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長編小説 霧のなかの巨塔  第13回

第一章 奈落

■愛と惑い…①

霧に見え隠れする暗い熱海の海を、千鶴はぼんやりと見つめていた。逸平との初めての一泊旅行なのに、きのうまでの楽しみとはうらはらに、いいようのない空しさのなかにいた。

ここ、数ケ月の間、逸平と会うたびに、不倫の恋という罪悪感が日ましに強まっていた。

逸平の妻に対するというよりも、結婚を考えている高羽健太郎への申し訳なさ、そして逸平、健太郎という二人の男を愛してしまった自分への嫌悪感からである。

……逸平さん……私を愛してくれていたのなら、どうして、そっとしておいてくれなかったの……? どうして、あの夜、今夜は千鶴を帰さない……なんていったの……?

そっとしておいてくれるのが、逸平さんの優しさじゃなかったの……? あなたに、私の苦しみがわかって……?

でも、でも、あなたが好き……どうしょうもないほど愛してるわ……! どうすればいいの……? 私は……

美術館の広い窓から、霧のなかに時折り見える暗い海を見ながら、千鶴は逸平への恨みを心のなかで口走っていた。

逸平との不倫の愛に自らを投じたのは千鶴からだった。

その千鶴の愛を受けてしまった逸平に恨めしさを感じる千鶴。

千鶴の考えは身勝手と人はいうかもしれない。事実、いまも逸平と別れることを思い描くだけで、胸を締めつけられるような苦痛を感じる千鶴なのである。

苦しみながらも、逸平への愛を断ち切ることができない千鶴。

だが、その愛は許されることのない愛なのである。千鶴にとっても、また逸平にとっても……必ず「別離」という運命が待っている愛なのだ。

時折りだったが、まだ会ったこともない逸平の妻が夢のなかに現れることがあった。髪を振り乱し、何か刃物らしいものをもって千鶴に迫る恐怖に、思わずあげた自分の声で目が覚める。

そんなとき全身は汗にまみれ、髪が額や肩にはりついていた。

シャワーを使いながら、夢に現れた逸平の妻に詫びる千鶴だったが、朝を迎えると夢のなかの恐怖も薄れ、逸平と過ごす時間が待遠しく思えるのである。そんな自分に嫌悪を覚えながらも、理性とは逆の行動をすることを自制する心は、まだ千鶴にはなかった、それほど千鶴は逸平との愛に溺れていたのである。

罪悪感を忘れるために、ますます泥沼に足をとられていったのかもしれない。

2年前のことだった。販売促進課の課長である逸平から依頼されていた資料の作成が、機械のトラブルから大幅に遅れたことがあった。そのとき作成責任者であった千鶴は、夜の十時過ぎまで残業して資料を完成し販売促進課まで届けたが、資料が届くのを一人で待っていたのが逸平だった。

逸平は千鶴の労をねぎらい食事に誘った。千鶴はそれまで、逸平とは事務的な会話は幾度となくあったが、プライベートな会話は一度もなかった。

逸平の人気は計算センターでも大変なもの。若いOLの多く、千鶴もその一人だったが、彼女たちの憧れの的になっていた。 逸平が一人で残業をしているときを見計らい、軽食の差し入れをして近づく算段をする、積極的な行動にでるものもいたが、よい結果をえた人間は一人もいなかった。

そんな逸平から食事に誘われたとき、千鶴は逸平にわからないよう自分の足を片方のヒールのかかとで踏んでみた。

 

逸平から食事に誘われたとき、千鶴は思わず自分の足を片方のヒールのかかとで踏んでみた。逸平にわからないように…

憧れの人……逸平から食事に誘われたことが夢のような気がしたからだ。

その夜、逸平の行きつけだという小料理屋で食事を済ませ、タクシーで自由ケ丘のアパートまで送ってもらう。食事のときも、車のなかでも、お互いの学生時代のことで話が弾む。

逸平がボーリングではプロ級のスコアを出すこともあったという話がでた。そのとき千鶴が、叫ぶような声を出してしまったこちを今も千鶴は覚えている。

「姿さん、これから、ボーリングに連れてって……!」幸運ともいえる憧れの人、逸平との時間を、このまま終えてしまいたくなかった。もっと二人だけの時間がほしかった。

「ええっ、これから……? 今日はもう十二時近いんだぜ。ポーリング場は閉まる時間だ……あさって連れていってあげよう……あさっては時間ある?」

この日から二人は、誰にも知られることのない秘密の時間をもつようになった。

……そして二人が男と女の関係に至るまで時間は必要としなかった。それはごく自然の流れにのった結果でもあった。

千鶴は逸平を離したくなかった。

二人が結ばれた夜は8月も下旬、涼しく、月が美しく輝いていた。ちょうど都内の特約店まわりのためマイカーで出社していた逸平は、京王線・初台駅で千鶴と待ち合わせ井の頭公園近くで夕食をとる。千鶴にとって、この一月近い毎日が夢のように感じられた。毎日のように続く逸平との甘い時間……今も目前に座る逸平の顔をうっとりと見つめている。

美しさがきわだっ千鶴に対し、これまで多くの若い男たちが近づいてきたが、そんな男たちをよせつける千鶴ではなかった。 学生時代に思いを寄せたサークルの先輩はいたが、それは片想いのまま終わっていた。

そんな千鶴だったが、逸平から食事の誘いを受けたあの日から逸平への愛は日ごとにつのっていった。自分だけの逸平にしたい。その感情をもう抑えることができなくなっていた千鶴だったのである。

食事のあと、井の頭公園を散策する。逸平の腕に、すがるように身をあずけて歩く千鶴。人の目などもう気にならなかった。

歩きながら逸平は千鶴の耳もとに囁く。

「……今日は、千鶴を帰さない……いいね……」

「…………」千鶴は然って頷く。そして、すがる逸平の腕に力をこめた。

それからしばらく後、逸平の車は三鷹市内を抜け、中央自動車道の調布インターへと向かう。

助手席に座る千鶴は、黙って前方を見つめるだけ……千鶴の右手を逸平の左手が握りしめていた。

「……遠くへ連れてって、ね…」千鶴は前方へ目を向けたまま、つぶやくようにいう。冷房が寒さをおぼえるほど効いていたが、千鶴はうっすらと汗ばんでいた。

一時間ほどあと、逸平の車は相模湖インターを出る。湖畔近くに建つ一つのラブホテルに着いたときには、もう十一時を少しまわっていた。

その夜、二人は堰をきったように、激しく求め合う。

千鶴にとって初めての体験だったが、激しく求める逸平と、すべてを捧げた喜びに、朝まで一睡もすることができなかった。

ホテルの裏手は谷川にでもなっていたのか、流れる水音が、雨のように聞こえていた。

千鶴の美貌は、逸平との愛を重ねるごとに一層、磨かれていった。美貌に加えて「女」としての美しさが目を見張るばかりになってゆく。千鶴の友人たちも、それに気づかぬはずがない。

そんな友人たちに“わかる……? そう、わたし、いま激しい恋いをしてるの。大学時代の先輩とね……そのうち紹介するわね……”などといって、とぼけたものだった。

美しく、また女として目覚めた千鶴に逸平は虜となる。しかし逸平を、この不倫の愛に溺れさせたのは、千鶴の美しさだけではなかた。暗い家庭、そして妻、恵美の日増しにやつれてゆく姿を見るに耐えない苦悩……それらを、ひとときでも忘れたいという、心の奥に潜む意識も大きな要因になっていた。

妻を愛し、千鶴をも愛する、人間としての倫理に反する“許されない愛”という泥沼に身を投げることになってしまった。

窓の外の霧が切れて、目前に小島が姿を見せる。一面、大小の樹木に覆われたこの島には、人が住んでいるような気配はない。

生い茂る木々は、まぶしい太陽のもとなら、鮮やかな緑に映えるだるうが、鉛色の雲の下では暗い色に沈んでいた。

……バカ、バカ……逸平さんのパ力……いつまで、私を苦しめるの? 別れようといって……!あなたから……お願い……

ぼんやりと窓の外を見ながら、千鶴は心のなかで逸平への恨みを口ずさんでいた。そんなことを考えながらも、もし実際に逸平から別れ話を聞かされたら、この上ない悲しみと苦しみに、さいなまれることがわかっているのに……

肩を軽くさわられ、千鶴は驚いて振り返る。後に立つ逸平の目一が優しく微笑んでいた。

「ああ、あなた……びっくりしたわ。お昼の予約できた…?」

「うん、十二時半にね。あと四十分ほどあとだな……もうすぐ一階の円形ホールで、オーロラ・サウンドが始まるから行こうか」

「オーロラ・サウンドってな一に?」

「ホールの天井にオーロラの情景を電気的に写しだしてね、また周囲の壁はレーザー光線で、いろいろな色の光の帯が走るんだよ。そして同時に幻想的な音楽が流れるんだ……この美術館でいちばん人気がある、光のショウだ……」

円形ホールには、すでに沢山の人が集まっていた。

間もなく案内放送とともにホール内のライトが消える。半球状になった天井に、七色のオーロラが幻想的な動きを始めた。

壁には無数のレーザー光線が走り幻想的なムードを強調する。

そのムードと流れる音楽は、ホールの人々を魅了する。

レーザー光線がつくる光の帯が複雑に交錯する。見ている人々は自分の体が、その光の帯のなかに引き込まれるような錯覚を覚える。光と音によるマジックだった。

この素晴らしいショーは数分で終わる。ため息と歓声が入り混じった、ざわめきが場内を埋める。

「すごーい……感激しちゃう。まだ、頭がぼーっとしてるわ……」千鶴は目を押さえていた両手を離して大きな声でいう。

明るくなったホールの照明にあたる千鶴の美しい顔は、淡く紅潮していた。

「私もだよ……これで3回ほど見ているけど、いつ見ても感激するね……」逸平は右手で、千鶴の長い髪を整えてやりながら、独りごとのようにいう。

 

ホールの出口へと人の流れができている。まだ、感激の余韻のなかにいたい二人だったが、後からの人に押されて、出口への流れに乗るほかない。

「あなた、わたし、もう一度見たい…」人ごみに押されて歩きながら千鶴は逸平を見上げる。

「うん、だけどな……次の時間は今日だけ、二時間も後なんだよ。さっき時刻表をみてたんだよ。千鶴がそういうと思って。だけど二時間もあっては、ちょっと無理だよ。千鶴にはかわいそうだけど……」

「二時間もあとなの…? それじゃ無理よね……残念だわ」

「あきらめよう、千鶴……」

押されながら出た出口の近辺も人が群がっている。広いホールになっているものの、人とざわめきで息苦しい。

ホールの外にでる下りのエスカレーターも人がいっぱいだ。

「すごい混雑ね。また人が増えてきたみたい…」千鶴がうんざりしたような声でいう。

「まったくだな……この美術館は世界でも屈指の美術館だから。熱海へ来た人で、ここへ来ない人はまずいないだろう……こんな雨の日は、予定変更でここに立ち寄る団体客も多いと思うよ」

逸平たちは再び陳列室へ向かう通路へと歩く。

「歩いているうちに、迷子になってしまいそう……」逸平の腕にすがる千鶴だ。

「食事の前に"黄金の茶室"を見ておこうよ……」

「えっ……なんですって……? 聞こえないわ、ざわめきで」

千鶴が大きな声で問いかえす。

「"黄金の茶室"というのを見ておこう……」すこし屈むようにしていう逸平に千鶴はうなずく。

「黄金の茶室って……金でできてるの……?」

「当時のものはそうだったかもしれないね。ここにあるのは、復元したものなんだ。豊富秀吉が官と権力を誇示するために造らせたものだと言われているものなんだよ。復元したものでも、ずいぶん立派なものだ……」

通路を歩く人の足音と、ざわめきで、逸平も千鶴もかなり大きな声を出さないと会話ができない。

「見た目は素晴らしいでしょうけど、もし、そのなかに一時間もいたとしたら、気が変になってしまうでしょうね……金色に輝く部屋なんて……」

「そうかもな……もうすぐだ。そこを右に曲がると……その黄金の茶室だ……」

それから、数十分ほどあと、二人は美術館の庭園内にある、和食処「くるまや」にいた。

店は小高い山と山の谷合いのようなところにある。周囲には沢山の梅の木が植えられ、早春の梅花の美しさが想像できる。

店内は予約制ということで混雑はしていないが、入り口の店外にある幾つかのイスには、みな人が座り、十数人がそのまわりに立っていた。降りしきる雨のなか傘をさして……

店内は窓側が座敷になっている。その一つのテーブルに逸平と千鶴が座り食事をしていた。

「どうだい……? 玄米ごはんの味は……」テーブルの向こうに座る千鶴に問いかける逸平。

「おいしいわ……玄米ごはんって初めてだけど、ふっくらとして、ぜんぜん硬くないわね。もっと硬いものだと思ってた……」

髪を耳の後に押しやりながら、千鶴は満足そうな顔を逸平に向ける。部屋の暖かさのためか頬が紅潮している。

「おいしいだろ……? このお米も、この天ぷらの、さつま芋も玉ネギなんかも、この美術館をもつ団体が、天城峠の近くに大きな自然農園をもっていてね、そこで農薬や化学肥料を使わない自然農法で作っているんだよ……」

逸平は、この店のガイドのような口ぶりで説明する。

「この茶碗蒸しの卵もそうなの……?」

「卵もその農園のものかどうかは知らないけど、普通の市販の卵ではないと思うよ。ここ、MOAという団体は、自然の食べ物や、自然に近い食べ物をとることに重点を置いているからね……」逸平が話をしているとき、周囲の人たちが、急に話を止めて、一瞬、静まりかえる。人たちが「高千穂まどかだ!」と囁きはじめる。

「えっ……?」千鶴が周囲を見回す。

入口から奥への通路を三人連れが歩いてくる。真ん中の女性は濃いサングラスをかけているが間違いなかった。

“高千穂まどか”だった。

「ほんと、高千穂まどかだわ……撮影にでも来たのかしら」

「そうかもね。こんなところで見かけるなんて……」

高千穂まどか……宝塚歌劇団を退団後、映画やテレビ、さらに舞台でと、常に主演をつとめる芸能界の大スターである。

三十才を過ぎたばかりの年令だったが、遥かに若く見える。

三人は店のマネージャーらしい男に案内されで、つきあたりのドアの奥に消える。わずか一、二分の出来事だった。

「まのあたりに見たのは、初めて……」千鶴が上気したような…声でいう。

「ほんとに……世間とは狭いものだよ。私たちがいるところに、そしてその時間に来るとはね……」しんみりという逸平。

世間は狭いものという逸平だが、熱海へ来る列車の中から、直属の上司たる山本常務に千鶴と一緒のところを目撃されていたとは想像もつかないことだった……

熱海港の連絡船乗船場の時計は三時を少し過ぎていた。

いま出航したばかりの大島行きの船が、港内から外海へ向かいつつあった。既に薄暗くなりつつある雨の港……遠ざかってゆく船の船室からもれる灯りが、寂しさをいっそう感じさせる。

大島行きの船が出たあと、待合室には人影はほとんどない。

出航を見送った係員が四人、改札口横のドアから事務室へと戻っていった。

売店の横に二人の男女が立っている。逸平と千鶴だった。改札口前には、荷物を背に負った、中年を過ぎた女性が立っていた。

広い待合室にいるのはこの三人だけだ。

逸平たちが待つ三時二十分発の初島行きが、この日の最終連絡船である。繁忙季以外の便数は極端に少ない。

「寂しい港ね……さっきまでは沢山の人がいたのに……船が出たらたった三人だけになってしまった……なんだか気が滅入るわ……」船のいない埠頭を見ながら、つぶやくように千鶴がいう。

「天気が良ければ、もう少しは活気があるんだけどね……でもこの雨ではな……」

・・・間もなく2番スポットに船が到着します。折り返し、三時二十分発の初島行き、本日の最終便となります。どなた様もお乗り遅れのないようにご注意ください・・・

場内放送の女性の声が流れる。雨に煙る防波堤の向こうに、ぼんやりとマストのライトが見えてきた。防波堤の向こうは波が荒いのだろう、赤いライトが左右に大きく揺れている。

 

「見ているだけで、何か酔いそうだわ……」千鶴が心細そうな声でいう。

「大丈夫だよ。見ているのと、乗った状態とは違うさ。時間も二十分ほどだし……」力づけるように逸平がいう。

見る間に船は近づき、埠頭に接岸する。小さな双胴船だった。

下船する乗客は一人もいない。

三人だけを乗せた連絡船はすぐ出航する。さきほどの大島行きの船より双まわりほども小さな船は港内で方向転換をすると、エンジン音を響かせて、夕やみが迫る暗い外海へと消えていった。

 

横浜の南京街にも霧雨が降りしきっていた。

赤、青、黄、紫……原色や原色に近い看板やネオンが、細かい雨を種々の色に染めて、街を淡い虹の中に包みこんでいる。

南京街のその名の通り、中華料理店が圧倒的に多いが、衣料品の店もけっこう目につく。

雨のせいだろう、週末の土曜日としては、いつものような賑わいはない。それでも、色とりどりの雨傘の流れは絶えることはなかった。時折りすれ違う人の蛮から落ちる雨粒が肩を濡らす。

通りに面して五階建てのビルがある。入口の大きなショーウイドウには、数えきれないほどの料理が並んでいた。

その上の壁には「北京飯店」という赤いモザイクタイルの文字が龍の絵のなかに浮き上がっている。

ひと組の若いカップルが入っていった。一階のフロアには、沢山の熱帯植物らしい植木が置かれ、その間に丸テーブルと木製のイスが見える。空席はほとんどない。

カップルは店員に案内されてフロア正面にあるエレベーターに案内されていた。

「三階のほうへご案内いたします。少々お待ち下さいませ……」薄いグリーンのスカートに白のブラウスという制服姿の女性店員の礼儀正しい態度は好感がもてる。

エレベーターが三階につき扉が開くと、正面にはカウンターがある。同じ制服姿の若い女性が笑顔で応対する。

「いらっしゃいませ……」

「お二人さまのご来店です。リザーブはございませんので、よろしくお願いします」案内をしてきた店員はカウンターの係員にいう。

「それでは、どうぞ、ごゆっくりと……」カップルの客に軽く頭を下げると階段口ヘと向かう。

「ようこそ、おいで下さいました。お部屋のほうにご案内します……どうぞ」

この三階は各室が大小の個室になっていた。通り過ぎる部屋の中からは何処からも歓談する声や笑い声が聞こえ、それに食器の音も混じって、一つの騒音のようになっている。

そんななか、また一つの部屋から、大きな笑い声と何人かの声が聞こえてきた。

「……お母さん、そんな大きな声を出さないで。お隣りの部屋にご迷惑だわ……」娘が母をたしなめている。

その部屋の丸いテープルには五人の男女が座っていた。料理はまだ出ていない。おしゃべりに花が咲いているようだ。

恵美と母、亮子たちである。博樹に正樹、そして名古屋から呼ばれた長女、梨香の顔も見える。

「だって、梨香ちゃんが、とっぴょうしもないことをいうんだもの……あの逸平さんが、まさか……」また、亮子は大きな声で笑う。

「でも、ほんとに、おかしくない……? お母さんが会社に電話したら、会社の人が怪証そうに答えたんでしょ……? 課長ですか?って……」梨香が口をとがらせるようにしていう。

切れ長の目、細おもての整った顔は近代的な美人だ。肌の色は健康的な小麦色。顔の輪郭とともに父親似である。

「そう、たしかに驚いたような声だったわ……」思い出すように壁に措けられた中国の風景らしい額を見ながら恵美はいう。その顔色は赤みを帯びたようなライトの下でも白っぽく見えた。

「そうでしょ、そこなの、問題は……きっと返答に困ったのだと思うわ……」テーブルの上の箸を動かしながらいう梨香だ。

「返答に困るって……お父さんが、今日は休むってことになっていたということ……?」

「そう、もし、そうでなかったら、まだ着いていないとか、ちょっとお待ちくださいとか、いうだけで、びっくりしたような言い方にはならないわ……」

「お父さん、会社を休んだというのなら、何処へ行ったのかしら……今朝、わたしには休日出勤だといって出たのに……」

恵美は母の亮子に救いを求めるようにいう。

「……ねえ、みんな……推測だけで話をするのは止めましょ……想像だけでは、どんどん、おかしな方向に話がいっちゃうから……逸平さんが会社を休んでいたとしても、それなりの何かの理由があってのことじゃない……? 恵美ちゃんが心配すると思っていえないような用事だっていくらもあることなのよ。もう、この話は止めにしない……? せっかく、お母さんのお誕生日のお祝いに来たんだから、ねえ、正ちゃん……」

「そう、おばあちゃんのいう通りだと思う。おやじは、おやじの何かがあったのさ。詮索していても、はじまることじゃないよ……」家庭ではまったく口をきくことがない正樹だったが、祖母や姉の梨香がいるときには、いつものことだが、今までのことが信じらないような普通の態度をとる。

だから母や梨香が来たときには、久かたぶりに家庭らしい雰囲気にひたることができる恵美だった。

「正ちゃんのいうとおりね。お父さんに限って、そんな、おかしなことをする筈がないもの……お料理を持ってきてもらいましょうよ。もう、六時十分よ……」

「そうしようよ、家にはメモを置いてきたんだろ、お母さん」

博樹がテーブルを箸で軽く叩きながらいう。

「ええ、キッチンのテーブルの上においてきたわ。ここの電話番号と住所を書いて……」

「よっしゃ、そんなら、お母さんの誕生パーティのスタートだ……」明るくいう博樹。今までの話題を吹き消したかった。

父への疑惑は姉の梨香以上に抱いていた博樹だったが、この場所でさらに深く探ることは、母の手前、しのびなかった。

恵美がテーブル上の小さなボックスのボタンを押す。

一、二分で男性の係員がやってきた。ホテルのウエイターのような服装だが、清潔感にあふれている。

「お待たせしました。お料理をお持ちしますか?」

「ええ、お願いします。主人は遅くなりそうですがら……」

「はい、わかりました。お飲み物は……?」

「そうね、お母さんは何がいい? ラオチュウか、日本酒か、ビールか……」

「わたしはビールがいいわ。中華料理には最高……博ちゃんと正ちゃんはジュースよね。まだ未成年だから」亮子はナフキンを手に取りながら、博樹と正樹を見やる。

「わたしは、ラオチュウをもらうわ……」そんな家族を恵美は笑顔で見ている。うずくような胃の痛みをこらえて。

 

(つづく)

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