長編小説 霧のなかの巨塔  第2回

   第一章 奈   落

  ■見えない糸①

 それは4月の始め、桜の花が散りはじめた暖かい夜のことである。
 千鶴との愛のひとときを過ごし、逸平が帰宅したのはもう午前零時を少し過ぎていた。
「ただいま……」恵美の返事がない……玄関のドアを開けた逸平は、いつも出迎えてくれる恵美が出てこないことに、いいようのない不安を感じる。
……ひょっとすると、千鶴のことが……? まさか、そんな筈はない……! また、正樹が暴れて恵美がケガをして倒れているんじゃないのか……? 逸平の脳裏に恵美が正樹に蹴られている情景が浮かぶ。正樹の暴力が前に増してひどくなっているらしいことは、恵美の顔色や体の痣から推測することができた。
……博樹はどうしているんだ……? 母親が倒れていることに気づかないのか……? 恵美は何処にいるんだ……? 恐怖と不安で逸平の心臓は高鳴っていた。
 逸平は居間へ急ぐ。部屋の灯りはついたままだ。廊下側のドアの前に立ったとき一瞬、頭の奥に強烈な痛みが走ったように思えた。木製ではあったが、丈夫な杉の一枚板を使ったドアが内側から破られていた。こぶし程もある大きな穴が二ケ所にあけられ、ささくれ立った木材が外側へはみだしている。ドアノブもガタガタになっていて開けようと押しても開かない。ノブのツメが何処かに引っかかっているらしい。
「恵美……! 恵美はいるのか……?」叫ぶように逸平は妻の名をいうが返事はない。
 ドアに体当たりすると、ガリッという音とともにドアが開く。力余った逸平はたたらを踏みながら部屋に入った。
「どうなってんだ、これは……!」思わず声が出てしまう。部屋のなかは足の踏み場もないほど荒らされていた。部屋全体に敷かれた淡い紺色のカーペット上に、本棚にあった世界百科辞典と文学全集が全部、投げつけられたのだろう、部屋いっぱいに散乱している。隅のほうには、恵美が結婚前から大切にしていた博多人形がケースから出されて放り出されていた。頸は折られて飛び、少し離れた所で横顔を見せて転がっている。テレビの上にあった花瓶は下に落ち、生けてあったバラが花ビラをカーペットの上に散らしていた。カーペットは花瓶の水を吸い黒くなっている。赤い花ビラは、あたかも飛び散った鮮血を連想させた。
 出窓のガラスが一枚割れ、正樹がいつも素振りに使っていた金属バットが割れたガラスから、頭を少し外に出して台上に乗っていた。
……やはり正樹がまた暴れたんだ……! どうして、ここまでするんだ……恵美は何処に……?
 逸平は逃げるように、そのいまわしい部屋を出た。廊下に出ると奥の部屋、キッチンの灯りが目にはいる。ドアは閉まっていた。逸平は不吉な予感を感じながらドアをそっと開ける。
 足もとにはコーヒーポットが転がっていた。
 部屋の隅の冷蔵庫にもたれ、膝に頭をつけて恵美がうずくまっている。
「あ、あなた……お帰りなさい……」頭を上げていう恵美の声は細くかすれていた。
「どうしたんだ、恵美、これは……! 正樹のヤツ、なんで、これほどまで……!」
 キッチンの床にはグラスや皿、茶碗の破片が散乱し、木目模様の壁には黒いソースが流れていた。 壁を伝ったソースが床に溜まっている。流し台のなかにはトースターが投げ込まれていた。
「正樹の机の引き出しを勝手に開けたといって……私を殴って、蹴って……それだけじゃないの……あの、おとなしかった博樹が怒って正樹を……」
 床に溜まったソースを見ながら恵美がつぶやくようにいう。手を胃のあたりに置き、痛みをこらえているのか顔は蒼白だ。目はうつろで光を失くしていた。

   


 その日の夜も、夕食の準備ができた恵美は、いつものように階段下から二階にいるはずの二人の子供の名前を呼んだ。長女の梨香は名古屋の大学にいるため家にはいない。
「博ちゃん、正ちゃん、ごはんよ……」
「おーう……」博樹の返事は聞こえるが正樹の声はない。いつものことだが、普段の夕食は博樹と恵美の二人だけ。正樹は自分の分だけを取ると、それをもって自分の部屋に上がり、食べ終わった食器類はドアの外の廊下に出していた。逸平はいつも外食で夕食を家で共にすることはまずない。
 こんな不自然な状態がもう何年も続いていた。正樹も一緒に食事をと願っていた恵美だが、今は作った食事を食べてくれるだけでいいと思うようになっていた。そうとでも考えないと、余りにも悲しく寂しいことである。今夜もまだ正樹は下りてこない。
「博ちゃん、正ちゃんはいないのかしら……?」
「正樹か……そういえば、部屋に人の気配はなかったよ……」
 テレビのチャンネルを変えながら博樹が答える。
「あら、何処かへ行ってるのかしら。ちょっと見てくるわね……」正樹の部屋は二階の手前にある。「正ちゃん……?」ドアをノックして呼ぶが返事はない。また、たとえ居たとしても返事をするような正樹ではなかったが……
 恵美はそっとドアを開けてみる。やはり正樹はいなかった。
 部屋のライトをつける。室内の乱雑さは目を覆いたくなるほどだ。机の上にはコミック本、教科書やノート、参考書、週刊誌などが無造作に積み重ねられ、机上の本立てには殆ど何もない。床のカーペット上には様々なものが散乱して足の踏み場もない。
 夕食後に後かたづけをするつもりで恵美は正樹の部屋を出る。以前は正樹の部屋に入るだけで、勝手に入ったといって恵美に暴力をふるっていた正樹だったが、今は見るにみかねて掃除に入るには文句をいわなくなっていた。
 博樹と二人だけの夕食。恵美はまた胃のあたりに疼くような痛みを感じていた。最近は痛みを感じるときが多くなっている。
……いつから、わたしは胃が弱くなってしまったのかしら……きっと、正樹のことで悩んでいるからだわ。ストレスは胃の働きに大きな悪影響を与えるって、まえにテレビでいっていた……わたし、もっと開き直らないと……そんなことを考えながら恵美は卓上の箸を手にする。
 ほんのひと口だけで茶碗を置く恵美。今までにない激しい胃の痛みに襲われていた。無意識のうちに前かがみなってテーブルに片手をつく。
「お母さん、どうしたの…? 胃が痛むの……?」博樹が母の様子に気づき心配そうに訊く。
「ううん、大丈夫だわ……お母さんのいつもの胃痙攣なの。すぐ収まるから……」周期的に襲われる激痛をこらえながら恵美は笑顔をつくる。
「そんならいいけど……お母さん、最近少し痩せたみたいだしな、気をつけてよ、無理をしないようにして……」
「ありがとう、博ちゃん、大丈夫よ。お母さんはもともと元気なんだから……」母を気づかってくれる博樹が嬉しかった。恵美の目がうるむ。
 博樹は11月に予定されている修学旅行の話をきかせる。博樹と話をしているうちに、恵美の痛みは少しずつ薄れていった。
「早く、11月にならないかな。さてと、ごちそうさま……」博樹は両手を合わせると立ち上がる。「はーい、おそまつさま……」努めて明るく振る舞う恵美。せめて博樹と一緒のときくらい、明るく元気な自分を装いたかった。母を慕ってくれる博樹の存在は、四面楚歌ともいえるような苦しみの渦中にある恵美にとって大きなやすらぎであり支えでもあった。
 長女の梨香は勝ち気で積極的、次男の正樹は我がままで、家庭内暴力に終始しているのに対し、長男の博樹は幼少の頃からおとなしく、学校の成績も上位、反抗期も少々無口になった他はこれといってなく今に至っている。博樹は二年ほど前から自分を鍛えるためだといって、少し離れた所にある合気道の道場へ夜になると通っているが、最近はときどき行っているだけだ。
 恵美の目から見る限りでは武術を始めてから、博樹のなかに何処となく厳しさが生まれたように思えた。そんな博樹ではあったが、正樹が母に暴力をふるっていても、見て見ぬふりをするのがつね、兄として正樹を諫めることは一度としてなかった。そんな博樹を『フヌケ』といってバカにしている正樹だ。姉の梨香がいるときには、鶴の一声というか叱りつけられると、さっと自分の部屋へ逃げ込む。姉の梨香には歯が立たない正樹だが、その姉は名古屋にいる。
 父親の逸平はまったく存在感はない。父親のほうが正樹を避けていることを、はっきり知っていたからである。今の家庭では正樹に怖い人間はいなかった。そんな事情が正樹を一層に増長させる原因になっていたのかもしれない。
 正樹の暴力をやめさせることはないが、母親を慕い気づかってくれる博樹が恵美は可愛くてたまらない。結果から生じたこととはいえ、そんな博樹への愛が正樹の心を一層に波立たせ、固く閉じさせていることに恵美はまだ気づいていない。もちろん、正樹に冷たく当たることなどあろう筈がない。 いつも優しく手をさしのべているのだが、正樹が一方的に拒否し続けているだけなのだが……
 母に対する反抗や暴力が最愛である母への歪んだ甘えの表現であることを、恵美は感じとることができなかった。理由を理解できない恵美には、自分への憎しみの行動だと考えていた。
 正樹の歪んだ心理にもっと早く気づき、逸平も逃げることなく正樹へ父としての愛情をそそいでいたら、恵美と逸平の人生はまた変わった方向へ進んでいたことだろう。

   


 夕食の片づけを終わった恵美は正樹の部屋の掃除を始める。机の上を整理しながら、ふと机の引き出しを開けた恵美は、そこにタバコの箱をみつけた。外国産が二つ、国産のものが一つ……箱を開けてみるとどれも半分ほどが残っている。正樹に問いただすことを一度は躊躇したが、これからのことを考えるとき、たとえ殴られても蹴られても、母親として正すべきだと心に決め、急いで掃除を終えると部屋を出る。ちょうど玄関の鳩時計が9時を知らせていた。
 正樹が帰ってきたのはそれから間もなく。キッチンを覗くと黙って階段の方へ歩きかける。
「正ちゃん、お帰りなさい、ご飯は……?」正樹の返事はない。
「ちょっと待って、正ちゃん……」イスから立ち上がり呼び止める。
 ジーパンの後ポケットに両手を突っ込んだまま、正樹が恵美の前に来る。目は壁の方に向け、母親の顔を見ようとしない。
「なぁんだよ、うるせぇヤツだな……!」
「正ちゃんに、ちょっと訊きたいんだけど……」恵美は恐怖を押し殺し努めて笑顔をつくりいった。「なーんだよ、さっさと言えよ……!」正樹は母を睨みつけながら吐き捨てるようにいう。
「あの、引き出しのタバコ、どうし……」立っていた正樹が吠えるような声で母親の言葉を遮った。「おーい、何を持っていようがオレの勝手じゃ……! 親づらしやがって、オレに説教する気か、バカヤロー……! なぁんで、オレの部屋をやさがしするんじゃ……!」正樹の口からツバが飛ぶ。顔は怒りで引きつっている。
 恵美の体を今までになかった恐怖が走る。しかし、ここまで至ったからには言うべきことは言っておかねばならない。
「なんでって……あんなに散らかっているんだもの、少し片づけないと……」
「誰が片づけろと言った……! ちょっと大人しくしているとつけ上がりやがって、このど阿呆…! ぶっ殺したろか……!」大きな声で恵美に罵声を浴びせていたが、突然、テーブル上のソース入れを掴むと、力まかせに壁へ投げつけた。容器が割れて壁や周囲にソースが飛び散る。今度はトースターを恵美に投げつけるが、体をかわしたため恵美の肩をかすめて大きな音をたてて流し台の中に落ちた。大きな音に正樹はますます興奮の度が高まったようだ。
「ここから出て行け、くそババァ……!」大声を出しながら食器棚へ向かうと乱暴に引き戸を開け、きれいに揃えて積んであった皿、小鉢、グラス、ティカップなどを両手でさらうようにして床へ落とす。バリン…! ガシャン…! ガチャガチャン…! 食器が激しい音をたてて砕ける。
 正樹の行動は狂気そのものだった。
「正樹、やめなさい……!」恵美はたまりかねて正樹の腕を掴んでやめさせようとする。正樹はその手を振り払うと、恵美の脇腹を拳で激しく突き上げた。
 "グェッ"というような動物的な声を出して恵美は床に膝をつく。顔は蒼白、苦痛に歪んでいる。
「殺したろうと言うたじゃろう、くそババァ、ほんまに殺したるで……!」正樹の目は引きつり、口の端からはヨダレが垂れていた。正に狂人そのものの姿だ。
 床に両手をついている恵美の下腹を今度は右足で蹴り上げる。”ウーッ……クーッ" 苦痛の呻きを上げ恵美はうつ伏せに倒れ込んだ。正樹はその母の背中を幾度も踏みつける。その顔には、うすら笑いが浮かんでいた。
 ただならぬ物音と気配に、二階から博樹が駆け下りてきた。これまで正樹が暴力をふるっている場には一度として顔を出さなかった博樹が。
「このバカもの……! お母さんに何をやってんだ、大ケガでもしたらどうする気だ……!」思いもしなかった博樹の一喝に、一瞬たじろいだ正樹だが、感情の高ぶりで自分を制することができない。「なんだとぉ、このフヌケ野郎……! てめぇも一緒にやったろうか……!」母親の背中に足を乗せたまま、正樹は兄の博樹にまで罵声を浴びせた。恵美は気を失っているのかまったく動かない。
 母を踏みつけている正樹に、これまで冷静さを保ってきた博樹だが、怒りが爆発する。
「おう正樹、オレとやろうってぇいうのか…? おもしれぇ、やったろうじゃないか…! 今まて゛弟にだけは手を出さないようにと我慢してきたが、きょうは許さん。ダテや酔狂で合気道をやってきたんじゃない……!」博樹は正樹を見据えながら、室内のテーブルやイスを廊下に出し、冷蔵庫もコンセントを抜くと、流し台横の邪魔にならない場所へ移す。正樹はそんな兄を唖然と見ていた。
 倒れた母の背中から足はのけられている。
「このオレをフヌケ野郎とはよく言ってくれたな……! どれほどフヌケか、これから教えてやろうじゃないか。お母さん、ちょっとこちらにどいていて。すぐ決着がつくから……」博樹はそう母に話しかけながら、抱きかかえると廊下へそっと移す。

   


……合気道…? そういえば中学のときから柔道着を持って通っていたな。しかし、このオレに勝てる気なのか……? オレだって柔道の手を一つや二つ心得ているんだ。この弱虫博樹が生意気に……冗談じゃねぇや。よし、今度は博樹をやっつけてやる、泣きっつらをかくなよ、バカ博樹め……

   


 正樹はたかをくくっていた。博樹の合気道など、とるにたらないものと……
「さぁ、来い……!」博樹は周囲の空間を確かめると、左足を少し引いて構える。左拳は腰の辺りに右手は半ば開いた形で胸の前に置かれていた。怒りに燃えた目が正樹を見据えている。
 そのとき、廊下に横たえられていた恵美が弱々しい声で訴えるように博樹にいう。
「博ちゃん、やめて……お母さんが悪かったの。もうこれ以上なに……」体の痛みで声が続かない。「心配いらないよ、お母さん。今のこいつには怖い人間が必要なんだ。前からそれは分かっていたんだけど、弟に自分の技を使うことがイヤで我慢してきたんだ。でも、このまま正樹をほっておくと増長して、そのうち、とんでもないことが起きるような気がするんだよ。お母さん、きょうはオレ、もう我慢ができない……正樹に引導をわたしておく。大丈夫だよ、忘れられないような痛みを少し与えるだけだから、みせしめに……だから、もう何も言わないで……」話している間も正樹から目を離そうとしない博樹。その言葉には恵美や正樹が初めて感じる気迫と自信が満ちていた。
 これまでの博樹とはまったくの別人に変わっている。この博樹の豹変が恵美と正樹には理解ができなかった。想像もつかなかったことである。恵美は這いながら廊下の隅に身を移す。
「さぁ、早く来いや……! どんなにフヌケ男か教えてやるぜ……」博樹の目からは表現しようのない相手を金縛りにするような光が放たれているように正樹は感じた。何か言いかえそうとするが口が引きつったようになり言葉が出てこない。
……なんということだ、この博樹の目の光は……! こんな博樹を見るのは初めてだ。いったい、どうなってんだ……これが、あの博樹か……? オレはいま夢を見ているのか……? いや、違う。何がなんだか分からん……」正樹は今すぐ、ここから逃げ出したい衝動にかられていた。しかし、一方では博樹に負けることなど絶対にないという自信も消えてはいない。
"博樹の構えはかっこうだけに違いない" そう思う半面で、正樹はもう博樹とやりあう気は失せていた。失せたというより、博樹の気迫にのみこまれ恐怖感にとらわれたのだ。正樹の全身は鳥肌だっていた。博樹の脇をすりぬけるようにして正樹は廊下に出る。無言で……
「どうした、おい、おじけづいたのか正樹……!」博樹は廊下に出ようとする正樹の背に低い声でいう。構えはまだ緩めていない。
 正樹はちょっと振り向いたが何もいわず廊下へ出ていく。肩をいからせた歩き方で。
 廊下に横たわっていた恵美は起き上がろうとするが苦痛に顔が歪む。博樹が驚いて駆け寄って救け起こした。そうしながらも、博樹の目は未だ正樹が立ち去った階段の方向を見つめている。
「お母さん、何処が痛いの……? 立ち上がれる……?」博樹は母の背から脇に手をかけて立ち上がらせる。母の様子を気づかうその声やものごしは、いつもの優しい博樹に戻っていた。
「ありがとう、博ちゃん、もう大丈夫だわ……ねぇ、お願いだから兄弟で争う様なことは止めてちょうだい。お願い……これはお母さんが悪かったことなの。正ちゃんの留守に机の引き出しを勝手に開けてしまったんだもの……正ちゃんが怒るのも無理ないわ。だから、正ちゃんをもう許してやって……」博樹が戻したイスに座り恵美は苦しそうに肩で息をしていた。目を閉じたまま喘ぐような声だ
 タバコのことは口にしなかった。博樹に話すことでまた正樹が怒るような気がしたから。
「胸を殴られたの……? だいぶ痛むみたいだね、ちょっと冷やしてみようか……」母の顔をのぞき込むようにしていう。
「ううん、大丈夫、さっきより大分楽になったわ。ごめんね、心配をかけて……」恵美の目から涙がこぼれ頬を伝う。博樹の優しさに自分の惨めさが胸の奥から込み上げてきたのだ。母の涙を見た博樹は、ふたたび正樹への怒りが燃え上がる。

   


 今日こそ、正樹に引導を渡しておかないと……このままではヤツは、ますますつけ上がる。お母さんが可哀相だ……二度とお母さんに手を出せないようにしてやる…… 正樹め……!

   


「お母さん、テーブルと残ったイスをもとに戻すね……」博樹はイスやテーブルを手早く戻し、母の隣りのイスに座る。
「ねぇ、お母さん、正樹に訊いたのはタバコのことでしょ……? オレの勘だけど。正樹がタバコをもっていること、オレも知っているんだ。でも、あのタバコ、正樹はぜんぜん吸っていないみたいだよ。友達に格好づけるために見せびらかして、ちょっとイカレたヤツらにやっているみたい……」
「博ちゃんが知ってたなんて、どうして……?」テーブルに伏せた顔を少し上げていう恵美。どうにか声が出るといった囁くような声だ。
「去年の暮れ頃だったかな、オレの部屋に応接間の灰皿を持って来てさ、"博樹、タバコやる…?"っていうんだ。そんなもの、いるかってオレはいったんだけどね、正樹は"そうだろうな、こんなもの吸えるようなもんじゃないよ。一度吸ってこりごりだよ。これはみんなダチにやるんだ。オレの株が上がるからな"っていっていた……だから、お母さん、タバコのことは心配いらないよ」母に話しをしながらも階段のほうに注意を払う博樹。
「ほんと……? そうならいいけど。お母さん、びっくりしちゃって……どんなに殴られても、注意だけはしておかなくちゃと思って……」
「心配いらないよ、お母さん。いまからタバコに溺れるようなバカじゃないよ正樹は。でも、正樹はいま完全に舞い上がっている……怖いものなしで、つけ上がっているんだよ。このままにしておいたら、もっと大変なことになるよ……きょうのことだって、お母さんは何も悪くないよ。正樹のいいがかりなんだ……このままにしておいては大変なことになる。お母さん、オレ決めたんだ。これ以上、正樹をのさばらせないってね。叱ることの出来る立場にあるお父さんは、正樹から逃げている。まぁその気持ちは分からんじゃないけどね……」いま話をしている博樹の声に、恵美は長崎にいる義父の源吾が話しているような錯覚を感じていた。
 きょうの博樹は、今までの博樹とは別人になっている。さっきの正樹に対する気迫、そしてまた母に聞かせる話、それはあの優しさだけが取りえだと思っていた博樹ではなかった。
 父親を凌ぐ逞しい気力に初めて気づく恵美。そんな博樹の話を聞くとき、九州男児であることに誇りをもち、間違ったことには断固として妥協しない義父、源吾を思い起こしたのも当然だろう。
「……お父さんの気持ちもある程度は分かるよ。あいつが子供の頃から、お父さんはほとんど外国にいた。そのためにお互い、父親と子供という家族意識が薄れてしまっているんだ……お父さんは自分には正樹を叱る権利がないと勝手に思い込んでいる。そういう意識を見抜いた正樹はお山の大将を自負している……お父さんをなめているんだよ。オレも今まで見て見ぬふりをしていた……お父さんのことを批判する権利はないかもしれない。今までも、正樹に引導を渡すことを何度も考えた……でも自分が身につけてきた武術を弟に使うことだけは出来なかった……だけど、もう今となっては、そんなことで躊躇しているときではないと思うんだ、お母さん、正樹にブレーキをかけることが出来る人間が必要なんだよ、この家に……そうじゃない……?」今の状況をよく把握している博樹の話を、恵美は驚嘆の気持ちで聞いていた。自分が思っている父、逸平の弱点まで見抜いていたとは……だが恵美は逸平が正樹から逃げていることは事実だったが、それを博樹に肯定することはできない。
 そんな逸平であってほしくなかったし、そんな父親であると子供に思わせたくなかった。
「博ちゃんには、そう見えるかもしれないわね、お父さんのこと……たしかに正ちゃんにブレーキをかけられる人は今いないわ。お父さんが何も注意しないのは正ちゃんを避けているように映るけど、本当は違うの……お父さんにお願いしてるの。そっとしておいてやってって。正樹の暴力は私への甘えの現れなんだから、もし叱ったりしたら、私がチクッたといって余計に暴れるでしょ……? そういう訳で、お父さんは叱りたくても、じっと我慢してくれているの……」恵美はウソをいっていた。 少しでも父親としての"権限"を残しておきたいばかりに……
 そんな母の言葉が父をかばうウソであることは博樹に分かっていたが、それはどうでもいいこと。「そうだったんか……てっきり、お父さんは逃げ腰になっているとばかり思っていた。お母さんが止めていたのか……これはオレの誤解だった……」母の手を握りながら笑顔でいう。
「……でもねお母さん、オレ、今日というきょうは正樹を許しておけないんだ。正樹の態度次第では少々痛い思いをさせることになると思う……もちろん、ひどいことはしないから、お母さん、心配しないで。今までは弟に自分の技を使うことは絶対にしないと心に決めていたんだけど、もう我慢ができない。オレに挑戦してきたこともあるしね……」そのとき、正樹が二階から下りてくる音がした。 ゴツン、ゴツンと何か固いもので階段の一段、一段を叩きながら……
「お母さん、ちょっと待ってて。正樹が何かを持って下りてきたから。様子を見てくる……」
 正樹の手には金属バットが握られていた。
「オイ、正樹、こんな時間から素振りの練習か……?」咎める強い口調でいう。
「…………」正樹はチラッと博樹を見るが無言で居間に入る。大きな音をたてドアが閉まった。
「正樹のヤツ、今度は居間にお籠もりだ……金属バットを持ってね。また何をする気なんだろう……」キッチンのイスに座る母に状況を説明する博樹。
「博ちゃん、お願い、喧嘩はしないで……正ちゃんはいま気が立っているから、何も言わないほうが……」恵美が苦しそうな声でいう。
「大丈夫、心配しないで……」博樹は居間の様子に耳をそばだてている。何かを投げつけている音が聞こえてきた。ドーン、バサッ、バサッ……重みのある本が投げられているようだ。中腰になって居間の様子を窺っているとき、バーン、バリバリッ、バーン……耳が痛くなるような音がした。
 キッチンから博樹が駆けつけたときには、ドアの二カ所に内側から孔が開けられていた。外側にはささくれだった木材がはみだしている。今は室内から物音はしない。
 開いている孔から中を覗くと部屋の右端に正樹が立っていた。本棚から落とされた百科事典を足の下に踏みしいたまま…… ドアノブを回してみるがガタガタになっていてドアは開かない。
「おい、正樹、ここを開けろ……!」博樹は低い声でいう。正樹の返事はないしドアも開かない。
ドーン……博樹が足でドアを蹴った。ガリッという音がしてドアは勢いよく内側に開く。
 立っていた正樹は驚いたように博樹をみたが、不敵な薄笑いを浮かべる。相変わらず博樹に対して挑戦的な態度をとり続けていた。
 カーペットの上には本棚にあった百科事典や文学全集が散乱している。花瓶の花も投げられ花ビラや茎が本やカーペットの上に散っていた。
「どういうことをするんだ、貴様は……この家をぶっ壊すつもりか……! きょうは覚悟しろよ、正樹。いつまでも調子づかせてはおかない……!」博樹の声は大きな声ではなかったが、正樹を威嚇するには十分だった。正樹を見据える目は怒りに燃えている。
 正樹は足下のバットを片手に掴み上げ博樹を見た。引きつったような薄笑いは消えていない。
「フヌケ野郎め、また来やがったか……オレに説教しに来たんか……? えらそうに。ええ加減にしとかんと、てめえも痛い目にあうぞ……!」わめくような声でいう正樹だ。
 博樹を睨みつけていた正樹がバットを両手に握ると、斜めに振りかぶり博樹に襲いかかった。
 もし、博樹に当たったら死ぬことにもなりかねない勢いで……!
 しかし、バットは博樹の体をかすりもしなかった。
 バットを握る正樹の右腕が博樹に掴まれた瞬間、正樹の体は逆さまになって宙に浮き、散乱した百科事典の上に仰向けになって叩きつけられていた。釣り下げられていた蛍光灯に、正樹の足が当たったのだろう、大きく円を描くように揺れている。バットは出窓まで飛ばされ、下側のガラスを割って台上に止まっていた。
 カーペット上に叩きつけられた正樹の右腕は既に空中で逆手に捻じあげられている……激痛に呻く正樹。そんな正樹の顔に左手で平手打ちを重ねる。博樹の顔は怒りで紅潮していた。
「どうだ、痛いだろう……オレのフヌケ具合が分かったか、ええ、オイ……!」
 博樹は捻じ上げた正樹の腕に力を加える。
「痛い……痛いよ……! 分かった、わかったよ……」痛みに顔を左右に振りながら悲鳴を上げる。「これから、お母さんに手を出してみろ、お母さんは許しても、オレは絶対に許さない……! ものを壊すことも同じだ。今度やったとき、貴様の腕をへし折ってやる、いいな……!」更に強く腕を捻じ上げる博樹。片膝をついた博樹には、いいようのない殺気が漂っていた。
「お兄ちゃん、わかったよ、痛いよ……離してよ……」呻きながら懇願する正樹。正樹の口から"お兄ちゃん"という言葉が出たのはここ数年なかったこと。正樹は心身ともに完全に打ちのめされていた。つい先ほどまでのような高慢さや凶暴さも消えていた。
 痛みのためか、叩きつけられたショックのためか、正樹の顔からは血の気が失せている。そんな弟の腕を捻じ上げていることに強い罪悪感をうける博樹だった。
……もう許してやるべきか、この顔は許しを乞う顔だ……だが、本当に反省しているのか……?
 もう、暴力は振るわないと反省しているのか……? それは疑問だ……痛みから逃れるための口先だけかも知れない。そう、こいつのことだ、間違いない。この際、もう少し懲らしめねば……

   


「よう、痛いだろう……こういう苦しい思いを数えきれないほど、お母さんに与えてきたんだ、わかるか……お母さんの苦しみを。おまえは、こんな目に合うのは初めてだろうが、お母さんは何百回も……いいや、それ以上おまえに痛めつけられてきたんだ……! どうだ……! 分かるか、お母さんの苦しみと悲しみが……!」博樹は今度は逆手にとった正樹の腕を胸に強く押しつけた。
「ウウッ、ウガーッ……」頭を振り動物的な苦悶の悲鳴を上げる。激痛で言葉が出てこない。捻じ上げられた正樹の腕は紫色に変色していた。
 正樹は耐えられない痛みのなかで屈辱感を噛みしめていた。生まれて初めての屈辱……心の底から後悔していた。それは今までの自分の行動に対してではなく、兄の博樹をあなどっていたことに対してである。これまで暴れていたとき、博樹はいつも見て見ぬふりをしていた。それは自分を怖れていたから……父親も同様。いちばん苦手の姉は名古屋だ。この家でいちばん強い人間は自分、怖い人間はいないと確信してきた正樹。自分がこの家の帝王……そう思い込んでいた。
 それが、何ということ、人畜無害と思っていた兄の博樹に触れることもないまま、一瞬のうちに投げつけられ、腕を逆手にとられて組み伏せられてしまったのである。屈辱のなかで兄の冴えた合気道の技と、怖ろしさを身に深く刻み込まれていた。もう、この家の大将ではない……今までのように自由な振る舞いはできない……
 博樹の声が何処か遠くから聞こえる。痛みのために、ときどき気が遠くなる……今は腕の痛みよりも左足首に激しい痛みが生じていた。

   


(つづく)