長編小説 霧のなかの巨塔  第17回

   第一章 奈   落

   


  ■浮き草

   


 熱海・初島の雨はさきほどからやんでいる。初島港乗船場の時計は八時三十五分を指していた。島全体が濃い霧に包まれ、すぐ近くの街灯や港の灯りがぼんやりと霞んでいる。
 民宿「平田屋」の牡丹の間では夕食の後片付けが終わっていた。部屋の灯りは消えている。
 逸平は窓のそばにある藤のイスに座り、ぼんやりと霧に煙る窓の外をみている。膝に千鶴を抱きながら…… 千鶴は逸平の胸に顔をうずめ目を閉じていた。
 「今になって雨がやむなんて、まったく意地の悪いきょうの天気だな……」千鶴の髪をやさしく撫でながら、ささやくように逸平がいう。
 「わたし、雨おんなかもしれないわ……何処かへでかけるとき、雨に合うことが多いの。でも今日は、雨でよかった。あなたに、いつも、ひっついて歩くことができたんだもの……」
 そういいながら、千鶴はまた逸平に唇を求める。そんな千鶴の愛らしいしぐさに、逸平は再び燃え上がる激情を抑えることができなかった。意識のなかを幾度もよぎる様々な不安を振り払うように逸平は千鶴を抱きあげると、敷かれた夜具の上に崩れるように倒れこむ……

   


 それから一時間余りあと、逸平は階下の公衆電話の前にいた。自宅で待っているだろう恵美への連絡のために。……商談が長引きそうだから熱海のホテルに泊まる……といって。
 この民宿に着いたとき直ぐに電話をしたが、留守番電話の「はい、姿です」という逸平の声が流れたが、今は恵美が出た。
 「ああ、わたしだ」
 ……あ、あなた、いま何処に? きょう、青森から母が来ているのよ。今朝、あなたに伝えようとして会社に電話をしたんだけど、あなた、いないんだもの。電話をとってくれた吉川さん、ずいぶん困ったような様子だったわ、代わった三浦さんも……あなた、何処へ行っていたの? 皆に黙って……恵美の声には逸平への抗議の感情がうかがえた。
 「お母さんが来たって? 何か急用でもできたのか?」トーンの高い、うろたえたような声だ。会社へ電話をしたという恵美の一言で逸平は頭のなかを白い光で射抜かれたような感覚を受けた。狼狽のなかでやっとそれだけの言葉をだすことができた。額を汗が流れ、次の言葉がでない。
 ……やっぱり、あなたも忘れていたのね。わたしもだけど……きょうはわたしの誕生日だったの。だから母がわざわざお祝いに。みなで美味しいものを食べに行こうっていって……
 「そうだった、恵美の誕生日だった、きょうは! ごめん、すっかり忘れてた……」
 ……わたしも忘れていたんだから、そんなことはいいわ。それはそうと今、何処から電話をしているの?……
 「今朝、会社を訪ねてくれた特約店の社長と喫茶店へ出掛けて、そのままその人と熱海へ飛んだんだ。いろいろな人と会うことになってしまってね。まだ時間がかかりそうだから、今日は熱海のホテルに泊まる……」逸平はずっと考えていたウソの言い訳をつづける。受話器を手で覆うようにして声の漏れに気をつかいながら……階下には他のお客もなく静まりかえっていた。小さな声でも千鶴のいる二階へ聞こえそうだ。
 ……えっ、熱海にいるの? 会社へはちゃんと連絡してあるの? 三浦さんに……
 「ああ、夕方連絡しておいた。三浦君、恵美からの電話のこといわなかったから、だからその後に家へ電話したけど誰もでなかった……」ウソと事実をまぜていう逸平。電話をしながらも、会社の人たちや恵美をだまして、千鶴との旅行に来ていること、そして最悪なことに逸平のウソが会社の人たちに発覚したと思えることで、今までにない罪悪感にさいなまれていた。
 ……あら、電話してくれたの、夕方? ごめんなさい、四時頃から母や博樹、正樹たちと、梨香も名古屋から来てくれたので、みなで横浜へ食事に行っていたの。母ったらね、せっかく近くの漁師さんから朝はやく買ったお魚やウニを青森空港の搭乗待合室に忘れてきちゃったのよ。だから家で魚すきにする予定を変えて横浜へいったの。あなたが三浦さんに頼んだ伝言を聞いて帰ったときのために、メモをおいてきたのよ。横浜でもだいぶ待ってたんだけど、熱海にいたんではどうしようもなかったわね……
 「そうか、梨香も来てくれていたのか。ほんとに悪いことをしてしまったな。お母さんによろしく伝えておいてくれ、頼む……」
 ……わかったわ、そんなことより、あなたほんとに熱海にいるの……
 「そうだよ、また、なんで急にそんなことを?」妻に自分の行動を見透かされているように思えて一瞬たじろいだが、平静をよそおう。
 ……ごめんなさい、きょう母がおかしなことをいったものだから……
 「おかしなことって……なにを?」
 ……ううん、なんでもないわ、つまらないこと。気にしないで……明日は早く帰れるの? 母は午後の便で帰るんだけど……
 「午後にもう帰られるのか……それまでに帰るのはちょっと無理かと思うけど、できるだけ早く帰ることにする……」
 ……ほんと? お願い、早く帰ってきてね……
 「ああ、じゃ、電話切るぞ、おやすみ……」 ピーピーピー テレホンカードが戻った音がけたたましく響く。慌ててカードを抜き取る。逸平はそのまま電話の前に立ちつくしていた。
 絶対にあり得ないこととして「青森の母が上京してくる」という理由をつくりだし、係長の三浦に伝えたのだが、まさか、その恵美の母が上京してきたとは、またその上京する旨を会社へ電話することなど、まったく逸平には想定外の出来事だった。逸平が三浦に伝えた内容と、恵美が電話した内容は主体は同じだが、筋が完全に矛盾した話だ。課の人間に取り返しのつかない疑念を抱かせたことは間違いない……逸平の顔には汗が流れていた。近くのソファに座るとユカタの袖で汗をぬぐい、背もたれに体をあずけ目を閉じる。

   


 ……朝から何ともいえない不安感につきまとわれていたが、やはりこんなことが起きてしまった。
 どうして、あり得ないこととして義母の上京なんかを休む理由なんかにしてしまったんだ? 休む理由など、いくらでも他につくれただろうに……ああ、どうしたらいいんだ。課の人間にはどう説明したらいいんだ? こんなことになるとは、やはりオレへの天罰なのか? 義母がいっていたという“おかしなこと”とは、どういうことだ? 恵美は何か含みのあるような言い方をしていた……三浦が何かいったのか? まさか、そんなことは……それなら、いったい……
 恵美はオレのきょうの行動に疑問をもっている……今朝、家を出るときには、そんな気配は感じられなかったのに……やはり、恵美が会社に電話をしたことと関係がある! 何を云われたんだ? 誰に何をいわれたんだ?……
 千鶴との先ほどまでの甘い時間から一転して、逸平は混乱と苦しみの渦に取り込まれていた。
 腕を組み、目を閉じたままソファに座っているそんな逸平の姿を、階段の途中からじっと千鶴が見つめていたが、目を伏せ足音を忍ばせて部屋へ戻っていった……

   


 あの雨の土曜日から二日が過ぎていた。夜も更けもう十一時を過ぎたのにまだ逸平はかえってこない。恵美は独り灯りを消した寝室の窓にたたずんでいる。どんよりとした梅雨の空が、大都会の夜灯りを受けて淡いオレンジ色に染まっていた。夜空を見つめる恵美の頬を涙が伝う。最愛の夫に裏切られた悲しみと空しさに打ちひしがれていた。
 ……どうして、わたしはこんなに苦しまなければならないの?
   わたしが何をしたといって、神様は罰を加えるの?
   あなた、どうして愛人なんかをつくったの? わたしがそんなにイヤだったの?
   あなたに愛人がいたなんて……それに気づかなかったわたしは、なんてバカだったんだろう……まさか、あなたが、わたしを騙していたなんて。あなたに限ってこんなことはないと思っていたのに……初島の宿に、妻だといって泊まった千鶴という人は何処の人なの? 休日出勤なんていってわたしを騙して行ったのね。
   あの日、横浜からの帰りに母がいったとおりだった、女がいるんじゃないかって……
   わたしはこんなに、あなたを愛しているのに、どうして他の女なんかを……
   何を考えているの? あなたは……わたしには分からない……

   


 いまもきのう、日曜日の夕、初島の民宿からかかってきた電話の声が恵美の耳に残っている。
 雨の一日だった昨日と違ってその日、日曜日は朝から久しぶりに晴れ上がり、まぶしいような日差しが戻っていた。青森から恵美の誕生祝いに来てくれた母は、きょうの午後の便で帰り、娘の梨香も早めの夕食を終えて名古屋へ戻り、博樹も正樹も自室にいるいま、家のなかはいつものような静寂さが戻っていた。夕食の後片付けを終わり、恵美はキッチンでテレビのニュース番組を見ていた。 ピピ、ピピ……テレビの上に置かれた子機が鳴った。
 ……逸平さんからだわ、きっと……急いで立ち上がる恵美。
 その電話がまたまた恵美を苦しめることになるなど分かるわけがない。
 「はい、お待たせしました、姿でございます」
 ……あ、姿さまのお宅ですか……
 「はい、さようですが……」
 ……こちらは熱海、初島の民宿、平田屋と申します。昨日はご利用いただきまして有り難うございました……
 「はい? あ、いいえ、お世話になりました……」恵美には一瞬なにのことか理解できなかったが、逸平が昨夜は熱海に泊まるといったいたことを思い出し話を合わせた。
 ……実はご主人さまと奥様がチェックアウトされましてから……相手がたはまだ話をつづけていたが、恵美の耳には相手の言葉は聞こえない。受話器をもつ手が震えている。耳に残っているのは…ご主人と奥様が…という一言だけ……
 ……チェックアウトされましてから気づいたのですか゜私どもの間違いで、民宿協会のほうへお払い込みいただいた、お二人分、六千円を差し引かず、余計に頂いてしまったものですから……  ……奥さまですって? なによ、それ! 誰よ、その女は! ……恵美は急にめまいを覚えて、テレビの角に手をつく。
 ……もし、もし? ……
 「はい……」われにかえり答える恵美。恵美の声はうわずっていた。
 ……あのう、奥さまの千鶴さまでは?……
 「いいえ、わたしは、姿の家内、恵美といいます。千鶴ではありません!」強い怒りの声だった。
 ……えっ? あらっ!…申し訳ありません。お電話先を間違えました、すみません……
 相手は慌てて電話を切った。「もし、もし…もし、もし……」恵美の問いかけには応えはない。

   


 恵美は受話器をもったまま立ちつくし、壁を見ていた。白っぽい蛍光灯に照らされた横顔はいっそう蒼白くみえた。名前をはっきりいっておいて、相手を間違えることなどあり得ることではない。姿という名前で電話も同番号の他人などいない。電話に出た恵美が、宿帳に逸平が記した千鶴という名前でないことに驚いて慌てて電話を切ったことは間違いない。
 恵美には思いもよらないことだった。逸平が千鶴という名の女と一泊旅行に行っていた……それもその女を妻と称して…… 恵美には休日出勤だなどとウソをついて。 信じきっていた夫に愛人がいた……そんなことはテレビドラマか他の家の出来事だと考えていた恵美…… 自分の身に現実としてふりかかることになろうとは……だが、その夜遅く帰ってきた逸平に、宿からの電話を告げ、真実を問いただすことはしなかった。逸平を責めるよりも、夫を信じきっていた自分に怒りを感じていた。逸平を自分だけに引き付けておけなかったのは、自分の責任だと考えるのである。もちろん、逸平への恨みがないわけではない。その夜逸平が帰宅したとき、頬に思い切り平手打ちを加えたい激情にかられた。しかし、恵美の性格は思うだけで、その場になるとすぐ抑制してしまう。行動に移るまえに、自分における責任の所在を考えてしまうのである。
 正樹の家庭内暴力に苦しんでいるときも、逸平に相談することもなく、自分のしつけが悪かったからだと勝手に決めつけ、じぶんだけで解決しようと努めてきた。そのことと同じように逸平の不倫に対しても、自分の責任だと考えわが身を責めていた。
 ふりかかる苦しみや悲しみを、ただひとり、じっと耐えつづける恵美。こんな悲しい性格が恵美を死の淵へと追い込むことになったのだろう。青森の母に相談しようと昨日から幾度も電話の前に立ったものの、母の気性から大事に至ることは必定に思えてやめる。
 今朝、恵美は大量の下血をした。しかし医学的知識をもたないため、それに気づくことがなかった。急激な大量出血による目眩で、しばらくのあいだ立ち上がることができなかったが、昨日のショックのためだろうと考えていた。
 いま、恵美の食道、胃、そして肝臓にあるガンはもう手のつけようがない、末期に至っていることなどわかるはずもない。知らなかったからこそ、生きるための気力が残っていたのである。

   


 苦しみ、悩んだ恵美はその日の午後、東洋自動車の会計課にいたときから懇意にしている中垣内冴子のマンションを訪ねていた。朝、突然に電話をした恵美だったが、冴子は快く待っているといってくれた。東洋自動車会計課の主任だった頃の冴子は、社の内外にその美貌で有名だったが、徹底した男嫌いでも知られていた。その彼女が平凡なサラリーマンと見合い結婚をし、今は二児の母として、また大町冴子という一主婦になっていた。電話による交流はよくしていたが、訪ねることは七、八年ぶりのこと。鎌倉の小高い丘の道を息を切らせながら恵美はゆっくり登る。
 高層マンションの八階にある冴子の部屋からは鎌倉の市街地や海岸線を一望できた。
 「いいわね、冴子さんのマンションはいつでも絶景を見ることができて……」恵美はハンカチで顔に風を送りながら、感慨ぶかげにいう。
 「そうね、東京の都心と比べると絶景といえるかもね。でも、いつもエレベーターにのって通勤や通学、買い物というのも味気ないものよ。いい景色を望めることなど帳消しだわよ……主人がいつもいってることなんだけど、エレベーターや通路で挨拶しなければならないことが多くて、気が休まらない、会社にいるときと同じように思えるってぼやいているわ」テーブルにアイスティーのグラスを置きながら冴子がいう。そういう冴子の顔には満ち足りた幸福感が溢れているように思えて、恵美はうらやましかった。
 「それにしても恵美ちゃん、ずいぶん痩せちゃったんじゃない? 前に会ったときよりも……」
 「やっぱりわかる? ここ一日だけでいっぺんに痩せちゃった……」心のなかのどうしようもない苦しみとは裏はらに、何気なくいう恵美。
 「ええっ…やっぱり、何かあったのね。さっきの電話の様子から、何かあったんじゃないかと気になっていたんだけど……」
 「ごめんなさい……実はね、こんなこと滅多な人に相談できないけど、冴子さんなら相談できると思って……」恵美は手にもったハンカチを無意識のうちに何度も折り返しながら、きのうの夜、熱海・初島の民宿からかかってきた電話のいきさつを話し始める。ハンカチをもつ恵美の手は震えていた。話をしているうちに、自分の情けなさと、ふがいなさに止めどなく涙が頬を伝う。
 そんな恵美の話を聞きながら冴子は逸平に対し、いいようのない怒りの感情にかられた。
 ……この優しくて気立てのいい恵美ちゃんを、ここまで苦しめるとは、なんという人……私がいたときの姿さんとは、まったく別人になっているわ。出世コースにのって、調子づいている!
 千鶴ってだれ…? 会社の子なの? それとも社外の子かしら……よし、わたしが調べあげてやる。わたしの情報ルートで…… このままでは余りにも恵美ちゃんが可哀想だわ……
 顔を涙で濡らしながら話す恵美をみながら、冴子は持ち前の気性から夫に裏切られた恵美のために、どんなことでもしてやらねば……と心に決めていた。
 「ねえ、恵美ちゃん。姿さんの帰りが毎日遅くなるようになったのはいつ頃から……?」
 「そうね、二年ほど前から……」ハンカチで涙を拭いながら恵美が答える。
 「そんなに前から? 恵美ちゃん、ちょっとウカツだったわよ。そんなに長いあいだ、毎日残業が続くことなどあり得るはずないじゃない。いくら課長になったといっても……」
 「そういわれれば、そう思えるわ。でも、こんなことになったから、疑いが強くなったけど、これまでは、ほんとに毎日、仕事が忙しいんだなとしか考えられなかった……ほんとにお人よしだったけど……」テーブルのアイスティーのグラスに目を落としながら、ひとりごとをいうように小さな声でいう恵美。自分だけを責めつづける恵美が、男まさりで勝気な冴子には、はがゆくてならなかった。

   


   


 冴子には恵美の煮えきらない態度が腹だたしかった。自分の性格からは考えられないこと。
 「ねえ、恵美ちゃん。きょう、姿さんが帰ってきたら、思い切って問いただしてみなさいよ。“千鶴さんってだれ?”って。このまま、ほっておいたら、何時までもこの状態を続けるわよ。かれ……あなたのご主人を悪くいって申し訳ないんだけど、どうかしてる……怒鳴りつけてやりたいわ、あなたのような素晴らしい奥さんがいるのに、愛人をもっているなんて……調子づいてるわよ……!」怒りという感情から冴子の声はだんだん大きくなる。
 「……いい? 恵美ちゃん。このままては彼のためにもならないし、あなたも病気になってしまうかもよ……思いきって、きょう、問い質しなさいよ、ね……?」
 冴子はそういったものの、恵美が行動を起こすことはないと思っていた。それが出来るのなら、その日曜日、愛人との旅行から帰ってきた夫にその場で問い質していただろうから……
 恵美を励まし夕方近くに送り出した冴子は、自分を頼ってきてくれた恵美のために、出きる限りのことをしようと心に決めていた。場合によっては逸平を呼びつけてでも……

   


 恵美を送り出したあと、冴子はしばらくテーブルを前にして座っていたが、思いついたように立ち上がると部屋の隅にある電話台の前に立ち、プッシュボタンを押しはじめる。東京・新宿にある東洋自動車本社の電話番号だった。
 ……ありがとうございます。東洋自動車でございます……
 「あ、わたし、以前、会計課でお世話になっておりました中垣内と申しますが、営業推進本部の山本常務さんはご在室でしょうか……」冴子は在籍していたときの旧姓を伝えた。
 ……営業推進本部長の山本でございますね。在室致しております。ただいま、おつなぎします。少々お待ちくださいませ……歯切れのいい交換手の声だった。
 「はい、すみません」
 冴子の父は品川駅近くで大きな繊維加工業を営んでいた。その父が前運輸大臣、そして今の楢本大二郎運輸大臣の後援会、東京支部長をしている関係から、東洋自動車の山本俊幸常務とは、ここ十年ほど前から親しい交際が続いていた。そんなことから、必然的に冴子ともども家族ぐるみの交際となり息子ばかりで娘がいない山本は冴子を我が娘のように可愛がっていた。冴子の長女出産のときには夫妻でお祝いにきてくれてもいた。
 ……はい、山本です、冴ちゃん、ちょうどよかった、いま外出先から帰ったところだ。めずらしいな、冴ちゃんから電話をくれるなんて……
 山本のトーンが低い声が受話器から聞える。
 「すみません、おじさま、お忙しいところにお電話しちゃって……」
 ……いいよ、いいよ、忙しくなんかないんだ。稟議書にめくら判を押していただけなんだ。ところで、どうしたの?……
 「実はおじさまに、折り入ってご相談したいことができちゃって……明日の金曜日、お会いできる時間はある……? 近くのラウンジか何処かで……」
 ……冴ちゃんとデートできるんだね。うれしいね……ちょっと待ってね、予定を見てみるから……手帖のページをめくる音がしている。
 ……はい、もしもし、明日は三時まで、予定はないよ。一緒にお昼をたべようよ……
 「ああ、よかった。何時ころに?」
 ……うん、それじゃ、十一時半に新宿西口前のセントラルホテルのロビーで会おうや。その時間でいいかな? 冴ちゃんは…… あたかも愛娘と話をしているような山本だった。
 「ええ、お願いします、おじさま。ご無理をいってすみません」
 ……どういたしまして、冴ちゃん。明日を楽しみにしているよ、ところでお父さんは、相変わらずお元気に走りまわっておられるのかな?……
 「ええ、おかげさまで元気です。この前も母がお父さんは家に寝に帰るだけ。ま、亭主は元気で留守がいいんだ、なんて愚痴をこぼしていました」
 ……そうか、お元気でよかった。しばらくお会いしていないからな。じゃ、あしたセントラルホテルのロビーで……
 「はい、よろしくお願いいたします。ごめんください……」
 電話を切った冴子は窓の外を見る。蒼い夏空に白い飛行機雲が何本も浮かんでいた。

   


   


 JR新宿駅西口一帯は南口と同様に終日、人と車の洪水のただなかにある。東京都庁が西口に移転してから、もうかなりの年月が経過したというのに、今も都庁は観光名所になったままだ。
 このため近辺は慢性的な混雑が続いている。きょうは朝から蒼い空が広がっているが、いつもの蒸し暑さはない。空気はさらりとしていて、秋のような涼しさだった。
 そんな新宿駅西口ロータリーの正面にはジャパン・セントラルホテルがある。52階建てのその外壁は淡いベージュ色だ。最上階のフロアはレストランとビアガーデンでも有名。壁に埋め込まれた大きなデジタル時計はAM11:20を示している。
 ここは米国系資本による超一流ホテルでそのロビーは待ち合わせの場所でも知られており、この時間もチェックアウトタイムが過ぎているのに、ロビーは大勢の人たちで混みあっている。ほとんどの人が待ち合わせの人たちだろう。そんな人たちのなかに、大町冴子も広いメインドアの近くに立っていた。水色のツーピースに同色のハイヒール。そして均整のとれたスタイルは、どうみても46歳を過ぎているとは思えない。生来の美貌と相俟って10歳は若くみえる。
 「よお、冴ちゃん、お待たせ……」右手を軽くあげて山本がやってきた。長身、痩せ形の体に濃紺のタブルスーツがきまっている。両側のコメカミから頬にかけて茶色のシミが目立った。
 「あ、おじさま、こんにちは。きょうはすみません、ご無理をお願いしちゃって……」
 「いや、いや、しかし、久しぶりだな、冴ちゃんと逢うのは……」両頬を手でこすりながらいう山本。かれが両頬をこするときは嬉しさを感じるときのクセである。
 「ほんとですね、たしか去年の春、父と伊豆のゴルフコンペに行ったときに、おじさまとお会いしたとき以来だと思うわ」エレベーターホールへ歩く山本の横顔に冴子が応える。
 「そうか、そうだよな。ずいぶん見てないものな。あのときは大雨にやられて大変だったよな。
 せっかく伊豆まで来たというのに、途中でドローだ。ひどい目にあったもんさ。さてと、冴ちゃんは何にする? 洋食か和食、それとも中華かな?」
 エレベーターの前にある味の街“レインボータウン”の案内ボードを見ながら山本がいう。
 このレインボータウンは50階と51階の2フロアを占め全国の味の名店が軒を並べる飲食店街である。東京育ちの冴子だが、このタウンを訪れるのは初めてだった。
 「何にしようかな……やっぱり和食がいいわ。おじさまは……?」ボードを見ながらいう冴子。
 「うん、わたしも冴ちゃんと一緒だ、和食のほうがいい。それなら、52階の“喜多八”へ行こうか。ここのイワシの刺身は天下一品だよ」

   


 ……おじさま、去年からみると随分シミが増えたみたい……苦労が多いのかな……姿課長のことを相談したら、また余計に心労をかけることになってしまいそう……どうしよう……でも、おじさまに相談するしかないわ。このままほっておくことはできないもの……
 エレベーターのなかで脇に立つ山本の横顔を見ながら冴子はそんなことを思っていた。
 “喜多八”の店内は比較的空いていた。窓側から中央部はイス席、壁側は畳の席になっていた。
 店の中央には通路に沿って大きな水槽が置かれていて、タイやハマチと一緒に沢山のイワシが人工的な流れに乗って群れをつくっている。
 「わあ、沢山の魚だわ。近くで見ると海のなかにいるみたい……」これからしなけれぱならないイヤな話を忘れたかのように、はしゃいだ声を出す冴子だった。
 「きれいな光景だろう、冴ちゃん。ここに泳いでいる魚たちは料理に使う魚じゃなくて、お客さんの目を楽しませるために飼っている魚たちなんだ……」元気よく泳いでいる魚を見ながら、山本は冴子に説明する。
 「……この水槽の水はいつも濾過されているんだけど、毎週1回は千葉の鴨川沖で汲み上げられた海水を船とタンクローリーで運んできて、一階に取り付けられた特殊な配管でここへ運ばれ、入れ替えるという大変な手間をかけて、大事に飼われているんだってさ……さて、座ろうか。向こうの席にしようかな……」山本は壁側にある隅の席を指さす。

   


 冴子たちが来てから1時間近くが過ぎていた。店内は昼という時間帯のピークになっていてもう空席はない。店の入口前のイスに座ったり立ったりして10人ほどの人が席あきを待っていた。
 山本は箸を手にしたまま離れた箇所にある窓の外を見ていた。濃い藍色のブルーペーングラスをとおして周囲のビル街を見ることができた。
 「……やはり、困ったことをしてくれていたんだな、姿君は……奥さんの苦しみは計りしれたもんじゃないよ。可哀想に……」そういう山本の顔には心からの憂いがあらわれていた。
 「……実際に姿君がそんなことをしていたなんて、まったく気づかなかった……毎日、顔をつき合わせていたというのに……」そういいながら、思いついたように料理に箸をつける山本。
 「相手の女性は千鶴といったんだったね……」
 「ええ、電話を入れた旅館の女将さんはそういってたんですって……」
 「どういう女性なのだろう……まず、社内の人間と考えるのが妥当だろうな。わたしなりの方法で調べてみよう。早くしないと業務への影響も考えられないことじゃないからな」
 「業務への影響って……まさか執務時間中に、そのために抜け出すようなことまでしたんじゃないんでしょう?」箸を止め怪訝な顔で冴子が山本の顔を見る。
 「それに似たようなことをやったんだ、姿君は。彼が熱海へ行った日は、姿君が課員の全員に休日出勤を命じていたんだよ。それなのに彼は出勤しなかった。家庭の事情と称してね……」
 山本は手にしていた箸を置き、声をひそめていった。
 「このことが課員の信望を一気に失くしてしまった原因だと思えるんだけどね。わたしが耳にしたところでは、会社へ出勤していると思っていた奥さんが急用ができたため、姿君の机にある直通電話に電話をしたんだよ。だけど、前日くらいに姿君自身が家庭の事情で出勤できないと、課の係長に伝えていた。奥さんは会社にいると思っているし、会社の人間は家に居ると知らされている……奥さんに対しては課の人間が適当なウソをいって課長は外出中ということにしたが、騙された課員たちは納得できることじゃない。課長は自分たちを騙して何処へ行ったんだと騒ぎになることは当然の成り行きだったと思うよ……これは耳にした情報だけどな」
 「恵美ちゃん、会社へ電話しちゃったんか……それじゃおかしなことになっちゃうわよね。でも、恵美ちゃん、姿さんは会社にいると信じていたんだから仕方ないわ、電話したことは……それにしても姿さんたら……女の子たちはいつも姿さんに憧れていたから、スキャンダルのショックは大きかったと思うわ」冴子の顔は思いなしか紅潮しているようにみえる。
 「奥さんの電話にだれが応対したのか分からないが、姿君への信望は完全に崩壊してしまったことは間違いないようだ……」話をする山本の前の料理はどれもほとんど減っていない。
 「……表現が不適当かもしれないが、姿君は女に溺れているとしか言えないな。奥さんだけでなく、課の人間まで騙して行動をしていたとは……変貌してしまった、姿君は……」
 「ねえ……あんなに可愛くてやさしい奥さんがありながら、愛人をもつなんて! 狂っているとしかいえないわ!」冴子の声には強い怒りの感情が込められていた。
 おいしいと山本がいっていたイワシの刺身だったが、気持ちのせいかも知れないが、箸をつけた冴子にはその味を感じることはできない。
 「明日は土曜日で休みだから、月曜日に姿君から詳しく事情を訊くことにし、処分も考えておくことにするよ。もちろん、冴ちゃんや、奥さんが訪ねてきたことなどはふせておくよ。課のムード悪化を理由に話をするから心配しないでくれ」
 「おじさま、ほんとに、よろしくお願いします。このままでは恵美ちゃん、病気なってしまうわ……きのう会ったとき、ひどく痩せてしまっていたの。びっくりした……」
 「わかった冴ちゃん、わたしに任せてくれ。会社の業務にも影響が出ているようなら、すぐに対処せんとな。ま、食事を終えてしまおう。だいぶ時間も経ってしまった……」
 十日ほど前、山本自身が逸平と千鶴の姿を熱海へ向かう列車のなかで、また熱海駅で二人がタクシーでいずことなく消えたことを目撃していたことは冴子にいわなかった。
 あの日からどう対処すべきか考えあぐねているうちに、冴子からの相談を受けたのである。
 冴子の積極的な行動に対して、自分の余りにも消極的な態度が恥ずかしく思えた。ただ、逸平の相手である女性が計算センターに所属する三品千鶴であったことは、あの日の翌々日月曜日、社内で偶然に千鶴を目にしたことから確認することができた。
 他の部課から山本が得た情報では現在、逸平が統率する販売拡張課の雰囲気は社内でも知らぬものがいないほど険悪なものになっていた。その原因は山本の対処遅れともいえる。
 逸平の不倫疑惑は彼の異例ともいえるスピード出世に、やっかみを抱いていた多くの社員たちはこれ幸いとばかりにスキャンダルの波を広げていったことも事実だった。
 冴子から相談を受けた日、取締役会終了後、山本は帰宅する筆頭常務送迎車のなかで、逸平への処分は直ちに社外放出をする以外にないという結論に至っていた。月曜日までの二日間、その根回しに当たるシナリオを軽く目を閉じ、頭のなかで組み立てていた。

   


(つづく)