長編小説 霧のなかの巨塔  第28回

   第二章 灯りを求めて

   


  ■ 雁 渡 り ①


 恵美の退院予定の前日、鬼塚は副病院長室で姿恵美の主治医、大河内から出されていた退院許可申請書を見ていた。もちろん、大河内の意思で出されたものではなく、鬼塚が指示して書かせたもの。退院理由は“治癒”「ではなく「転院のため」になっている。
 鬼塚のオペ所見ではこの患者の余命は1ケ月以内と確信していた。胃は全摘出したもののその他の癌腫は見ただけでも末期であることが分かる、手のつけようがない最悪の状態だった。
 それほど進行していた癌腫なのにこの患者の体力回復は異常としかいえないほど速い。
 驚いたことに何も治療をしていないのに、体機能の全てが順調な回復を示しているのである。鬼塚にはこの患者の体になにが起きているのかまったく理解することができなかった。
 ……あれだけひどい癌巣がありながら、いまもって生存していること自体が驚異だ。そのうえ、各体機能は正常以上の数値を示し体力回復の推進力となっている! どうなってるんだ!……
 世界的な内臓外科の権威者である鬼塚の知識をもってしても、この患者の驚異的な回復力が何処からきているのか推測すらできない。現代最新医学の定義に合わないのである。
 体力は時の経過のなかで回復する……ということは単なる炎症性疾患のオペをした患者には共通してみられることであるが、末期癌患者となるとそうはいかない。腫瘍の増大とともに腫瘍の充血が甚だしくなり、貧血が著しくなって抗癌剤の処方とあいまって体力が一段と衰退する。
 それなのにこの姿恵美という患者は、大量出血による衰弱は一時的に見られたものの、その止血処置を終えたとたん、急速に体力が回復してきた。最高脈圧が100以下という低血圧でありながら、血色は健常者そのもの。どこから見ても幾つもの進行した末期の癌腫をもつ患者とは思えないほど健康そのものなのである。

 末期癌患者特有の強度な貧血症状がどうして現れないのだ?
   出血部だけの応急処置だけでなぜ、貧血症状が消えてしまったのだ?
   再オペ後は一度も輸血していないのに、どうしてあんなに血色がいいのだ?
   このクランケ、ただの人間じゃない! そうでなければ、今の癌の臨床面に重大な
   誤りがあることを示唆していることになるんだぞ!
   そんなバカなことがあってたまるものか このクランケは特異体質なんだ
 癌に対する強い抗体をもっていたんだ先天的に 一種の奇形なんだよ、まさしく
   それ以外には考えられん しかしだぞ、如何に抗体が強いといっても
   あの癌腫をすべて消してしまうような力は生じるはずがない
   それができるただ一つの可能性は宇宙人でしかない!
   そうだ、人間と同じ体をしているが、彼女は人体に寄生したエイリアンだ!
   宇宙人なんだ! そうとしか考えられないじゃないか!

 鬼塚は考えれば考えるほど頭が混乱してきた。もっと徹底的にこの患者の経過を観察したいという願望が強まってきたが、すでに今後の治療は畑中に委ねる約束をしている今、鬼塚にはどうすることもできなかった。

 恵美の退院日、9月26日になった。きょうも東京の空は、恵美の退院を祝するように雲ひとつない快晴だ。この頃ともなると、朝方は少しだが涼しさを感じるときもある。
 9月14日、外賀綜合病院から容体急変でこの帝北大学病院に緊急搬送されてから、わずか12日でこんなに元気で退院できるとは……逸平たち家族は奇跡としか思えなかった。
 意識不明の危篤状態になったときの恵美は、極度の貧血で蝋人形のように蒼白だった。その恵美がいまは、はつらつとした健常者のように、自分で退院の整理をしている……逸平はそんな恵美を見ながら、多くの人たちの尽力に心から感謝していた。
 帝北大学付属病院の2158号室では早朝から恵美の母、亮子と長女の梨香、そして逸平が退院のための整理をしている。博樹と正樹は登校し、逸平の母、和江は家で皆の帰りを待っている。
 恵美は母が止めるのも聞かず一緒に病室の整理に加わっていた。
 「恵美ちゃん、お願いだからまだ寝てて……そんな、無理をしてたらまた痛くなって大変だから、ねえ、恵美ちゃん……」亮子が懇願するようにいうが、恵美はいうことをきかない。
 「大丈夫だって、お母さん。抜糸が終わったらつっぱりもなくなったし、もう、痛い所がなくなってしまったの、ふだんと、まったく同じよ、ほら……」ベッドのシーツを折り畳んで恵美は、床に下りてカーぺットの上に立つと、前後への屈伸運動を始める。顔色もいうことなしの健康色だ。以前は白く血の気が薄かった耳や顔は健康的なピンク色になっていた。誰の目から見ても、幾つもの手遅れとされる癌腫が残されている患者にはみえない。
 鬼塚副病院長が理解に苦しむのは当然だろう。鬼塚にエイリアンだと決め付けられた恵美……そのことを恵美が知ったら、息もできないほど笑い転げたことだろう。化粧をしていない恵美だったが、気のせいか肌には以前なかった艶さえもでているように逸平は思えた。
 鬼塚が驚愕するように、その回復ぶりは超自然的であることは間違いない。
 「恵美、ほんとうにお母さんがいわれる通りだぞ、きのうまでは寝ていたのに、急にそんな運動なんかしたらダメだ」カーペットに座り込み、ダンボール箱に小ものを入れていた逸平が、心配そうな顔で恵美を見上げていう。その顔を明るい朝の日差しが照らしていた。
 「もう、なんでもないわ、あなた。嬉しくてたまらないの、最初の手術を受けてから二週間ほどしか経っていないのに、もう、退院できるなんて。わたし、不思議な気がするの、体じゅうから力が湧き上がってくるような感じなの、ほんとに……」
 「ねえ、お母さん、そんなに体を動かしても、ほんとに痛まないの?」梨香も気遣う。
 「ほんとよ、梨香ちゃん、ぜんぜん痛くなんかないの。手術する前のあの痛みが夢みたい…」
 恵美は明るく力のある声で梨香にいう。

 それから2時間ほど経った9時半過ぎ、恵美と家族たちは帝北大学病院の正面玄関にいた。
 副病院長であり第3外科部長である鬼塚教授、そして主治医の大河内のほか医局の看護師たちが5人も見送りに出てくれる。鬼塚教授自らがいち患者の見送りに出るなどということは、前代未聞のことである。まさに恵美たちの退院はVIP扱いだった。もちろんそれは、鬼塚の畑中副総長に対するできる限りの敬意の表れであった。逸平はこのとき初めて、看護師から恵美の手術の執刀が2回とも鬼塚教授だったことを知る。あの深夜、鬼塚副病院長自らが、7時間近い大手術の執刀をしてくれた上に、きょうは早朝から恵美の退院への見送りにまで来てくれたのである。その温情にいいようのない感動を覚える逸平だった。
 逸平たちは知らなかったが、帝北大学付属病院の病院長、大久保慎三医学部長は医者の不養生というのだろうか、2年前に脳軟化症と慢性肝炎で倒れ現在は自宅療養中である。鬼塚と同じ外科医で脳外科の権威として世界にもしられていたが、その彼が皮肉なことに脳軟化症で再起不能になってしまったのである。そのため現在は鬼塚が事実上、病院長としての権限をもっていた。
 この十二月の理事会で退任願が提出されている大久保教授に代わり、鬼塚の病院長昇格は確実であり、また決定したと同様の立場にあった。その鬼塚教授がいち患者である恵美の退院を見送るというのだから、それから推測すると畑中副総長の医学界における地位は、鬼塚教授以上のものであることが窺える。鬼塚副病院長に幾度も頭を下げてお礼をいう逸平たち……
 手をつけることが出来なかったという癌腫が幾つも残されたままであるとはいえ、出血多量で危篤状態だった恵美を深夜の緊急大手術によって死の淵から救い出してくれたのはこの鬼塚教授なのである。まさに恵美の命の恩人であった。もし、処置が遅れていたら、また鬼塚のような名医がいなかったら、恵美の命の灯は消えていたかもしれない。いや、消えていただろう。
 そう思う逸平たちは、この鬼塚を始めとする担当医療スタッフの人たちに、ただ心から感謝するばかりだった。鬼塚教授は恵美を奇形かエイリアンとしか考えられないと思い込んでいることなど分かるはずがないし、また知る必要もないことだ。
 「や、や、まあ、姿さん、頭を上げて下さいよ。わたしたちは治療を懸命に施すのが務めなんです。なにも特別なことをしたわけじゃありません。でも、よかったですね、奥さん……」
 笑顔で恵美に話しかける鬼塚。
 「ありがとうございました、先生。手術をして頂いたあと、自分でも不思議な思いになるんですけど、次々と体の奥から力が湧いてくるように感じるんです。じっとしておれないような……」
 「力が湧いてくる! 奇跡としかいえませんね、あんなに極度の貧血になっておられたのに……こういっちゃ、お叱りをこうむるかもしれませんが、奥さんは、スーパーウーマンですな」
 「先生、できれば、それにウルトラをつけて頂けませんこと?……」
 「こら、恵美。先生に向かって、そんな冗談をいうのは止めなさい!」
 鬼塚教授に対して平気な顔でそんなことをいう恵美に逸平はあわてて注意をする。
 「いや、いや、姿さん、愉快な奥さんですね。それだけの元気があれば、間違いなくウルトラ・スーパーウーマンですよ、わたしが保証しましょう」鬼塚はそういうと愉快そうに笑う。
 「……ところで、これから畑中先生のご指導で食事療法をなさるんですって?」
 「はい、そうです。これを機会に体の基盤から健康を取り戻してやることができればと思いまして……」
 「それは素晴らしいことだ、畑中先生は内科学の権威者です。きっと、もっといい結果が現れることでしょう。ま、どうぞ、頑張って下さい。わたしは、これから教授会があるものですから……どうぞ、畑中先生によろしくお伝え下さい……」
 「あ、先生、お忙しいのに、わざわざ私どもなどをお見送り頂いて、なんとお礼を申し上げてよいやら、ほんとうに有り難うございました、お世話になりました」深く頭を下げる逸平たち。
 鬼塚は恵美や家族たちを見回してから、軽く頭を下げると通路へと歩み去る。立ち去る鬼塚に大河内や看護師たちは丁寧に頭を下げていた。そんな職員たちに鬼塚は背を向けたまま、軽く左手を挙げて応える。
 鬼塚と親しそうに話す逸平たちの様子を、大河内や看護師たちは少し離れたところから見ていた。帝北大学付属病院の象徴ともいわれている鬼塚教授は、この病院に勤務する職員にとって神のような存在なのだろう。近くに寄るだけでも畏れ多いことだと思っているようだ。
 鬼塚が去ると、皆はやれやれといった調子で恵美たちのところへ集まってきた。
 「姿さんは、鬼塚教授のお知り合いだったのですか?」」病室の担当だった若い看護師がすぐ訊く。
 ふっくらとした顔に大きな目で、洋人形のように愛らしい。
 「いえ、違いますよ。鬼塚先生には、つい先だって病室でお会いしたのが初めてです。先生がお話ししておられた畑中先生とわたしたちが……また、鬼塚先生と畑中先生がご懇意に……」ロータリーの方向を見ながら話す逸平。タクシーはまだ来ない。
 「ああ、それで……鬼塚教授が退院患者さんのお見送りをしたことは、これまでになかったと聞いておりましたので、だから、姿さんと鬼塚教授はどういうお知り合いなのかと思いまして……どうもすみません、失礼しました」
 「いえ、とんでもない、そうですか、そうでしょうね。ずいぶん有名な先生なんだと畑中先生からお聞きしています。内臓外科の権威でいらっしゃるそうで」
 「外科医として有名なだけではないんですよ、教授は……」かたわらにいた30歳代と思われる看護師が、我がことを自慢するかのように話し始める。
 「……オペ機器の発明でも有名なんですよ。教授が発明された機器が世界の病院のオペ現場で使われているんです。医師であり、機器の発明家という珍しい……」
 「あ、お父さん、タクシーが来たわ」梨香の声で看護師の自慢話も終わる。
 「どうも、皆さん、大変お世話になりました。有り難うございました。また、きょうはお忙しいのにお見送りまで頂いて、有り難うございました。鬼塚先生に、どうぞよろしく……」
 「ほんとうに、皆さん、お世話になりました。また、大河内先生、お陰さまで、こんなに元気になって退院することができました。先生や皆さんのお陰で……」恵美はお礼をいいながら涙ぐんでいる。
 逸平と恵美、そして家族たちは改めて頭を下げるとタクシーに乗る。走り始めたタクシーの窓から逸平と恵美が手を振る。それに応えて大河内や看護師たちも大きくてを振ってくれた。もちろん業務の一つとして。逸平と恵美はみなが見えなくなるまで手を振り続ける……
 聳え建つような壮大な大学病院の建物が次第に遠ざかる。朝の陽光を受けて青空のなかに浮き上がるような巨大な病院をまた振り返りながら、逸平はこらえていた感動で胸が熱くなるような感動をおぼえる。あの日の深夜、外賀総合病院から救急車でこの帝北大学病院へ緊急搬送されてきた。その車中で逸平は、意識不明の恵美の顔を見ながら、恵美の命が救われることを必死で祈っていた。今だからいえることだが、恵美の顔にはもう死相があらわれていた。出血多量というショック状態では、助かる見込みがないのでは……と不吉な思いにさいなまれながら、蝋人形のように血の気がない恵美の顔をただ見つめているほかなかった。その恵美が鬼塚教授の執刀による徹夜の大手術で死の一歩手前で生還できたのである。現代医学には多くの間違いがあると畑中博士はいっていたが、外科の技術だけはすごいものだと逸平は考えていた。今は薄化粧した恵美の健康そのものといえる、そして美しさが加わった横顔をみながら……
 もしも、山本という元上司がいなかったら、また山本の親友に畑中博士という著名な内科医がいなかったら、恵美のせっかく助かった尊い命が、今度こそ消えることになっただろう。抗癌剤や放射線の激しい副作用に苦しみながら……
 抗癌剤や放射線の激烈な副作用でただでも衰弱した患者の体力が、いっそうに損なわれて命を縮めていく癌患者たち。医学の専門知識などまったくもたない逸平と恵美である。山本や畑中博士の助言がなかったら、ただ医師の指示に従うほかない。そして、多くの癌患者たちと同じ道をたどったことだろう。
 今の恵美はどうだろう! 倒れたとき、いやそれより10年以上も前に遡ったかのように、元気さと若さをとり戻しているのだ! 胃の全部を切除したほかは何の治療もしていないと鬼塚教授は病室で伝えてくれた。それなのに、恵美のこの回復ぶりは教授がいったように奇跡としか考えられないじゃないか! 恵美自身のパワーでここまで治してしまったのだ……だが、恵美の体には手の施しようがなかったという末期段階の癌が幾つも残されているのだ……元気そうに見えるが、いまも残された癌が進行しているのかもしれない……癌がさらに広がっていく様子を思い浮かべた逸平の脳裏には幸福感から一転して不安感が頭をもたげてくる。

   今の恵美のこの元気さは一時的なものではないのか
   また、すぐ倒れてしまうことにならないだろうか

 しかし、畑中博士の自信に満ちた話を思い出すと、やはり希望が甦ってきた。『古来から伝えられている、慢性病に特効とされる断食療法を信じなさい。癌は典型的な慢性炎症の疾患なんです。癌治療で断食療法に優る治療はありません。いわゆる癌組織に対する兵糧攻めです』

 やはり、畑中先生の指示による断食療法に恵美をゆだねることが
 いちばん賢明なことに違いない 先生は恵美のために治療策や退院の手続きまでも
 直接、鬼塚教授に申し入れてくれたんだ 残された道はただ一つ
 畑中先生の指示にすがることだけ。畑中先生を信じるんだ、逸平!
 何を迷っているんだ逸平! しっかにせんか!

 もう一度、タクシーの窓から後ろを振り返る逸平。もう帝北大学病院のそびえるような建物は見えなくなっていた。



 自宅に帰った翌日、恵美はもう床上げをする。まだ寝ていなくてはだめだという家族に恵美は、「もう、寝てなんかいられないの、体のほうが動いてくれって、叫んでいるみたい……」といって寝ていようとしない。あの耐えられなかった胃の痛みが消えてしまったことが、たまらない喜びだった。そして、体の奥から湧き上がってくる不思議なパワーの感覚も。
 この日、恵美の元気さに安心し亮子はみなにこれからのことを頼みながら青森へ帰る。空港まで日曜日ということで家にいた博樹と正樹が送っていく。
 恵美は自分の体に残されていると逸平が教えてくれた幾つもの癌などまったく気にならない。その癌を自分の力で追い出す自信をもっていたからだ。それを思うだけで、一層に強いエネルギーがうまれてくるのを自分自身の感覚でとらえていた。

 わたしに取りついた癌よ 聞いてる? わたしは、あんたたちに決して負けないわよ!
 これから、あんたたちに打ち克つため、断食で頑張るんだから
 わたしの体に巣くっている癌たちよ、覚悟してなさい!
 かならず、あんたたちを、一つ残らず追い出してやる!
 わたしは、あんたたちに負けるわけにはいかないの
 これからが、わたしの幸せな人生の始まりなんだから
 いいこと? かならず、全部追い出してやる、覚悟してなさい!

 長いあいだ、苦しみと悩みの根源になっていた正樹が、これほど母想いの子に変わるとは想像すらしていなかった。これまでの手に負えなかった野性のトラが突然、おとなしいネコに変身した極端ともいえるこの事実は、恵美にこれからの幸せな人生という生き甲斐になった。やさしく母を想いやってくれる正樹をいつも抱きしめてやりたい衝動にかられる恵美。また愛する梨香や博樹、そして逸平がいる。やっと幸せをつかんだ自分のためにも癌に負けることは出来なかった。
 その強く固い意志、そして幸福への生き甲斐の盛り上がりが、恵美に奇跡ともいえる神秘的なエネルギーを無限に湧き上がらせている源になっているに違いない。床上げをした日から別府へ出発する日まで家事のすべてを自分でこなしてしまった恵美。孫たちの世話のため長崎から来ている逸平の母、和江は手持ち無沙汰になってしまった。
 いま、ここにいる恵美は健康な主婦そのものなのだ。
 東洋医学療養センターの入院時検診で分かったことだが、恵美の癌腫は畑中先生から郵送されてきた外賀綜合病院によるCT写真と比較したとき、どの癌腫も30%ほど縮小していた。外賀綜合病院へ緊急入院したときから、わずか3週間ほど、そして胃の摘出以外には、癌治療と称することは何もうけていないのに…… 実際は逸平の脳裏をかすめたような進行状態とは逆に縮小への経過をたどっていたのである。恵美が描くイメージどおりに……
 胃の全部摘出を受ける1週間ほどまえから、痛みと食欲不振で食事らしい食事をしていなかった。ほぼ断食と同様の状態がずっと続いていたのである。このことにより、造血材料である食べ物が乏しくなったため、体の応急機構が作動して体内で今いちばん不要なもの、すなわち癌腫から血液の源とすべく分解していく…… これこそ畑中博士がいっていた千島喜久男博士が提唱していた『体組織の可逆的分化』による現象である。そしてさらに、この過程を早めたのが『癌などに負けてなるものか』という強い精神力であったことはいうまでもない。
 『心身一如』……病気の治癒への過程で重要な要件となる条件を東洋医学療養センターに入院する前から恵美は得とくしたのである。外賀綜合病院の医長、堀口、また帝北大学病院の第3外科部長、鬼塚教授もともに恵美の余命は1-2ヶ月と予測していた。それなのに恵美の体に残された幾つもの末期とされ放置されていた癌腫のすべてが、縮小を始めていたのである。それも癌治療というものを何ひとつ受けていないのに…… 癌腫の自然縮小という経過がごく自然の現象として起きることなど、現代西洋医学の「定説」を神の如く信奉している医学者たちには、理解できるはずがない。鬼塚教授のように特異な抗体をもつ奇形体だとか、地球外生物、いわゆるエイリアンとして決めつけるほかないだろう。自然現象を真摯に、注意深く観察する姿勢がなく、そして現象の前後の過程を、連続的に観察することなく、目前、いわゆる現在のものだけしか捉えようとしない現代自然科学者には理解できるはずがない。


 10月1日、その日の羽田空港の空は、今にも雨を降らせそうな厚い雲に覆われていた。気象情報では東京地方は昼前ころから雨になるといっていた。
 平日であっても羽田空港は一日中混雑している。各航空会社の発券カウンター前や搭乗カウンター付近は人々が群がっていた。そんな一角に恵美とその家族がいる。逸平と母の和江、梨香と正樹もいた。正樹はどうしても母を見送るのだといって……博樹は登校している。
 「恵美ちゃん、体は疲れてないの? あんなに、仕事という仕事をみんな、こなしちゃって……」
 和江が心配そうに恵美へ問いかける。
 「大丈夫、お義母さん。元気はつらつです。これから、しばらくのあいだ、お願いします……」和江に頭を下げる恵美。ベージュ色のワンピースに薄く化粧した恵美の顔には、これから癌治療のために入院する人とは思えない艶がある。元気になって退院した人のように。
 「安心して治療してくるのよ、こちらのことは心配いらないからね……」
 「すみません、お義母さん」笑顔に以前のような愛らしさが戻った恵美。そんな恵美に和江はやさしく微笑みながら頷く。
 「逸平、忘れ物はないね……」
 「うん、ないよ。カネは十分に持ったし、向こうへ行ってから必要かと思われるものは、何回もチェックしてあるからね」足元に置いている大きなバッグを指差しながらいう。
 「そうかい、それならいいけど、逸平はしっかりしているようで、肝心なところで抜けていることがあるからね」和江は何処の母でもそうであるように、息子が心もとなく思えるようだ。
 「そんなこというなよ、母さん。オレのメンツがまる潰れになるじゃないか……」そういいながら逸平は恵美の顔を見る。
 「じゃ、上の出発ロビーへ行くね。もうすぐ搭乗が始まる時間だから。梨香も正樹も見送り有難う、留守のあいだ、頼んだよ」
 「うん、お母さん、頑張ってきてね、オレ手紙出すから……」正樹が泣きそうな声でいう。
 「ありがとう、正ちゃん、手紙ちょうだいね。お母さんも書くから、梨香ちゃんもね。ありがとう……お義母さん、すみません……」恵美の目から涙がこぼれる。正樹のやさしい言葉が嬉しくてならなかったのだ。
 「じゃ、行ってきます」見送ってくれた家族たちに逸平が軽く手を挙げると、恵美は小さく手を振りながら搭乗ロビーへのエスカレーターへ向かう。
 「頑張ってねー!」という正樹と梨香の大きな声が、周囲の騒がしさを跳ねかえして、恵美の耳にも聞こえてきた。その声に恵美も振り返りながら大きく手を振って応える。
 それから20分ほど後、逸平と恵美が乗った大分空港行きのA320型機は定刻通りに離陸し高度を上げながら鉛色の厚い雲のなかに姿をかくした。


 別府市は細かい雨が降りしきっていた。大分空港からの空港道路は雨天ということもあり渋滞している個所が多い。二人が乗ったタクシーは2時間近くもかかってようやく、鉄輪温泉にある東洋医学療養センターに着いた。ここ鉄輪温泉は別府市の温泉街から少し離れたところにある。
 チェックインの時間である午後1時にはまだ時間がだいぶある。軽い食事をと思ったが、センターの近くにはそれらしいレストランや喫茶店はなかった。重い荷物をもって、周囲を歩いていくと、小さな喫茶店を見つけ、ようやくサンドイッチと紅茶で昼食をすます。
 恵美は一切れ食べただけで、もう食べられない。もう満腹だといって笑う恵美。胃がなくなってしまったのだから、食べたものが溜まる個所がない。しばらくは非常に少食となることだろう。
 そんな恵美だが、今までの胃の激痛から解放されたその嬉しさだけでも不思議なパワーの源になっているようだ。
 しばらく喫茶店で時間をつぶしてから、1時ちょうどにセンターへ着いた。広い通りに面して4階建ての白いビル、それを挟むようにして白い3階建ての鉄筋ビルが2棟ある。センターの敷地周囲は背の高い金網のフェンスで囲まれているようだ。玄関の前にはよく手入れされた築山があり、数本の熱帯樹らしい樹木や、大きな庭石が置かれていた。
 玄関がある建物の屋上には高いポールがあり、緑十字の旗が弱い風を受けて、わずかに、なびいていた。ポールの横には白地に緑の文字で『医療法人徳水会 東洋医学療養センター』という電光式らしい看板があり『診療科目 内科 心療内科 小児科 外科 消化器外科 形成外科 肛門科 産婦人科 東洋医療科 放射線科 救命救急センター』としるされている。救急指定という赤い文字も。
 ここは断食センターではなく救急指定になっている総合病院だった。東洋医学という名から断食道場だけの簡素な建物を想像していた逸平の予想は大きく外れてしまう。
 玄関を入った右側は薬局と会計になっている。その前に並ぶベンチには20人ほどの人が座っていた。正面には大きな一枚ガラスのドアがあり、そのドアには『ロビー室』という白い文字がガラスにある。ブルーのカーペットとソファの一部が見えた。
 逸平は事務室の「入院受付」と言う表示がある窓口に向かう。中年の女性とまだ、十代と思える若い女性が座っていた。清楚な白衣姿だ。
 「ご苦労様さまです。ご入院でいらっしゃいますか?」中年の女性が立ち上がり笑顔でいう。
 「はい、東京の国立内科小児科病院の畑中先生から予約を頂いた姿といいます。姿逸平と恵美の二人でお願いしてあります」
 「はい、ちょっとお待ちくださいね……」机上のパソコン・キーボードを叩くと直ぐ頭を上げた。
 「はい、30日コースでのご予約ですね?」
 「ええ、そうです」
 「姿さまのお部屋は東館305号室です。後で係りの者がご案内しますね。ご案内する前に、申し訳ありませんが今、お持ちになっていらっしゃる現金を、こちらでお預かりすることになっておりますのですみませんが……お渡し下さる金額は予めご確認下さいね」」というと係員が脇のキャビネットから南京錠がついた分厚い布袋を取り出して窓口のカウンター上に置く。
 「すみませんね、以前はこんなことしなかったんですよ……」と申し訳なさそうにいう。
 「……五年ほどまえのことですけど、ここで断食療養中の患者さんが夜中に苦しみだしましてね。コールボタンで看護師が駆けつけましたらお部屋で七転八倒のひどい腹痛で苦しんでいたんですよ。すぐ救命センターで診察したところ、腸閉塞を起していることが分かり、当直医が緊急手術して命は取り止めましたが、小腸内からは沢山のパンが出てきたんです。当直監視員のちょっとした隙に公園近くにあったコンビニへ行ってアンパンを4個買ってきて部屋で食べたそうです。本人がいうには……」
 逸平から預かった現金を2回数えると、伝票に金額を記入するのだが、ずっと話を続けていたのに逸平は驚く。金額も逸平が確認して手渡した額とぴったりだった。
 「……そんなことがありましてからは、退院されるときまで、現金はすべてお預かりすることになったんです。ほんとにすみませんね。院内からのお電話や、ここの売店でのお買い物は、後でお渡しする院内専用のキャッシュカードをお渡ししますので、それをお使い下さいね。清算は退院されるときに一括で清算して頂きます。はい、すみません、ここに姿さまの確認サインを頂けますか?」複写になった「現金お預かり票」と印刷された伝票にサインすると係員に渡す。
 「はい、すみません。これは姿さまに保管しておいて頂くお預かり控えです。どうぞ、失くさないようにお願いしますね」伝票を逸平に渡すと現金袋に南京錠で施錠した。
 「はい、確かにお預かりしました。これは院内から電話をされるとき、また売店でお買い物をされるときの、病院内専用のキャッシュカードです。電話はロビー内に6台の公衆電話があります。なお、病院内では携帯電話の使用は、指定個所以外では禁止されていますからできるだけ、公衆電話をお使い下さい。ただ、売店も含めてご使用金額の限度は一枚につき50万円となっていますのでご注意下さい」
 渡されたカードは一般のクレジットカードよりかなり分厚い。カードの表には「徳水会キャッシュカード」という金文字が打ち込んであった。珍しそうにカードの裏表を見る逸平だ。
 「それではお部屋のほうへご案内しましょう、森山さん、お願いしますね」左に座る若い女性にいう。
 「はい、わかりました」若い職員は明るい声で答えると横のドアを開けて出てきた。
 「お荷物、お持ちしましょう、どうぞ……」逸平がもつ大きなバッグに手をそえる。
 「ありがとう」逸平はバッグを渡したものの、若い職員は背が高くない。提げてみたが底が床についてしまうため大きなバッグを胸に抱えてエレベーターホールへ歩いていく。
 「大丈夫? バッグか大きいから……」と逸平は女性職員を気遣っている。
 「はい、なんともありませんよ、慣れていますから」

 エレベーターから降りて部屋へ向かうベランダ式の通路から、庭園を見下ろすことができた。松やカエデ、シュロ、モクレンなど、様々な樹木が植えられ、花壇にはコスモスのほか名が分からない数々の花がその美しい色を競いあうように咲き誇っている。この通路は中庭全体を見下ろすことができた。中央近くには大きな池がありその周囲には大小とり混ぜた岩が池を囲むように配置されている。庭園の全体が手入れされた芝生に覆われている。純和風の庭園だった。
 「すばらしいお庭ね! 芝生の緑がきれい……」恵美が庭園の美しさに立ち止まっている。
 「きょうは、あいにくの雨ですけど、お天気のいい日にはもっと芝生の色が映えるんですよ。別府は暖かいですし、ここの地面も温泉熱をもっていますから、年中枯れることがないんです。このお庭を毎朝、雨天の日以外は東洋医療科に入院しておられる方々にお掃除して頂いているんですよ、ご一緒にね……」案内の女性が大きなバッグを胸に抱えたまま説明してくれた。
 「皆さんと一緒にお掃除するのね、楽しみだわ……」嬉しそうに逸平をみる恵美。
 「掃除の日課か……まったく好きじゃないけど、日課になっているんじゃ仕方がないよな」
 逸平は気のない返事をする。家にいても庭掃除など一度もしたことがない逸平である。
 「そんなこといって……仕方のない人ね、やり始めたら楽しくなるわよ……」
 「ま、何はともあれ、こんな所なら一ヶ月くらいなら余り苦痛を感じることもなく済みそうだな」
 と、逸平は呟くような声でいう。

 「はい、こちらがお部屋です」
 305号室という部屋NOの下には「東洋医療科と標示された白いプレートがあるが、まだネームき記入されていない。
 「わたしたちの名前はこれから入れられるのね」と恵美がプレートを指差していう。
 「いえ、もう入力されていますよ。ただ、常時標示しておきますと、ご入室になっておられる方のプライバシーに関わることでもありますので、ご入室の方を確認するときには、このプレートのカバーを軽く押すんです。このように……」
 係員が軽く押すと、白いプレートが水色に変わり『東洋医療科 姿 逸平様 恵美様 主治医・水上利文』という液晶式の文字が明るく標示され、指を離すともとの白いプレートに。
 「わあ、おもしろい。わたしも、やってみる……」はしゃぐ恵美である。
 部屋は六畳の和室だ。正面の大きな窓の外には黄金色に実った稲や、既に刈り取られている田が、モザイク模様を作っているのが見える。左側の小高い丘の斜面には大小の岩が隙間なく転がっているだけで草木はまったくない。岩の隙間のあちこちから、白い蒸気が勢いよく噴き上がっていた。
 「わあ、すごい! 水蒸気が上がってる! まるで山の中の温泉にきてるみたい……」
 「この辺りは別府温泉の一部の、鉄と言う字に輪を作るの輪と書いてカナワ温泉っていうんです。お湯の量は多くて、この病院でも五箇所に浴場が造られているんですよ。お湯は24時間出ているんですけど、皆さんが患者さんということで、夜の十時から翌朝六時30分まではどの浴場も閉鎖されています。それ以外の時間でしたら休息時間を利用されて、天下の名湯といわれます鉄輪温泉のお湯を十分にお楽しみ下さい。どれもこの病院の施設ですからご自由に……」
 「ありがとう。あとでひと風呂浴びようかな、なあ、恵美」逸平がネクタイを外しながらいう。
 「それではどうぞ、しばらくご休憩下さい。20分ほどしましたら庶務課の担当者がお邪魔してこれからの日程についてご説明します。それからここでの服装ですが、トレーナーに着替えて下さいね。もし、お持ちでなかったら病院のものをお貸し致しますが……」
 「いや、大丈夫ですよ、二人とも持ってきていますから」
 「はい、それでは着替えを済まされて、しばらくお待ち下さい」案内をしてくれた若い職員は軽く畳に手をつき頭を下げると出ていった。応対のマナーがしっかり教育されている。
 「このお部屋、旅館のより少し狭い感じだけど、きれいにされてるわね。病院の一室というよりも観光地にある保養所みたい」
 掃除が行き届いていて畳にも汚れひとつなかった。床の間の花瓶には色とりどりのコスモスが容れられ、壁には池で泳ぐ二匹の錦鯉を描いた掛け軸がある。人の心をなごませるための雰囲気がこらされていた。長方形の黒びかりするテーブルには白いポットと茶托つきの湯のみが二つ、赤いお盆にのせられている。テレビがないだけで室内の様子は旅館の一室そのものだ。
 断食療法で長期入院する患者に少しでも和やかさを感じてもらうための心くばりだろう。それからしばらく後、白いカッターシャツに紺色の蝶ネクタイをした若い男性職員が部屋を訪れた。
 「きょうは、お遠いところをお疲れさまでした……」痩せ型で長身、縁なしメガネをした感じのいい若者である。髪は七分三分に分けられている。正座した膝に両手を置いて笑顔で挨拶した。
 「……わたし、この階を担当しております下村文太と申します。これから一ヶ月のあいだ、よろしくお願い致します」恵美も逸平も丁寧に頭をさげる。ふたりとも、この下村という青年の感じよさに、心のぬくもりを感じていた。
 「……いまどき、文太なんて珍しい名前でしょう? わたし、ほんとうに嫌いな名前ですが、こればかりはどうにもなりません。名前は昔ふうですが、れっきとした近代青年を自負しておりますので、よろしくお願い致します」ユーモアをまじえて下村は話をする。
 「また、この蝶ネクタイですが、二年前に病院長、淺川の鶴の一声でこうなったんです。緩んで歪んだ棒ネクタイは、対外的にだらしないイメージを与えるからということで男性は院長以下、医師も一般職員の全員がこの蝶ネクタイに変わったんです。皆が嫌がりましたが、病院長自らがするもんですからわたしたちも仕方なく……でも、今はやっと慣れました」
 「でも、モダンでいいわよ、感じいい……病院という感覚が薄れて、ねえ、あなた……」同意を求めて逸平を見る恵美。
 「うん、病院長の美的センスは抜群だと思うよ。その紺という色は落ち着きを誘う色だよ。病院を訪れる人たちの眼にもきっと感じよく映っていると思うな、わたしたちと同じに……」
 「そうですか、有り難うございます。お褒め頂いて……さあ、余談はこのくらいにして、このセンターのご説明をさせて頂きますね。まずこれから、一ヶ月のあいだ毎日、時間に追われるようなスケジュールが組まれていますよ。退屈はさせません。このカリキュラムに沿って生活して頂くことになります。一日があっという間に過ぎていく内容ですよ……」と大きな表を広げた。



(つづく)