長編小説 霧のなかの巨塔  第19回

   第二章 灯りを求めて

   


  ■水 無 川

   


 札幌への出張の朝、関西国際空港は朝から真夏の太陽が輝いていた。空港ビル外壁にあるデジタル式気温計はいま既に29度を示している。朝の9時を少し過ぎただけの時間なのに、空港と連絡するJRや私鉄のホームからはいつも人の波が空港通路へ吸い込まれていく。国内線の発券カウンターの前も団体客やグループの旅行客で混雑していた。
 ……日東航空からご案内いたします。9時20分発、札幌ゆき211便は間もなく18番スポットより出発します。ご搭乗のお客さまは18番搭乗ゲートへお急ぎください。かさねてご案内いたします。間もなく9時20分発…… 出発案内の放送がロビーに流れている。
 ターミナルの18番搭乗ゲート前にはもう搭乗客はいない。エンジ色の制服を着た日東航空の女性係員が搭乗完了の連絡を電話で知らせると、回収した航空券を手にしてゲートを離れる。
 札幌行きボーイング767型機の後部、窓側の客席に逸平がいる。明るいスカイブルーのスーツにおなじ色彩のカッター、水色のネクタイ……ビジネスマンのスタンダードタイプといえよう。ヒザの上にはビジネスケースを置き、何かの書類に目を通している。隣りの2席もふさがっていた。逸平は窓外に目を移す。車両に押されて機はスポットを離れるところだ。
 機内は冷房がよく効いていて、外の酷暑が信じられないほど。
 大分離れたところにある滑走路をジャンボ機が離陸滑走を始めていた。……機は定刻どおりに離陸します。ただいま千歳空港の天候は快晴、気温は19度という報告が入っております。離陸の許可があり次第、離陸いたします。少々お待ち下さいませ…… チーフパーサーが千歳の気温が19度と案内したとき、乗客のなかからオーッというようなどよめきが起きる。大阪の気温との違いに感嘆しているのだろう。ゴーッという力強いエンジン音とともに、体がシートの背に押しつけられる。機はスッと軽やかに離陸した。

   


 ……機長の浜村です。おはようございます。只いま紀伊半島上空を上昇中です。高度9000メートルで水平飛行に移り、知多半島、長野、新潟上空を通過して、千歳には10時45分の到着予定です……そんな機長のアナウンスを逸平はぼんやりと聞いていた。機は長野の山岳地帯上空を飛行している。真下には山岳の山並みが続き、左側の窓からは蒼い日本海が見えていた。
 そんな窓外の光景を見ながら逸平は、明日からの千鶴との旅行に心が弾んでいた。明日の午後1時15分に千鶴は千歳に着く。往復の航空券は8日に千鶴のもとに送ってある。明日、14日は札幌市内をまわり、洞爺湖に宿泊、15日は富良野,旭山動物園から層雲峡温泉へ、そして16日には糠平湖、然別湖をめぐり、夕方、帯広空港から東京へ。逸平は東京で一泊してから、翌日朝、一番の“ひかり”に乗れば、新神戸に8時35分に着く、十分に会社へは定時に出社することができる。たとえ30分でも1時間でも、千鶴とともにいたい逸平だった。千鶴との旅に思いを馳せているうち、いつか深い眠りに落ちていた。
 ……機は間もなく千歳空港に着陸いたします。お疲れさまでございました。着陸しましても機が完全に止まりますまで、そのままお席でお待ち下さいませ……着陸アナウンスの声で逸平は目を覚ました。それから直ぐに、機は衝撃もなく滑らかに着陸し、逆噴射でスピードを緩めると誘導路を到着スポットへ地上走行する。

   


 南海汽船の札幌支店は北海道庁に近い、国道12号線沿いにある。大通公園のそばにあるこの一帯はオフィス街になっていて、大小のビルが立ち並んでいた。そんな一角に茶色の6階建てビルが左右を高層ビルに挟まれるようにして建っている。まったく目立たないこのビルの玄関上には“南海汽船株式会社 札幌支店”という銀文字のプレートが埋め込まれていた。
 土曜日のこの日、各業務室には人影がない。ただ、6階にある大会議室からはマイクを使った男の声にざわめきが入り混じって漏れてくる。昨日からの全国支店長会議が続いているのだ。
 「……この計画にあるジッダ港には、地上設備を構築する用地は無限といえるほどあります。しかし、首都のリヤドまでは直線距離で800キロ、路線行程では900キロになります。この間の運送経費を考えますと、毎月60万トンの貨物量を取り扱わない限り、採算は、とてもじゃないが合いません……」説明しているのは逸平だった。
 南海汽船では5ヵ年計画でサウジアラビア政府と天然ガス精製と運輸を業務とする合弁会社を設立し、日本側受け入れ港として室蘭港にコンビナートを建設することが、一昨年の株主総会で議決されていた。その後、サウジアラビア政府との条件交渉もどうにかまとまりまりそうな段階に至っていたが、まだまったく手つかずの問題があった。もっとも肝心な問題である、サウジアラビアの何処に新しい精製工場を構築するかということ……その決定期限は下期終了の来年3月末である。残された日数は非常に少ない。
 もっとも難航しそうなのが、現地の地理を知らない関係者ぱかりのうえ、アラビア語が堪能だった担当者が現地での自動車事故で1ヶ月前に亡くなってしまっことである。現地スタッフとの交渉にはアラビア語は不可欠の条件だ。そんなことに経営陣が頭を痛めていたときに、特別顧問の楢本、現運輸大臣から逸平の話を聞かされたのである。サウジアラビアのほか、エジプト、イエメンなどの中東諸国で6年以上ものあいだ、拡販業務をこなし、中東の事情にも精しくアラビア語にも堪能であるというから、天から舞い降りてきた天使のように経営陣には思えた。そのうえ、現、運輸大臣の紹介だから会社側はいうことがない。大喜びだった。もちろん、逸平の東洋自動車でのいきさつは楢本大臣までしか知らない。そのため南海汽船にとって逸平は救世主にほかならない存在になったのである。その結果は東洋自動車から社外放出という厳罰処分を受けたというより、南海汽船に天下りをしたことになり、前例がない手厚い待遇を受けることになった。
 そのようなことから、入社1ヶ月余りの新入社員ともいえる逸平が、この65名というベテラン揃いの支店長会議に出席することになったわけである。
 しかし、いくら逸平が懸命に説明しても、中東の事情などまったく知らない支店長には理解できないことばかりで、そう簡単には話しがまとまるわけがない。
 壁の時計はもう11時をまわっていた。会議は12時には終了する予定だが、きのうからの進行状態からいったら、とても終わりそうになかった。昨日などは予定の時間を3時間半も超過した夜の9時半だった。この調子では今日もまた遅れそうだ。千鶴は13時15分に千歳空港へ着いてしまう。逸平は壁の壁の時計を見ながらイライラしていたが、担当する議案だけは何があっても進行させなければならない。
 「……地上輸送より、海上輸送のほうが、経費安になることは皆さん、ご承知の通りです。ダーマムまでは運行に2日多く要しますが、ジッダからの地上輸送と比較しますと、三分の一以下と経費は大幅に縮小できます。ホルムズ海峡の通過も30万トンクラスなら文句なしに可能です」
 「それでだね、ダーマムに構築したと仮定して、用地買収の難易度はどうなんだね、姿君……」円卓テーブルの中央に座っていた首席専務の権藤和明が質問した。
 「商業港のジッダと比較すると、用地標準価格が少し高くなっていますが、このダーマムという都市は、大小の石油基地がかたまることなく散在している地域です。わたしたちがサウジアラビア政府と合弁の会社をつくり大規模な精製工場を作るという話が広がりますと、値上がりを待って売り惜しみを一般にするものですが、政府と合弁となりますと、決して売り惜しみはしないと思います。そういう売り惜しみをする人間や企業には、政府が最終的に強制収用をしますから通常より低い価格となります。だから政府との拘わりを臭わせたら、価格の交渉は比較的こちらのいうがままになりそうです。多分、先方から買収交渉をもちかけて来るでしょう。買収交渉に乗り遅れて、取り残されてしまったら、それこそただ同様に価格を叩かれてしまいますから、こちらの出方次第でかなり有利になると思います……」
 「これは、まず現地へ行って状況を大至急つかむ必要があるな。これは会議の議題にはならん。来月早々にも第三運輸業務部長の安西君、同じく第三運輸業務部次長の姿君、そして総務部管理課の大河原君の3名でリヤドからジッダ、ターマムをまわって、またサウジのお歴々に会ってきてくれ。そして来年早々の支店長会議の議題に入れることにする」
 権藤はタバコに火をつけながらいう。
 「姿君はアラビア語が達者だったものな……」
 「いえ、達者とは、とてもいえるものではありませんが、ある程度には通じると思います」
 「ほどほどに話せるのなら上出来じゃないか、われわれも安西君も、片言すら話せないんだからな……よし、この件については来月早々に三人をサウジへ派遣する。派遣に関する稟議は来週の取締役会にまわすことにする。姿君、現地の説明を有難う。次の議題である合弁会社設立準備会の当社側人選に移る。進行はわたしが担当する。人選といっても選挙や推薦などといった面倒な方法はとらない。わたしが一方的に決定し、社長の決裁を得たものだ。これからボードに書いていくが、決定事項だから念のために……」権藤専務はタバコを灰皿でモミ消すとボードに向かう。
 黒々とした髪、曲がった部分がない背筋、その姿勢はとても70歳を超えたという年齢を感じさせない若さがあった。

   


   


 東京は今日土曜日も朝から快晴だ。真夏の太陽が輝いていた。湿度も高く蒸し暑い。盛夏といわれる7月、8月はあれほど涼しかったのに、9月という暦のうえでは秋になったとたんに、本来の夏がやってきた。じっとしていても汗がながれてくる。
 そんな空の下で恵美は庭で花壇の手入れをしていた。正樹も博樹も登校した。あの怖かった正樹が、母を心から気遣う優しい子になったことで、恵美の心も快晴である。社外放出処分となった夫の逸平も、出向先の南海汽船では部長待遇となって業務をこなしている。一昨日の電話では、札幌での四日間の研修に参加するのだといっていた。博樹は中間試験で今朝は早めに登校していった。何事も順風満帆ということができ、恵美の心にもゆとりが出来たためか、きょうは胃の痛みがない。何か気がぬけたような脱力感があった。
 二ヶ月ほど前、逸平とともに神戸に出発する朝、正樹が見せた、あの寂しそうな目を見たことが、恵美には昨日のことのように思える。今朝も正樹は登校するとき、「お母さん、ぜったい無理しちゃだめだよ。まだ、疲れがとれていないんだから。少しは横になって体を休めてよ、いいね、お母さん……」と優しい言葉をかけてくれる。そんな正樹に恵美は明るい声で応えた。
 「ありがとう、正ちゃん、ちゃんと横になって休むわ。あと片付けが終わったらね……」これほど幸せになった自分が夢のように思える。そしてまた、何か不吉なことが起きる前兆ではないかという不安感がまた頭をもたげてきた。
 花壇の手入れをしているうちに、軽い吐き気を感じた恵美は、立ち上がると深呼吸をする。いつも二、三回この深呼吸をすると吐き気がおさまっていた。しかし、きょうは、いつもと違い五分おきくらいに吐き気が起きるため、花壇の手入れをやめて寝室で横になっていた。
 目を閉じ一昨日、電話をくれた逸平のことを思う。今ごろは札幌での研修に参加していることだろう。四日間という長い研修。東洋自動車でのエリートコースから墜落してしまった逸平。
 身から出たサビの結果とはいえ、慣れぬ会社で、新入社員なみの研修会に出ている逸平が愛しくてならなかった。そんな逸平への思いを募らせているうちに、恵美は静かな寝息をたてていた。

   


   


 ピッ、ピッ、ピッ……寝入ったときのためにと合わせておいた目覚まし時計が鳴る。11時だ。
 ……あら、いけない、眠ってしまったわ。正樹がもう直ぐ帰ってくる。たしか、きょうは教員研修会だから、11時半ころには帰ってくる、お昼の支度をしなくちゃ……
 起き上がったとたん、激しい胃の痛みと吐き気を覚え、口に手を当てしゃがみこむ恵美。顔は苦痛に歪み蒼白だ。首すじを汗がつたっていた。
 数分のあいだ、しゃがみこんでいた恵美は苦痛をこらえ、寝室の壁を伝いながらキッチンへの廊下に出た。目を閉じたまま壁つたいに歩くその姿は悲壮というほかない。キッチンまであと数歩というところで、吐き気をこらえることが出来なくなった。
 “ガァハーッ”という音とともに、真っ黒なものが口に当てた手の周囲から、そして鼻から噴水のように噴出して廊下の床に落ちる。“グエーッ”……再び、また口と鼻からおびただしい量の黒い液体が噴き出してきた。恵美の白いブラウスは瞬く間に黒いチョコレート色に染まっていく……想像を絶する大量の吐血である。吐いたその血だまりのなかに、うつぶせに倒れ込む恵美。
 吐血による急速な失血により恵美は意識を失くしていた。黒い血だまりのなかで……

   


 それから20分ほどあと、正樹が帰ってきた。
 「お母さん、ただいまー」玄関で大きな声でいう正樹。母が倒れていることなど分からない。
 母の声がないことに不安を感じる正樹。「お母さん? いないの?」ズック靴を脱ぎながら正樹は後ろを振り返りながら母を呼ぶ。玄関から奥への廊下に出たとたん、正樹は凍りついたかのように立ちすくんだ。母が廊下で大量の黒い液体のなかでうつぶせになって倒れていた。
 顔は吐いたもので汚れていた。ポケットからハンカチを出して母の顔の汚れを拭きとる。
 体にぬくもりはあったが、呼吸が非常に早かった。
 「お母さん! お母さん!……」正樹が大きな声で呼びかけるがまったく反応がみられない。正樹はそっと母の肩を抱くようにして、血だまりのない所に移すと、キッチンの電話台へ走る。
 119番を押す指が震えていた。手もカッターシャツも、ところどころが赤黒く汚れている。
 「救急車を大至急お願いします!。学校から帰ったら母が口から黒いものをたくさん吐いて倒れていたのです。はい、意識はありません、はい、住所は鵜の木3丁目12番5号、姿といいます。……はい、そうです、すぐ来て下さい!……」

   


   


 救急車で搬送された恵美は、区内の救急病院、外賀総合病院の救急処置室にいた。処置室のストレッチャーに寝かされた恵美の顔色は蒼白だ。
 その傍らにはグレイの制服をつけた救急隊の隊員が医師からの質問を受けていた。
 「隊長さん、搬送現場のクランケの様子をちょっと精しく教えてください……」
 「はい、現場到着は11時53分、患者は廊下の床の上にうつ伏せで倒れていました。吐血の血の海で、そうですね、吐血量は1.5リッターほどだと思います。大きな声で呼びかけましたが、まったく反応はありませんでした。呼吸回数は1分に90回ほど、脈拍は微かに触れる程度で計測できませんでした……」
 隊長と呼ばれた隊員は40歳くらいで背が高く、がっちりした体格だ。濃い眉が印象的だ。
 現場の模様を要領よく説明する。
 看護師が先ほどからバイタルチェックをしている。「姿さん! 聞こえますか? 姿さん!」大きな声で耳もとに呼びかける看護師の声が室内に響く。
 「わかりました、現場で立ち会ったのは……?」
 「はい、患者の次男、正樹さん。正しいという字に樹木の樹と書きます、14歳、鵜川中学校の2年生です」
 「はい、わかりました。ご苦労様でした。わたしは第1内科医長の堀口です」
 「堀口先生、よろしくお願いします。それでは失礼します」待機していた救急隊員二人は堀口に頭を下げると、空いたストレッチャーを押して救命室から出ていった。
 堀口は立ち上がると、胸のポケットからボールペンを出し、恵美の右腕中指の爪根部を強く圧して顔を見る。恵美の体にも顔にもまったく反応は見られなかった。
 「渡辺君、痛覚の欄にも×をつけておいてくれ」
 「それから、中根君、脈拍は幾つになっている?」堀口は次々と看護師にチェック状況を訊く。
 「はい、脈拍131、血圧最高80、最低は38となっています」
 「強度の失血性ショックを起こしているな。瞳孔反応をチェックしよう……いくぞ、右、正常、左はっと……よし、正常だ。これもカードに記入だ。いいな」
 「はい、記入しました」中根というネームプレートをつけた看護師が答える。
 そのとき、モニター監視をしている中年の看護師が大きな声で異常を医師に報告する。
 「医長! エコーモニターが心臓腔の血液貯留を示しています……」看護師の声に医師はストレッチャー脇に据えられた幾つもの機器の一つに走り寄る。
 「心タンポナーゼが起きている! ドパミン、トブタミンを各5単位を静注だ、急げ、それからオレがこれからクランケの大腿静脈に点滴用のドレーンを固定する。輸血の準備だが、血液型は?」
 「はい、O型です」中根が薬剤アンプルから目を離すことなく答える。
 「よし、これから大腿静脈に三叉固定ドレーンを設置する……」堀口は固定テープを手にしていう。それから約10分ほどで処置を終わった堀口は輸血の指示を出す。
 「O型血液1000cc、乳酸化リンゲル500ccをすぐ輸液だ。血液は型をよく確認しろよ、確認作業はしすぎて損をすることはないぞ……そして、すべてバイタルカードに記入しておけ、処置に関してな……渡辺君はナースセンターへ電話をして、ひとり応援をよこしてもらってくれ」医長の堀口はてきぱきと看護師たちに指示を与えている。医師になってから15年になるベテラン内科医だ。
 「カンフルを静注する。中根君、これもチェックカードに記入してくれ。そしてGCSには開眼・言語・運動すべて×とし、昏睡に○をしてくれ」
 「はい、開眼・言語・運動すぺて機能せず、×、状態は昏睡。記入しました」
 「OK、ありがとう」注射をしながら堀口が応える。処置室をノックする音と同時に若い看護師が血液パックとリンゲル液パックを手にして入ってきた。
 「あ、ご苦労さん、水木君、輸血とリンゲル処置を頼む。右大腿静脈に輸液三叉ドレーンを設置してあるから、それで同時に処置できる。血液型を確認しろよ、血液はO型、リンゲル液は乳酸化リンゲル液だぞ」
 「はい、確認しています。血液はO型の1000cc、リンゲル液は乳酸化リンゲル500ccです」水木が大きな声で復唱するように答える。
 「よっしゃ、輸血速度は1分20ミリ、リンゲル点滴速度は1分10ミリにしろ」
 「はい、輸血速度1分20ミリ、リンゲル輸液速度1分10ミリ、バイタルカードに記入しました。時間は13時03分です」てきぱきと処理を終えながら水木が答えた。
 「よーし、ありがとう。そして、渡辺君、クランケの体を拭いてやってから、着衣を替えてやってくれ。失禁している。着衣替えがおわったら、道尿管の挿入を頼む」
 「はい、更衣を終え次第、道尿処置をします。道尿処置も時刻を記入しておきますか?」
 「うん、そうだな、念のためだ、記入しておいてくれ」
 「はい、わかりました」
 「頼んだぞ、渡辺君、心臓腔の血液貯留のエコーに変わりはないか?」
 「いえ、左心室にあった貯留は急速になくなってきました。心室、心房ともに拍動がかなり強くなってきました」  「よーし、血圧はどうなってる?」  堀口は患者の下目蓋裏をのぞき込みながら看護師に訊く。
 「血圧は75の48、さきほどから少し下がっていますね、拍動は上がっているのに……」モニター監視を続けている渡辺が映像画面を見ながらいう。
 「また、胃内出血が始まっているな。末梢血管を収縮させる必要がある、メタラミノールを静注する。中根君、頼む。1単位でいい…」 「はい、メタラミノール、わかりました」
 中根はカードに薬剤名と量を記入するとアンプルと新しい注射器がのったプレートを堀口に差し出した。 「ありがとう」プレートを両手で受け取り、傍らの処置台におく。
 この医師は外賀総合病院の第1内科医長、堀口亘である。いま救命処置をしている姿恵美の治療がもととなって宿命ともいえる、思いもよらぬ事件に発展していくことなど、知るよしもない。
 それから20分ほどあと、着衣の着替えも終わった恵美は右側を下にして寝かされ、看護師二人に付き添われて処置室を出る。ストレッチャーの上で目を閉じた恵美の顔には「生」をうかがうことはできない。不吉な「死」の仮面をつけているようだ。
 このとき処置室の時計は13時50分を指していた。

   


   


 それより1時間ほどまえ、正面玄関横にある薬局前の広い待合室の長イスには、診療時間が終わっていることもあり、数人が座っているだけだ。周囲に行き交う人も余りない。そんな一角に正樹がいた。
 先ほどから何回も公衆電話に足を運んでいたが、104への電話がどうしてもつながらない。
 今もまた立ち上がると公衆電話コーナーへ走り、電話器にテレホンカードを入れて、しっかり104のボタンを押す正樹だ。
 父親への連絡をしたいのだが、急ぐのに思うようにいかない。父親の出向先は以前から知っていたが、昨日から札幌の支店へ出張していることは、夕べ、食事をしているときに母が話をしていたから分かっていたが、電話番号まではわからなかった。
 何度も104を呼ぶのだが、オペレーターはでるものの、自分の声がなぜか伝わらない。
 ……はい、104の山下です……またオペレーターは出てくれる。
 「もしもし、札幌の電話番号なんですがー……」
 ……もし、もし、こちら104です。いま公衆の赤電話からおかけでしたら通じません。青電話を使っておかけ下さい……こちらの電話に気づいたオペレーターがいう。
 正樹は電話を切ると周囲を見回すが赤電話以外には見当たらない。薬局の窓口に走った。
 「すみません、お願いします……」正樹の声に若い女性が顔を上げて正樹を見つめる。
 「……さっき、母が救急車で運ばれてきた姿といいますが、札幌に出張中の父に連絡したいのですが、電話番号がわからなくて。青電話は何処に……」正樹の声は震えていた。
 「あ、104に電話するのね。ここには青電話はないから、ここの電話をお使いなさい……そこのドアから入って……」
 「すみません……」正樹は頭を下げると、いわれるように部屋の横にある「係員通用口」という白いプレートがあるドアを開けて事務室内に入る。消毒薬のにおいが待合室より強い。
 「大変ね、坊やひとりで……」係の女性がその通用口まで来てくれた。
 「広田さん、ちょっとそこ、お願いします。この坊やが電話で困っているから……」
 「はい、どうぞ……」まだ十代と思える女性が立ち上がって応えた。
 「坊や、ここに座って電話をお使いなさい。104も、札幌への電話もこれで……どうなの……? お母さんの具合は……」さきほどの若い女性が優しく問いかける。
 「血を吐いて倒れていたんです。家の廊下で。僕が学校から帰ったときには、もう意識がなくなっていて……いま、救急処置室です」イスに座って、しっかりした口調で話す正樹だ。
 「そう、心配ね、坊や。がっばってね、お姉さんも応援してるわ」
 横の机にいた、男性職員が、笑顔でうなづきながら、メモ用紙とボールペンを渡してくれた。
 「ありがとうございます……」それをを受け取り頭を下げる。
 「……電話、お借りします……」正樹は直ぐ電話器の104のボタンを押す。
 ……はい、104の竹丘です……オペレーターが直ぐでる。
 「すみません、札幌市内の電話番号です……」
 ……はい、どうぞ……
 「住所は分かりませんが、札幌市内で南海汽船、札幌支店です……」 ……はい、南海汽船の札幌支店ですね……」  「はい、そうです」  ……少々お待ち下さい……
 ……お問い合わせの番号をご案内します…… コンピュータの合成音が聞こえてくる。
 ……お問い合わせの番号は011-823の1111……電話を切ると、正樹は急いでメモした番号のボタンを、ゆっくり、しっかりと押していく。

   


   


 南海汽船・札幌支店の会議室では定刻どおりに会議は終了していた。権藤専務の、てきぱきとした議事進行はいつものことだ。昨日は韓国へ出掛けていて不在だったため、議事の進行が大幅、それも三時間半というかってないダラダラの会議になってしまった。しかし、きょうは専務による小気味がいいほどの議事進行で12時ちょうどに終了した。
 かって50万トンクラスの超大型自動車運搬船で、20年以上も船長を務め、世界の海を駆けてきた権藤専務の顔は今も赤銅色に焼けている。190センチを超える長身とあいまって、引き締った筋肉質の体は日本人ばなれしていた。
 6年前、現役から引退し運航担当の常務取締役に就任、その後多くの実績をあげ、2年前に3人いる専務取締役を追い越して首席専務取締役に就任した。実質上は副社長と同格である。
 権藤は時間の観念に厳格な性格で、とくに会議に遅れて来る人間には大きな雷が落ちる。だから、権藤が主導する会議には、事情により欠席する者はいても遅刻する者は決していない。そういうことから権藤は社員から「かみなり様」と呼ばれていた、親しみも込めて……
 10分ほど前に会議が終了したばかりの会議室では、まだ40名以上の出席者が互いに歓談していた。逸平も5人ほどの男と、外部が見える窓側で笑いながら話をしている。今すぐにでも、千鶴が到着する千歳空港へ急ぎたいのだが、出席者たちのてまえ、ままならない。
 そんな逸平のところに札幌支店の若い社員が走ってきた。
 「姿次長、お話し中にすみません。お宅から電話が入っています……こちらの交換機で……」
 「家からだって? や、すみません、ちょっと」逸平は同僚たちに頭を下げその場を離れる。
 逸平は若い社員の後を足早に歩いた。会議室の後ろのコーナーに小型の電話交換機があって並ぶランプの一つが赤色に点滅している。
 「次長、どうぞ、この受話器で……」社員が交換機の受話器を取り、ランプ下のレバーを引くと受話器を逸平に渡す。点滅していた赤ランプが緑色に変わって点燈した。
 「ありがとう……」軽く頭を下げる逸平。
 「もし、もし、電話代わりました。姿です……」
 ……あ、お父さん! 正樹。お母さんが大変なんだ!……
 「なに! お母さんが? お母さんがどうしたんだ!……」逸平は叫ぶような大声をだす。顔からはみるみる血の気が失せていった。
 ……お昼に学校から帰ったら、お母さんが廊下に倒れていた。ものすごい量の血を吐いて。そのときもう意識を失くしていたんだ。いま、救急車で品川の外賀総合病院にきている……
 「それで、いまお母さんの様子はどうなんだ!」
 ……わからない、まだ救急処置室からでてこない、早く帰ってきてよ、お父さん!……
 可哀想に、正樹の声は震えていた。
 「よし、これから直ぐ帰る。お母さんをたのんだぞ! 病院は品川の外賀総合病院だったな、町の名は、何処だった?」
 ……ちょっと待って……町名を尋ねる正樹の声がする。
 ……京浜急行の北品川駅前だって。8階建ての白い建物が2棟あって屋上に外賀総合病院という赤いネオンがあるって……
 「よし、わかったこれから直ぐ帰る! 頼んだぞ……」
 逸平は電話を切ると、さきほどの若い社員を探すが、すぐに分かった。軽く肩を叩く逸平。
 「申し訳ないが、千歳空港発の東京行きでこれから間に合いそうな便は何時があるか調べてもらえますか。家内が急病だという連絡が入ったものだから……」
 「はい、すぐ調べてまいります、ちょっとお待ちください、次長……」
 「すまないね、頼みます……」そういいながら逸平は権藤専務を探す。ずばぬけた、逸平よりもわずかに背が高い権藤はすぐ目につく。部屋のなかほどで、数人の支店長と話をしている。
 「専務、お話し中にすみません……」逸平は小さな声でいう。
 「やあ、姿くん、どうした?」権藤は支店長たちに背を向けて笑顔で逸平にいう。
 「すみません、いま自宅から電話があったんですが、家内が倒れて病院に搬送されたようなんです、大量の吐血をしたとかで……」
 「なに! 奥さんが?……」権藤が大きな声を上げる。その声でまわりにいた支店長や関係部所長の人たちは、それまでの会話をやめて権藤のほうを向く。
 「はい、息子からの電話だと、学校から帰ったら廊下で吐血して倒れていたそうです。そのときもう意識はなく、今も病院で救急処置中だということで……」
 「そりゃ、大変なことだ、姿君! すぐ帰ってあげなさい! 夜に様子を知らせてくれよ、待ってるから……まず、飛行機の便だ……」権藤は辺りを見回して札幌支店の社員を探した。
 「あ、専務、飛行機の時間はいま調べてもらっています。早々に申し訳ありませんが、これで失礼します……」逸平は丁寧に頭を下げる。
 「おう、自宅へ様子を知らせてくれよ、待っているからな。自宅の番号、知ってるよな?」
 「はい、存じあげています。必ずお電話します……」
 「うん、じゃ、頼んだぞ」後藤はそういうと、支店長たちのもとへ戻っていく。
 逸平は後ろのドアから通路に出たとき、若い社員がエレベーターを降りて走ってきた。
 下でも急いで走ってきたのだろう、息を切らしている。
 「次長、おまたせしました……」息苦しくて言葉が出てこない。
 「や、ありがとう、苦しそうだな。ま、ちょっと呼吸を整えて……」
 「あ、すみません、大丈夫です。13時50分発の東京行きがあります。今は12時40分ですから、JRの快速に乗られれば十分に間にあいます。今、タクシーを呼んでおきました。直ぐ来ると思います。どうぞ、下へ……」若い社員がエレベーターを指し示す。
 「ありがとう、時田君、助かりました」社員のネームプレートに気づき逸平が名前を呼んだ。
 「いえ、とんでもない、どうぞお気をつけて……」

   


 千歳空港は三連休の初日ということもあり大変な混雑だ。団体客が殊に多い。
 千歳空港から稚内、女満別、中標津方面への搭乗手続カウンターは団体客が固まっていて、通り抜けがし難いような状態になっていた。
 札幌からの連絡がスムーズにいき、逸平は13時20分には千歳空港に着いていた。ちょうど千鶴が乗った便が5分ほど前に到着しているはず。逸平は東京行きの搭乗券を16日の帯広空港からの搭乗券と出発地変更することができた。13時50分までまだ時間がある。到着ロビーにまわって時間がある限り千鶴との再会を待つつもりでいた。
 東京からの便はジャンボ機だ。到着がかなり早かったのか、もう、荷物の受け取りコーナーには沢山の乗客が中央を回るベルト上の荷物を見据えていた。千鶴はそんな大きな荷物はないから、ここにいるはずがない。到着出口の近辺には多くの人たちがいるが、千鶴はいない。時計をみると出発15分前になっていた。これ以上ここにいるわけにはいかない。
 後ろ髪をひかれるような気持ちで逸平は搭乗ロビーへ急ぐ。歩きながらも頭のなかが空白になっていた。きょうこの日が夢のなかであってほしいと願う。ここへ来るまでのJRの車内で幾度も足や頬をつねってみるが、これは現実のことだった。
 千鶴が搭乗したはずの便は予定よりかなり早く到着したようだが、逸平が見た限りでは見つけることができなかった。千鶴とは行き違いになってしまった。携帯電話をもたない千鶴には、連絡をとることができない。彼女を札幌に呼んだことを悔やんでいたが今更どうなるものでもない。
 きょうからの千鶴との北海道旅行は逸平にとって二度とない甘い思い出となるはずだった。
 大阪空港から札幌に出発した一昨日、機のなかでは思わず笑みがでるほど心が弾んでいた。久しぶりに千鶴と逢えるその日に、よりによって恵美が倒れるとは……そして意識不明とは……!
 逸平は自分の人生を呪った。自分のさらなる裏切りを棚にあげて! 妻の恵美は逸平の勝手な苦しみの数百倍、いや、それ以上の苦しみに耐えてきたというのに……
 逸平に裏切られ、またそれを知っていても、愛しつづけている、ひたすらな恵美の愛を踏みにじり、自分が社外放出という厳しい処分を受けた理由をもう忘れて、またもや千鶴との不倫の愛に心を燃やす逸平に神のさらなる怒りは、妻、恵美の危篤という現実として下されたのだろう。
 不倫の愛に心を奪われている逸平には、いまもそれに気づいていない。こともあろうに、病に倒れた恵美を恨めしく思っていた……もちろん、恵美への愛が消えているのではない。恵美をこよなく愛しながらも、千鶴との愛も断ち切れないのだ。ずるい男の生き方である。
 このごに及んでも自分の行動の是非が分からない逸平の心はまさに腐りきっていた……

   


 ……13時50分発、日東航空、東京行き286便にご搭乗のお客さまにご案内します。ただいまから11番ゲートよりご搭乗のご案内を致します……かさねて……
 搭乗案内開始の場内アナウンスが流れると、11番ゲートの前に搭乗客が列をつくり始めた。三連休の初日といっても、東京は逆方向である。客は非常に少ない。A300型機のキャビンは半分ほどが空席だ。
 286便は定刻どおりに千歳空港を離陸した。羽田着の予定時刻は15時10分である。
 快晴の津軽海峡上空を瞬く間に通過し、機は岩手山上空を飛行している。眼下には赤茶けた火山特有の山肌が見えた、白い綿のような雲がはるか下に浮かんでいる。
 空席が目立つ後部座席の窓側に逸平が座っている。窓外をぼんやりと見つめる目には動きがない。頭のなかは倒れた妻のことより、千歳空港に到着しているはずの千鶴のことで満たされていた。ただ、ひとつ気やすめになったことは、帰路の航空券も一緒に送っておいたことだ。
 それを今日の帰りの航空券に変更することができる。それはともかくとして、明日にでも千鶴のアパートに電話をしよう……そんなことを考えていた逸平だったが、頭上のベルト着用サインが消えているのを確認すると、立ち上がって後部横の電話室へ向かう。電話室は空いていた。
 テレホンカードを入れると、手にしたメモの番号をプッシュしていく。
 ……はい、お客様第一の道央レンタカーです……エネルギッシュな若者の声だ。
 「きょうから3日間、1500ccクラスの予約をしていた神戸の姿といいます」
 ……姿さま、少々お待ち下さいませ……
 ……はい、お待たせしました、姿さま、間違いなく承っております……
 「その予約なんですが、キャンセルします。急用ができましてね」
 ……そうすると、当日の取り消しということで、規定によって70%をキャンセル料として頂くことになってしまいますが……
 「はい、仕方ないことです。請求は神戸の関西中央観光(株)本社・営業4課の神谷課長宛てに送付してください。住所はそちらでお分かりと思いますが……」
 ……はい、分かりました。またのご利用をお待ちしております。わたし、業務課の猿渡と申します……  「猿渡さんだね、よろしく処置して下さい」
 つづいて逸平は別の番号を押していく。  ……洞爺湖観光ホテルでございます……ここも男性の声だ。 「はい、きょう2名の宿泊を予約していた姿といいますが、都合でキャンセルします……」  ……はい、本日のご宿泊のキャンセルですね。ご予約の確認をします。少々お待ち下さい……  ……お待たせしました、本日2名様のご宿泊キャンセル、承りました。なお、当日のお取り消しということで80%を違約金として頂くことになりますが……
 「はい、分かっています。請求は神戸市関西中央観光の営業4課、神谷課長まで送付して下さい」
 ……はい、有難うございます。またのご利用をお待ちしております。わたし、予約担当の田原といいます…… 「田原さん、よろしく。それから、これはお願いだけどね、もし、三品千鶴という人から電話があったら、東京へ急用で帰ったと伝えて下さい……」
 逸平は次々と電話する。
 ……ありがとうございます。層雲峡クラウンホテルです……
 「明日16日、2名の宿泊を予約しています姿といいますが、宿泊キャンセルをします」
 ……明日、ご宿泊予約の姿様ですね。予約の係とお替りします。少々お待ち下さい……
 ……お待たせしました、姿様、明日16日のご宿泊のキャンセル、承りました。つきましては、前日の取り消しということで、キャンセル料が50%となりますが……
 「はい、わかっています……」逸平は請求書の送り先を伝えて、これで3件の予約取り消しの連絡を終えることができた。自分の席へと通路を歩きながら、千鶴への一つの連絡策をとることができて若干だが心が軽くなったような気になる。
 機は下北半島の南端をかすめ、下北平陵の海岸線に沿うように飛行していた。

   


 東京から到着した千鶴が乗っている筈のジャンボ機は定刻より15分早く到着していて、逸平が乗った便が離陸した頃には、搭乗客の全員が到着ロビーから出ていた。広いロビーにはいま、誰もいない。また人を探しているような女性もいなかった。千鶴は来ていなかったのだ……
 おとといの夜、逸平から確認の電話を受けたとき、千鶴は迷っていた。逸平に逢いたくてたまらない……しかし、愛する逸平が東洋自動車を追われ、神戸の他社に出向を命じられた原因が、自分との交際にあったことは、はっきり分かっていた。社内において、千鶴の名は知られていなかったものの、女性関係であることは完全にばれていた。千鶴が籍を置く計算センターでも、ひところそのことが話題になっていた。そんなとき千鶴は胸を締め付けられるように感じられ、耳をふさぎたい思いだった。しかし、話に入らなければ当然に自分が疑われることになる。
 噂ばなしが始まると、千鶴は率先して加わっていった。心とは逆に……
 どうしても、逸平への愛を絶つことが千鶴にはできない。声だけでも聞けたらと、思い切って神戸のマンションに電話をいれた千鶴だった。北海道への旅行に誘われるとは考えてもいなかった。神戸まで逸平に逢いに行くことができたらという願望はあったが、北海道と聞いたときは、嬉しさというより、戸惑いを感じた。余りにも遠すぎる……たが旅行に誘われた嬉しさで同行に応じたものの、今度こそ、その旅行によって、逸平との不倫の愛という泥沼から、抜け出すことができなくなることは、はっきりと分かっていた。
 出発の前夜まで悩んでいた千鶴だが、逸平との愛を断ち切るのは今しかないと決心した。約束を一方的に自分が破り、逸平との愛を清算することにする。
 その夜、千鶴は別れの言葉を書いた手紙に、送られてきていた航空券を同封した。そして、長年住みなれたこのマンションを違約金を覚悟で、3日後の日付で引き払うことにする。逸平との思い出が多いこの部屋から、少しでも早く離れたかった。翌朝早々に電話局を訪れ、即時の回線取り外しを依頼する。数日の不便はあったが逸平からの電話で、自分の決意が揺らぐのが怖ろしかった。決して結ばれることがない、そして罪悪でもある逸平との愛に、強い意志で決別を決めた千鶴……激しい心の痛みと悲しみのなかでの決断だったが、苦しみの反面、心のなかに涼風が満ちてくるような爽やかさも感じていた。

   


   


 軽い接地の感覚のなかで機は羽田空港に着陸した。腕の時計を見る逸平。時間は3時10分……定刻の到着である。
   ……恵美の具合はどうなんだろう?
     正樹が恵美を見つけたときには、もう意識がなかったと、いっていた
     いまも意識が戻らないままなのだろうか
     まさか、このまま死んでしまうなんてことには!……
  不吉な想像が脳裏をかすめる。心は芯から腐った逸平だったが、今は千鶴のことを忘れていた。タクシー乗り場へと急ぐ逸平の後ろ姿には、いつものような自信にあふれた姿勢は見られない。心の暗さは直接、その人のすがたかたちを変えてしまう。肩を落とした逸平のその様子は、あたかも老人のようにやつれさせていた。その原因は恵美が倒れたことによるのか、或いは千鶴との再会が流れてしまったことなのかは分からない。正樹からの連絡を受けるまでは、あれほど堂々としていたのに…… それから40分ほど後、逸平は品川にある外賀総合病院の正面玄関前でタクシーを降りていた。玄関前は広い駐車場になっている。この時間は診療時間外のはずだが、パーキングには多くの車が駐車していた。見舞い客なのだろう。
 玄関を入った右側は薬局になっていたが、今は全面がシャッターで閉ざされ、広い待合コーナーの長イスには誰も座っていない。薬局から少し離れた場所に「入院のご案内」という表示灯がついた窓口に逸平は早足で歩く。
 「すみません、きょう、救急入院させて頂いた姿といいますが、姿恵美の病室は?……」
 「姿恵美さんですね、ちょっと待ってくださいね……」中年の白衣の女性は、パソコンのボードキーを操作しながら、モニター画面を指で追っている。
 「はい、姿恵美さんは305号室、本館3階の個室です。そこ、正面のエレベーターをご利用ください……」職員が指さすところに4基のエレベーターがあった。
 「はい、どうも、ありがとうございました」エレベーターの方に歩く逸平の下まぶたが、ときどきピクピクと痙攣している。
 病室が並ぶ3階の長い通路には人影がない。どこからか点滴液保温機の警報音が聞こえてきた。
 エレベーター前の通路右側のナースセンターに5,6人の看護師がいて機器の作動音も聞こえてくる。壁に表示された病室ナンバーから305号室はすぐわかった。ドア左上のプレートホールダーには「内科 姿 恵美 主治医・堀口 亘」という白いプレートがはめられている。
 ドアをノックする逸平。高鳴る心臓の鼓動が自分にも聞こえた。
 「どうぞ……」博樹の声が聞こえる。そっとドアを開けた。
 「あ、お父さん、早く帰ってこれたね……」正樹の顔に安堵のいろが浮かぶ。母の吐血で汚れたシャツは病院の看護師がもってきてくれた、入院患者用のパジャマと着替えていた。
 「まだ、お母さんの意識が一度も戻らないんだ……」恵美の足元のほうで折りたたみイスに座って母を見守っていた博樹が声を潜めていう。壁寄りに置かれたベッドに恵美が横たわっていた。
 顔色は病室の蛍光灯の色も加わって、透きとおるように蒼白だ。血の気というものがまったく見られない。呼吸をしている動きすら感じられず、蝋人形そのものだった。鼻から口にかけて酸素マスクが当てられ、2本の点滴架から幾本ものチューブが恵美の腕や足とつながっていた。
 頭の毛髪が剃られた何箇所にも電極がつけられ、また胸のあたりからも何本ものコードが壁のなかへ引き込まれている。まるで人間ではなく、エネルギーを注入されているロボットそのものとしかいえない……
 逸平たち3人はただ、恵美の顔を見つめているほかない。
 「長崎のおばあちゃんや、青森のおばあちゃんに知らせてくれたか?」
 「うん、してある。青森のおばあちゃんは、飛行機が明日の朝しかないから、今夜の寝台特急で来るって……長崎のおばあちゃんは夕方の飛行機で来るって……」博樹が母の顔から目を離すことなく父に答える。博樹は母が救急搬送されたとき、正樹がキッチンに残したメモを見てこの病院に駆けつけたのだ。みな、恵美が何か反応を示すのを待っている……
 「梨香姉さんにも連絡がついたか?」逸平が正樹にきく。
 「うん、留守だったから留守番電話に入れておいた。病院の名前と場所を、ここへ着いてから……」  「そうか、ありがとう、よく気をきかせてくれて……」
 病室のドアがノックされた。
 「はい、どうぞ……」逸平がドアの方を振り向いていう。「失礼します」50歳くらいの看護師が入ってきた。背が高い。長身である逸平の額あたりまで背丈があった。
 「ご主人さまですか?」
 「はい、そうです。札幌にいたものですから、遅くなってしまって」
 「お疲れさまでした。早速ですが、担当の堀口医長が奥さまの容態について説明したいといっております。医局のほうへご案内しますので、どうぞ、ご一緒に……」
 恵美や子どもたちを一度振り返ると逸平は看護師とともに通路へ出る。ナースセンターの並びに医局があった。数人の医師がデスクに向かい、逸平たちが入っても頭を上げる者はいない。
 「堀口医長、姿さんのご主人がお着きになりました」案内してくれた看護師は一人の医師の横に立って伝える。医長と呼ばれた医師は、やや浅黒く、どこか船員を思わせる、ぜい肉のない筋骨たくましい男だ。50歳ほどか。目には鋭さがあり並みの内科医という風貌からかけ離れて、白衣がなければ豪腕実業家といえそうなタイプだ。
 「ああ、姿さんですか。わたし、奥さまの担当医、堀口亘といいます。ま、どうぞお座り下さい」
 と、隣りの空いた机のイスを指し示す。
 「ありがとうございます。ほんとうに、家内がお世話になって……」勧められたイスに座りながら深く頭を下げる逸平を、堀口は鋭い目でみる。
 「いや、いや、これはわたしたち医師の業務です。なんですか、息子さんの話しですと、札幌へ出張していらしたんですって?」
 「ええ、まさか、こんなことになるなんて……」力のない逸平の声だ。
 「エーッ…! ご主人たるあなたに、奥さんがここまで悪くなっているのが分からなかったのですか? ほんとに!」堀口の声が怒りのために大きくなる。二つ向こうの机にいる若い医師が堀口の大きな声に少し頭を上げて、こちらを見ていた。
 「顔色が悪くなってきたことは、去年の秋ころから気づいていましたが、子どもの行動について、いろいろと悩みがあったものですから、そのストレスが原因だと……」
 「あなた、ストレスが溜まったどころじゃないですよ! ちょっと、こちらへ来てください」堀口は立ち上がって後ろにある蛍光ボードのスイッチを入れる。裏からの蛍光照明にクリップでとめられた、何枚ものクロームフィルムが白黒の影となって見える。そのいちばん左の写真をポケットからとったボールペンの頭で差し示しながら、堀口は説明した。
 「いいですか、これは胃を上部から撮影したCT写真、よくいわれる患部の輪切り写真というやつ、断層写真です。ここを見てください。ここは胃から十二指腸への出口の幽門、幽霊の幽にゲートの門と書きます。ここが他の部分より盛り上がっているでしょう?……そしてこれは斜め側面から撮った写真です。表面が窪んでいるのがわかるでしょう? ちょうど、火山の噴火口のように。直径が8センチほどのガン腫です。きょう、大量出血した箇所もここで、成長したガン腫が破裂したようですね、CTからみた患部の状況から推測すると…… 出血はいまなお続いていて胃のなかに再び貯留し始めています……」堀口は写真と逸平を交互に見ながら説明する。
 「ま、座りましょう……」堀口は先ほどのイスを手で指し示し、堀口も自分の席に座る。逸平も指示されるまま、力なくイスに座った。
 「……奥さんの病名は潰瘍性幽門ガンです。それも、ステージ4、すなわち末期ガンです。こういっては残酷になりますが、ご勘弁ください。よくもって2ヶ月、場合によっては2、3日ということを覚悟してしてください。奥さんのガンは胃だけじゃないのです。食道も膵臓も、さらには肝臓にも……どれも末期で、手の施しようがないガンに侵されています。どうして、ここまで
 ひどくなってしまったのか、理解に苦しみます。現代の医学ではガン細胞が短期間に急速な増殖をしてガン腫を成長させるといっていますが、わたしはそう考えてはいません。長期に亘る慢性的な炎症が徐々にガン腫まで進行していくものと考えています。奥さんの場合も、5年、10年或いはそれ以上の経過があったものと思います。奥さんの胃、幽門からの大出血ですが、当初は軽い胃潰瘍だけだったと思いますよ……それが長い年月の間に、生活環境の悪化によって、じわじわと進行したのでしょう。それはそうと、奥さんには下血が頻繁に見られたと思いますが、そのことは何もいわれなかった……?」堀口はまた理解できないというように頭を傾げる。
 「ええ、何もいっていませんでした、下血とはどういったことですか?」逸平の声は震えていた。座っているのに、足の震えも止めることができない。
 「下血とは胃から出血した血液が大便に混じって、或いは血液だけが肛門から排泄される状態です。血液の色は胃液による酸化で黒色かチョコレート色をしています。便の成分が血液主体のときはコールタール色の半流動体になります。われわれがタール便というやつです」堀口は目をこすりながら説明する。
 「もう、かなり前から胃の出血が続いていたということでしょうか?」ひとりごとのようにいう逸平。その声はショックから、かすれ声になっていた。
 「はい、胃潰瘍が進行していた5年以上、あるいはその前から続いていたでしょう。奥さんは長期に亘って強度の貧血に陥っていたと思います。出血でね……はっきりいって、よく、今まで生きてこられたものと、驚異に思えます。胃の出血は大抵が下血という状態になりますが、患部が幽門付近にありますと、幽門を狭くして食べ物もなかなか通らないようになり、苦痛を感じますし、きょうのように大量出血したときには、狭くなっている幽門から腸のほうへ流出できないために胃のなかにしばらく貯留、いわゆる、詰まりによって溜まってしまいます。なおも出血が続くときには逆流して食道の弁を押し倒して、口から排出することになります。胃の中央部である大湾部、或いは胃の入口である噴門部にガン腫があるときには、出血しても幽門のつまりがありませんから、十二指腸から腸へと流出するため、まず吐血することはありません……ともかく奥さんには、この胃ばかりではなく、ほんとに、全身がガンに侵されています。ざっと検査しただけでも、胃の他にどれも処置しようがないと思えるガンが3箇所に発生しているのですよ……」
 「これから、家内はどうなるんでしょうか?」
 「はっきり申上げますが、いま大出血している胃の全摘出は可能ですが、食道、膵臓、肝臓のガンはこれほど深い組織にまで浸潤していては、部分摘出が可能だとしても、延命処置となることは非常に困難ですし、例えそれを行うとしても奥さんが意識を回復して、それから体力がある程度安定してからのことになるでしょう……」若い看護師がプラスチックの湯のみにお茶をいれてもってきてくれた。黙って逸平と堀口の前に湯のみをおいて立ち去る。
 「いま、奥さんは大出血による出血性ショックを起こしています。また極度の貧血で昏睡状態ですが、さきほど1000ccの輸血と500ccのリンゲル輸液をしましたから、もうすぐ意識は戻ると思いますが……それにしても奥さん、ほんとに気丈な方ですね……これほど種々の臓器をガンに侵されながらも黙っておられたとは……」堀口は手にもっていたボールペンを胸のポケットに入れながら、医師としてはめずらしく感情を込めてしんみりという。
 「それから、奥さんの胃全摘手術や食道の郭清手術はここで出来ますが、膵臓や肝臓は余りにも末期にあるため、危険を伴いますので処置は医師も設備も万全な帝北大学付属病院へ移って頂くように手配致します。そのときになったらのことですけどね……」
  逸平は目前の机の端に両肘をついて、そこに顔を伏せていた。顔から血の気が引いていた。
 「姿さん、ご心配でしょうが、われわれも全力を尽くします。しかし、ご承知おきください。ある程度の延命はわたしたちの努力でなんとかなる可能性は、ないとはいえませんが、たとえ、幾つかの手術が出来たとしても、これほど末期に至った状態では、生存の可能性は限りなくゼロに近い状態としかいえません……手遅れ過ぎるんですよ……」
 「わかりました、先生……どうぞ、できる限りのことを……お願いします……」顔を上げた逸平の目からは涙がとめどなく落ちる。恥も外聞もなく声を出して泣いた。
 「……」堀口は黙って頷き、後ろから軽く肩を叩く……

   


   ……ああ、夢であってくれ、悪夢であってくれ! たのむから……
     これは夢じゃないのか? 現実だというのか?
     なんということ……! 恵美はガン……それも末期のガンとは!
     場合によっては2,3日の命かもしれないだと……?
     どうしてもっと早く、オレは気づいてやれなかったんだ!
     恵美の命がもうすぐ尽きる! そんなバカな! 恵美が死ぬなんて……
     これは夢だ、悪夢なんだ! 早く目覚めてくれ!
 逸平は心のなかで叫んだ。しかし目覚めるわけがない。現実のことだから。

   


 医局を出た逸平は通路でしばし立ちすくんでいる。絶望感を落ち着かせるために……まだ流れている涙を手の甲でぬぐう。そして思い切ったように、そして意識的に背筋をのばすと平静をよそおって歩きはじめた。
 恵美の病室の前でたたずみ、スーツのポケットからハンカチを出して目や顔をぬぐい、ひとつ大きく息を吸い込むとドアをノックする。 「はい……」博樹の声だ。逸平はそっとドアを開けた。博樹も正樹も母のベッドの脇にいて、ふたりの視線が逸平にそそがれる。
 「お母さんの容態はどうなんだって……?」正樹が待ちかねたようにして訊ねた。
 「うん、ちょっと進んだ胃潰瘍だって……さっき輸血をしたからもうすぐ意識を取り戻すだろうって担当の先生はいっていた。うん、心配はないよ……」
 「よかった、胃潰瘍だけなんだね、じゃお母さんはこのまま死んでしまうようなこと、ないよね」
 博樹がほっとしたように、腕をさすりながらいう。
 「ああ、大丈夫だとも、一時的に意識をなくしているだけで、いま輸血を受けて強い貧血も改善されているから心配いらないと先生がいっていたよ。だから博樹も正樹もそんなに心配しなくてもいいんだよ……」逸平は無理に笑顔をつくりながらウソをつづける。こどもたちの目から見ると実に不自然な笑顔だったに違いない。
 「ほんとに大丈夫なの? これでもう5時間以上も意識が戻っていないんだよ。ぜんぜん動きもしないし……お父さん……」母の顔を見つめながらいう正樹。その悲しそうな正樹の顔を見ると逸平はまた目頭が熱くなる。
 「吐血量が多かったために非常に強い出血性ショックによる意識障害なんだって……しばらく見守っていてあげようよ。もうすぐ意識が戻ると思うよ」逸平はそういいながら、恵美の近くに寄って顔をのぞき込む。瞼は微動だにしなかった。じっと恵美の顔を見つめつづける逸平。大声で泣きたい気持ちを懸命にこらえていた。息をしているのだろうかと、思わず恵美の口もとに耳を近づけてみる。かすかだが、呼吸をしている様子が感じられた。
 「息をしている? お母さん……」博樹も父と同じように母の鼻に耳を近づける。
 「うん、息をしてる。よかった」父の顔を見ながらいう博樹。その顔には安堵感があった。
 「オレも……」正樹も同じように母の顔に耳を近づける。じっと目を閉じて母の息の感じを確かめようとしている。「うん、ほんとだ。静かな息だけど、だいぶ早いね……」そういいながら、母の顔をじっと見つめる正樹だ。
 恵美が神戸から帰宅したときから、正樹は完全に変貌した。これまでの凶暴な正樹から、母をこのうえなく慕う、やさしい正樹に変っていた。わずか二週間前からのこと。夕食のあとなど、母と一緒にキッチンで後片付けまでするようになった。母が大丈夫だといっても聞かない。
 そのように母を手伝うことは博樹すらしなかったこと。正樹は母が体を傷めたのは自分のせいだと深く後悔していた。自分がこれまでにしたことは、どのようにしても償うことができないが、これから出来ることは母のために誠心誠意、尽くすこと以外にないと心に決めていた。
 こんな変貌した正樹に兄の博樹は面くらっていたが、すぐふたりは打ち解ける。長いあいだ続いていた陰鬱な家庭が、正樹の変貌によって突然、笑い声と楽しそうな話し声が絶えない幸せな家庭が訪れたのである。それから、わずか二週間でこの幸せが崩壊の危機に至ろうとは……世にいう「神も仏もない」とはこのことかもしれない。
 恵美も逸平も、余りにも急激に訪れた幸せが、何か不吉なことが起きる前兆ではないかと不安を抱いていたが、まさにその懸念とおりのことが起きてしまったのである。

   


   


 「青森のおばあちゃんは、今夜の寝台特急で来るって?」逸平はブラインドの隙間から外を見ていた正樹に問いかけた。
 「うん、飛行機に間に合わなかったらね。間に合ったら今夜のうちに着けるかもね。電話したのは二時ころだったっけ? お兄ちゃん」窓から離れて母の傍に来ていう。
 「ああ、確かそのくらいの時間だったかもな。オレがここに着いて直ぐだったから」博樹は自分の腕時計を見ながらいった。
 「じゃ、青森のおばあちゃんも、今夜中に着けるかもな。それまでに、お母さんの意識が戻っていればいいんだけど……」そういう正樹だけではなく皆がそのことを祈っていた。
 微動ひとつしない恵美の、人形でもあるかのような顔を見つめながら逸平は、妻へのいたわりをまったく怠っていた自分を責めつづけていた。いま、その心から千鶴への想いは消えていた。
 恵美の病室は重苦しい空気に包まれている。腕の時計を見る逸平。時間は8時45分だ。
 誰も夕食はとっていない。空腹を感じるようような余裕はない。恵美は意識不明のまま……
 一時間ほどまえ、看護師が500ccの輸血をしていった。また、胃内の出血が始まったようだから使用中の処置室が空き次第、止血処置と検査をする旨を伝えて。
 父と子どもふたりはじっと恵美の顔を見つめている。蛍光灯の色で恵美の顔は蒼白さがいっそう強調されている。ドアをノックする音がした。  「はい……」と応える逸平の声はかすれている。ドアがそっと開けられ隙間から逸平の母、和江の顔がのぞく。
 「おばあちゃん……」正樹が声を潜めていう。和江は手に大きなバッグを提げていた。
 「博ちゃんも、正ちゃんも、おりこうだったわね。なんでも出来て。電話をありがとうね……」
 「遠いところを申し訳ない……ありがとう」小さな声で逸平がいう。
 「どうなの? 恵美ちゃんの具合は……びっくりしちゃったわ、余りにも急だから……」和江は靴の音に気をつかいながら、恵美のベッドに歩く。正樹が急いで立ち上がると祖母のバッグを手にとって、部屋の隅に置く。 「ありがとう、正ちゃん」バッグを手にする正樹の頭を撫でる祖母にてれくさそうに軽く微笑んだ。
 「可哀想に、恵美ちゃん……まだ意識が戻らないんだねぇ……」和江は恵美の頬に顔をつけて話しかけるようにいう。目から涙がこぼれていた。
 「ずっと意識が戻らない……倒れてからもう10時間近くになるんだが……瞼も手足もまったく動く気配がないんだよ。先生の話では胃潰瘍による大量出血で、出血性ショックによる意識不明になっているんだって、今も出血が続いているそ……」ドアをノックする音で話をやめる。
 返事を待つことなく、主治医の堀口と二人の若い看護師が入ってきた。看護師がドアを左右に開けて広くすると、通路のストレッチャーを室内に入れる。
 「ああ、皆さん、奥さんの意識はまだ戻っていませんが、生命への心配はいりませんよ。安心してください。脳波には異常ありませんが、胃内の出血がまだ止まっていませんから、これから止血処置をします。しばらく処置室のほうへおつれしますのでご家族は、しばらくここでお待ちください。2時間もあれば終わると思います。さてと、平田君と村井君、わたしがクランケの頭部と上背部を支えるから、平田君は下背部から腰部を、村井君は大腿部から膝までを支えてくれ……電極や酸素マスクは全部……よし、外したなOK、じゃ、二人とも、手を添えて……よし、はい、ゆっくりと、静かに持ち上げるぞ!……」
 電極が外された恵美の頭部には髪を剃られた箇所が幾つも現れ、蒼白い皮膚が痛々しい。
 「クランケは右下にして寝かせてくれよ……」堀口は看護師たちに指示を与える。三人に抱きあげられた恵美は静かにストレッチャーに乗せられる。恵美がベッドから抱き上げられたとき、恵美の上腹部あたりから、タポン、タポンと器のなかの水が揺れたときのような音がした。
 「はい、静かにな、そっとだぞ……」ほりぐちはそう念をおす。堀口と看護師たちは貴重な宝物を扱っているように少しずつ、そっと動かしながら体位を右下にした。静かに毛布をかける看護師。そのときも恵美の体は何の反応も示さない。
 「じゃ、しばらくこちらで……」堀口と看護師たちは軽く頭を下げると、ドアを元に戻しストレッチャーを押して病室を出ていった。堀口も、恵美の家族も恵美が再びこの病室へ戻ることができなくなる運命にあることなど知るよしもない。
 生か死か……そのはざまを彷徨う恵美……そんな恵美を見送る家族たちにも、悪夢のようなこの悲しみと苦しみは、まだ始まったばかりなのである。主治医の堀口も、これから恵美に行なおうとしていた処置がもとになり、自分の立場、そして地位が足元から崩れ落ち、自分の進むべき道までを模索しなくてはならない、そんなどん底まで突き落とされてしまう運命が待ち構えていることなど予測もできなかったこと……人の運命は神にでもわからないに違いない。

   


 和江は黙ってベッドのシーツの乱れを直していた。いつでも、恵美が横になれるように……
 そんな和江のしぐさを逸平と子どもたちがぼんやりと見つめている。そのベッドから恵美の姿がなくなったことで、不安と寂しさが時間の経過とともに募ってきた。たとえ意識不明の状態であっても、そこからいなくなったという現実は耐えられない寂しさと苦痛になる。
 「ねえ、逸平、恵美ちゃんの容態はどうなの? まだ詳しくは聞いてなかったけど……」和江がベッドの掛け布団を丁寧に折りながらいう。目はベッドに向けたまま……
 「うん、いま恵美はここにいないから……おふくろ、博樹、正樹、ここでは本当のことを言っておきたい。さっきは、もしお母さんが意識を戻していたらと思って事実と違う話をした。一時にしろ、皆にウソをいったこと許してくれ……」
 みなの顔を見ながら、ゆっくり話し始める逸平を三人は不安と怖れに体を固くしながら、緊張したおももちで聞いている。
 「……ほんとうは胃潰瘍なんかじゃない……食道と胃、そして膵臓と肝臓もガンに侵されていたんだ。それがどれも、手のつけようがない末期のガンになっていた……きょうのお母さんの大出血は胃のガン腫が破裂したことによるらしい……さっきの堀口先生の話では、いま出血を続けている胃のガンだけは、早急に手術をするらしい。完全な止血をするために。ただ、それもお母さんが意識を戻してから……ほかの幾つかのガンの処置は胃の手術を終えてから、体力が戻ったところで改めて考えるそうだ……」逸平が説明する声は打ち据えられた重い心にもかかわらず落ち着いていた。しっかりしろ! と己れを叱咤していたからだ。
 「恵美ちゃんはガンだったの!……」和江はベッドの上を見つめて放心したような眼差しでいう。そこに恵美がまだ横たわっているかのように……
 博樹と正樹は呆然として父の顔を見ていた。
 「……堀口先生は、これほど多くの箇所に、末期にまで進行した腫瘍があっては、胃の手術が例え成功したとしても、助かる可能性は1,2%だっていっていた。余命はよくもって1-2ヶ月だろうと……胃の処置はここで行なってから、設備も医療体制も整った帝北大学付属病院へ転院する手続きをとるともいっていた。胃にあるガン以外の処置はこの大学病院が行なうらしい……」
 「お母さんは、もう助かる見込みがないの?」正樹は泣いている。頬を涙が伝っていた。
 「いや、正樹、そういうわけじゃない。手術をしてみないと、胃のほかのガンも確かな状態はつかめないだろう。ただ推測だけだ……実際の状態が推測よりよければ、生きれる可能性はずっと高くなる……検査や手術の結果を待つほかない……」
 「それなら、お母さんが死んでしまうといって悲観することなんかないよ。よかった……」博樹が安堵したような声でいう。博樹はできる限りの演技をしていた。祖母や弟の衝撃と悲観に満ちた心にたとえ少しでも希望がもてるようにしてやりたい……そのためには自分が落ち着いたふりをして、少しでもこの陰鬱な雰囲気から希望をもてる雰囲気に変えたかった。自分も正樹と同じように大声で泣き出したい気持ちを懸命にこらえて……
 そのとき、またドアをノックする音がした。 「はい、どうぞ……」逸平が応える。
 静かにドアが開けられると梨香が、足を忍ばせて入ってくる。ブルーのブラウスに白いカーディガン、それにGパンという軽装で小さなトラベルバッグ……慌てて列車に乗り込んだ様子が容易に推測できる。子どもの頃は父の逸平にそっくりだったが、今は母似の愛くるしさが目立つようになっていた。
 「あ、長崎のおばあちゃんも……あら、お母さんは、何処?」母がいないベッドを見て怪訝そうにいう梨香。タクシーを降りてからずっと、走ってきたらしく、まだ息が乱れている。
 「うん、いま処置室へ行っている。ありがとう梨香、すぐ来てくれて……」逸平はゆっくりとした口調で梨香にいう。恵美の容態について真実を皆に伝えてから、少しは自分を取り戻していた。
 「処置室なの? おばあちゃんは早かったのね、わたし、ゼミがあったものだから遅くなっちゃって……部屋に戻ったらお母さんが入院したっていう正樹の電話が留守電に入っていて……ほんとに、びっくりしたわ……」
 「ご苦労さま、梨香ちゃん……ね、梨香ちゃん、気をしっかりもって、お父さんのお話を聞いてね。まあ、ここに座って……」和江は梨香の肩に手を添え、ベッドの自分の脇に座らせた。
 「逸平、梨香ちゃんに話してあげて……」
 「梨香、お母さんが処置室へ移ってから皆に話したことなんだが……お母さんはガンだった……それも末期の……食道と胃、さらに膵臓と肝臓までガンに侵されて、どれもすべて進行しつくした、手のつけようがない状態だそうだ。きょうはそのうちの胃のガン腫が破裂して、そこから大出血して、貧血による出血性ショックを起こして意識不明になってしまった……先生の話によると今も出血が続いている胃は取り除くことで処置できるが、ほかのガンの処置はお母さんの容態がある程度安定した状態になってから改めて考えるということだった。ただ、たとえ胃の手術が成功したとしても、余命は2ヶ月ほどだろうと……」
 「そんなこと、ウソよ、ウソだわ!……お母さんの命があと、2ヶ月だなんて! ウソに決まってる!」梨香は両手で顔を覆うと声を上げて泣いた。梨香のそんな激しい言動を目にするのは初めて。逸平ばかりではなく、博樹も正樹もただ固まったままだ。
 そんな梨香の肩を祖母の和江がやさしく抱き寄せた。
 「梨香も信じられないことだと思う。お父さんも担当の先生から聞かされたとき、自分の耳を疑った。夢であってくれと願った……だが現実だった、梨香。お母さんにきょう起きた大出血は胃潰瘍から進行した大きなガン腫にあった血管が破裂したためだそうだ。今も出血が止まらないため場合によってはこれから緊急手術になるかもしれないといっていた……お母さんの意識はここへ運ばれるまえからずっと戻っていない。輸血を続けているから、もうすぐ意識は戻るはずだと先生はいっていたが……」
 そんな父の説明を梨香は、祖母に抱かれてハンカチで目を押さえながら聞いていた。博樹はうつむき、正樹はぼんやりと病室の壁を見つめている。
 「……お母さんは、明日の午前中にも帝北大学付属病院へ転院して胃の手術やその他の箇所にあるガンの応急処置をうけることになるようだ。だが、助かる見込みは1%か2%の確率だが、それに賭けて努力したいと先生はいっていた……」
 落ち着いて説明に努めてきた逸平だったが、急に涙声となり手の甲で涙をぬぐう。
 「……お母さんが、ここまでガンに侵されていたなんて……わたしがもっと早く無理にでも病院へ連れていっていたら、まだなんとかなったかも知れない……お母さんの顔色が日に日に悪くなっていったことも、ひどく痩せてきたことにも気づいていた、痛みを我慢していることにも……だけどお父さんは胃の具合が悪いのだろうと、簡単に考えてしまった……お母さんをここまで傷めてしまったことは、ぜんぶ、お父さんの責任……」
 「お父さんばかりのせいじゃないよ!……」いままで、じっと下を向いて父の話を聞いていた博樹が突然おおきな声でいった。博樹は黙って父の話を聞いていたが、母を病気にしてしまったのは自分の責任だと、己れひとりを責めていることがやるせなかった。
 「……お父さんだけの責任だなんていえないよ! オレも去年あたりから気になっいた。よく、胃のあたりを押さえて痛そうにしていた……何度かお母さんにいったんだよ、病院で一度診てもらってよ、って。だけど、お母さん、いつも、大丈夫、いつもの胃ケイレンだから心配ないわよっていっていた……オレもそれ以上いうこともなくて、おかしいな、と思いながらも見過ごしていたんだ。お父さんの責任だなんて決していえないよ……」落ち着いて、堂々とした博樹の話にみなが引きこまれていた。
 「……お母さんの病気、誰の責任だなんて決していえないよ。みんなが一緒に生活して、みんながお母さんの様子を見てきたんだ……家族みんなの責任なんだよ。みんなにお母さんをいたわる気持ちが足りなかったんだよ、なかったんじゃない、不足していたんだ、みんなに……だからといっていまさら、そんなことを議論しても始まらないよ。大事なことは、これからどうしたらいいのか、どうしたらお母さんを助けることができるかについて、みんなで考えることが、いまオレたちにいちばん大切なことじゃないかな……そうじゃない? そう思わない?」
 理論整然とした博樹の話に、逸平たちはみな、博樹の顔を見つめたままだった。まだ高校生で子どもが少し成長した程度に思っていたが、博樹のその考え方は、父の逸平を超越した冷静、且つ正確な論理だった。
 「ほんとだわ……博ちゃんのいうとおり。よく言ってくれた。おばあちゃん、感心しちゃった……確かに、今までを反省することは大事なことだけど、もっと大事なことは、反省をこれからの行動に取り入れて最善の方策を練ることよ。恵美ちゃんがここへ帰ってきて、そして意識をとり戻したときに、どのように接するべきか、また恵美ちゃんを助ける方法が、今の医学以外にないものか、もしあるとしたら、そのことについて具体的に調べることも必要なのよ。今の状態に悲観してただ、クヨクヨするのではなくて、この逆境を乗り越える行動が何より大事だわ。明日、大学病院へ転院することになったときのこともいろいろ打ち合わせておかないと……逸平、しっかりしてよ……」和江は息子の逸平を見ながら諭すようにいう。
 「これから、会社へ電話をしてくる」逸平は権藤専務に今の状況を報告するため、1階にある電話室へ歩く。続けて千鶴のアパートにも電話するが“この電話は現在使われていません”という合成音が流れてくる。何回かけてもつながらないことに逸平は頭をかしげながら病室へ向かう。

   


   


 救急患者用の処置室と違って、入院患者用の処置室は本館2階の中央部分にある。処置室が3つ並んでいるが、第3処置室と記された両開き扉の上には「処置中」という赤い表示灯が点灯していた。そこの通路を通る人は誰もいない。
 処置室のなかには2台の手術台があり、その一つに恵美が横向きに寝かされている。処置室の天井から周囲の壁一面に、大小、色とりどりの花や小鳥、山の風景などが、ごく自然のかたちに配置されていた。患者の緊張をやわらげるための気配りだろう。各台の上には手術室と同じような無影燈が固定されている。その灯りが恵美の横顔を照らしていた。蛍光灯の光りとは違う温かい光りを浴びて血色が戻ったかのように感じられる。
 恵美の体の至るところに電極がおかれ、そこからの長いコードが壁側に並んださまざまなモニター装置とつながっている。さらに何本もの輸液チューブが人形のようにまったく動きがない体に繋がれているのをみていると何か怪奇映画の1シーンを見ているようだ。
 「沢田君、動脈圧はどうなってる?」堀口がモニター監視担当の看護師にきく。
 「はい、最高圧71、最低圧38です」
 「71か……低すぎるな。動脈内カニューラの凝結はないと思うが、念のため加圧バッグでバリン食塩水を200cc注入してくれ」
 「はい、バリン食塩水200ccを注入します……はい、完了しました。カニューラ通過に異常はありません」
 「OK、ありがとう。トランスデューサーには、当然異常はないことだし……ああ、それなのに、それなのに……」堀口は冗談をまじえながら経過の推測をしている。
 「搬送されてきてから、2000ccの輸血と、リンゲル500ccを輸液したんだが、一向に血圧が上昇しないな。吸引血液が1000ccだから、このクランケ、自分の血液をすべて失血している。あと2000ccの輸血とリンゲルの輸液が必要だな、沢田君……」
 「はい、なんでした?」機器の表示数値をカルテに記入していた沢田が応えた。
 「うん、O型血液2000cc、それから乳酸化リンゲル500ccをもってきてくれ。それから、麻酔科の当直医を誰でもいいから一人よこしてもらうよう、連絡してくれ」
 「はい、O型血液2000cc、乳酸化リンゲル500cc、それから麻酔科の先生、一名の応援要請ですね?」
 「そうだ、たのんだぞ……」 「わかりました」と返事をすると、看護師の沢田は小走りに処置室を出ていく。それから5,6分ほど後、看護師が血液とリンゲル液を金属製のトレイにいれて入ってきた。「先生、交叉試験をしておいたほうがいいでしょうね?」トレイをもったまま沢田は堀口の指示を待つ。
 「うん、そうだな。頼む、採血は足の甲からやってくれ。輸血開始はもうちょい後だ……」
 「わかりました、すぐ採血を始めます」
 それからすぐ後、麻酔医の城之内が処置室へ入ってきた。まだ30歳を少し過ぎたあたりだろうか、小麦色に日焼けした顔や腕、さらに2メートル近い背丈は、短く刈り上げた髪とあいまって医師というよりバスケットの選手を思わせる。
 「先生、遅くなりました、検査麻酔ですか?」
 「あ、城之内君、急なことを頼んですまんな。このクランケ、ストマキャンサーなんだ。ステージは4……」内視鏡を調節しながら堀口は、城之内を見上げて説明する。
 「……救急搬送時から吐血による出血多量で、ずっと意識不明のままだ。これから胃内視をするんだが、万一、検査中に意識が戻ることがあると苦痛を与えることになりそうだから、短時間の全麻酔を頼みたいんだよ……」
 「わかりました、麻酔時間はどのくらいに……」
 「うん、15分でいいでしょう。ガス麻酔までは必要ないから、ケミタールの静注がどうかと思うんだけど、どうだろう」
 「ええ、いいでしょうね、そうしましょう。15分の短麻酔なら、このクランケの体重からいくと……0.5単位でいいでしょうね」
 「ああ、バッチシだね。頼みます。先にドロペリドールを静注しておきます……」
 「了解しました。お願いします」城之内はそういうと白衣のポケットから鍵束を出して劇薬収納棚に向かう。頑丈そうな扉を鍵で開けると、赤ランプが点灯し「劇薬」と表示されキーボックスに何桁かの暗証番号を打ち込む。ポーンという電子音とともに扉上部の赤ランプが緑に変った。
 両開き扉を引くと、きれいに整理された棚から紫色の箱をだし一本のアンプルを手にとる。
 保管箱下の劇薬入出庫簿を出すと項目を記入する。そうしながら城之内は堀口にいった。
 「堀口先生、いつも思うことなんですが、ここの劇薬出庫処理は、何んとかならんものでしょうかね。扉は精巧な電子処理なのに出庫処理は手動とは……まったく電子装置の扉が泣きますよ」
 そういいながら帳簿に印鑑を押し、扉閉めの確認呼称をする。
 「……扉の施錠よし……ロック確認、よし」一つ、一つ指差しをして確認した。
 「あんたのいうとおりだよ城之内君、だけどな、コンピュータ処理にするだけで全処置室での工事費が1億円以上かかってしまうらしいよ見積もりでは……以前、専務理事がいっていた。ずっと前に、わたしも君と同じ考えをもって進言したことがあるんだ。そういう現実から考えて、コンピュータ化は当分だめだよ……」堀口は集中監視システムの画面をみながらいう。
 それからしばらく後、城之内は患者への麻酔処理を終わった。
 「堀口先生、5分後には麻酔効果が現れます。15分は持続しますが、もし時間が延長するようでしたら麻酔科医局へお電話ください。わたしは当直でずっと医局にいますから……」
 「やあ、ありがとう、そのときはまたよろしく」そういいながら胃カメラがのケーブル調整をまだ続けながら堀口が軽く手を挙げる。
 「堀口先生、11時になりましたから、もうすぐわたし深夜勤務の人と交替します。代わりに准看護師の松川由美さんが来ます。それから交叉試験は異常ありません。輸血用O型血液2000ccと乳酸化リンゲル500ccは血液保存ボックスに入っています」
 「沢田君、もう交替時間か、ご苦労さまでした」ほぼ同時に処置室ドアにノック音がした。
 「はい、入って……」胃カメラとモニター画面の調整をしながら大きな声でいう。
 「遅くなりました、松川です。よろしくお願いします」堀口と沢田に松川は頭を下げた。色白の顔に浮かぶ愛らしい笑顔が初々しい。
 「やあ、ご苦労さま。こちらこそ、よろしく。こんな時間からの勤務では、ゆっくりデートも出来んな、松川君」機嫌よく松川に声をかける堀口。20歳になったかならないような若い看護師と仕事をすることで、堀口は仕事の疲れが幾分軽くなりそうに思えた。
 沢田は処置室業務日誌で、松川と業務引継ぎチェックをしている。そんな二人の声を聞き流しながら、堀口は患者の経鼻ゾンデをそっと、ゆっくり引き抜いていた。傷ついている食道や胃をそっといたわるように……処置台に横たわる患者は全身麻酔のもとにあり微動だにしない。
 恵美はいつになったら意識を戻してくれるのだろう……
 「じゃ、先生、わたし、これで失礼します。松川さんへの業務引継ぎは完了しています。業務日誌へのサイン、お願いします」沢田は青い表紙のファイルを開いて堀口に渡す。
 「ほいよ……」項目別に確認していき、診察着のポケットから印鑑を取り出すと捺印する。カチャと回転する音がした。
 「堀口先生、先生の印鑑、ずいぶんクラシックな印鑑ですね」沢田が感心していう。
 「ああ、めずらしいだろう、これはな……おっと、こんな話をしていては、クランケの麻酔がきれてしまうよ、はい、沢田君、お疲れさまでした」
 沢田は頭を下げて業務日誌を受け取ると松川に渡す。
 「はい、じゃ、失礼します。由美ちゃん、あとお願いね……」松川の肩に軽く手を当て、沢田は処置室を出ていった。これが松川由美を見る最期になることなど分かるはずもなかった……
 「松川君、開口リング……」
 「はい、開口リングです」松川は脇の殺菌箱から楕円形の金属器を鉗子で取り出し、プレートに移して堀口に渡す。
 「ありがとう」堀口は直ぐ、受け取ったリングについているハンドルを回して扁平にして、患者の口内にいれ、またハンドルを回すと器具は円形になり口が大きく開けられた。
 右下の姿勢で横たわる恵美の口を堀口は体を傾けて覗き込む。
 「よし、これでOK……」強い光を放っている小指よりも小さなカメラを手にすると、モニター画面を見ながらケーブルをゆっくりと、また慎重に挿入していく。意識がない恵美には相変わらずまったく反応がない。集中監視システムの青いディスプレイ上にあらわれる、リアルタイムの脳波グラフ、心電図グラフ、呼吸、血圧、脈拍などだけが、恵美の体に命が存在していることを証明しているだけ…… 処置室の時計は11時26分を指していた。

   


(つづく)