長編小説 霧のなかの巨塔  第15回

   第一章 奈   落

   


  ■道標…①

   


 熱海駅のタクシー乗り場には長い行列ができていた。
 さき程から雨はやんでいる。
 夕暮れの空の彼方が、わずかに明るくなっていた。
 行列のなかに畑中と浅川の姿があった。背の高い畑中と、その肩あたりまでしかない浅川との組合せは、何かユーモラスさを感じさせる。
 この同じ乗り場に、数時間前は逸平とその愛人、千鶴が並んでいたのだ。そして、今は、その逸平の妻を、死の淵から救い出すことになる畑中と浅川が立っている。
 偶然のなりゆきとはいえ、また、お互いに知らぬこととはいえ見えない糸で結ぼれる縁というものは不思議としかいえない曲グループ客が多かったためか、順番は思ったよりも早くまわってきた。
 二人を乗せたタクシーは熱海の市街をすぎ、海寄りの急な坂道を登りはじめる。雨はやんでいるものの、霧が濃くなっていた。
 ヘッドライトが光の束となって乳白色の霧を照らす。
 まったくといってよいほど、視界がきかない。
 「運転手さん、霧で前が見えないけど、大丈夫……?」浅川が心配げに前を透かすように見ながら問いかける。
 「お客さん、心配はいりませんよ。熱海は年がら年中、霧がよく出るんです。なれていますよ。この道だって、何百回も来ていますから、目をつぶっていても走れますよ……」運転手は、ときどき後を見ながら答える。
 「そうですが心それなら安心だ。あんまり霧が濃いもんでね」
 ベレー帽に手をやりながら畑中がいう。
 「お客さんも、国会の関係の先生ですか……?瑞龍さんのお客さんは、その関係の先生ばかりだから……」
 運転手が前を見つめたまま問いかける。
 「わたしらは違うよ出ただ招かれた相手は、その代議士先生だけどね…」前に乗り出すようにして前方を見ながら浅川がいう。「お客さん、もうすぐですよ。そこを右に曲がったところが瑞龍さんです……」
 車は駐車場の前の通り過ぎ、大きな木造りの門の前で止まる。
 その奥には古い造りの純和風、二階建ての家が見える。
 建物の周囲は背丈ぼどのアオギリが生け垣として植えられていた。高さがきれいに切り揃えられている。
 毎日のように手を入れているようだ。
 「畑中君よ、ずいぶん立派な門構えだな……杉の大木を使っているみたいだ、さすが、高級料亭だけあってたいしたもんだな……」浅川は車から降りると感心したようにいう。
 「楢本代議士は、列車できているのかな……駐車場には車が一台もないよ……」畑中は浅川の話には答えず、辺りを見回しながらつぶやくような声でいった。
 門から玄関までは自然石の踏み石が続く、左横に見える幾つかの部屋の前は庭園になっていた、形よく手入れされた松やサツキが明るい庭園灯に照らされて浮き上がっている。庭の隅には数本の竹が風に揺れていた。
 ほかにも名の知れぬ樹木が、大きな庭石を囲むように植えられ庭の一面にある緑色のコケと調和して、絵ハガキのように灯りのなかに映えていた。
 玄関へ着くまえに、女将とおもわれる品のいい女性が、玄関から小走りにでてきた。40才を少し過ぎたあたりだろうか、黒い髪をアップにした細おもての顔は、美しさのなかにも威厳さが漂っている。
 「いらっしゃいませ、畑中さま。浅川さまでいらっしゃいますね。お待ちいたしておりました。お足もとのわるいところ、ほんとに、ようこそ……」女将は丁寧に頭を下げる。
 玄関奥のフロアにはぶ厚いコバルト色のカーペットが敷きつめられていた。右奥は室内の池があり、石造りの小さな大鼓橋がかかっている。左側は一段高くなっていて豪華な応接セットが置かれ、その脇には大きな月の輪グマの剥製が据えられていた・
 玄関のつくりも普通の料亭とは雰囲気から違っている。
 玄関で改めて手をつき挨拶をする女将。
 「楢本先生と山本様はいま、ご会談中ですが、もうすぐ終わられます。しばらくお部屋の方でお休みいただきたいとの、山本様のご伝言でございました。どうぞ、お部屋の方へご案内申し上げます。どうぞ……」
 「そうですが。よろしく」畑中と浅川は女将の後に続く。
 ロビー脇の月の輪グマの両眼が床に置かれた照明を受けて鋭く光っていた。牙をむきだしたその形相は、いまにも襲いかかってくるような迫力がある。
 浅川がそのクマの前で立ち止まった。
 「立派なクマの剥製ですね。もう、ずいぶん昔のものなんでしょう……?」クマの頭を撫でながら渡川は女将に問いかける。
 「ええ、このクマは先々代が、当時の首相でおられた吉川先生から頂いたものなんです。終戦間もないときで、吉川先生はよくここを、アメリカ軍関係者の方々との会談に、ご利用くださいましてね……マッカーサー将軍も幾度かお見えになったことを今も覚えています、かって敵国だった軍の司令官とは思えない、実に紳士的な方でした……」
 「ひやぁ……!あのマッカーサーも来たんですか……ここへ……!」浅川は大きな声で驚く。
 「ええ、おいでになったとき、いつも、マドロスパイプというんですか、あの短くて太いパイプでタバコを吸っておられましたが、あの煙の匂いの強いこと……」女将は思い出したかのように顔をしかめた。
 「そうすると、女将さんはここの……?」畑中が尋ねる。
 「はい、先々代の長女です……先代、弟ですが、八年前に自動車事故で亡くなりまして……それで私が……」
 「それは……つかぬことをお尋ねしちゃって……」申し欲けなさそうに畑中がいう。
 「いえ、いえ……それで、このクマは吉川先生のご地元、山形県の山中で仕留められたのを県人会の大和田様が剥製にして吉川先生に贈られたものなんです」
 「すごいな……!あのワンマンで知られた古川首相からねえ……ほんとだ、目録に贈、吉川実篤とある。押印までして……こりゃ、大変な品物ですな」浅川はうなるような声でいった。
 「ええ、こう申し上げてはなんですが、わたしどもの家宝だと思っておりますの……」クマを見つめながら女将がいう。クマを見るその目には、我が子を見るような愛しさが感じられた。
 「十年ほど前のことでしたけどね……」女将はそう前おきすると、またクマを見ながら話しはじめた。
 「……北海道開発庁の次官の先生が、釧路の市長さんと関係者の方々を招かれて、ここで席を設けられたのですが、その日の夜中に、一人のお客様が眠れないということで、奥のお部屋から、ここへ来られたのです。そのころ、ここは非常打だけの薄暗い状態だったものですから、このクマを見られて大騒ぎになりましてね。そのお客様や、お泊りの皆様に大変なご迷惑をお掛けしたことがございまして……」
 「そりゃ、びっくりしたことでしょう……薄暗いところでこんな奴にでくわしたら室内だといったって、胆を冷やすことでしょうな……」畑中が軽くクマの頭を叩きながらいう。
 「ねえ、それからば、日中も夜もずっと、二つのライトで照明しておくようにしましたの。それからは驚くお客様もなくなりました……あ、どうも、すみません、こんなところでお引きとめしてしまって……さ、どうぞ、お部屋の方ヘ……」
 女将は二階への階段を上がる。階段にも明るいベージュのカーペットが張ってあった。
 案内された部屋は十畳の和室に六畳の次の間つきだ。十畳間は窓側が六畳ほどの洋間になっていた。赤い厚手のカーペットが敷かれ皮残りの豪華な応接セットが置かれている。
 「お部屋のドアは自動ロックになっておりますので、お二人様でお出になられるときはこのキーをお忘れなく……どうぞ、ごゆっくりとお休みくださいませ……」女将は丁寧に手をついてそういうと部屋を出てゆく。
 浅川が窓際のシートに座ると、体が深く沈み込んだ。
 「おう、スゴイぞ、このイスは……オレの体がテーブルの下に入ってしまうぜ……!」はしゃぐようにいう浅川だ。
 窓の外は暗くて何も見えない。さきほど見た庭とは反対の側にある窓のようだ。時折り濃い霧のベールが窓の外を流れる。

   


   


 楢本代議士と山本が畑中たちの部屋へ来たのは、それから一時間ほど経ってからだった。
 楢本は濃紺のダブルのスーツ、山本はグレイのスーツ……いままでの長い時間の会談を思わせるような名残はない。二人のネクタイにもまったく乱れがなかった。
 「やあ、先生がた、申し訳ありません……お呼び立てした上に大変お待たせしちまって……」部屋の入口で正座し、山本が頭を下げる。畑中たちとは親友同士。こんな挨拶などいらないのだが楢本代議士の手前、形式をとっていた。
 「川上先生も、いま熱海駅からお電話をいただき、これからタクシーに乗られるとのことで、もうすぐここに……」
 そんな山本の頭ごしに、楢本が立ったまま畑中たちに声をかける。
 「民主進歩党の楢本です。山本さんとの話が長引きましてな。お待たせして誠に恐縮です……」赤茶色に陽やけした楢本の体は室内で立ち上がると小山のように見える。ふすまの桟から10センチ以上も上に顔があった。2メートル近い大変な大男だ。
 またその声ときたら破れかかったスピーカーからでるような、ひどく割れた声。声というより「音」といったほうが適当なものだった。黒ぶちの太いフレームのメガネがいっそう楢本の顔役的風情を強調している。
 ……こいつは確かに、ただ者じゃないわい。そこらの代議士連中とはフィーリングが違うわ。貫禄がケタ違いだ……
 唖然と楢本を見上げていた浅川は、そんなことを感じていた。「さあ、先生がた、食事にしましょうや。葵の間に支度ができているそうですから、ワシがご案内しますよ。ここは勝手知ったる我が家みたいなもんですからな、グァッ、ハッハ……」
 楢本の襲いに渡川たちは耳に痛みを感じた、想像を絶する音量だった。
 ……この元気で手術を勧められているのか彼は……? こんなに元気があるのなら、ほっておいても病気のほうが退散していくわい……浅川は楢本の状態について、そんな確信を抱いていた。  事実、楢本代議士は浅川の指導による断食療法で、手術をすることもなく短期間で全治したのだが……

   


(つづく)