長編小説 霧のなかの巨塔  第26回

   第二章 灯りを求めて

   


  ■ 陽 光 み ゆ ①


 主治医、大河内への連絡を終えた担当看護師はすぐその経過を監視装置の特記事項欄に入力するべく机上のキーボードに打ち込みを始めた。
 『特記事項 ベッドNo.038 クランケ名 姿 恵美 21Bナースセンター担当看護師・桐生あかり 主治医 大河内宏則
 18:07 容体急変、ハウプト鬼塚教授には18:09 主治医・大河内先生には18:12 詳細を報告済。脈拍急降下。大河内先生の推測では腹腔内急激出血と推測し緊急オペ準備。
 18:15 ICU大西チーフに応援要請。クランケを第3CT室へ搬入 入力完了 18:17 以上』

 病室のノックもそこそこにドアが一気に大きく開かれた。
 「姿さん、奥さんの容態が緊急を要する事態になっています! 腹腔内出血の怖れがありますので、これからすぐオペを始めます!」逸平はその医師の声に呼吸が止まるほど驚いた。ドアが開くか開かないうちに大声を出されたからだ。
 看護師の一人がドアを大きく開けて通路からストレッチャーを室内に入れている。
 200センチをゆうに超える、正に“巨人”そのものといえる医師である。
 「えっ? 家内が?」呆然と恵美の顔を見つめる逸平。こんなに静かな寝息をたてて眠っているというのに……そんなバカな!
 別の医師が恵美の体に固定されている幾本ものケーブルを外しているが、恵美に目を覚ますような様子がない。
 「私は救命センターの大西です。監視システムに奥さんの急激な脈圧低下が現れました。太い血管からの腹腔内出血の可能性が高く、すぐ緊急の止血オペを始めます」
 「脈圧の低下?」逸平の声はうわずっている。
 「血圧のことです。システムが示す急激な低下は腹腔内への大量出血しか考えられません、出血性ショックで意識を失くしておられるでしょう」大西が逸平に説明している間に、恵美は看護師や医師たちにそっと抱き上げられてストレッチャーに移されていた。やはり何の反応も示さない。顔色はさっきまでの赤味が消え、蒼白に変わっていた。
 やすらかに眠っているとばかり思っていた恵美がまたまた、意識不明になってしまった!
 一時間前には、あんなに力強く、元気にこれからのことを話しあっていたというのに……余りにも急激な変わりようだった。逸平は放心して立ち尽くしたままだ。
 「じゃ、オペを急ぎますから。二時間もすれば終了できるかと……」そう言い残すと大西は出ていく。看護師がドアの留め金をもとに戻すと逸平に一礼して通路へと戻っていった。
 ぼんやりと、再び恵美がいなくなったベッドを見つめていた逸平だったが、気を取り直して部屋を急ぎ足で出るとロビーの電話室へ走る。家族に恵美の容体急変を知らせるために……


 「CT室NOは? 城君……」中央手術部がある3階へのエレベーターのなかで大西は若い医師に問う。看護師たちは恵美を乗せたストレッチャーに手をかけたまま無言で立っている。ストレッチャーに仰臥姿勢で横たわる恵美の顔色は、今まであれほど赤味を帯びていたのに、今はまたもや蒼白の顔色……そして意識も失くしていた。家族のみなが意識を戻してくれた恵美に安堵し、これからの体力回復を祈っていたというのに……
 「第3CT室です。靜注血管造影剤も準備しておきました」と若い医師が答える。まだ20代だろう、若いわりに自信過剰になったような振るまいだ。髪は短く刈り上げていて救命センターの青いオペ着でなかったら街中の若者である。
 「そうか、ありがとう」大西は頷きながらエレベーターの階層表示ランプを見ている。瞬く間に5階を通過し静かに停止した。
 「城君はクランケと第3CT室で待っていてくれ。オレは救命センターへ顔を出してから直ぐに行く。鬼塚部長は?」ストレッチャーを押してCT室へ急ぐ看護師たちの背をみながら、大西は城という若い医師に訊く。
 「大河内先生が連絡されていると思いますが、これから確認しておきます」城は立ち止まって振り返ると大きな声で答える。ストレッチャーを押す看護師たちは既にCT室へ入っていた。
 「ああ、頼んだぞ、教授がクランケのハウプトだから、教授が到着してくれないとどうにもならんのだ。それから、O型血液を2000cc、オペ室へ。オペ室は?」
 「O型血液、2000cc、分かりました。はい、オペ室は第5です」
 「よっしゃ、頼んだぞ、すぐ戻る」大西は本館と連絡する通路を走る。すれちがう看護師たちが大西に頭を下げる。この大西正彦は帝北大学病院救命救急センターの脳外科主任医師であると同時に第1外科の講師も兼務している。都立大学医学部を卒業後、5年間チューリヒ大学に留学、脳神経外科の実務を学び、3年前にこの病院へ赴任してきた。救命センターの部長として。
 大西は脳外科の範疇においては国内屈指の技術が認められており、近い将来は准教授への昇格が噂されている。だが、内臓外科についてはまったくの専門外で、大河内のほうが格段の先輩となる。


 CTによる断層撮影によって予想どおり恵美は腹腔内出血を起こしていることが判明した。出血箇所は膵臓頭部の近くで、前オペのおり、応急処置として部分切除した付近である。腹腔内に流出した血液量は1500cccと推測された。急激な脈圧低下が見られたわりに腹腔内圧力の抵抗が大きかったために出血量が抑えられていたものの、該当部からの出血はいまなお続いている。時間出血量が急激だったため大血管の破裂状態ということが懸念され、膵管に近い部分らしいことから開腹前である今から、膵液漏出による腹腔内汚染が十分に考えられた。
 もし、そんことになったら、重度の急性腹膜炎を併発し、とんでもない事態に陥ってしまうことになるだろう。
 大西のほか、既に駆けつけている大河内たちは開腹するばかりに準備をして、ハウプトは鬼塚の到着を待っていた。それから15分ほど後、タクシーで到着した鬼塚によって恵美の2回目の開腹手術が始まる。手術室の時計は18:46となっていた。
 「よかったよ、おい、これは心配していた縫合不全じゃなかったよ。膵頭部の縫合部の上に……見て見ろ、瘻孔が開いている! おい、よく見とけ、まだ出血している……」
 鬼塚は肝臓を手でよけながら、膵臓を掴み上げて出血箇所を指し示す。5ミリほどの孔が組織の割れ目をつくり開口していた。いまなお出血は止まっていない。
 「脈圧は幾つになっている?」
 「最高98ミリ 最低63ミリです」監視ボードにいる看護師がすぐ答えた。
 「輸血を止めろ! このクランケ、かなりの低血圧だったんだよ、オレとしたことが、しくじったな、はい、止血鉗子……」鬼塚は掴んでいる膵臓の出血瘻孔をつまんで引き上げると、鉗子で掴む。
 「電気メス……」メスが組織を切開していく度に,青く薄い煙が立ち上がる。
 「このクランケ、今後、脈圧は最高値95以上に上げるな。いいな……大河内君、誰かこのクランケの平常脈圧を家族から聞いた者はいるか?」
 鬼塚の問いに答えるものはひとりもいない。それから数秒ほど経ってから、大河内がはっきりとした口調で答えた。
 「クランケが意識を取り戻したとき、私は念のためにと思い本人に、平常の脈圧を確認したのですが、クランケ自身が知りませんでした。それで私の一存で標準最高圧の135ミリを設定値として指示しました。私の思い込みによる処置でした。申し訳ありません。私の責任です」
 大河内は深く頭を下げて鬼塚に詫びる。
 「縫合針に糸を通してくれ……いや、大河内君、君が詫びる必要はない。わたしがウカツだったんだよ。かなりの低血圧であることも考慮にいれて当初、最高値脈圧の調整をすべきだったのにそれをまったく頭に入れてなかった。ほんとうにウカツだった。この瘻孔は間違いなく静脈圧の長時間の上昇から劣化してもろくなっていた小血管が耐えきれず破裂、その噴出圧で周辺組織までも破壊したのだ。通常100以下という最高脈圧の人間に、140近いような脈圧を長時間与えたら当然のこと、このクランケのように血管の劣化箇所が多い臓器は容易に血管破裂するさな。臓器を選ぶことなしにだぞ。この場合は不幸中の幸い、もし、ただでも破裂しやすい肝臓ヘパトーマ部の血管が破裂していたら、一大事だ。こんな説明などしているヒマはなかったぞ。ま、このクランケ、オレたちにいい経験と教訓を与えてくれたよ」
 処置を続けながら、鬼塚は目を上げることなく大きな声で居並ぶ医師、看護師たちに話す。
 「はい、8エフ留置ドレーン……」看護師から受け取ったドレーンを膵臓本体の深部まで切開し損傷箇所を修復し縫合した箇所に留置すると、助手を務める大河内に目を移す。
 「大河内君、このオペの責任者は私だ。確認を怠ったのも私だ。君が責任を感じることはない。はい、サンプドレーン」
 話をしているあいだも、鬼塚の目は切開部分から離れることはない。
 「われわれ、最高脈圧というものは大抵が130前後におくことが常識となっているが、こいつは大変な間違いだったな。今まで大事故が起きなかったことが不思議なくらいだよ。脈圧は個人差が非常に大きいことを頭に叩き込んでおけよ。最高脈圧がこのクランケのように90ほどでも正常な生活を営んでいるんだ。いいか? WHOの規格だから万人に共通などと考えたら大間違いだ。この規格は個人差を考えていない。90に40の人間でも正常な生活をしているんだ。WHOの数字をそのまま鵜呑みにしていたら、とんでもないことになるぞ! 私を含めて気をつけておかねばならない……皆もな……よし、止血処理完了、すぐ腹腔内洗浄だ……」

 開始から1時間足らずで恵美のオペは終了した。危惧された膵液の漏出もなく、瘻孔部の修復と縫合、そして腹腔内洗浄だけで終わった恵美の経過は非常に良好で、ICU室での監視も不要だとして手術室から直接、病室へ戻ってきた。鬼塚の指示により、再オペ時の輸血は1000ccで止められ、最高脈圧は95ミリ、最低脈圧は55ミリが恵美の正常脈圧とされ、ナースセンターの監視システムもその数値に設定変更された。
 病室へ戻って1時間ほど経った午後9時まえ、恵美は麻酔から覚めた。名古屋の大学に戻っている梨香を除いて、逸平の連絡で家族の皆が病室へ駆けつけ、恵美の帰りを待っていた。
 安堵できた時間もつかの間に、再び暗澹たる闇のなかに落とされて……
 だが、再びこの病室に戻ってきてくれた……それも意識をとりもどして。
 「恵美ちゃん、よかった……よく、頑張ったわね……」話しかける亮子の頬を涙がつたう。
 「……お母さん、どうしたの私……? ずっと眠っていただけなのに。でも、何かへんだわ、またお腹がつっぱっていて、痛い……」恵美が痛みに顔をしかめる。
 「あ、お義母さん……博ちゃん、正ちゃんも、どうしてここに?」恵美には何故だかわからない。
 「どういうことか分からないだろうな、恵美……」逸平はカーペットの上に膝をつき、恵美の顔をのぞき込み、ゆっくりとした口調で説明する。
 「……恵美は3時間ほど前の夕方6時過ぎに、少し眠くなったといって、静かな寝息をたてていたんだけど、そのまま意識を失くしてしまっていたんだよ。医局の先生がこの部屋に駆け込んでくるまで、恵美のそばのここいたオレにも、恵美が意識を失くしていたなんて、まったく気付かなかった……」恵美の枕もとに手をおいて説明する逸平。その顔を眠そうな目で見ている恵美。
 「……医局の先生が大声で駆け込んできたときには、本当に心臓が止まるほど驚いたよ。恵美はすやすやと眠っているのに。血圧が急激に下がってきたから内出血をしている恐れがあるから、直ぐ手術しなければならないっていうんだ。意識も失くしているはずだとも。ほんとうに、そうだった……先生や看護師さんにベッドから抱き上げられても、まったく反応がなかったんだ。オレはそのとき、目の前が真っ白になったように思えた……また、また恵美が意識不明になってしまった、というショックでね。そして恵美は直ぐ手術室へ運ばれたんだよ……」
 逸平は恵美が理解できるように、ゆっくりと話してきかせる。
 「……さっき、主治医の大河内先生がいっていたけど、やはり、おなかの中にたくさん出血していたんだって。今度の出血は、最初のときのひどい貧血と、大手術で恵美の神経が過敏状態になっていて、そのために異常に血圧が上がって、たまたま弱くなっていた膵臓の血管が急に破れたために、恵美がまったく気付く間もなくショック状態になって意識不明になったんだって。ほんとうに眠ったままにね……」
 「そう、また手術を受けていたのね。知らなかった……きょうの夕方から、今までになく顔や体が熱くってたまらなかったことは覚えているけど、それから逸平さんとしばらくお話していて……それからのことは覚えてない……」小さな声でいう恵美。傷口が痛むようだが、声はしっかりとしていた。顔色は夕方まえのような赤ら顔ではなく、また以前のような蒼白でもない。枕もとのスタンドの灯りでみる限り悪い顔色ではないようだ。
 「大変だったわね、恵美ちゃん。余りお話ししていると疲れるから、ちょっとお休みなさい、まだねむたそうよ……」和江がやさしく話しかける。
 「すみません、お義母さん、ご心配ばかりかけて」
 「お母さん、大丈夫? ちょっと痛そうだけど」正樹が心配そうな声でいう。母を想うやさしそうな目をしていた。
 「ありがとう正ちゃん、ほんの少し痛いだけでもう大丈夫よ、それより正ちゃんも博ちゃんも、明日は学校なんだから、早く帰って休んでちょうだい。お母さんはもう大丈夫だから、ね……」
 「大丈夫だよ、お母さん、まだこんな時間なんだから、へっちゃらだよ、なあ、正樹」
 兄の言葉に正樹が黙ってうなづく。
 「お父さん、ナースセンターへ連絡しなくちゃ。お母さんが麻酔から覚めたっていって」
 正樹が父を促す。博樹よりずっと気がきく子だった。
 「ほんとだ、うっかりしていた。ありがとう、正樹」逸平は枕もとのコールボタンを押す。
 すぐにやってきた看護師の連絡で、当直医師は、朝まで眠れるようにと鎮静剤を注射していく。数分後には安らかな寝息が聞こえてきた。


 再び容体が急変したという逸平からの連絡に、安堵から一転して不吉な予感にさいなまれていた家族だったが、恵美の意外ともいえる元気な様子に喜びとともに胸を撫で下ろした。
 それから30分ほど後、逸平だけを残して自宅へ戻っていく。
 恵美の強い意志に負けて癌告知をした逸平だったが、まったく冷静にそのことを受け入れた恵美……思っていた通りで、かならず克服する自信があると逸平に話し、逸平と二人で癌克服の道を歩んでいくことを誓い合ったことは誰にもいわなかった。それは恵美と逸平だけの秘密……子どもたちや和江は理解するだろうが、亮子は必ずそのことに反対することだろう。恵美を亡きものにするための細工だといって。二人だけの秘密にすることがもっとも賢明なことである。
 深い眠りのなかにいる恵美の髪を撫でながら、逸平はいろいろと手を尽くしてくれた外賀総合病院、そしてここ帝北大学病院の医師たちに感謝していた。畑中博士から今の医学における数々の問題点を聞かされた逸平だったが、この愛しい恵美を死の淵から救い上げてくれたのは、医師たちの力であることは間違いのない事実である。
 しかし、恵美が2回も緊急手術を受けることになった原因が、各々の病院側のミスによるものだったということを、もしも知ったとしたら逸平の考えは別のものになったことだろう。

 恵美の再オペから7日が経過していた。輸血や点滴は一度も受けていない。オペ直後、1回だけ鎮静剤と抗生物質の投与を受けただけ。回復は驚異的ともいえるほど順調で、抜糸もきょうの朝、行われた。創口の状態も驚くほど完璧に治癒していた。再オペが行われた翌日夕、鬼塚教授が大河内医師とともに恵美の病室を訪れ、恵美の脚力衰退を防ぐため、明日からトイレへは自力で歩いていくこと、食事はベッドの上に座ってするよう、そして出来る限りベッドで寝ている時間を少なくするように鬼塚教授自らが、恵美に説明し大河内に指示した。
 鬼塚教授が一患者の病室を訪れ、患者に説明することなど帝北大学病院始まって以来ともいえる出来事である。国立東京内科小児科病院の畑中副総長から、これからの恵美の治療を自分がいる国立病院で担当したいという依頼を受け、鬼塚も了解したことによる取り計らいである。
 傷口が突っ張る痛みに顔をしかめながらも、壁を伝いながら自分の足で歩むことができた回復ぶりに涙がでるような喜びを感じていた。恵美の驚異的ともいえる回復力は癌を自分の力で克服しようとする強い精神力が、この目を見張るような回復力を駆動させたのだろう。
 それと母を想う優しい子に変わった正樹のためにも生きようとする母としての心も、これに重なって驚異的なパワーになっているのかもしれない。
 外賀総合病院からここへ搬送されてからまだ10日目である。一時は大量出血によって生死の淵をさまようときもあったが、恵美の生命力が死への道すじから生還させてくれた。幾つもの末期にまで至っているとされる癌腫が手遅れとされ放置されたままだというのに、この回復ぶりは他に癌腫などがなく、唯一つの癌腫が処置され治癒への道を歩んでいると同じような経過である。
 蒼白で透きとおるようだったあの恵美の顔色は、健康な人と変わらなくなった……頬も耳もほのかなピンク色になって、痩せてはいるが以前のような、やつれた様子は完全に消えていた。
 まだ抜糸も終わっていないというのに。このとき、恵美は自分でも体の奥深くから何とも表現しようがないエネルギーが次々と沸きあがってくるのを感じていた。



(つづく)