長編小説 霧のなかの巨塔  第22回

   第二章 灯りを求めて

   


  ■ 黎   明①

   


 帝北大学病院本館3階の中央手術部に続いて、第3外科ICU室がある。広い通路の全面を塞いだ厚い仕切りは、濃いブラウンに着色されていながら、向こうが明るく透けて見える不思議ともいえる隔壁になっていた。向こう側の通路を照らす照明が琥珀色に見える。
 大きな隔壁の中央部に「第2外科 第3外科 ICU室」という蛍光盤が埋め込まれ緑色に光っている。だがその隔壁には出入り口はない。左右の手術室の中に通路があるのだろう。
 今は午後2時20分だ。東京は今日も35度を超す猛暑になっているが、病院内はそんな外部の暑さは感じさせない。ひんやりとした爽やかな空気に満たされていた。
 第3外科のICU・集中監視室は片側に30ベッドずつ60のベッドが置かれている。各ベッドはアコーディオンカーテンで仕切られており、ざっと見ただけでは何人の患者が収容されているのかまったくわからない。
 恵美はそんな第18号という電光プレートが通路側に点灯したベッドで眠っている。鼻と口は酸素マスクで覆われ、全身に計器盤や壁から延びたケーブルが接続されていた。ベッドの頭のほうには、「第3外科 姿恵美 主治医・大河内宏則」という水色のプレートがかけてある。
 体側に置かれた大きな装置では5連の赤いデジタル数値がディアルタイムで表示されている。ディスプレイの画面には赤、緑、黄色3本のグラフが規則的に曲線を描いていた。手をつけられなかったという腫瘍が2つもそのまま残されていたが、顔色は手術前とくらべると別人のようにいい。頬の肉は落ちて骨ばった顔になったが、その顔や耳はピンク色だ。余命が2ヶ月と宣告されている末期癌患者とはどうしても思えない。やすらかなその寝顔には微笑みさえ覗えた……

   


 各診療科ごとにあるICU・集中監視室のオペレーション・ルームは原子力発電所の制御室を思わせる。当然に窓は一つもない。中央の通路を挟んで左右に最大10人ずつ20人が患者の監視にあたる。一人が通常で3人を担当するわけだが、収容人員が21名という今日は、ベッドのブースをまとめ、今、7人が4時間というローテーションで監視業務に当たっている。非番の係員は第3外科、或いは第2外科のオペ主任として医師と同格に手術の助手を務めることになる。
 しかし、医師法によって執刀をする執刀医となることはできない。
 帝北大学病院の集中監視室勤務者は大学独自で毎年実施している第3次まである「高等看護技能検定試験」に合格しなければならない。受験者が非常に多いのに合格者ゼロの年が続いていて
 3年前に今のICU室長、沖中ゆかりが只一人、それも受験1回目で合格してから、まだ誰も合格したことがない。この試験に合格した看護師は年令、経験に関係なく高等看護技能士として職制上、看護師長補佐という役職となる。

   


   


 いま集中監視室の壁面表示盤は三分の二が消えている。そのベッドには患者がいないわけだ。
 ベッドは一定の位置にまとめられ、7人の高等看護技能士が監視業務にあたっている。
 どの技能士も自分のデスク上に思いおもいの書籍を置いて見ていた。入口に近い3号ベッドまでを担当する沖中ゆかりという写真入りの認識カードを頚からかけた中年の女性は、手術行程をカラー写真で解説した分厚い専門書を見ている。その一方で自分が担当する患者の表示盤数値の移動を絶えず把握するために注意を払っていた。
 デスク上の書籍には『再手術外科の諸原理…消化器外科編…』という金文字がその背にある。
 ここ、集中監視室の患者の状況はその体に固定された種々のセンサーからの信号と、主治医が
 コンピュータに入力した個別データをディアルタイムで機械が照合し、その誤差が一定数値以上に達すると項目別に音とランプの点滅によって警告がでる、この帝北大学病院が開発し実用化した世界に誇る完全自動監視システムである。その開発には発明家としても有名な、第3外科部長の鬼塚喜八教授が貢献していることはいうまでもない。
 しかし、如何に高性能で、定期的に保守点検がなされているといっても、機械というものは常に「故障」或いは「接触不良」による誤作動を警戒することも重要である。誤作動が皆無という保証はないのだ。世界にその医療技術と設備、そして信頼性を誇るこの大病院では、“コンピュータは人間を補助するもの”という定義によって、ここ集中監視室では機器が示す数値や状態は、人間である監視室要員の判断への参考という考え方になっている。
 そのため場合によっては医師、或いはそれ以上の能力が要求されることもある。非常に難しい資格試験もそのためだ。責任が重い気が疲れる職務だったが、公的資格となっている高等看護技能士の資格をとり監視室勤務をすることは、この病院にいる看護師たちにとって憧れだった。

   


 集中監視室の№12という表示ボードが水色から赤に変わった。監視員デスク上にも赤ランプが点滅しブザーの警告音が出る。何かの専門書を見ていた監視員は立ち上がると点滅するボードを指さし大きな声で確認呼称をする。
 「12号クランケ、皮膚温低下。36.2度、警報解除します」というと、デスク上の赤い解除ボタンを押し、キーボードに幾つかの数字を打ち込む。
 「実数値38度、入力確認……室長、12号クランケの皮膚温を確認してきます。多分、センサーの接触不良でしょう、見てきます」
 「はい、武田さん、了解です。お願いします。ここは、わたしが見ています」あの再手術外科……という書籍をみていた女性が笑顔で応えた。
 オペレーションセンターから病室へ出ていく武田の姿を見ていると、脇の通用口から大河内が笑顔で入ってくる。室長のデスクまで来ると親しげに笑顔で話しかけた。
 「沖中室長、ご苦労様です。平穏なときが流れているようですね」若いのに下腹の張りが強い。
 「ああ、大河内先生……」後ろを振り向いていう。
 「……それはそうと、先生のそのオナカ……」シートを回転させると大河内の下腹を軽く叩く。
 「またまた、出てきましたよ。臨月というところね……」
 「気になっていることを、はっきりと言わないでくださいよ。これでも一応は、減量に努力しているんですよ。少しだけですけど……」大河内は自分の下腹をなでまわしながらいう。
 「18号クランケの状態はどうかと思いましてね……」
 収容患者が少ない今はベッドの配置をまとめてあるから、監視員の配置も固まっている。大河内の声を聞いた担当者が状態をすぐ報告した。
 「大河内先生、オールグリーンですよ」
 「はい、ありがとう……」そういいながらも、現況の数値を確認するためボードの数値をみる。
 「……動脈圧はっと……121、76、心電図よし、体温は37.4か、微熱だけど当然の体温だ。脳波も正常、感染や縫合不全の怖れはないようだ。OK、OK……」
 大河内は主治医となった患者、姿恵美の容態が安定していることに安堵した。術後数時間が経った朝の9時過ぎ、麻酔から覚めた恵美は激しい痛みを訴えた。朦朧とした意識のなかで、大河内がたじろぐほど苦しみ暴れる。麻酔状態の継続がまだ必要だと考え、MSコンチンと鎮静剤を静脈注射したことにより、今は落ち着いている。脳波グラフからも痛みを覗わせる乱れはみられない。実際にももう痛みは治まっているのだろう。
 「ただ、先ほど……」監視を担当している技能士が、デスク上のキーボードを叩いて記録されている情報を呼び出している。
 「……午前11時56分ですが、脳波に強い乱れが起きましたが、3分後の59分には正常波形に戻っています……」そういいながら、再度ボードを叩いてモニターの確認をする。
 「……はい、そのほかに特記事項はありません」
 「はい、ありがとう。夢のなかで痛みでも感じたのかな……」大河内はそういいながら表示盤の数値を再度確認すると沖中室長の席に引き返した。
 沖中はここ第2・第3外科ICU室の室長である。以前、第3外科の看護師長だったこともあり、大河内は上司として敬意を込めた気持ちのなかで懇意にしていた。
 「大河内先生、いま、ちょっとだけど、時間はいい?」
 「いいですが、何んですか? 沖中室長にそういわれると、こわいんですよ……」
 「いや、そんなことじゃないの、18号クランケのことで……大淀さん?……」沖本は隣りのデスクに座る担当員にいう。
 「……10分ほどお願いするわね、武田さんは直ぐ戻ってくるから。ちょっと大河内先生にお話があるものだから……」
 「はい、室長、どうぞ」髪に少し白いものがまじった中年過ぎの女性が答える。
 「お願いね、機械室にいるから」沖中は先に立つと、滅菌室横にある「機械室」と表示された部屋に向かう。ここも両開きの鋼鉄製の分厚い扉だ。
 扉を開けるとウーンと交流ハム音やリレーが働いているカチカチという連続音などが聞こえてきてやかましい。広い室内は各種の機械装置、コンピュータのメイン機器が並んでいて、様々な色のパイロットランプが無数といえるほど点灯、或いは点滅している。
 そんな機器類にかこまれて部屋の中央に会議机が3本並べられ、幾つかの折り畳みイスが置かれていた。この場所はいつもICU勤務の高等技能士と医師たちが打ち合わせや様々な報告をする場所として使われている、便宜上の会議室だ。
 「大河内先生、18号のクランケ、姿さん……」沖中はイスの一つを大河内に勧めながらいう。
 「……私と同じくらいの歳だけど、ステージⅣのキャンサーなんですって? 可哀想に……郭清はできなかったようですね。出血多量の瀕死状態で移送されてきたと聞いてるけど……」
 「ええ、潰瘍性の非常に進行した幽門癌だったんですよ。胃壁穿孔を起こしていましてね。しかし、これは表向きの話で実際は最初に搬送された病院で看護師が内視鏡の挿入に失敗して、その本体が胃壁を突き抜けてしまって大出血を起こしてしまったんです……」
 「あらー、なんということを! もちろんクランケの家族には知られなかったんでしょ?」
 「当然ですよ、沖中室長。家族たちには患部からの再出血だと伝えたそうです」
 「でも、よかったわね、ここまで回復できて……危機は一応は脱したようね……」沖中の言葉には我がことであるかのように、ほっとした感じがうかがえた。
 「いまは平穏なんですけどね……このクランケ、肝臓にも膵臓にも末期で手のつけようがないキャンサーがあるんですよ。まったく、オペのしようがなかったんです……」
 「まあ、なんという! 胃だけじゃなかったの……」
 「はい、どれも深部まで浸潤していてどうしようもありませんでした。これからの治療は化学療法と放射線療法に移行するわけですが、何処まで耐えることができるものか……マスタードにしたってACTHやMMC、メルカプトにしても、沖中さん……ここだけの話に、お願いします……」大河内は自分の口に親指を当てると横に引いてみせる。
 「大丈夫ですよ、先生、心配いりません」沖中は笑顔を浮かべていった。
 「オペ後のキャンサー治療は、ご存知のように第4内科や第2放射線科にまわしますよね、そのクランケを見送るとき、いつも空しさと罪悪感のような感情にとらわれるんです……沖中室長もよく知っておられることなんですが、化学療法や放射線療法でキャンサーだけが消滅して、めでたく退院したなどというクランケは、私は知りません。みな全身衰弱で……」大河内は右手で航空機のダッチロールを表現し、急にその手を落とす。墜落、いわゆる「死」を示すもの。
 「……いつまでも、こんなことが続くのかと思うと、外科医になってから私は7年になりましたが、もし外科ではなく第4内科のように、強烈な毒物であることを知りながら、キャンサー患者にそれを投与する仕事に従事していたら、医師を辞めていたと思います。とても、それを続けていく勇気は……ただでも衰弱しているクランケですよ。投与する物質で間違いなく更なる全身衰弱をきたして瞬く間に死に至ることを熟知していながら投与するなんて……こんなことは、革新派として知られる沖中室長だから言えることなんですが……」
 大河内は賛同を求めるように沖中の横顔をみる。
 「先生がおっしゃるとおりだわね。現場にいる私たちがこんな批判をしていては、人が聞くと造反だといわれるけど、事実、今のキャンサー対策は疑問だらけだわね。キャンサーへの対策や処置のことについてだけではなく、今の医学の基盤そのものもね……たとえば大河内先生、キャンサーセルの起原すらはっきりしていないじゃない? 先生がたもいろいろと方法を変えて、キャンサーセルが自然の状態での有糸分裂を起こして癌腫形成するまでを確認したいと頑張っているけど、分裂像はなかなか見せない……」話す沖中の顔は感情の高まりから紅潮していた。
 「……観察によってキャンサーセルの分裂像、もちろん体内と同じ状態でよ。それを見た人は世界に一人としていない……先生もご存知のことよね。それなのに、“セルは有糸分裂によって増殖する”というウイルヒョウが提唱する分裂説にキャンサーセルも追従させ、確認もできていないのに、分裂して増殖するという想像説がいまの定説として固定してしまった……キャンサー治療の原点になるべきセルの起源すら疑問だらけだもんね。そんな状態のなかでキャンサー治療をしているのだから……」そんな沖中の話に彼女の博学と明晰さに大河内は舌をまいていた。
 7年前、新米外科医として大河内が第3外科へ配属されたとき、沖中はそこの主任看護師だった。姉御的な性格の彼女は処置や治療面、また若い看護師たちに対する医師や事務職員の態度で納得できないことがあるとき、相手が教授であろうが、先輩の看護師長、事務局長であろうが、
 自分が正しいと信じる考えは曲げることなく主張し譲ることはなかった。
 医局の若い医師たちは今も沖中を教授たち以上に怖れている。だが大河内は入局当初から不思議に沖中とフィーリングが合い、時々ではあったが昼食を奢ってもらったこともある。
 若い医師たちより遥かに学術、治療技術ともに卓越していた沖中は3年前に第3外科部長の鬼塚に勧められ高等看護技能試験を受験、第1から第4外科の総受験者128名、一般から283名のなかで只ひとり、それも始めての受験で合格した。それも満点に近い驚異ともいえる優秀な点数で。当時、幾つかの新聞の東京版でも写真入りで報道され話題になった。
 その翌年には第3外科の看護師長に、昨年4月の定期人事異動では外科総師長補佐を兼務した外科ICU室長に昇格しその重責をまっとうしている。第3外科部長の次席に相当し大河内の上司になる。

   


 沖中が癌細胞、いわゆるキャンサーセルの起源という細胞学の基盤にまで精通し、その批判までしたことに大河内はただ驚くほかなかった。
 「大河内先生は千島喜久男医学博士をご存知ですか? 今はもう故人になられた方だけど……」
 沖中の顔には……あなたは知らないでしょう……という表情がありありと覗える。
 「千島喜久男医学博士……聞いたことはありませんが……」
 「先生くらいの年代の人はご存知ないかもね。異端の血液学者として知られた医学者ですけど、この博士が提唱した理論に『千島学説』という、現代の保守的な医学者たちがこの理論の名を聞くだけでもイヤがる学説があるんです。私はとても関心があるんですが、その学説の一つに『体細胞は分裂増殖をするのではなく、赤血球から分化するものである』というものがあるの。そしてそのなかに、『癌細胞も同様に病的環境にある赤血球から分化したものであり、決して分裂増殖をしたものてはない』と今から50年も前に発表されているんです。大河内先生……」
 そう話す沖中を大河内は唖然とした顔で見ている。何か言いたいのだが、沖中のいうことが全く理解できない。話が大河内たちが医学部で学んだことと余りにもかけ離れていた。
 「……これは現代医学者には嫌われているけど有名な学説なんです。私たちがこの学説を公の場で口にすることはタブーになっているけど、キャンサーセルの起源は赤血球が体内環境の悪化から健康な体細胞ではなく、病的なキャンサーセルに分化したもの……血液の流れが淀んだり、停止した箇所の赤血球がキャンサーセルに変わるというわけ……こういう説、先生はどう思われる?……」
 沖中は笑顔で大河内に問いかける。急に質問されて大河内は慌てた。一瞬、口を開けてなにかいいかけたが、直ぐ口をつぐんでしまった。
 「……ちょっと頭のなかが混乱しているみたいね。でも、私は千島博士の説が真実だと思ってる……そしてまだあるのよ、千島博士の示唆が……いいこと? これが大事なところなの……」
 沖中は大河内の顔を見ながら念をおすようにいう。
 「……千島博士はこういっているの。『キャンサーセルは体内環境の是正による血液の浄化、血流の正常化によって短時間で元の赤血球へ逆戻りする』ということ。この現象、千島博士が発表したあと、何人かの学者がそれを確認し大阪での癌学会で発表したけど、学会側は実験方法の誤りに観察でも誤りを重ねているとして発表の中止を命じたそうよ! その発表が誤ったものという明確な証拠を示すこともせず、頭から研究そのものが誤ったものと決めつけることは、学者たちに余りにも失礼だと思われません?……」憤りが生じたのか沖中の声が次第に大きくなった。
 大河内はまるで鬼塚教授の前にいるかのように緊張している。
    この人は鬼塚部長以上に知識と探究心がある!
    外科の総看護師長補佐というより、医療現場の教授なんだ!
    そんな沖中室長にオレは何と、なれなれしい行動をとってきたんだ!……

   


 沖中には教授たちも非常に気をつかう総師長補、この外科では総師長の平田ミツよりも尊敬されまた怖れられていた。今まで同僚であるかのように考えていた自分の思いあがりに怖ろしさで何か身がすくむような思いになる大河内だ。
 「ええ、確かに、おっしゃる通りですね。反論するなら必ず確たる反証を示して“あなたの研究はこういう点が誤っている”と指摘すのが当然ですよね。“そんなことはあり得るはずがない”なんていうセリフは反論になりませんよ、誰がみても逃げ口上だと思うでしょう。それはそうと、その千島学説という理論、私も興味があります。こんど折りをみて教えてください。沖中室長、お願いします」
 大河内は沖中がいう“癌細胞は赤血球からなる”と定義している千島学説なるものの存在を今日初めて知った。ほんのわずかな時間、沖中から聞いただけだったが全くの驚きだった。
 大河内自身が学生のとき癌細胞の分裂増殖を見たいばかりに、自然状態に近い湿潤標本にして幾度となく条件を変えて観察したが一時的に分裂の様相は示すものの、増殖の段階に至ることもなく死滅してしまう。そんな経過があり一時は癌細胞の分裂増殖という神話ともいえる定説に疑問を抱いた時期もあったが、何時の間にか「定説」という変わらぬ流れのなかを漂っていた。
 「あら、先生がそんなに関心をもたれるとは意外だったわ、無理しないでよ……ごめんなさい、ズケズケとほんとのこと言っちゃって」沖中は明るい声で笑う。
 「いえ、ほんとです。こんどぜひ……」そういいいながら大河内は立ち上がる。沖中と話をしているうちに、30分ほどが経っていた。
 「ありがとうございました室長、私は医局に戻ります。黙ってここへ来たもんですから、行方不明になったと騒がれても……また、つづきを聞かせてください、近いうちに……」
 大河内はそういうと深く頭を下げて機械室を出て行く。

   


 大河内よりずっと年上であり、先輩でありまた直属の上司でもある沖中だが、医師に対する尊敬の念と礼儀は誰にでもこれまで欠かしたことはない。それは沖中の心にある規律だった。機械室を出ると機器の騒音から開放されICU室の静寂さに気が遠くなるような感覚を覚える。手を上げ大きく背伸びをすると自分の席へと向かう。室内には平穏なときが流れているようだ。

   


(つづく)