より