長編小説 霧のなかの巨塔  第29回

   第二章 灯りを求めて

   


  ■ 雁 渡 り ②


 下村は大きな表をテーブル上に広げた。それはこれから毎日の日課表だった。新聞の1ページ分はありそうだ。

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東洋医療科 入院療養者日課表

起  床  06:45 浴場は6時30分から入浴可能です
室内清掃  06:45 ~ 07:15 洗顔・着替え、室内清掃 入浴も可
院長講話  07:20 ~ 07:50 各室で聴講
朝  食 ※08:00 ~ 08:45 食堂(減食・復食中の人のみ指定の席で)
休  息 ※07:50 ~ 09:25 本断食中の人 自室、ロビー室、入浴も可
指定診察 ※09:30 ~ 10:30 前日に時間指定で指示された人のみ。診察が終了した人から東洋医療科区域の清掃に参加
庭園清掃  09:30 ~ 11:30 雨天のときは第1~第3教室の清掃
休  息  11:35 ~ 12:45 本断食中の人 自室又はロビー室、入浴も可
昼  食  11:35 ~ 12:45 食堂・対象は朝食に準じます
経過診察  12:50 ~ 13:50 毎日実施 班ごとに指定された診察科で
 第1班 第1心療内科
 第2班 第2心療内科
 第3班 第1内科
 第4班 第2内科

※当日指定診察を受診した人は自室又はロビー室で休息 入浴も可
※診察が終了した人は自室又はロビー室で休息

公園清掃  13:55 ~ 15:10 鉄輪公園の清掃 雨天又は別に指示があったときにはビデオ又は映画鑑賞になります
休  息  15:15 ~ 16:25 自室、ロビー室、入浴も可
健康塾A  16:30 ~ 18:00 第3教室 担当 第2内科医長・水上利文
童 心 行  18:10 ~ 19:10 第3教室 ノートレタイム(童の心に還ろう)
対 象 本断食中の人 担当・本院職員
夕  食  18:10 ~ 19:10 食堂・対象は朝食に準じます
休  息  19:15 ~ 19:55 自室、ロビー室 入浴可
健康塾B  20:00 ~ 21:30 第3教室 担当 病院長 浅川勇一
就寝準備  21:30 ~ 22:00 就寝準備
消灯就寝  22:00

※東洋医学科浴場は22:00-翌朝06:30まで閉鎖します。入浴は休息時間を利用して下さい。なお安全のため、可能な限りお二人以上でご入浴下さい。
※この日課表は当日の都合によって一部変更することがあります。ご了承下さい。
※病院内における喫煙、飲酒、無断面会、無断外出は固く禁じられています。
※とりきめにご協力頂き意義ある療養の日々をお過ごし下さい。   以上
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 「うわー、なんてまあ! 一日中、分きざみで追いまわされるわ……」
 日課表をひとめ見た恵美は悲鳴のような驚きの声を出す。
 「勉強する時間もずいぶんあるのね。わたし、てっきり断食しながら、ゆっくりと一日を過ごすことができる骨休みを楽しみにしていたんだけど……」恵美は落胆したような声でいった。
 「ほんとだよ、まるで、新入社員の教育研修会みたいだよ」逸平はう唸るような声だ。
 「この、童心行というのはどういうことをするんですか? なんか面白そうね」
 「はい、楽しい時間ですよ。童謡の踊りから絵や文字のクイズ、なぞなぞなど、バラエティに富んだ内容ですよ。また淺川病院長からの心ばかりの賞品もあります」
 「賞品まであるなんて、楽しそう。でも一日じゅう、スケジュールに追われそう、大変だあ……」
 「入院された方、皆さんがこの日課表を見て、うんざりしたようなお声を出されます。皆さんがゆったりとした保養気分も兼ね合わせてこられるようですね。でも、本当は、ゆったりと自室で気ままに過ごしていると、空腹感というものが特に強まってくるんです。気持ちがすべておなかの方へ集中してしまうからです。ですが、このように分単位で追われる日課がありますと、空腹に苦しむ時間がかなり減ってくるんですよ。そんな空腹を感じるヒマを出来るだけ少なくしたのがこの日課なんです」二人を交互に見ながら下村は笑顔で説明する。
 「重症の患者さんも、やはりこの日課どおりに? お庭の掃除とか公園の清掃とか……」
 「このセンターでは入院されるとき、これからの断食療法に耐えるだけの体力があるか否か、精密な診察と検査をします。一人で歩けない人や内臓や筋肉、神経系に重大な障害があるかた抗癌剤で極度に体力が衰退しているような方は入院をお断りしています。そういう方は検査をするまでもなく担当医が診察しただけで分かりますから、すぐお帰り頂きます。ただ、東北、北海道とか沖縄という遠方から来られた方は、飛行機の便ということを考えねばなりませんから、翌日までの一泊だけのお世話はしております。人道上のことですからね。こういう方、ほんとうに沢山いらっしゃいますよ。すべてが病院で多量の抗癌剤投与を受けたあと、自宅療養という名目で退院させられた人たちです。これから、お二人も入院時検査を受けて頂きますよ……それから、これはお二人の名札です。院内では常に着けていて下さいね。班分けがあるときには、姿さんご夫妻は、名札に記載してありますように、第3班です……」
 「はい、第3班ですね、分かりました。ここへの入院が許可されたら、助かる可能性に期待をもてるということですね……?」
 「そういう可能性もあるということです。可能性というだけで、保証とはまったく関係はありませんよ。体力の個人差、病状の進行状態などが絡んできますからなんともいえません」
 それから、しばらく説明を加えたあと、日課表の縮小版を一枚置くと、この階の担当スタッフ下村は戻っていった。


 「下村さん、わたしたちのスケジュールは夕食後からだっていってたわね。これから入院診察を受けてから、夕ご飯までちょっと時間があるわよ。その時間少しお昼寝しましょうよ、入院許可がでたらだけど……大丈夫よね、わたし、こんなに元気なんだもの……」と恵美はいうものの、少し心配そうな顔になる。
 トレーナーに着替えている二人はテーブルを挟んでお茶を飲んでいる。旅館の部屋に落ち着いて、一息ついているというような感じだ。
 「なあ、恵美。それだけ元気になったんだぞ、誰がみても何処が病人だろうと思えるほど……」
 「やっぱり? 自分でも日が経つごとに力がどんどん湧いてくるように思えるの。何処からといえない体の奥底から……不思議としかいえないわ……」
 ピピピ、ピピピ……床の間に置かれた電話が鳴る。慌てた逸平は膝をテーブルの角にぶつけながら立ち上がり受話器をとった。
 「はい、姿です……はい、そうです……はい、第2内科診察ですね……はい、私も?……はい分かりました、いま直ぐですね……はい、わかりました、お願い致します」
 「恵美、これから直ぐ入院時検診だって。オレも一緒に診察だってさ」逸平は不満げな子どものような顔になっていう。
 第2内科診察室の前の通路にはベンチが壁にそって3つ置かれていたが、逸平以外は誰も座っていない。しかし、その隣りの第1内科というプレートが下がった診察室の前には十人ほどの人が立ったりベンチに座っていた。第2内科での恵美の診察はもう始まっていた。逸平は通路で待たされている。患者ではないから後まわしになっているのだろう。

 診察室で恵美の前にいる主治医の水上利文は五十歳を少し過ぎたあたりかと思われるが、髪は白髪が目立つ。痩せた体だが、顔の皮膚は若者のような張りと艶をもっている。黒く太いフレームのメガネの奥には柔和だが精悍そうな目が恵美を見ていた。驚異を見る驚きの表情で……
 「姿さん、すごいですね! あなたの全身からは強烈なエネルギーが放射されています……こんなに眩しいほどのエネルギーを放射している方にお会いしたことは初めてです! 実にすごいエネルギー放射だ……」担当の医師がそんな驚きの声を上げるのを唖然とした表情で見ていた恵美だったが、みるみる不安がつのる顔になる。
 「先生、何か悪い徴候が出ているんでしょうか?……」怯えたような震えた声で水上にたずねる恵美。顔がこわばっていた。
 「悪い徴候……? いやいや、とんでもない。すみませんでした。大きな声を出してしまって。ほんとうに驚いてしまったものですからね。悪い徴候なんかではない、まったくその逆の実に素晴らしい状態です。よほど強烈な神秘的なエネルギーが体に生じていないと、あなたのように輝くような放射現象、科学的には強烈なオーラというものは生じないのです」
 水上の顔は恵美のエネルギー放射を見て感動したのか紅潮していた。
 「木村君、ご主人の姿逸平さんを呼んでくれ……」水上はそばに立つ看護師に指示する。
 通路で待っていた逸平は急に名前を呼ばれてギクリとした。通路にいた逸平には、診察室内での様子など分からない。医師から何か悪い宣告をされるような恐怖感に襲われた逸平。心臓の鼓動が耳に聞こえるほど高鳴っていた。顔もこわばっている。
 「はい、すみません、家内になにか……」恵美の脇に立った逸平の声は消え入るように小さな声だ。顔は引きつっていた。
 「やあ、姿さんのご主人、まあ、そんなに怯えたような顔をなさらないで……」
 水上は逸平の顔を見ながら笑顔でいう。
 「あなた、わたしの全身から、眩しいほどのエネルギーがいま放射されているんですって。わたしにはぜんぜん見えないんだけど……」
 「奥さんの超エネルギー放射は強烈なものですよ。あ、木村君、そこの折畳みイスをご主人にもってきてくれ、うん、ありがとう、ご主人、ま、そこに座って下さい……」水上は逸平にイスを勧めて座らせると逸平と恵美にその超エネルギーについて説明を始めた。

 「……そんなようなことから、あなたに癌腫があることに疑問さえ感じます。もちろん、ここへ入院されたのだから、当初には癌腫が当然にあったはずです。しかし、この強烈なエネルギーが生じている体内に、癌腫は存在できません。体内の環境によって癌細胞が無害な血液に分解されるんですよ。自然にね。ですから、いままであった癌腫は分解されてかなり縮小している筈です。それはこれからの検査ではっきりしますよ」
 「……………」恵美には嬉しい水上医師の説明だったが、何んといっていいのか分からない。ただ水上医師の顔を見ているだけだった。
 それから一時間余りほどの各種検査によって水上の推測どおり、恵美の癌腫は畑中副総長から直接に送られていた当初のCT写真と比較したところ、どれも40%以上縮小していることが、病院長の浅川も立会いのうえで確認された。ことに食道にあった深く組織を浸潤していた癌巣は半分以下にまで小さくなっていたのである。何の治療も始めていないのに、あの緊急手術からわずか3週間たらずのうちに、自然治癒への軌道にのっているのだ……
 現代の医学、科学をもってしてもなし得ない驚異の事実が起きていた……このことについて浅川病院長は、胃の全摘出によって食事の摂取量が激減するという断食と同様の結果となったうえに、癌に負けてなるものかという炎のような激しい信念が、患者に次元を超えた超エネルギーを発生させ、その作用で癌腫の分解を驚異的に早めているのだろうと恵美や逸平に説明する。
 浅川も水上も断言した。これからの一ヶ月の療養で恵美の体を蝕んでいた癌巣は完全に消滅するだろうと。現在の体力、そして超エネルギー、いわゆるオーラの現出状態から、数週間も経たないうちに完全治癒するという、この病院でも初めてといえる記録的な結果が生じる可能性が高いとも水上医長は説明した。恵美も逸平も思わず歓喜の涙を止めることができなかった。
 二人はいう言葉がみあたらず、ただ浅川病院長と水上医師に幾度も頭を下げるばかりだった。心配している東京の家族に、今すぐにでもこの嬉しい話を伝えたかったが、この時間はまだ博樹や正樹は学校から帰っていない。はやる気持ちを抑えて夜になってから電話をすることに決める。


 余命は二ヶ月と宣告されていた恵美……その恵美が、このセンターへ入院する前からすでに,科学的証明が不可能なエネルギー、いわゆるオーラの体内産出という超自然的結果によって自然治癒への道を進んでいたのだ。なにが余命二ヶ月なんだ! なにが最新の癌治療だ! 余りにも現代医学のあやふやな癌宣告に、逸平は強い怒りを覚えた。ただ、あの胃の大出血で危篤状態に陥ったときだけは鬼塚教授による深夜の緊急手術で命を取り止めたことは事実。そのことについては逸平はあの大学病院での手術を担当してくれた鬼塚教授を始めとする第3外科のオペスタッフへの感謝の念は消えることはなかった。、だが、2回の緊急手術に至った真実が完全な医療ミスであたことを知ったら、その気持ちは大きく変わっていたことだろう。

 部屋に戻りお茶をいれてくれる恵美を見ながら、逸平は歓喜の感情を味わう一方で、恵美の余命を事務的に宣告した外賀総合病院の堀内医長、また帝北大学病院の主治医、大河内への憤りの思いを抑えようとしていた。
 幸運なことに、かっての勤務先の上司であった常務取締役の山本俊幸、また彼の親友である畑中辰太郎医博という著名な医師とのめぐり逢いによって帝北大学病院から抗癌剤治療が始められる前に、円満に退院することができたのである。帝北大学大学病院では長いあいだ恵美を苦しめてきた胃の癌腫は胃の全部摘出によって激痛と出血から解放してくれたが、その他の癌腫は手遅れとして放置されたままになっている。主治医の大河内はこれから抗癌剤による化学療法を始めて癌腫の縮小をめざした治療になるが全力を尽くすといっていた。
 その治療を分別なく了承し入院を続けていたら、畑中博士が説明してくれたように、怖ろしい抗癌剤や放射線療法の副作用によって今ごろは立ち上がることもできず、苦しみながら死を待つだけの体になっていることだろう。その姿を想像すると逸平は寒気さえ感じた。だが、堀内や大河内たちに憤りは覚えたものの、恨むような気持ちにはならなかった。誤った治療だとはいえ、医学界の常識といえる方法で懸命の治療をしてくれたのである。
 余命の宣告にしても彼らの治療実績を基盤として算定したものであり、治療に使用する抗癌剤や放射線療法にしても、副作用は強烈ながらも、そうしたものを使用することを規定した政治的な貧困が原因であり医師の責任ではない。批判されるならそういう医療システム自体であろう。
 そんなことを考えるとき、いま目前にいる、はつらつとした妻を見ることができるのは、山本や畑中たちの温情とお世話を頂いた、たまものに他ならないと、ただ心から感謝していた。
 家族への電話を終えたら、山本常務と畑中先生、そして南海汽船の権藤専務にも、きょうの嬉しい結果を報告しようと思う逸平だった。
 「あなた、ちょっとお休みになったら? 朝が早かったんだから、ね……」
 「なにいってんだよ、恵美。いうことが逆だよ。恵美が病気を治しにきていて、オレは恵美の付き添い人なんだよ、オレは元気そのもの、夕食まではまだ二時間近くあるから、恵美こそ、少し横になって休みなさい」「じゃ、いっしょに休みましょ? 枕や毛布は押入れでしょうね」
 恵美は立ち上がると逸平の背側にあった押入れを開ける。
 「あった、あった、沢山のお布団と枕があるわ。枕は三つ。入院する人が多いときには、このお部屋に三人が入るのね」恵美は枕と毛布を出しながら、改めて室内を見た。
 「そうだろうな、三人はちょっと窮屈だけど、患者が多いとはきには仕方ないさ」
 「はい、あなた、枕よ。横になって……」恵美は枕を逸平の後ろに置くと横になるよう促す。
 「ありがとう、恵美。オレが恵美を気づかってやる役なのに、恵美に気づかわれちゃって、まったく申し訳ないことだよ……」そういいながら横になる逸平に恵美は黙って毛布をかける。
 「さてと、わたしも少し眠るわね。安心したせいか眠たくなってしまったわ……」
 テーブルを隔てた向こう側に枕を置くと、恵美も横になる。
 「うーんっと腰を伸ばすと、すごく気持ちいいわよ、あなたもしてみたら?……」
 「ううーっと……ほんとだ、背伸びは気持ちいいもんだな。気分が晴れやかだから余計に……」
 「おやすみなさい、あなた」
 「うん、おやすみ、恵美……」そういって目を閉じる逸平。そんな逸平の瞼に、意識不明のまま救急車で運ばれているときの恵美の顔が浮かび上がる。外賀総合病院の内科医局で、堀口医長に恵美の余命は長くても二ヶ月だと宣告されたときの驚きと悲しみが昨日のことのように想い起こされてきた。あのときのように自分の頬をそっとつまんでみる。痛い……今の喜びは現実だった!
 恵美はあの奈落からほとんど自分の力だけで脱出したのだ!
 素晴らしい奇跡を見せてくれたのだ……ありがとう、恵美……オレの大事な恵美……
 オレには恵美しかいないのだ! もう恵美から離れない、離さないぞ!
 そんな逸平の想いのなかに一瞬、千鶴の顔が浮かんだときには、もう快い眠りのなかにいた。


 恵美が帝北大学病院を退院した翌々日の夜、逸平はくつろいだ気持ちで居間のテーブルで新聞を見ていた。テレビでは報道特集を放映している。
 恵美はもう、キッチンに立って夕食のあと片付けをしていた。そんな母を気遣う博樹と正樹が細々としたことを手伝っているようだ。恵美が入院しているあいだ、家の留守を守っていてくれた逸平の母、和江は自分がする仕事がないといって座敷や孫たちの部屋を掃除していた。
 恵美が家にいる! この事実は家族たちにとってこの上ない喜びだった。そして明るい家庭が戻ってきたのだ。逸平はいまの幸せに心から感謝していた。恵美の体に放置されたままの末期癌が残されているが、治癒への明るい道が開けている……恵美はきっと完治するのだ!
 そう、逸平は確信していた。
 テレビのニュースが続いている。『……次のニュースです。きょう、午前十時四十分ころ、神奈川県三浦郡の国道134号線で、六人が死亡するという大きな事故がありました……』という担当アナウンサーの声を、また自動車事故のニュースかと何気なく目を向ける。路肩に排除された原形を止めていない赤い乗用車と大破し燃えつきた乗用車と大型トラックがクローズアップで写し出された。道路上の数箇所には血だまりが残されたままで、事故の悲惨さを強調していた。
 なんというひどい事故なんだ
 これでは車に乗っていた人は助かるはずがないよ、これは即死だったろうな、気の毒に……
 逸平はみていたテレビの画面から目をそらすと再び新聞に目を移した。耳にはアナウンサーの声だけが聞こえてくる。
 『……運転していた品川区西五反田のスポーツインストラクター、高羽健太郎さん29歳と、同乗の会社員、三品千鶴さん、25歳が即死、後続の会社社長……』逸平は三品千鶴というアナウンサーの声を聞いたとき、全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。それからはテレビの音声は耳に入らない。頭のなかを煌めく矢で打ち抜かれたようになり、新聞も手から落ちていた……
 高羽健太郎……以前、千鶴が話していたことがある。テニスクラブのコーチだといっていた。
 食事に幾度か誘われたことがあるとも……その男だ、こいつは。この野郎、死の道連れに選りによって千鶴を選びやがった! どうして、千鶴を道連れにしたんだ! この馬鹿野郎が……
 千鶴! どうしてこんな男などとドライブをしたんだ、どうしてなんだ!
 月日の流れとともに、逸平の記憶から薄れていた男の名前……高羽健太郎。会ったこともない男だが、千鶴からその名前がでると言いようのない嫉妬心が湧き上がったことを覚えている。
 テレビの画面は前から次のニュースに変わっていたが、逸平は呆然と画面を見つめていた。
 逸平の目には優しく美しかった千鶴の顔が浮かんでくる。神戸に届いた千鶴の手紙には来春には結婚することになったと書かれていた。逸平との不倫の愛に自ら終止符を打って、新しい人生への出発を決断した千鶴……逸平には出来なかった愛の終止符を千鶴から決断してくれたことへの感謝と謝罪……そして寂しさと悲しさを噛み締めていた。

   オレが北海道旅行などに誘わなかったら
   千鶴のオレへの思慕に乗じて、なんと卑劣なことをしてしまったのだ!
   千鶴を死への道に送り出してしまったのは、高羽じゃない、オレだったんだ
   逸平! 貴様のせいだぞ、貴様のために千鶴が死ぬことになってしまったんだ
   どうする気なんだ、お前は!

 逸平の首筋を汗がつたい落ちている。千鶴の実家の住所も松山の海産物問屋という以外にはなにも分からない。逸平には弔電を打つことも葬儀の日取りを問い合わせることもできなかった。
 『奥様をどうぞお大切に……』と千鶴が神戸の逸平に宛てた手紙の末尾に書かれていた。
 そんな優しい手紙を書いてくれた千鶴が、それから二週間余りで、この世を去ってしまったとは……決して許されることがない不倫の愛であったが故に、二人の愛は激しく燃えた。その愛を永久に断つ決断をしたのは千鶴……いつか必ず別離がくる愛……逸平はいつもそう思いながらも、千鶴との愛に溺れていた。その愛と決別することなど逸平にはどうしてもできなかった。
 所在を隠したまま逸平の前から消えてしまった千鶴のこれからの幸せを心から願っていた逸平だったが、その愛する千鶴が凄惨な事故死をしてしまうとは……
 千鶴の死は逸平にとって余りにも衝撃だった。テーブルの下で両手を強く合わせてうなだれる逸平。キッチンから父を呼ぶ正樹の声もまったく耳にはいらなかった。

 「お父さん……お父さん、いないの?」 キッチンで母の手伝いをしていた正樹が大きな声で父を呼んでいた。だが、衝撃を受けている逸平には聞こえない。
 「お父さん、どっかへいってるのかな、それとも寝てるのか?」
 「お庭かもしれないわよ」恵美の声だ。
 「そうかもね、ちょっと見てくるね」そういってから居間に入るが逸平はまったく気づかない。
 「寝てんのかお父さん……お父さん!」大きな声を出して正樹が呼ぶ。
 「ああ……? あ、正樹、ちょっと眠っていたみたいだな」
 「お母さんがメロンを切ったから、キッチンへ来てって。おばあちゃんはもう来てるよ」
 「メロン? ありがとう、いま、行くよ」眠っていたふりをして立ち上がる逸平。家族の誰も知らない千鶴の存在である。その凄惨な死は自分の心の奥に秘めておくことである。
 だが、千鶴という名を恵美だけはしっていた。初島の宿からの問い合わせから、逸平とともに宿泊した千鶴が逸平の妻とされていたことが分かったからである。そのことに悩んだ末に恵美が職場の先輩である中垣内冴子に相談した結果が、南海汽船への放出処分に至ったことなど逸平が知るよしもない。知らないからこそいい方向へ向かったのかもしれない。
 その恵美もあの初島の宿からの電話など、もう記憶のなかから消えていた。「千鶴」という名前とともに。逸平はその夜、朝まで眠ることができなかった。
 やすらかな寝息で眠る恵美のかたわらで、幾度となくそっと寝返りをうつ逸平。閉じた目に過ぎ去った千鶴との想い出……千鶴と初めて結ばれた河口湖畔のホテルでのことがありありと浮かんでくる。そのほかの楽しかった思い出が走馬灯のように浮かんでは消えて行く……
 千鶴を死への運命に追いやったのは自分だという自責の念に苦しむ逸平。結果論ではあったが、それは事実だった。千鶴を北海道旅行に誘うことがなかったら、こんな悲惨な経過をたどることなど決してなかっただろう。
 神戸のマンションに届いた千鶴からの手紙を見たとき、ようやく不倫の愛と決別することができたということに寂寞感のなかではあったものの心のつかえが取れたような安堵があった。しかし、千鶴の凄惨な死を知った今は強烈な罪悪感となって再び逸平の心に重くのしかかってくる。
 悔やんでも、悔やんでも、詫びても、詫びても……千鶴の命が戻ることはない。また、逸平の罪が軽くなるものでもない。
 これから自分の生涯にわたって千鶴に詫び、冥福を祈り続けること。それが天から自分に課せられた責務なんだ……
 やすらかに眠る恵美の横顔をみながらそんなことを考えていた。千鶴がくれた手紙には、奥さまを大切に、と記されていた。これから恵美を大切にすることが千鶴の願いに応えることにもなるはずだ。これから、伴にできる人はこの優しい恵美だけなのである……
 カーテンのすき間から明るい夜明けを知らせる茜色の雲が見える。きょうも東京は好天のようだ。そのころ、ようやく逸平は深い眠りのなかにいた。別府へ出発する三日前のことである。



(つづく)