長編小説 霧のなかの巨塔  第25回

   第二章 灯りを求めて

   


  ■ 三 叉 路②

   


 恵美が帝北大学病院で緊急手術を受けてから3日が経過していた。手術を終えた翌々日の午後、家族の皆に迎えられて2158号の病室へ帰ってきた。いや、入院してから初めてこの病室へ入ったのだから帰るということにはならない。初めて一般病棟へ移ったのである。
 ベッドに眠る恵美はやや赤みが強い顔色に感じられたが、あの救急車で移送されていたときの恵美とは別人のように顔色がよくなった。
 この病室に入ったとき、皆の顔を見て大粒の涙を流していた恵美。きょうは母の亮子に優しく見守られて、やすらかな寝息をたてて眠っている。
 午後の太陽が眩しく輝く屋外では、真夏以上の残暑が続いている東京だったが、そんな外の暑さは病室ではまったく感じられない。ほどよい冷房がゆきとどき、爽やかな空気が室内にも通路にも満ちていた。逸平は何処へいったのか病室にはいない。

   


   


 ぎらぎらと輝く太陽が、ここ新宿・歌舞伎町かいわいにも照りつけていた。歩道に埋め込まれたモザイクタイルも太陽の直射に焼かれて高熱をもち、まわりの空気を、いっそうに耐え難いものとしている。
 そんな暑さのなかでも多くの人たちが行き交い、この繁華街は人波が途切れることはまずないだろう。熱い空気のなかに周辺のさまざまな臭いが混ざり合い、悪臭といえるような異様な空気となってよどんでいた。そんな街の通りを逸平がひとり歩いている。片手に上着をもち、背筋をしっかりと立てて…… その逸平らしい姿勢は、いつかのように打ちひしがれたような様子はみじんもない。広い通りから路地を左へ曲がったところにある、小さいが小ぎれいな喫茶店に逸平は入っていった。自動ドアになった扉には“ラ・セーヌ”という白文字がみえる。
 店内は意外に明るい。ひんやりと、よく冷房が効いていた。奥行きがある店のなかには5、6人の客がいる。奥まった席に逸平は座った。それから数分も経たないうちに背の高い初老の男が入ってくる。かつての逸平の上司だった山本俊幸常務である。
 立ち上がって深く頭を下げる逸平。
 「常務、お忙しいところ、いろいろご迷惑を……」
 「いや、いや、よく電話をしてくれた、うれしいぞ。ま、堅苦しいことはヤメにしようや」
 山本は逸平に座るよう勧めながら逸平の向かい側の席に座る。
 「アイスティを下さい。あ、君は?」
 「はい、私も同じにアイスティです」注文を聞きにきたウエイトレスに笑顔でいう。
 「しかし、大変なことだったな、奥さん。ほんとうに驚いたよ、で、その後どうなんだ? 経過のほうは……」お絞りで手を拭いながら山本がいう。
 「はい、ご心配をおかけしました。一昨日、集中治療室から病室のほうへ戻ってきました。胃の摘出によって出血はなくなり、応急処置を加えた他の癌も出血はなく、術後の経過は非常にいいと担当の先生はいっていました。食欲はあるんですが、なにせ胃がなくなっているものですから流動食ばかりで、いつも空腹を訴えています……」
 「そうか、一応は危機を脱したというところだな……これからは化学療法になるんだって?」
 「ええ、体力の回復をまって始めるといっていました。その件で、副作用がない断食療法というものについて常務に教えて頂きたいと思いまして、また畑中先生といわれる方のことも……」
 「そうか、私も素人だからね、詳しいことは説明できないが、前にも君に話したことなんだが、大学時代の友人に畑中という男がいるんだよ。京大の医学部を出てから今、東京内科小児科センターの副総長をしているんだけどね……」山本はティグラスをテーブルに置いて話を続ける。
 「……そいつがいつも口グセのようにいっているんだが、今の癌化学療法の主役となっている抗癌剤というものほど怖ろしい物質はないとね。こいつは毒薬そのもので検査や手術、放射線照射などで体力が衰弱した患者に処置すると短期間で癌腫ばかりでなく全身の正常細胞も同時に破壊していくために患者は苦しみながら死んでいくそうだ。癌腫だけを選んで破壊するような薬剤は世界の何処にも存在しないという。当然に放射線治療も同様らしいよ……そうして、死亡した患者の遺族には“最善を尽くしましたが、おいでになるのが遅すぎました。もうひと月早く治療を始めていたら助かったんですが、残念です”という共通のセリフで済ましているらしい。今の癌治療自体が患者を死に至らしめているんだと怖いことをいっていた。畑中がいうには、医師のあいだでも、もし自分が癌になったら、いまの癌治療など絶対に受けない。放置しておくか断食治療をするという人間がかなり多数いるというじゃないか……まったく信じられないような話だ。
  きょう、若し畑中君がいたらこれから会ってみるか? 彼はもと別府市にある総合病院の東洋医学療養センターの病院長だったんだよ、小児喘息の権威とされているが、癌治療の現場の実態についても熟知しているよ、どうする?」
 「お願いします。常務。ぜひ、畑中先生をご紹介下さい。先生のご都合がよければ、これから直ぐにでも……」
 「そうか、会ってみるか。畑中がいる病院は日暮里だからここからそう遠くじゃない。電話をしてみよう」
 「すみません、常務、お願いします」山本を拝むように深く頭を下げる逸平だ。
 「うん、ちょっと待っていてくれよ」山本はスーツの内ポケットから手帳を出すと立ち上がって周囲を見回したが、入口近くのレジへ歩いていく。

   


   


 それから1時間ほどあと、逸平は東京内科小児科センターの正面フェンスの前に立っていた。都心にあってこれほど広く、森のように木々が茂りフェンスに沿って夏の花が咲きそろう敷地があることに驚く。ポプラやその他の名の知れぬ樹木が、美的感覚をもとに配置され敷地全体が手入れされた芝生が敷かれていた。
 白い遊歩道があり直径が30メートルほどもある円形の池があり、その中央には間歇的に水を噴き上げる噴水があった。その風景は病院という公園のおもむきがある。
 敷地の一角にベージュ色6階建ての建物、その裏には15階かそれ以上ありそうなおなじベージュ色の建物が3列並んでいた。実に大規模な病院である。フェンスの正門から玄関までは、ゆうに200メートルはある。
 玄関をはいると冷房がよく効いていた。普通の病院のように薬局や会計といった窓口、また待合ロビーはない。外来の診療部門はないようだ。玄関のすぐ左側に受付という窓があり、逸平はそこへ足早に歩く。窓の内側には3人の若い女性職員が座っていた。中央の席にいた女性が立ち上がると「ご苦労さまです……」と笑顔で応対してくれる。
 「すみません、姿といいますが、ちょっとお願いがありまして……」
 「あ、姿さまでいらっしゃいますか?」笑顔を絶やさない顔だ。両頬のえくぼが愛らしかった。
 「はい、副総長の畑中先生にお目にかかりたくて……」
 「ご苦労さまです。副総長から、おいでになられたらご案内するように申しつかっております。ご案内いたします。どうぞこちらへ……」女性職員の丁重な応対に、これから初対面となる畑中副総長の人柄のよさと、はかりしれない権威を胸のなかで推し量っていたが、言い知れぬ畏怖感も抱いていた。想像の域から脱していたこの大病院のナンバーⅡなのだ!

   


 エレベーターは直ぐ6階につく。通路にはグリーンの厚いカーペットが敷きつめられ靴の音はまったくしない。幾つもの部屋を過ぎ奥に近い部屋の前で案内してくれた職員が止まる。
 そのドアの正面に「副総長室」という金文字が埋め込まれていた。職員が壁のインターホンのボタンを押すと、すぐ「はい」という女性の声がする。
 「姿さまをご案内してまいりました」
 「はい、ご苦労さまでした、どうぞ」ドアからカチッとロックが外れる音が聞こえ扉が開く。
 「姿さまです。よろしくお願いいたします、それでは失礼します」笑顔で挨拶すると、女性職員は戻っていく。
 「お待ち申し上げておりました、どうぞこちらへ」40歳代と思われる背の高い秘書が逸平を奥に続くドアへ案内した。

   


   


 「……そんなものなんですよ、現在の癌医療というものは。癌細胞の起源すら分かっていないんですよ。いや、分かっていないじゃなくて、分かろうとして追求することをしないんですよ。
  そんなふうですから、確実、有効といえる癌治療などできるわけがないでしょう? 医師であるわたしがこんなことをいっては奇っ怪なことと思われるでしょうけどね……」
 縁なしメガネから英知を秘めた柔和な目が逸平を見ていた。
 「…………」逸平はなんと応えていいかわからない。ただそっと頷くほかない。
 「いま、癌治療にあたっている医師たちは壁にぶち当たって頭を抱えているのが実態です。だが、その苦しみを口に出せないのです。外科手術による摘出はともかくとして、自分たちが最高の治療法といって推奨している化学療法というものは患者の体と一緒に癌腫もやっつけようという、とんでもないシロモノである強烈な副作用をもつ薬剤を、投与することなんですよ。放射線照射も同じもの。今の癌治療というものは、癌腫だけに目を向けていてその生い立ちというものには目を閉じているんです。目を閉じるということは裏をかえせば、故意に考えないようにしているわけですね。体の細胞がなにかの原因によって突然変異によって癌細胞に変わり、猛烈に分裂増殖をして癌腫になっていくのだと説明していますが、この自然界において突然変異というものが、そう滅多やたらに起きるものではありませんよ……」畑中はそういいながらソファの背もたれに体をあずける。
 下ろされたブラインドの隙間から夕陽が室内にもれていた。
 「癌細胞は突然変異などによって生まれるのではありませんし、細胞分裂で増殖するものでもないんです。わが身の血液の主成分である赤血球が体内環境の病的変化によって癌細胞に変わっていくんです、姿さん。私も幾度も確認しています。癌細胞も他の体細胞も分裂することは否定できません。ただこの分裂という現象は細胞の「死」の前兆なんです。言い換えれば死に際しての断末魔の行動といえるかもしれません。十数回の分裂をして細胞は死んでしまいます。癌腫を形成できるほどの分裂像植などということは仮説なんです。医師のメンツにかけての創作といえるかもしれませんね。癌細胞もその他の体細胞も光と熱には極度に弱いのです。暗黒の体内にあるものですから当然です。だから人間が体内にあった細胞を取り出し、観察するために顕微鏡の強烈な光源を当てると光線中の紫外線や赤外線によって焼き殺されることになり、苦しみに分裂しながら死んでいくんです。決して癌腫になるまで分裂はできないのですよ。
 癌細胞の起源はわが身の赤血球……この新説は元岐阜大学教授の故千島喜久男博士が今から60年も前に発表しています。私がまだ幼児時代のことです。そしてさらにこの博士はこの癌細胞や癌腫は体内環境の是正によってごく短期間のうちに正常の赤血球にもどっていくといっておられます。不思議でしょう? しかし、それが真実の現象なんです。怖ろしい抗癌剤などを使わなくても血液の状態を改善すれば癌は自然に治せるんですよ。
 発達したという今の医学がどうしてこの現象に気づかないのだろうと思われるでしょう? 実は多くの学者や医師は知っているんです。しかし、それを発表してしまっては今まで間違った治療をしていたことが暴露してしまう……そのことが真実だとしても口を裂かれてもいえないことなんです。癌死亡者がここまで増加していてはね。必ず医師の責任を問う訴訟が膨大量起きることでしょう。世界中でね。世界の医学界にとってこのうえない恥辱ですよ。『今までの治療は完全に間違ったものでした。すみません』で済む問題じゃありません……」畑中は言葉を切ると逸平を笑顔で見つめる。
 「……お分かりのことと思いますが医学界というものは異常といえるほどプライドの塊といえる集まりなんですよ。真実の現象だからといって世界の定説にまっこうから歯向かう医者や学者はいません。ただ一人の学者、千島喜久男博士を除いてね。博士はもう故人となられましたが世界にも博士の説を支持する学者や医師が多くいました。『千島学説』といってね、今の医学、生物学の定説をことごとく批判し正しい理論を8つの理論に構成した他に類をみない学説です。
 現在の医学者たちにとって余りにも革新的で、現代の医学定説の誤りを根底から細かく指摘した新理論を提議したこの千島先生の説は衝撃が強すぎて今もって学界は認めようとしていません。
 自分たちが治療の壁にぶちあたっているというのにね……しかし、わたしたち、もちろん少数といえる人間ですが、千島喜久男博士が提唱された各理論は真実のものだと確信しています……」
 「自分の血液から癌細胞……!」逸平が始めて言葉を出した。緊張したような声だ。理解できないというような顔で、ひとりごとのように呟いた。
 「そうなんですよ、姿さん。癌細胞はわが身の血液成分が体内の様々な悪条件が複合する環境悪化によって生まれるのです。その体内環境を悪化させる最大の要因はストレスなんです。癌患者の100%になんらかの長期に亘るストレスがあることはよく知られていることです。一言でいってしまえば簡単な言葉ですが、これを理想的に管理することは至難といえます。そして体への影響というものは良くても悪くてもはかりしれないものなのです。
 ストレスが長く続いていると全身の血管が収縮してしまい血液循環を悪くします。その結果は体内のすべてが酸素欠乏状態になって各所で赤血球が癌細胞へ変化をはじめます。またまえにお話したように、癌腫まで進展した癌でもストレスが残っているままでも、体が飢餓の状態になると癌組織は周辺の脂肪組織とともに、それができた逆の過程を経て、飢餓で浄化された環境によって最優先で正常な赤血球へ逆戻りしていくのです。飢餓という状態、いわゆる血を造る材料の食物が入ってこないとき……いいですか?……」畑中はいったん言葉を切ると逸平を見る。
 「……そういう飢餓といった状態になると、体内でいま不必要な部分、脂肪組織とか癌組織などから赤血球へ戻していきます。いま、何処から赤血球に戻していくかという指令は大脳の中心部にある自動指令室、大脳視床という器官がリアルタイムで指示しているんですよ……」
 畑中はメガネを外すとポケットからハンカチを取り出し丁寧にレンズを拭う。
 「癌腫という部分には常に血液が集中していて完全に炎症を起こしている状態です。いわゆる慢性炎症部というわけです。こういった慢性炎症性の病気には飢餓療法、いわゆる断食療法が非常に有効であることを証明したのも千島喜久男博士が提唱した理論の一つなんです。ストレスの軽減や解消がなくても、その効果というものは必ず現われるのが断食療法の特徴です。私が別府の病院長だったとき、大勢の末期癌患者が断食療法で完治して退院していきました……」そう話す畑中の顔には強い自信がうかがえた。
 「……現在もそうです。今は大学で同窓だった、浅川が病院長をしていますが、現代の癌治療における批判的考えは私以上に強烈です。なかなかの男ですよ、彼の知識力と指導力はたいしたものです。山口医大の助教授をしていたのですが、無理やりに引き抜いたんですよ、私がここへ転出することが決まったときにね。ま、それはともかくとして、この断食療法を始める条件として外科手術は除外していますが、化学療法と放射線療法を一度でも処置された患者は入院を認めないことになっています。この療法を受けた人は非常に体力が衰えますから断食に耐えられないんです、処置をされなかった人は平気なんですけどね。今も沢山の癌患者さんが東洋医学科に入院しておられますが、申込から早くても4ヶ月待ちという状態です。それで姿さん、奥さんを入院させますか? この東洋医学療養センターへ……」
 「はい、もちろん、ぜひお願いします、先生」
 「はい、了解しました。きょうは9月18日……ほかならぬ山本から依頼された姿さんのことだから、割り込み予約で話をしてみましょう。目安として10月3日くらいではどうですか?
 遅くともあと一週間もあれば抜糸が終わるでしょう、それから一週間も様子をみることとして、この位の余裕をみておけば、いいとおもいますね。もし延びるようなことがあったら、適宜に延期しましょう。手配のことはご心配いりません。連絡を頂いたら私のほうから手配しますよ」
 「有難うございます。何からなにまでお世話になってしまって……」逸平は立ち上がると深く頭をさげる。お礼のしようがないほど感謝していた。
 「いや、いや、そんなに固くならないでください。さあ、お座りになって……山本が息子のように思っているような姿さんだから、できる限り限りのことをさせてもらいますよ」
 「ほんとうに、何とお礼申し上げたら……」
 「それでと、奥さんの退院については私に任せておきなさい。帝北大学病院の第3外科でしたね」
 畑中は上着の手帳を取り出しながらいう。
 「はい、そうです。主治医の先生は大河内先生です」
 「大河内先生……ちょっとお会いした記憶はありませんね。第3外科部長の鬼塚教授とはよくお会いする機会がありますので、この件は直接、鬼塚教授と掛け合いましょう。それがいちばんスムーズにことが運ぶでしょう、安心なさい。早く手を打って、決して化学療法はさせないようにしますから……」

   


 それからしばらく後、逸平は東京内科小児科センターの正門を出ていた。病院のほうへ体を向けると深く頭を下げると、駅の方向へと歩いていく。ただ、感謝の念で胸がいっぱいだった。
 かつての上司、山本常務の紹介とはいえ、一度も面識がなかった逸平に、別府にあるというセンターへの割り込み入院手続きの手配から帝北大学病院の退院交渉まで請合ってくれたな田中博士……その畑中博士を紹介してくれた山本常務へも、そのその感謝というものは何をもってしてもたりることはない。ただ、逸平にいまできることは心のなかで手を合わせることだけだった。

   


 帝北大学病院の聳えるような高層の病棟は夕陽を受けて、赤みを帯びたオレンジ色に染められていた。都心の空気は相変わらず、ムッとする熱い空気に覆われている。
 そんな西病棟21階にある恵美の病室では、母の亮子がひとり、恵美のベッド脇に折畳みイスを置いて今も、静かに眠る恵美の顔を見つめていた。一昨日の夕、集中治療室からこの病室に移ってからも安定した容態が続いている。
 ただ、顔色は今までになく赤みがかったいい血色である。家族にはそれが少し気がかりだったが、顔色が余りよくない状態で何年も経過していたため、そういう血色に慣れないせいかもしれない。今は午前中よりも色の濃さが増している。
 胃を失くした恵美だが、食欲は旺盛だった。ひっきりなしに空腹感を訴える。胃がなくなったのだから満腹感などあるはずはないのだが……
 病室の壁に沈みかけた夕陽がわずかに差し込んでいた。
 30分ほど前に母を見舞いにきた正樹が帰っていったがその会話に疲れたのだろう、かすかな寝息が聞こえてくる。この病室へ移ってから輸血や点滴はまだ一度もないが、母に見守られて眠る恵美の瞼がときどき動いていた。なにか夢をみているのかも知れない。
 頭部や腕、そして胸、足首にまで壁面から出ている様々な色の電極コードがテープで固定されていた。恵美の容態はまだ、リアルタイムで監視する必要があるらしい。異常があれば監視室ですぐ気づいてくれる筈……亮子は、この赤ら顔についての心配は無用のことと考えていた。
 コン、コンとドアを軽くノックする音がする。亮子は立ち上がってドアへ急ぐと、そっと開けた。ドアの外には配膳係の女性がいる。
 「ごめんなさいね、娘が眠っているもんだから……」囁くような小声で亮子がいう。
 「いえ、こちらこそ、起こさなかったかしら?」女性係員も声をおとす。白いマスクをした中年過ぎの人だ。いつも感じのいい人だった。静かにドアを閉め運搬ワゴンから恵美の名札があるプレートと姿さまと記された付添い人用のプレートをとると、ベッド横にあるテーブルに運ぶ。
 5時前にもう夕食の配膳だ。病院の食事はいつも早い。
 「まだ、気持ちよさそうにお休みですね。どうぞ、ごゆっくりお召し上がり下さい。召し上られましたらまたテーブルに……後ほど取りにうかがいますから」声を潜めてそういうと、ワゴンを押しながらそっとドアから出ていく。それかからしばらく後、恵美が目を覚ました。
 「あ、お母さん、だいぶ眠ったみたい……いま何時なの?」まだ傷口が痛むのか声が小さい。
 「あら、恵美ちゃん、よく眠ったわね。スースーって寝息が聞こえてたわ。今はね、夕方の5時をちょっと過ぎたところよ。1時間ちょっと眠ってたわ。あら、あら、ひどい汗をかいちゃって、恵美……」亮子はベッド脇のワゴンから白いタオルを取ると恵美の顔やくび筋をそっと拭う。
 「正ちゃんが帰ったことは知ってるけど、直ぐ眠ったみたい…ねえ、お母さん、この部屋の冷房入ってるの? 暑くてたまんないわ……」
 亮子は恵美の汗を拭う手を休めると手元のリモコンを手にする。
 「入ってるわよ、恵美ちゃん。今わね……26度、じゃ、ちょっとさげるね、24度にしておこう……余り下げると体によくないからね……」
 「お願い、早くさげて……暑くて、体がカッカッして頭まで痛いの……」苦しそうに顔をしかめて恵美がいう。
 「恵美ちゃんの顔、お酒を呑んだみたいに赤いわね。こんなに冷房が効いているのに、どうしてそんなに暑いのかなあ……薬のせいかもね……眠った後だから余計に暑いのかもね……」
 亮子はそういいながらも、今までに見たことがないような恵美の赤らんだ顔に不安を感じた。
 「恵美ちゃん、お夕食がきてるよ、夕食といっても流動食ばかりだけどね。ジュースとスープにオモユかな、これは……」透明の容器を手にとってなかを見ながらいう。どの容器にも飲みやすくするため透明のチューブになった吸い口がついていた。
 「そのジュースをちょうだい……ノドが渇いてるの……」
 「はい、はい、グレープジュースみたいね。少しずつ飲むのよ、むせたら大変だからね……」そういいながら亮子はそっと恵美の口に吸い口をあてる。
 「ああ、おいしい……逸平さん、遅いわね……山本常務さんのところへ行ったんでしょ?……」
 恵美はジュースを飲みながら思い出したように、小さな声でいう。大きな声を出すと傷口が痛むのだろう。
 「そういってた……もうすぐ戻ってくるでしょ、もう6時になるんだから……」逸平のことになるとがらりと冷たい態度になる亮子だ。恵美を病気にしたのは逸平だと思い込んでいるからだ。
 「…………」黙って窓をみている恵美。ベッドからは青白いような空以外に何も見えない。夕陽はもう沈んでいて、その名残りが残った空が薄明るく見える。

   


   


 本館3階にある第3外科教室から外科医師の大河内が駆け出してくる。B21Bナースセンターから緊急呼び出しがあったからである。B21Bとは<B病棟21階Bブロック>の略である。
 二列に並んだ病棟のÅ棟、B棟とも各階エレベーターホールの東側をAブロック、西側をBブロックと区画を分け、その各ブロックにナースセンターと看護監視室がある。
 エレベーターから飛び出すと大河内はサンダル音を通路に響かせてB21Bナースセンターへ駆け込んだ。
 「呼び出しを聞いた、どうしたんだ!」大河内は息をきらせて看護師たちにいう。
 「あ、先生! 58号のクランケ、姿恵美さんですがICPが急速に上昇しているんです! いま165、脈圧も172、112ミリ……まだ上昇中です、どうしたんでしょう!」
 看護監視室の壁面に埋め込まれたベッドナンバー2158と記された6連になったボードの2つのデジタル数値が赤色になって点滅していた。当直の看護師が大きな声で数値の変化を報告する。
 さらにボードの別の数値も緑から赤に変わりブザーの警告音とともに数値が点滅を始めた。
 恵美の体にまた緊急事態が発生したようだ!

   


(つづく)