長編小説 霧のなかの巨塔  第20回

   第二章 灯りを求めて

   


  ■ 迷   路①

   


 外賀総合病院の病室で、逸平たち家族が、処置室から戻ってくる恵美を待っている頃、三品千鶴は下関行き寝台特急『あさかぜ』の車内にいた。
 列車は人影がない焼津駅を高速で通過している。A寝台個室が並ぶ2号車車内では話し声などまったく聞こえない。列車の走行音以外はしない静かな車内である。
 そんなF室の少し開けられたカーテンの隙間から車外の灯りが、矢のように後方へ過ぎ去っていく。室内灯を消し、虚ろな目で外を見ている千鶴の横顔を、通り過ぎていく車外の灯りが時おり照らしだした。その美しい顔は止めどなく流れる涙でぬれている……

   


 千鶴は1週間後の9月20日で、3年間勤務していた東洋自動車・第1経理部計算センターを退職する。すでに8月初旬、退職願は提出していた。愛する逸平が不倫の交際発覚を理由とする処分で、前例のない厳しい処分、社外放出で提携運輸企業である南海汽船へ、出向という名で追放されたいま、その不倫の相手が自分であったことまでは知られていなかったが、このまま職場に残っている毎日が耐えられない苦痛になっていた。
 逸平が社内にいなくなったという寂しさもあったが、それ以上に社内の人たちの目が怖かった。
 誰の目も口には出さないものの、姿課長の不倫相手は自分であることを知っているように思えてならない……自分のいないところでは噂の的になっているのではないかと気になる……そんな毎日がつづくことに耐えられなくなったのである。
 退職願を出してから千鶴は、わずかではあったが、心のなかの苦しみが軽くなったように思えた。千鶴が所属する計算センター・登録第5課の同僚たちは退職理由とした「結婚」という語が
 突然であることに驚きながらも皆が祝福の言葉をかけてくれた。
 「結婚」という理由はまんざらウソではない。事実、千鶴は高羽健太郎からプロポーズされていた。ただ、承諾はまだしていない……結婚するか否かはこれからの課題である。高羽との結婚など千鶴が心から望むことではない。逸平への想いを断ちたいという、捨てばちともいえる気持からそうしようか、と思っていただけである。高羽には申し訳ないと思いながらも、千鶴にはいまの寂しさと悲しみから逃れるすべは、高羽との結婚しか思いつかなかった。
 逸平が赴いた先、神戸の住所と電話番号は手紙で教えられていたが、千鶴は決して電話などしないつもりだった。逸平のため、また自分のためにも電話することはいけないこと……ことに8月から9月初旬までは、奥さまもいるという……そんなときに電話などできるわけがない。
 逸平の声を聞かずにいれば、そのうちにこの思慕も薄れてくるだろうと、自制していた千鶴だったが、電話をしてはいけないと思えば思うほど、声だけでも聞きたいという感情が募っていった。身も心も捧げつくした男への想いを、どうしても断ち切ることがない千鶴だ……
 9月初旬の土曜日、ついに自制心をなくした千鶴は、思い切って神戸にいる逸平のマンションに電話をした。“もし、奥さまが電話に出たら……”そのときのため、すぐ切れるように受話器のフックへ指をかけている。受話器からの呼出音が続く。千鶴は自分でも胸の鼓動が聞こえた。
 期待と怖れが絡みあった複雑な感情だ。呼出音だけで、やはり誰もでない……
 ……誰もでない、留守なんだわ…… そう思って電話を切ろうとしたとき、受話器が外れる雑音とともに、想いつづけてきた逸平の声が聞こえてきた。
 ……はい、お待たせしました、姿です…… その声を聞いた千鶴はときめきのため、直ぐには声が出てこない。思わず涙ぐんでしまった。愛してやまない男の声である。もし、電話でなかったなら、その胸にすがりついていたことだろう。
 北海道旅行に誘われたとき、千鶴の意識のなかに瞬間だが高羽のことがよぎったが、逸平との旅行という予想もしていなかった喜びに高羽のことは意識から消えていた。逸平の声を聞いたことによって千鶴の理性は狂ってしまう。……もう、どうなってもいい、もう、あなたから離れないわ!…… と心に決めていた。

   


 東京・自由が丘の閑静な住宅街でも、日中の暑さが夜になっても残っている。ここでも、さまざまな臭いが入り混じり、大都会のよどんだ空気が漂っていた。
 そんな街の一角にマンション“セゾン・グリーンパレス”の一室で、千鶴は明日からの北海道旅行の準備をしている。室内は冷房がよく効き快適だ。逸平との旅行に心が弾み、ハミングしながら目の前に並べたものをバッグに入れていたが、ときおり、手をやすめて窓のカーテンを見つめている。何か迷いが強まった様子だ。つい、さきほどまでの楽しそうなハミングもしていない。
 冷静さをとり戻していた千鶴が、自分の行動へ急ブレーキをかけたようだ。

   


 ……このまま、北海道へ行ったらどうなる?
     今までのわたしの理性は何だったの? あの人への想いを断つためじゃない!
     なのに今、誘われるまま行ったら、どうなるのか、分かっていないの?
     もう、あの人と別れられなくなるのよ、千鶴!
     また、あの人も、自分も、もっと深い泥沼のなかに堕ちこませてしまうのよ!
     高羽さんを騙して、あなた自身も罪悪感で毎日苦しむことになるよ、あなた……
     あなたは、そこまで悪女なの? いつまでバカな女になっているの?
     あなた、よく考えなさい、あなたは、あの人の愛人なの……不倫という罪なのよ!
     感情に溺れていてはダメ……もっと賢い行動をとりなさい、千鶴!

   


 千鶴の理性が誘惑に打ち勝った。旅行の準備をやめた千鶴は、そばにある座卓にしばらく顔を伏せていた。閉じた瞼のなかに逸平の顔が浮かび、つづいて父母の笑った顔が浮かぶ……
 さっと立ち上がると机の引き出しから便箋と封筒を取り出すと、座卓で手紙を書き始める。書き終わると自分のバッグから封筒を出し、なかの航空券を確認するとそのまま、折った便箋にはさんで封をすると、卓上のメモを見ながら美しい字で宛名を書いていった……
 千鶴は考えぬいた結果、逸平との決別にふみきった。札幌に宿泊しているホテルの電話番号は電話をくれたときに聞いているが、千鶴は敢えて連絡しなかった。一方的に約束をやぶることによって、今度こそ逸平と永久の別離をすることにしたのだ。このマンションを出ることでも。
 手紙に切手を貼ると、千鶴は左右に大きく両腕を広げ背を伸ばすと、カーテンを開けると窓も左右に広く開ける。むっとする都会のよどんだ空気が一気に室内へ入ってきた。
 高台にあるこのマンションの窓からは、少し下方にある自由が丘商店街のネオンや街灯、商店や住宅の明かりがよく見える。そんな夜景を見ている千鶴の顔には、愛しつづけている男との別離を決断したとは思えない微笑が浮かんでいた。
 “おおう……!”という声をあげると窓を閉め、カーテンを閉ざす。外気と入れかわった室内は暑さを感じたが、再び千鶴は旅行の支度を始める。故郷の四国へ帰るために……
 ……明日の夜行で久しぶりに松山へ帰ろう。会社へは松山から電話すればいい……
 千鶴の業務引継ぎはすでに終わっている。千鶴は久しぶりに帰る故郷の松山へ思いを馳せていた。思いついたように電話の前に座ると番号を押していく。高羽の電話番号だった。
 その翌日、千鶴は高羽とともに夕方までアパート探しに奔走した。運よく山手線田端駅近くに比較的新しく、気にいった賃貸マンションがみつかり、7日後から入居するという契約も高羽が保証人となって決まった。その日、高羽と逢う前に千鶴は近くの電話局に即日の取り外しと、連絡するまでの局預かりを依頼する。休日だから処理は出来ないという局員に“毎晩、何回も無言電話に苦しめられている”とウソをついて承諾させることができた。
 今夜からしばらくは東京にいない千鶴。電話がない不便さはなかった。夕刻近く、千鶴は高羽の車で東京駅へ向かう。一緒に簡単な食事をしようと誘う高羽に、会社の同僚たちが駅で待っているとウソを告げて断った。列車の発車時間が迫っていたことより、逸平への想いが重くのしかかっているいま、とても高羽と一緒に食事をするような気になれない。
 東京駅の八重洲口で高羽と別れた千鶴は、ひとりコンコースへ歩いていく。
 発車時刻まで一時間余りということに、連休中ということも重なってB寝台券は売り切れていて数枚のA寝台券個室があるだけだった。そんな、もったいない……という気持ちになったが、広島・宇品から松山へのジェット船の便を考えると、『あさかぜ』に乗るしかない。
 A寝台券を購入するとホームへと歩いていく。もう6時半を過ぎていたが、空腹感はまったくなかった。逸平との別離を決意し、新しい人生への出発を目指している千鶴だが、千歳空港で自分を待っていてくれただろう逸平のことを考えると、いま歩きながらも胸を締めつけられるような苦しみを感じていた。

   


 下関行き寝台特急『あさかぜ』は深夜の名古屋駅を発車している。2号車の個室寝台では千鶴の静かな寝息をきくことができた。少しまえまで室内灯を消した暗い室内から、車外をぼんやり見ていたが、今日一日の疲れが出てきたのだろう、悲しみも苦しみも、しばしのあいだだけでも忘れさせてくれる深い眠りのなかにいた。
 列車は次の停車駅、岡山へと夜のしじまをひた走る……

   


 夜も更けた外賀総合病院の本館病棟は、通路を歩く看護師か医師のサンダルが床をこする音が時折りするだけ……静かに時が流れていく。何処かで金属製の器具でも洗っているのか、金属がぶつかり合う高い音が聞こえてきた。
 2階の第3処置室では恵美の内視鏡検査が行なわれていた。10分ほど前、エコーの映像でようやく胃の出血がとまっていることが確認され、内視鏡検査が始まったのである。出血が止まったといっても恵美の顔色に変化はない。生きている人とは思えない蒼白さだ。開口リングで大きく開かれた恵美の口内へ慎重に、少しずつカメラケーブルが挿入されていく。
 ひたすら夫のため、子どもたちのために尽くしつづけてきた、けなげな恵美が、なぜに、いつまでも苦しみつづけねばならないのか!
 あれほど恵美を苦しめてきた正樹が、こんなに母想いのやさしい子になって、恵美が想像もしなかった明るく、楽しい家庭が戻ったばかりだというのに……

   


 逸平と結ばれてから18年、いま病に倒れるまでの長い年月、海外に駐在していた夫のためにただひとり、子育てと家事に追われてきた恵美だった。逸平や子どもたちとの楽しい思い出などない。帰国しても1週間ほどでまた任地へ戻っていく。帰国中もほとんど会社へ出勤し、家にいる時間はほとんどない。恵美の生活は金銭面にはまったく心配しないものの、生活のすべてがシングルマザーそのもの……任地へ戻るときも“これから急遽任地へ出発しなければならなくなった、たのむ……」という会社からの電話連絡だけで直接出国してしまったことも少なくなかった。
 家族そろって楽しい時間を過ごすなどといったことはほとんどない。そんな、家庭を犠牲にした逸平の業務最優先の生き方が、今の異例ともいえる昇進の原動力になったことは事実だが、恵美にとって、そんなことは望んでもいないこと。ただ家庭にいる逸平が欲しかっただけなのだ。
 逸平の留守を守るのが自分の務めだとして、寂しさに耐え、正樹の暴力に耐えしのんで、いちずに家庭を守ってきた。
 逸平の留守中、正樹の狂気ともいえる家庭内暴力で、毎日のように傷つけられる体の痛みに耐えながら、これは自分の育て方が間違っていたからだと自分を責め、夫の仕事に支障をきたすことがあってはいけないと考え、まったく伏せつづけてきた。正樹の暴力を逸平に打ち明けたのはつい最近になってから……それも恵美の様子を不審に思った逸平に問い質されて、仕方なく答えることになったもの。そのときでも、正樹をかばって殴られたのは自分が悪かったからといって
 真実は話さなかった。真実を話せばまた“ちくった”といって暴れることが分かっていたから。
 正樹が眠るベッドの脇にそっと立ったことが幾度となくある。果物ナイフや文化包丁を手にして……
   ……正樹、ごめんなさい、お母さんと一緒に、苦しみのない世界へ行こうね
     お母さんはもう、あなたに、どう接していいのか分からなくなったわ
     どうしてあげればいいの? もう分からない
     お母さんを許して正樹…! あの世でまた、お母さんと逢いましょうね
     お母さんも、すぐ行きますから……
 ナイフや包丁を正樹の胸や背中に構えるとき、正樹の幼いときの可愛い顔が浮かんだり、後に残される家族のことが思い起こされるとき、いつも冷静さを取り戻して、そっと部屋を出ていく恵美だった。狂気の状態にあったのは、正樹ではなく恵美のほうだったかもしれない。
 いつも苦痛にしいたげられてきた人間は、時として正常心をなくしかけるもの……それは生きている者には当然といえるだろう。
 10年以上もの長いあいだ、積み重なってきた苦しみ、絶望感、そして孤独感は、恵美の心をさいなんできただけではなく体も少しずつ蝕まれていった。心も体も傷つきすぎていた……
 今日まで命をもたせ続けてきたことが奇跡といえるほど、恵美はガンに侵されていたのだ。
 恵美の体を支えてきたのは、愛する家族を想う強い精神力だけだったのである。

   


   


 新館305号室では重苦しい沈黙のときが流れていた。意識不明のまま、恵美が処置室へ運ばれてからもう1時間以上が経過している。
 恵美の体が衰弱してきたことには気づいていた逸平たち家族だったが、ガン、それも悪化しつくした末期のガンになっていようとは、想像すらつかなかった。後悔と悔しさを噛みしめたものの、それは過ぎてしまったことで、これからどうしたらいいものか思いもつかない。
 つい先ほど、恵美の母、亮子が飛行機に間に合ったといって青森から駆けつけてくれた。
 恵美の入院と、青森からという遠路の疲れでやつれた顔を、立ったまま恵美がいないベッドに向けている。あたかもそこに、恵美が横たわっているかのように……目は虚ろに見開かれたいた。
 正樹からの連絡を受けたとき、胃潰瘍くらいではないかと楽観していた亮子だったが、医師からの宣告を逸平から聞かされたとき、無言のまま床に座り込んでしまった。そばにいた和江と正樹が慌てて抱き起こし、恵美がいたベッドに座ってもらう。
 気丈な亮子だったが、余りにも重篤な愛娘の容態を知らされて愕然としていた。
 「本当に申し訳ありません、お母さん。逸平が余りにも至らないばかりに……」そういう和江の声が震えているように思えた。
 「いえ、いえ、お母さま、お母さまは何も……」亮子が少し立ち上がり、深く頭をさげる。
 「お母さん、こんなことになろうとは……ほんとに、申し訳ありません。恵美の体をここまでも悪くさせてしまって……」頭を下げて詫びる逸平に、亮子は何もいわず目をそむけた。逸平の顔を見るだけで、怒りがいっそうに強まりそうだ。爆発しそうな感情を懸命にこらえていた。
 6月の下旬、恵美の誕生祝に上京したとき、余りにもやつれていた娘のことを思い出していた。
 どんよりとした力のない目、目前の料理にもほとんど手をつけない恵美に、何か不吉なことが起きるような懸念を感じたあの日のことを思い出していた……

   


 ……「恵美ちゃん、どうしたの? そんなにやつれちゃって。何処か悪いんじゃないの? 逸平さんたら、こんなになるまで、あなたをほっておいて。今日は恵美ちゃんの誕生日だというのに会社にはいない、また何処へ行ったかも分からないなんて……逸平さん、どうかしてるよ、まったく!」
 「ごめんね、お母さん、あの人会社の仕事が大変なの。休日の出勤も多いのよ。とくに月末近くの土、日は全国の車の登録台数統計をとるため、必ず出勤になるの……」
 「でもね恵美ちゃん、月末はともかくとして、毎日が12時過ぎの帰宅だなんて……課長だけがそんなに遅くまで仕事することはちょっと変だよ。それに、さっき恵美ちゃんがいってたみたいに、疲れて帰ってきたのに、お風呂で鼻唄を歌っているなんて、絶対に普通じゃない! 女がいるんじゃない、逸平さんに!」
 「まさか、お母さん、あの人、そんなことが出来る人じゃないわ。お母さんの思い過ごしよ……それから、わたしが痩せてきたのは、いつもの梅雨時ばてなの。今ごろから梅雨明けあたりまで、ぐっと痩せちゃうの、不思議よね。夏になると元にもどるの……」……

   


 亮子はそんな恵美との話を昨日のことのように覚えている。青森へ帰ってからも恵美の体への心配や逸平への疑いを打ち消すことはできなかった。日増しに娘へのいたわりがない逸平への怒りが募っていく亮子。そうして、今日という日が来てしまった。
 ベッドの脇に座る亮子の体は怒りの感情を抑えている反動だろう、小刻みに震えている。
     ……悪くしてしまって、だって? 何いってるの、冗談じゃない!
       遠く離れているわたしが、恵美ちゃんの体の異常に気づいていたのに
       いつも顔を見ていたこの人が、異常に気づきながらほっておいた!
       気づかなかったなんて言わせないよ! この人は娘を邪魔にしていたんだ!
       あの日も会社へ行くとウソをついて、女と一緒にいたんだ、間違いなく
       愛人がいるから、恵美ちゃんが邪魔になった……病気をいいことにして
       恵美ちゃんが病気で死ぬことを待っているんだ、きっと
       愛人のために、この可愛い恵美ちゃんを殺そうとするなんて
       なんという人、この男は! ひと殺し!
 母の亮子は、恵美の誕生日だったあの日、逸平は愛人と行動していることを直観として感じとっていた。恵美にそこまではいわなかったが…… 恵美が会社へ電話をしたとき、電話をとった課の人が困ったような対応をしていたと恵美がいったとき、それは間違いなく家族にも会社にも秘密の行動をするためウソの届けをして会社を休んでいたに違いないと想った。
 秘密の行動……それは誰が考えても愛人との密会ということになる。
 そう思う亮子は逸平をこの場で打ち据えたいという感情にかられたが、いまはどうすることも出来ないことと抑えつけていた。恵美がいないベッドを虚ろに見ていた亮子の目から、涙が止めどなく流れ落ちるがそれを拭おうともしない。悲しみの感情というより悔しさに耐える涙だった。
 亮子の推測は実に的を得たものだった。事実はそのとおりなのだが、第三者的に見たときには証拠がなければ、それは単なる推量にすぎないことになる。そういって感情を抑えようとしていると怒りがなおのこと噴きだし、亮子の忍耐がついに爆発する。
 「逸平さん! あなたは……」ヒステリックな大きな声だった。みなが驚いて亮子を見る。
 「はい、お母さん……」答える逸平の声は沈んでいる。
 「あなたという人は、どう……」と言いかけたが、急に言葉を切る。亮子の胸にたまっていた燃えるような怒りの爆発が、残っていた僅かな冷静さが自制させた。
 「はい、お母さん、なんでしょうか……」怯えた細い声でいう。
 「ううん、ごめんなさい、なんでもない……」目を閉じて答える亮子。間違いないと確信している逸平の行動だったが、証拠がない今は推測の域にあること。それをここで詰問しては自分にも恵美にも得策ではない。否定されたらそれまでだし、お互いに不信感だけ残すことになる。
     ……いま、この男を問い質しても、否定されたらそれまで
       間違いないと思っても、証拠がないのだ
       口にだしたら、わたしだけでなく、恵美ちゃんまでが笑い者に
       ここにいる誰もが、この男に疑いをもっていない
       こんど、この男と二人だけになったときは
       かならず、こいつの化けの皮を剥がしてやる!

   


 逸平の母、和江はそんな亮子の横顔をじっと見ていた。亮子の下瞼が絶えずピクピクと痙攣している。怒りの感情を懸命に抑えようとしていることがはっきり感じられる。亮子と会う機会はほとんどなかったが、これほど感情的になっている彼女を見ることは初めてだった。
     ……もし、自分が亮子さんの立場だったら、きっと同じように逸平へ怒りをぶつけていたわ……
       恵美ちゃんをここまでほうっておいたんだもの。恵美ちゃんが神戸から帰ったときの痩せかたは
       ふつうじゃなかった……頬も手足も骨だけのように、やつれていた
       逸平たち家族は、どうしてもっと早く、病院へ連れていかなかったの!
       もっと簡単に考えていた、なんて、理由にならないわよ、逸平!
       亮子さんが怒るのは当たり前だわ なにをぼんやりしてたの、逸平は! ……
 和江は亮子を見てそんなことを考えていたが、亮子の怒りは逸平に愛人がいるらしい行動をとっていることへのものであることは知るよしもなかった。沈黙のなかにある病室は、誰でもいたたまれなくなる息苦しい淀んだ空気だ。そんな雰囲気が正樹の声で終止符をうたれる。
 「お父さん……」ぼんやりと母のいないベッドを見つめていた正樹が、きゅうに頭を上げると、かすれたような声で父に問いかけた。
 「うん……?」
 「……もしさ、お医者さんがこれから手術をした結果として、お母さんの癌はもう手のつけようがなかった、治すてだてはありませんといわれた時さ、ほかにお母さんを助けられる治療法というものはないの?」
 「いや、ないとはいえないと思う。お父さんもさっきから、ずっとそのことを考えていたんだが、まだ、具体的に思い出してこないんだ。以前、耳にした東洋医学の治療法なんだよ……」逸平は話をしているうちに、だいぶ前に東洋自動車の常務、いわゆる逸平の上司だった山本常務がいっていたことを思い出した。医師に見放された数々のガンが東洋医学でいう断食療法で、完全に治癒したというたくさんの例を……
 「……うん、思い出してきた。お父さんが出向する前の会社、東洋自動車の常務取締役がね、東京の大きな病院の副総長と親しいんだ。その先生は内科の権威者である一方で、東洋医学の治療でも有名で、それが正樹がいったように病院でもう手遅れだといわれて出された多くのガン患者が、短期間で完全に治ってしまう療法で断食療法というんだよ。正樹、よく思い出させてくれた。
 この治療法が残されていることをね……」正樹のひとことから、逸平は暗黒の闇のなかに一条の光がさしてきたように思えた。
 「じゃ、ここで手遅れだといわれても、お母さんを助ける方法は残されているんだね!」正樹は今までの絶望感が一転して希望がうまれた大きな声でいう。
 「そうだよ、正樹にいま言われるまで頭が混乱していて思いつかなかった……」
 「お母さんのように余命が少しだといわれている人でも……?」ベッドのマットに頭をつけて顔を伏せていた梨香が、まだ涙が乾かない顔を上げて細い声でいった。
 「ああ梨香、山本常務の話だと、この断食療法はある程度の体力が残っていれば、余命1ヶ月といわれていた人でも、この療法をすることで3週間でガンの腫瘍が半分から、時によってはそれ以下にまで小さくなることもあるそうだ、自然にね……」
 「そんなに短期間で、自然に?」博樹が本当にそんなことがあるのかという疑問の声を出す。
 「ほんとうだ。もちろん、誰でも同じ経過をたどるわけじゃないぞ。その有名な先生は、よい結果は患者の体力、治ろうとするその意志、そして努力があるかないかによるそうだ。その有無によって治るまでの日数に大きな違いが出るというわけだ。もちろん、努力や意志が足らなかったとしても、日数が余計にかかるだけで、経過が悪化することは決してないらしい……」
 話をしているうちに逸平は、いますぐにでも恵美をその病院へ入院させたいという衝動にかられる。常務からの紹介を一日も早くうけて……
 「そんなにいい治療法だっていうのに、どうして広くみなに知られていないの? わたし、初めて聞いたわ……」和江は信じられないというような口ぶりだ。
 「うん、そうだと思う。常務がいうには、今の医学は断食療法というような東洋医学に対して極端ともいえるような偏見をもっているんだ。自分たちの領域である西洋医学こそ真に正しい医学であり、東洋医学は前世紀的な古典医学で理論的に証明できるものは何一つない、正規の医学とはいえないものだと決めつけているんだよ。実際に東洋医学でも確実な目覚しい治療効果が出ているんだが全く認めようとしていないんだよ。商売がたきとして敵視しているんかも知れないね。
 昔からの体験と知恵によって組み立てられてきた素晴らしい治療法が東洋医学のなかには沢山あるんだけけど、今の西洋医学はその普及に反対している。そのために、東洋医学療法の多くが健康保険の適用外になっているんだよ。全額が個人負担なんだ……」
 「そう、そんなことになってるの。ずいぶん押さえつけられてるんだね。商売の邪魔だといわんばかりに……」和江が納得できたように頷く。
 「これはみんなに相談することなんだが、お母さんが意識を戻したとき……もちろん、ここの先生とも相談しなければならないことだが、手術をしても助かる見込みが薄いということだったら、無理に手術をしてお母さんの体力を無駄にすることはないと思うんだ……それより、この断食療法にお母さんの……」
 「逸平さん。わたしは……そんな断食療法なんていう古い治療に恵美ちゃんを預けることなんかしません。反対します。いまの癌治療は進歩しているって聞いている……みんなもそう思わないこと? 抗ガン剤も年々新しくて効果が高いものが作られているようだし、やはり、どんなことがあっても今の治療を受けるのが絶対に安全だし、助かる見込みもずっと高いと思う……」亮子が逸平の提案に強く反対した。いまの亮子には逸平のいうことは何も信じることはできない。
 逸平を信じられない亮子には、逸平が恵美をなきものにしようと謀りごとをしているように思えてならないのである。
 「お母さんは反対、ほかの人、意見があったら聞かせてくれ、反対か賛成かを……」
 逸平は亮子以外の顔にひとり、ひとり視線を移しながらいう。
 「ねえ、お父さん、常務さんがいっていたというその話、間違いないことなの? 末期で手のつけようがなくなったガンでも1ヶ月ほどで小さくなったという話……」
 博樹がはっきりとした大きな声で問いかけた。
 「うん、事実のことだ。これからわたしが話すことは、絶対に口外しないでほしい。これはごく限られた人しか知らない極秘にされている話だ。みんな気をつけてくれ。この前、8月下旬のことだったが、『楢本運輸大臣、東洋医学で自己刷新』という見出しが新聞に出ていたんだが、誰か見て居なかったかな……?」
 「オレ、見たよ、お父さん。楢本代議士が1ケ月余りの断食によって体重を12キロも減量させて、そのうえいっそうに精悍さを身につけてきたという記事、たしか東京日報だったと思うけど覚えている! ついこの前のことだよ。別府の……うーんと、何といったけな、忘れてしまったけど、なんとかセンターに入って断食をしたと書いてあった……」
 博樹は今までの悲しみが吹き飛んだような弾んだ声になる。
 「そうだ、別府の東洋医学療養センターに入っていたんだ。山本常務はそこの前病院長だった畑中辰太郎医博と京都大学時代からの親友でね。畑中博士が東京内科小児科センター副総長として転出してからもずっと交際が続いていたんだ……」
 逸平の説明をみな真剣なまなざしできいていた。絶望的だという恵美の命が救われることになるかもしれない逸平の話……それも大抵の人が知っている政界の大物代議士、現代の大久保彦左衛門と称されている楢本大二郎がかかわる話なのである……
 「……山本常務は会社として後援している楢本代議士との連絡窓口役をしていて、いつも懇意に代議士と交流していた。そんな常務の自宅に6月のある日、東京からタクシーで楢本さんひとりが訪ねてきた。彼の話によると定期的に検診を受けてきた主治医から直腸に5ミリほどのポリープが3つあるから、悪性に変らない今のうちに摘出する手術をしたほうがいいと勧告された。
 楢本代議士は手術をすることは嫌だったので、切らなくても治せるような方法が何かないかと考え、以前常務から聞いたことがある畑中博士に問い合わせてもらいたいと訪ねたわけだ。
 そういう診断を下したクリニックの住所や連絡先を告げて。
 調べてまた連絡するという約束で常務は翌日すぐ畑中博士に電話をした。もちろん、極秘中の極秘としてね。その日のうちに畑中博士は直接、そのクリニックを訪れ詳細な診断経過の報告を求めたそうだ。ふつう、部外者に患者の個人情報を漏らすことはできないことだが、呼吸器学の世界的権威とされる畑中博士本人が直接来院し説明を求めたのである。拒否するなどということは間違ってもできないことだよ。
 主治医が説明するところではそれはポリープなどではなく、かなり進行した直腸ガンだった。
 すでに周囲まで広がる気配を示していたという。畑中博士もそのCT写真で確認したそうだ。その頃楢本さんは次期運輸大臣に就任することが内定している重要人物だったから、本人にガンだからすぐ手術したほうがいいなどとはいえない。だからポリープが悪性に変ることもあるから早く手術するように勧めたそうだ……」通路に足音が聞こえたため話を中断した逸平だったが、足音が遠のいていくのを確かめるとまた話を続ける。
 「……その主治医の話によると、深く組織を穿ったガン組織は部分切除をしても直ぐ再発することは間違いなく、そのときは直腸の全部摘出しか方法はないといっていたそうだが、楢本さんはそんなことを知るよしもない。
 常務は畑中先生と打ち合わせをして楢本さんに、別府の東洋医学療養センターへ入院してもらうことにした。入院したのが7月下旬のこと。入院したとき、ここの病院長の浅川勇一と楢本さんの主治医となった水上医長から第2期を過ぎた直腸ガンであること、さらにそれ以上危険な状態になっているのが、いつ脳出血をおこしても不思議がない高血圧症であることを宣告されたという。しかし、さすが名の知れた代議士だけあって、ガンや高血圧症の宣告をされても顔色ひとつ変えることがなかった。やはり、そうでしたか、と涼しい顔だったそうだ。それから30日後に退院してきたが、楢本さんと主治医以外は知らないことだが、直腸のガン巣は5分の1ほどに小さくなり、侵食されていた腸の粘膜ばかりでなく、危険だった血圧も同時にほとんど正常な状態に回復していた。退院後の指示された食養生の実践を条件に1回だけの療法でほぼ全治とされたんだ」話を終えた逸平の顔は、さきほどまでの蒼白さから今は紅潮している。あたかも恵美が回復したかのようにさえ思えた。
 恵美が救われるかもしれないという、ワラにもすがるような微かな期待ではあったが、ここにいる皆にとっては大きな希望である。
 「すごいんだな、その断食療法というのは……オレ、ぜんぜん知らなかったよ」正樹がうわずったような声を出す。わずかだが母を救う道が見えたのが嬉しいのだろう。
 「ねえ、おばあちゃん、お母さん、その病院へ入院してもらおうよ。意識が戻って、少し体力が戻ってきたら、ね?」博樹が青森の祖母である亮子に同意を求めた。
 「そうだわね、あの楢本運輸大臣がその療法で治っていたとはね。でも、お母さん、その療法を受けれるだけの体力がこれから戻ってくれればいいんだけど……」博樹と正樹の顔を見ながらいう亮子。その顔には先ほどまでのような激しい怒りの感情は見られない。そこには覗えなかったが、逸平への怒りは当然に消えることはないだろう。また急患が運ばれてきたようだ。救急センターのあたりでサイレンを響かせてきた救急車が止まる。
 「別府はずいぶん遠くだから、よほど恵美ちゃんの体力が戻らないと……でも、さういう施設があということ……」通路をこちらへ走ってくるサンダルの音で和江は口を閉ざした。サンダルの音がこの病室の前で止まると、ノックもなくドアが開き、若い看護師が駆け込み叫ぶようにいう。
 「姿さん! どなたか付き添いのできる方、すぐに正面玄関まで来てください! 患者さんの容態が急変して、いま帝北大学病院へ救急搬送されます……!」

   


 外賀総合病院第3処置室では静かに時間が流れていった。手術台のような処置台に寝かされた患者の口内へ慎重にカメラケーブルを挿入している恵美の主治医、堀口亘の横には准看護師の松川由美が立っている。
 堀口がケーブルを5-6センチほど挿入したとき、処置室隅にある電話が鳴り松川が走った。
 「うるさい電話だな、こんなときに、一体どうしたというんだよ、まったく……」堀口は処置を続けながらつぶやくようにいう。
 「はい、第3処置室です……はい、おられますが今処置中です……えっ? はい、ICU室12号の田川さん、はい、ちょっとお待ちください。先生、水田婦長さんですが、ICU12号の田川さんが心停止だそうです。至急、お願いしたいと……」
 「うん、わかった、今行くといってくれ……」
 「もしもし、はい、今行かれます……はい、わかりました」電話を終え松川が戻ってきた。
 「糖尿病性昏睡のクランケだ。参ったなこんなときに……仕方がない、松川君、ちょっとの間だけ替わってくれや。早くしないとクランケの麻酔が切れてしまう。この操作、これまで幾度かしたことがあるんだろ?……」脇に立つ松川を見上げながら堀口がいう。
 「はい、何回か操作しています」
 「よし、それなら今10センチ挿入済みだ。開口部から23センチまで挿入を終えたら、そのまま待っていてくれ。今から15分経っても私が戻らなかったらICU室に電話してくれ、いいな、頼んだぞ……」
 「はい、分かりました」はきはきと答える松川だった。
 「よし、直ぐ戻るからな……」堀口はサンダル音を響かせ、駆け足でドアの外へ飛び出す。
 松川は慎重に口内を覗きこみながら挿入操作を続ける。

   


 このとき、松川は取り返しのつかない勘違いをしていた。既に10センチは挿入してあるから器具をつかって開口固定している箇所、即ち歯の部分で23センチのマークがでたら、そこで止めろと堀口は指示したのだが、松川は自分に交代してから23センチの挿入をしろ、といわれたものと思い込んでいた。10センチの過挿入は大変な結果をまねくことになる……
 この日、松川は恋人とちょっとしたトラブルになり冷静さを欠いていた。また堀口も現場に緊急呼び出されたことで気があせり、いつものように確認の復唱をさせることを怠ってしまった。これは堀口の重大な業務上の過失だったし、松川は職務遂行上、弁解の余地がない重大な聞き違いという過失があった。また指導者の立会い指導なく医療行為を行なえない准看護師に、単独での医療行為を命じた堀口には医師法に抵触する違法行為になる。事故が起きたときには二人とも刑事上の追及を受けることは必至だろう。予期せぬ事故というものは、弁解の余地のないミスが重なったときに多く起きるものである。
 恵美の大きく開けられた口内に挿入されたケーブルの目盛が29センチになったとき、運悪くケーブル先端のカメラが胃幽門部にある潰瘍状になった出血部を強く引っ掻いていく……そのままカメラは胃壁を突き破り腹腔内へ抜けてしまった。爆発的な大出血が始まる!
 出血は瞬く間に腹腔内を満たし、横向きに寝かされた恵美の口と鼻口から真紅の噴水となって噴き出した。口を覗きこんでいた松川の顔も腕も鮮血を浴び悲鳴をあげる。
 「ギャーッ……!」松川は動物的な声をあげて電話台へ走る。処置台の下の床タイルが見る間に血の海となっていった……

   


 旧館2階にあるICU室(集中治療室)の12号ベッドの周囲を7、8人の医師や看護師が取り囲んでいた。いつもは静かなICU室だが、今は医師や看護師の大声や怒号が乱れ飛び、混乱のさなかにあった。このICU・C室には他の入院患者はいない。
 12号ベッドの患者は全裸で仰向けに寝かされ、人工呼吸器によって強制的な呼吸をしている。
 50歳くらいだろうか、痩せた体だ。頭の中央近くに5センチほどの円い脱毛部がある。多分、円形脱毛症なのだろう。蒼白い体には生命の存在を感じさせるものはない。
 「心停止から今で何分経過してる?」堀口は患者の上に馬乗りになって切開した胸部から手を入れ、直接に心臓マッサージをしながら婦長の水田に訊く。コメカミあたりから大粒の汗が流れ落ちていた。その汗を若い看護師がガーゼで拭う。
 「13分10秒の経過です」
 「13分か。心臓マッサージを始めてから4分……まだ心筋の色は戻ってこないな。開胸時より若干は色を増した気はするが、まだまだダメだ……」薄いゴム手袋の手で心筋を掴み、心臓が鼓動しているがごとく、収縮と拡張のサイクルを繰り返す。
 「水田さん、プロカインアミドの心筋内注準備をしてくれ……それから、平手君……」
 「はい、医長……」30歳前後の痩せた医師が答える。細い金ぶちのメガネがその医師の何処か神経質そうな感じを強調していた。
 「うん、平手君は電気ショックの準備を頼む。レベルは1.5でいい」周囲の騒がしさから堀口は怒声のような声で指示を出さねばならない。
 だが眼はマッサージを続けている心筋から離さない。気のせいだろうが一分ほどの間に心筋に赤みがでてきたように思えた。
 懸命に心臓マッサージを続ける堀口。心電図ディスプレイに表示される心拍数は堀口が手を止めると数値はゼロになる。まったく自発性は戻っていない。しかし、心筋の色はマッサージを続けたことで赤みがだいぶ戻ってきた。
 「よし、循環が戻ってきたぞ! 水田さん、プロカインアミドをくれ……」堀口は水田が差し出す注射器で心筋に内注する。
 「あと2分、心臓マッサージを続行する。そのあと電気ショッ……」12号ベッドの院内専用特殊無線電話がなって堀口は口をつぐむ。処置室の松川からの電話だろう。水田がとる。
 「はい、ICU……えっ、なんですって!……慌てないで落ち着いて話しなさい!……」
 堀口の方に向き直って電話を受けている水田。堀口の体を不吉な予感が突き抜けた。
 「……大出血が始まった? わかった、すぐ堀口先生が行く!……」水田婦長の様子に堀口は全身に冷水をかけられたような感覚を受ける。自分でも顔から血が引いていくのがわかった。
  ……イヤな予感が当たってしまった! いったい、どうして……
 「堀口先生、大至急、第3処置室へ! クランケが大出血を始めたそうです! あとは私が……」
 「婦長、頼みます。胸部縫合は外科の谷川君を呼んでください」そういい残してベッドから飛び下りると白衣をひるがえしてドアから飛び出す。階段を駆け上がり通路を走り抜けた。
 第3処置室のドアに体当たりするようにして飛び込む。処置台下の白いタイルが血の海になっていた。患者の口からはまだ鮮血がしたたっている。
 「なんだ、おい……! 29センチにもなっているじゃないか! あんた、なにを聞いていたんだ! 23センチで止めろと指示しただろうが! バカモノが!……」
 看護師を叱りつけながら、慌ててケーブルを抜こうとした堀口だったが本能的に止める。

   


 ……これだけの長さのケーブルが挿入されてしまっては
   縮小してしまったクランケの胃はケーブルで穿孔を起こしてしまった!
   腹腔内へも大量に流出しているはず ケーブルを抜いたら栓を抜くと同じことに
   出血量がさらに増える このまま輸血と止血剤の投与をしながら
   帝北大学病院に移送するほかない 父の力にすがろう
   急ぐんだ! 一刻をあらそう事態だぞ! 急げ!……

   


 堀口は立ちつくしている松川由美を無視して電話台へ走る。
 「あ、堀口です。クランケが大出血を起こした。O型血液を1000cc、カチーフNを2単位、大至急第3処置室へ。大至急だぞ、それから救急車を要請してくれ。帝北大学病院へ移送する。
 いいか? それから、小山君と大信田君に直ぐきてもらってくれ、うん……うん……そうだ、頼んだぞ!……」医局への電話を切ると、すぐ外線に切り替え番号を叩いていく。
 「あ、おふくろ? 亘です。オヤジさんいる? うん、お願い、大至急……あ、お父さん、休みの日に申し訳ない、助けて下さい……いや、ちがいます、看護婦がミスをしてクランケの胃壁を胃カメラで穿孔を起こさせたんです……ええ、そうです、大出血で、いま止血剤……はい、緊急手術をお願いします……ええ、40分以内に到着します……いや、まだです、これから……そうですか、お願いします……クランケのカルテや写真資料はわたしが持っていきます……はい、お願いします……」

   


 「えっ? 恵美の容態が急変?……」逸平が呻くような声で訊く。博樹たちも声が出てこない。
 みな、知らせにきた若い看護師の顔を呆然とみつめるだけだった。
 今のいままで、恵美が意識を取り戻してこの病室へ戻ってきてくれるものと確信して待ちつづけてきたのに……これから大学病院へ緊急移送されるとは! いったい何が起きたんだ?
 「どうしたんですか? 家内は!……」
 「はい、その件についての詳しくは搬送の途中で担当医からご説明します。止血処置中に大出血が起きたそうです」そう話をすると、急いでついて来るように手招きし、ドアへと向かう。
 看護師は小走りに通路を歩く。時折り後ろを振り向きながら……
 「付き添いをされる方は?」
 「はい、わたしが行きます」と逸平が答えた。エレベーターは直ぐ来る。
 「じゃ、お母さんも皆も、片付けが終わったら、帝北大学病院へ……頼んだよ」逸平はエレベーター前に立つ家族に言い残すとエレベータードアを閉めた。
 「おばあちゃん、オレ、下まで行って来る、お兄ちゃんも行こうよ」正樹はそういうと、横にある階段を一気に駆け下りていく。
 救急車は玄関前にとまっていて、恵美はすでに車内へ移されていた。母の顔をひと目みたいと玄関まで走り出た正樹と博樹だったが願いはかなわなかった。救急車後部のタラップを父が上がるのを二人がじっと見つめているほかない。
 救急車のストレッチャーで右下にして横たえられた恵美の顔はきれいに拭われていたが、口のあたりは新しい出血で汚れている。口内に挿入されたカメラケーブルはそのままだったが、逸平には出血に対する処置に思えた。車内の蛍光灯によって恵美の顔色は一層に蒼白くみえる。
 恵美の両脇には堀口と看護師、救急隊員がいる。救急隊員が恵美の体に何本もの電極を固定していく。それを看護師が手伝っていた。両腕には輸血と点滴用のチューブが繋げられている。
 「酸素吸入はどうしましょうか」救急隊員が堀口の指示を求めた。
 「呼吸数は33か……大丈夫だな、今のところは要りません」
 ……ピーポー、ピーポー……救急車はサイレン音を響かせながら病院の玄関を出ていく。
 車内正面にあるデジタル表示盤には幾つもの数字が赤く表示されていた。数値はリアルタイムで変わっている。
 「動脈圧は68に42か……だいぶ出血したな」堀口はつぶやくようにいう。
 「佐野君、輸血速度を少し遅くしてくれ。いま、動脈圧が上がると危険だ。この状態のままを続けたい……」
 「先生、家内の容態はどうなんでしょうか……」逸平は待ちかねたように、向かいあっている堀口に尋ねる。
 「はい? なんですか? サイレンの音ではっきり聞こえません」大きな声で堀口がいう。
 「家内の容態はどうなんでしょうか?」今度は堀口の声につられるように大きな声でいう。
 「どおって……姿さん、ご覧のとおりですよ、全身麻酔をして止血処置をしようとしたところ、また突然の大出血が始まったんですよ。ずいぶん大きな出血部があるようです。麻酔はもうきれているんですが、貧血が強くて意識は一度も戻っていません。出血性のショック症状です……」
 「まだ、意識が戻らないなんて……大丈夫なんでしょうか……」大きな声を出したつもりだったが、言葉じりは聞こえなかった。不安感のために声がだんだん小さくなってまう。
 「今のところ、なんともいえません。もちろん、わたしたちは全力を尽くしますが、ただ病変部の太い静脈が破裂するほどまでにガン巣が浸潤していますからね……また、方々への転移もあります。せめて、半年早く治療に来ておられたら、状況は大きく違っていたと思いますよ。ま、これは結果論になってしまいますけどね……」堀口は平然といってのけた。
 自分たち医療スタッフである看護師の勘違いで、こんな救急移送を必要とするような重大な医療ミスを起こしてしまったのだ。しかしそんなことは、如何なることがあっても口外することはできないこと。この外賀総合病院の名誉にかけて……
 『患者の来院が遅すぎました』とか『もう少し早くこられれば助かったかもしれません』また『ですが、わたしたちは全力を尽くします』といった言葉は実に便利な言葉で、ガン患者を診察する部門の医師たちにとって、必要不可欠なセリフだった。それを如何にうまく演出するかが、担当医の技量であり、義務であると堀口はいつも思っていた。
 たとえ半年前に受診していても、決して治すことができない今の医療であるのに。
 看護師や医師による誤診、投薬ミス、輸血ミス、検査ミス、手術ミス、或いはこれに准ずるニアミスはここ外賀総合病院でも幾度かあったことである。極端な例では子宮摘出手術のおり、執刀医師が止血鉗子を腹腔内においたまま閉腹してしまい、その夜猛烈な腹痛を訴え、X線検査したところ止血鉗子がみつかったが、腸の蠕動によって下行結腸が損傷を受け重い急性腹膜炎を併発していた。家族には摘出による内臓下垂で大腸が閉塞した結果で、位置の修整をしたからもう大丈夫と、見事なデタラメをいって逃げたこともある。
 医師も看護師もふつうの人間である。自分たちがミスをしたときにはそのことを何かの理由をつけて隠しとおそうとする。それは人間としての本能だろう。そしてほかの社会では無理であっても「医療」の社会では自分たちの出方によって、たいていが隠しとおせるものだった。そのわけは、患者や家族は医師の自信あふれる言葉と権威に畏れをなすためである。
 今日の松川看護婦による医療事故にも、堀口はその定義どおり冷静に対処した。自分ながらも悪どさが身についてしまったものだ、と心のなかで密かに苦笑する。

   


 堀口亘はいま向かっている帝北大学医学部・第3外科教室の主任教授であり、第3外科部長と付属病院副病院長を兼務している鬼塚喜八郎の次男である。
 兄の龍一は東大医学部を卒業後、日本医薬大学付属病院の第1外科医局を経て、いま米国の聖コーネル大学へ客員教授となって家族とともに留学している。もう6年を経ていてあと4年を終えて帰国したときには日本の系列病院である東京駿河台のセント・イザベラ病院、第2外科医長に就任することが約束されている。完全なエリートコースにのっていた。
 そんな兄にひきかえ次男の亘は、学力は遥かに兄を上回っていたが、国立大学は受験せず二流といわれる私大の医学部へ入学、首席で卒業した。兄をことさら大切にしていた父母への反抗だった。専攻も意識的に外科を選ばず内科にする。医師試験合格と同時に学生時代から交際していた外賀総合病院の病院長、外賀萬蔵のひとり娘、碧(みどり)と結婚する。碧は萬蔵と離婚した母、美奈子とともに堀口家に入り堀口姓になっていた。そして堀口家には男子がいなかったため
 堀口家の娘婿として入籍した。亘の父母の強固な反対を押し切って……
 医師試験合格後の研修過程を終えたあと、都立の病院に勤務していたが、外賀萬蔵から自分が経営する外賀総合病院の内科へ入局するよう誘われる。待遇は現在の所得の2.5倍である。
 破格ともいえる好条件に文句などあるはずがない。すぐに都立病院を退職し外賀総合病院に移った。それから現在までの10年余り、医療技術は抜群で院内での信頼は強く、今は12名の医師を部下にもち一般内科を担当する第1内科医長という立場にあった。
 妻の碧とのあいだには一男一女にも恵まれた。当初は婿養子になった亘に激怒し、結婚式にも顔を出さなかった喜八郎だったが、孫可愛さから子どもが生まれてからは毎週のように週末になると母の奈津とともに亘の家を訪れ碧や孫たちと楽しい時間を過ごすようになっている。
 亘も若いときのように父母へ徒に反抗することもなくなり、両親が訪ねてくれるのを心から楽しみにしていた。そんな平穏な日々が続くなか、こんな事故が起きてしまった。だが、この事故も自分の威厳と自信によって何事もなく経過していくものと考えていた。
 医療のミスというものは方策ひとつによって、無難に経過させることは医師という立場にあれば容易なこと……これまでの例がそれを証明している。
 ……患者もまた家族たちも、その事故の経過を知らないのだから、そこのところは巧妙に演出さえすれば、なにも難しいことはないさ、今夜の例なんか、搬入されたときから意識不明の重態だったんだぞ、出血多量で……いまもって命があるだけでも奇跡なんだ……
 堀口はそう楽観していたが、今度だけは、堀口が思いもよらない方向へ進むことになる。
 甘い考えはいつまでもまかり通るものでないことを、身をもって教えられることに……

   


 救急車はサイレンの音を夜更けの街にこだまさせながら帝北大学病院へ急行する。別々の運命をもつ人たちを乗せて。立ち並ぶビルや家並みの間から、遠く、帝北大学病院の屋上ポールにある赤い3つの回転灯が見えてきた。

   


   


 外賀総合病院、旧館2階のICU・C室は入院患者はいないが、堀口たちが懸命に救命処置をしていた12号ベッドには患者が横たわり、青いカバーをかけられた毛布から頭が出ている。
 顔には白い布がかけられ、胸元が少し高くなっていた。両手を胸で合掌しているのだろう。
 そんな内科ICU室の隣りにICU医局がある。深夜11時を過ぎた今も数人の医師と看護師がいた。今夜の当直勤務なのだろう。そんな医局に並ぶ机の一つに内科看護師長、水田能婦子が座り、その前の折り畳みイスには看護師の松川由美が座っていた。
 うなだれて座る松川の顔には血の気がない。
 「ねえ、あんた……前にも輸血患者の血液型を間違えて、違うパックをもってきたことがあったわね、あのときは幸い斉藤さんが気づいてことなきを得たけど……もし、あのとき誰も気づかずそのまま輸血していたら、この病院の存在も危うくなったところなのよ! 今日だって、そう、何をポケッとして堀口先生の指示を聞いていたの? 黙ってないで、何かいいなさいよ!」
 「……」松川はうなだれているだけで何もいおうとしない。
 水田は何も弁解しようとしない松川に苛立っていた。自分がしたことにウソをついてでも正当性を主張するような逞しさがほしかった。どの病院でも医療ミスは日常的に多発していた。
 この病院でも例外ではない。医師や看護師、ことに看護師の不足は多くの病院で慢性的な状況になっている。このために現在従事している看護師の勤務時間は想像を絶するハードなローテーションを強いられていた。なかには週の4日間は16時間労働という病院もあった。医療事故の大多数はこのような看護師の過重勤務の疲労からきた、ちょっとした不注意から重大な事故に至ったものである。それらの多くが表に出ることはない。担当者のしたたかさと、病院関係者のもみ消し工作の結果である。ときによっては関係者がうまく工作し、隠滅が成功したのに、肝心のミスをおかした担当者が良心の呵責に耐え切れず、警察等の官庁へ自首することがある。
 折角の工作が水の泡と帰すばかりでなく、証拠隠滅、あるいは偽証などといった手入れになり、最悪の場合は病院の崩壊に至ることもある。
 水田師長にとっての心配は、松川由美にしたたかさがないことだった。「正直に生きる」ことは一般の社会では貴重な存在だろうが、この医療の社会はある程度ずるさがないと周囲からの圧力に負けてしまい、強く生きていくことはできないのである。こうしたタイプの人間はスキャンダルを露呈させることが多い性格であることを水田は知っていた。そのため、松川の性格を叩き直したかった。松川のためではない。自分たちのために。

   


 「ほんとうに申し訳ありません。どうしてあんな思い込みをしてしまったのか、自分自身がわからないのです」
 「えっ、なんだって? なにをさっきからボソボソいってるの! 正免許がない自分に仕事を命じた先生が悪いとか、確認の呼称をさせなかったからだとか、どうして開き直った態度がとれないのよ、あんたは!」水田の怒りは頂点に達した。
 「……まったく、あんたという人は……なんて煮えきらない人なんだろう……どうして、もっと自分を弁解できないの? あんたの話を聞いているとこちらの方が惨めな気持になってしまうじゃないの!」そういうと水田は眼前にあったバインダーを頭の上に持ち上げると、力まかせに机の上へ叩きつける。バーン!という大きなな音とともに、挟まれていた書類の束が周囲にまき散らされた。
 「水田さん、そのくらいで勘弁してやりなさいよ……」当直医の佐川が見るに見かねて助け舟を出す。「……松川君はわざとやったんじゃないよ。勘違いをするにはいろいろと事情があったんだろう……もちろん、重大なミスをしたことは事実だ。松川君はとことん反省をして、二度とこんなことを繰り返さないように努力しなけれぱならん。業務中には他ごとを考えていてはダメだぞ、真剣に業務に打ち込むんだ。ま、師長、ガミガミいうことはそのくらいにしなさいよ……」
 「先生はそうおっしゃるけど……この子、松川さん、ほんとうに分かるかしら……」
 水田は机に置かれた自分のメガネをかけると、ジッと松川を見据える。松川はうつむいたまま、ハンカチで口を押さえていた。顔は涙で濡れている。
 「これから、ほんとに、間違いない仕事をしていく自信はある?」水田が松川の顔をのぞき込むようにしていう。その声にはさきほどのようなヒステリックなトゲは感じられない。
 「はい、もう、二度と……」松川は震える声ではっきりとした声で答えた。
 「ほら、松川君は今度こそ分かっているんだから、もう許してやりなさいよ。なあ、松川君、これからは、間違いをしない慎重な業務に徹するんだぞ、わかったな」やさしく諭す佐川に松川は深く頭を下げた。
 「佐川先生がこうおっしゃるから、これで止めるけど、今度またこんなことがあったら、あなたの看護師としての道は閉ざされることになるわよ、わかった?」水田の問いかけに松川は黙っててうなづく。顔はあいかわらず下を向いたままだった。
 「はい、じゃ、あなたの今夜の当直は私が代わるわ。それからあなた、来週日曜日まで自宅に帰っていなさい。あした午前中にあなたのその後のローテーションを知らせるから、そのときまで部屋にいてくれるかな、いい?」
 「はい、分かりました、お願いします。ほんとうにご迷惑をお掛けしてすみませんでした」松川は顔を上げ、しっかりと水田師長の目を見て答える。
 「はい、頼んだわよ、明日の午前中にはローテーションを知らせるから。ご苦労さまでした」水田は今度はやさしくいう。
 「ほんとに、すみませんでした……」
 頭を深く下げて立ち上がり、医局を出ていく松川の足どりは余りにも弱々しかった。
 「ご苦労さまでした、おやすみ……」水田と佐川が松川の背に言葉をかける。
 「松川君、頑張ってくれよ、なあ……」佐川医師が励ますように、やさしく送りだした。そんな二人に松川は顔にハンカチを当てたまま深く頭を下げる。
 水田師長や佐川医師、そのほか外賀総合病院のスタッフたち皆が、このとき以降、松川由美の姿を二度と見ることができなくなることなど知るよしもなかった……まして、この外賀総合病院が崩壊の道を辿ることなどなおさらに……

   


(つづく)