長編小説 霧のなかの巨塔  第32回

   第三章 美しき旭日

   


  ■ 落    葉 ②


 会議室の正面に掲げられた病院長、外賀萬蔵の写真を見ながら専務理事の大日向は会議室のテーブルを強く拳で叩くと、出口へと歩む。上着を片手にした長身の後ろ姿には、これから病院消滅までの残務処理への意気込みが感じられた。
 まもなく、自分自身も職を失う運命にあるというのに……


 事務局薬務管理部は本館二階の薬剤保管庫の一角にある。フロアの三分の二は薬剤保管のキャビネットと鉄製の薬品ダナが並んでいる。床はバイオレットのカーペットが敷かれ、残りのスペースは三方がベージュ色のパーティションで囲まれ、薬品ダナがある面は、透明のプラスチックの壁で囲まれ、その右端が出入り口になっている。
 四つずつ左右に並ぶデスクには、若い三人の女性職員が業務についていた。その奥に、薬品ダナのほうを向いて、課長の伊東がいる。両袖机の引き出しを全部開けるようにして、中のものをデスクの上にだしていた。したに置いたクズ入れの二つが紙クズやファイル紙でいっぱいになっている。それを手で押し込みながら、また一つの小さなファイルをそれごとクズ入れに捨てた。整理をしながら、時おり壁の時計を見ていた。四時十八分を示している。

 管理部薬務課のドアのノックする音がした。透明の壁から、三十人近いの男たちの姿が見える。ドアを開けて、四人が入ってきた。
 「品川中央警察署、捜査三課の五十嵐といいます」男は内ポケットから警察手帖を開いて女性職員に提示した。
 「伊東粂二課長さんは?」がっしりとした体格の刑事だ。薄い茶色が混じったメガネからは鋭い視線が室内をなめるように見回していた。
 伊東は下を向いたまま、ひたすら、破棄する自分の仕事に没頭していたが、品川中央警察という言葉を耳にすると、手が硬直したように止まる。顔をあげたその顔からはみるみる血の気が失せていく。立ちあがろうとしたが体がおもうように動かない。
 「課長の伊東粂二さんですね。ちょっとお聴きしたいことが多々ありまして、署までご同行頂けますか? ご多忙のところ、恐縮です。もちろん、任意ですよ」
 刑事の言葉は丁重だが、有無をいわせぬ迫力がある。
 「……はい、分かりました……」伊東の声は誰にも聞き取れないほど小さな声だ。
 「はっ? 何ですって?」刑事が大きな声で聞き正した。
 「……ごいっしょします……」衝撃で声が震えている。
 「よろしくお願いします、それから横手君、捜索令状を出してくれ」
 「はい、課長、どうぞ」横手と呼ばれた三十代ほどの刑事が茶封筒を渡した。
 「東京地裁の捜索許可令状です。薬務管理課と管理課、業務会計課、および関連部門の捜索をします。伊藤課長以外の役職の方の立会いをお願いしたいのですが」
 「はい、少々お待ち下さい……」応対にでていた若い女性職員が電話番号表をみながら電話の番号を押していく。その細い指が少し震えているように見える。
 「あ、専務さん、薬務管理課の平田です。いま、警察の方が来られて捜索の立会いに役職の方をといわれて……はい、課長はここにおられますが、警察に同行を……ええ、そうです……お願いします」
 「お待たせしました、いま専務理事の大日向という者が参ります。しばらくお待ち下さい」
 「お手数をかけました、有り難う」課長という肩書きをもつ男は軽く頭をさげる。
 その間、伊東は机の上に出したものを再び机の引き出しへ片付けようとする。
 「伊東課長さん、それに触れないで下さい! そして、皆さん、直ぐ立ち上がって下さい。 はい、これからは何にも触れないで、役職の方が来られたら直ぐ、下のロビーに下りて下さい。申し訳ありませんが。終わったら連絡します」男は命令調でてきぱきと指示する。部下たちを叱咤している日頃の調子が捜査基点となっている箇所の関係者にも出てしまう。
 ドアのノックとともに大日向が入ってきた。
 「ごくろうさまです。聞くところによると、会計課長の三橋君や内科の水田看護師長も任意同行とか……」さすが、大日向には動じているような気配はまったくなく笑顔でいう。
 「はい、お訊きしたいことが多々ありましてね。お話をきき終わったら直ぐにもお帰り頂きますよ、それから、そこの三人の職員さん、外に出て下さい」五十嵐も笑顔でいう。
 女子職員が自分たちの机に出された帳簿や書類を心配そうにみながら室外へ出ていった。
 「おてやわらかに頼みますぜ、次々と連れていかれては、病院の業務に大穴が開いてしまいますからな」そういいながら、大日向は伊東に目を移す。
 「伊東君、忙しいときに大変だけど、こちらの人たちによく事情を説明して、早く帰ってきてくれよ。そうしないと、うちは、ガタガタになってしまうぜ、まったく」そう伊東を励ます大日向。有印私文書の変造実行犯人が伊東であることなど大日向はまだ知らない。
 「じゃ、専務さん、立会い方よろしく願います。そして、女子職員の方たちは下のロビーで待って頂いていますが、適当な時間に帰ってもらって下さい。更衣室に行く時には係員が同行します。それから、横手君、打ち合わせ通りに岩船君他五名をここへ入れてくれ、横手、伊達、そしてそこの五人はこの薬務管理課の全域の捜索だ、私と長谷部君は伊東課長と署に戻る。特に横手君、くず入れのものはそのまま押収しろ。全部だぞ。それから、他のくず入れ、課長の机、引き出しの上や横、後ろ、ロッカーの中身、キャビネットもファイルの内容すべてを確認しろ、危うそうなものはすべて押収だ。天井裏も調べろよ。横手……」
 五十嵐はそういうと、若い刑事の肩を軽く叩く。
 「分かりました、課長」そういうと、ドアに向かって歩く。室外で待機している捜査係官に課長の指示と打ち合わせ通りの配分であることを伝えるためだろう。
 「それでは伊東課長さん、参りましょう。専務さん、立会い方、よろしくお願いしておきます」伊東を伴い大日向に軽く手を挙げ五十嵐はドアを開ける。その顔には、勝利寛が漂っているかのように大日向には思えた。
 任意とはいえ、連行されていく伊東の顔は今も蒼白だ。深く大日向に頭を下げると後を振り返ることもなく五十嵐たちに両側から挟まれるようにして出ていく。


 伊東はその夜、有印私文書変造及び行使の容疑で逮捕された。それから八ヶ月を、東京拘置所で過ごすことになる。担当弁護士から三千万円での保釈申請が出されたが証拠隠滅の可能性が高いということから申請は却下され、判決の言い渡しまで拘置所暮らしになってしまう。その間、自宅に残された家族たちは、周囲からの冷たい目や仕打ちにあう。高校でのイジメにあった長女は近くのマンション二十三階の階段踊り場から飛び降り、十八歳という若き命を自ら絶ってしまう。また、近隣の人たちからの冷たい仕打ちが続いていたうえ、長女の自殺という思いもよらない事件のため、妻はまもなく精神に異常をきたし、山形県米沢市の実家に引き取られていった。
 東京の大学に行っていた長男は大学を退学し今はフリーターとして生活費を稼いでいる。
 伊東の逮捕から半年も経たないちに、伊東の家族は世間から抹殺され一家が離散するという悲劇に見舞われたのである。伊東がわずかばかりの裏給与を得たばかりに、まったく罪のない家族を地獄の底へ追いやってしまった。
 伊東はその後の判決で一年六ヶ月の実刑を受け、弁護士が勧める控訴を拒否し、拘置所拘留期間の十ヶ月を差し引いた八ヶ月の刑期を終えるため、岐阜刑務所へ送致された。
 上司の三田村が懲役二年執行猶予四年という判決と比較すると、伊東は一段と重い実刑の判決だった。裏給与は完全なリベートだという検察の主張がそのまま通り、伊東もそれを否定しなかった。また書類を破棄していた証拠隠滅の現行犯ということも加算された結果であり不当な判決とはいえなかつた。ただ、本当に不運だったこと確かだった。
 この一連の事件で実刑の判決を受けたのは、薬務課長の伊東と、病院長の外賀萬蔵の二人だけだった。外賀は麻薬、外為、所得税法など、一審では五つの容疑が加わり禁固五年の実刑と罰金二億参千万円が言い渡された。直ちに弁護側は東京高裁へ即日控訴をしたが、異例ともいえる二週間後に、一審を支持し控訴を棄却するという判決書が届き、担当弁護士は最高裁へ上告しても判決がくつがえる可能性はないと判断、一審の禁固五年、罰金二億三千万円の判決が確定して収監されている。罰金は確定三日後に家族から一括納付されたという。
 伊東も裏給与さえ受け取っていなかったら、上司からの命令だったとして無罪、或いは執行猶予つきの有罪という形で終わったかもしれない。
 出所後の伊東の消息については知る者がいない。


 伊東粂二が品川中央警察署に任意で連行され、その日のうちに逮捕された翌日、各テレビ局は再びワイド番組を構成して『これが病院か! 悪魔の巣窟・外賀綜合病院』というような似たり寄ったりのテーマで、報道特集番組として放映した。『また新たな逮捕者』という見出しで逮捕者の名前を挙げ、何処で手にいれたのか、中学生時代の写真を入れ興味本位な内容にして放送していた。
 外賀綜合病院はマスコミ関係、ことにテレビワイド番組制作担当者の獲物にされた観がある。伊東粂二が逮捕されてからは外来で治療に訪れる患者はゼロになってしまった。
 入院中の患者は軽症、重症をとわず、また病院側が手配するまでもなく、家族たちの手によって先を争うようにして退院していった。

 百七十二名いた入院患者はわずか四日の間に二十八人になってしまった。大日向はこの残った入院患者をすべて帝北大学付属病院へ転院させた。外賀綜合病院の救急車二台と協力してくれた帝北大学病院の好意によってこちらの救急車三台も搬送に参加してくれたため、転院搬送は二日間で終わる。その陰には帝北大学病院の次期病院長、鬼塚喜八の次男がこの外賀綜合病院の内科医長、堀口亘であるため鬼塚が気配りしたものと知るものはいない。
 外賀綜合病院という都内でも一応は名が知れた救命救急センターをもつ総合病院が、事件の発生からわずか、 一ヶ月足らずのうちに病院としての存在をなくしてしまったという、この現実は、余りにも早すぎる崩壊だった。病院長自身が部下たちに命令して麻薬を大量に国外へ横流ししていたという前代未聞のとんでもない犯罪を続け自分の自由になる裏金づくりに部下たちとともに巧みな経理操作によって堂々とやっていたという事実からだ。
 一介の田舎にある病院院長の行為ではなく、一応は東京の有名病院の一角にあったこの病院がしでかしたこの犯罪は、病院ぐるみと言われても反論できない、とんでもないスキャンダルである。いまのようにテレビ、ラジオがくまなく受信できる国では、「悪事、千里を走る」という例え通り、あっという間に好奇心をもって広がっていく。しかし、余りにも早く訪れた外賀綜合病院の崩壊だった。何の法的処断がも下されないうちに自滅したのである。

 テレビの各局が外賀綜合病院の崩壊への過程をワイド番組を組み、競って放映している頃、恵美と逸平はテレビとは縁がない、東洋医学療養センターに入院していた。
 センターのロビーには当然に大型のテレビが置かれていて、誰でも見れるが入院患者がみていることは皆無といってもよかった。一飯病棟の病室には各ベッドにテレビが置かれていて下まで見にくる必要がないし、東洋医学科病棟の患者たちは一日のスケジュールに追われていて、テレビなど見る気にもならない。不思議なことに、ここにいるときは、世間への関心が薄くなるのだ。恵美や逸平に限らず皆がそうなってしまうのだから、訳がわからない。
 外界とのつながりがない孤島にいるような生活が、ひとつの安らぎになっているような気もする。そんなこともあり、恵美たちもここへ入院してからは一度もテレビを見ていない。
 何はともあれ、外賀総合病院の事件を恵美が知ることもないままに、過ぎようとしていることは実に幸いなことだといえる。
 いまはもう、搬送されてきた救急患者を担当した看護師が自分の医療ミスを苦にして自殺した……などという事件の発端など、どのマスコミでも伝える社はもうない。
 もっともっと視聴者の関心をえることができるネタには事欠くことがなくなったのある。
 病院長の架空取引による麻薬密売、外国への横流し、裏金づくりの脱税など、番組構成のネタは無限ともいえそうな現況なのだ。
 これからは若い命を自ら断った、松川由美のことや、その患者のことなど、紙面やテレビに顔をだすことなどないだろう。これは天のおぼし召しかもしれない。


 別府の空は、きょうも抜けるように青い。水平線上には少しの雲があるが、コバルト色の空に明るく眩しい午後の太陽が輝いていた。
 東洋医学療養センターの東洋医学科では、これから午後の作業が始まろうとしていた。
 玄関前には七十人近くの男女が各自にセンターの竹ぼうきを持って集まっている。どの顔にも癌治療のために入院しているということを窺わせる暗さはまったくない。いきいきとした活気にあふれていた。雑談で騒がしく、まるで小学生の遠足風景のようだ。
 みなが、この鉄輪公園の清掃が楽しみなのである。
 「はーい、皆さん、全員が集まったようですね」玄関から駆けつけた中背の若い男性職員がハンドマイクを使っていう。
 「はい、皆さんのお楽しみ、鉄輪公園の清掃作業です。きょうも好天です。元気に楽しく公園で作業しましょう! はい、皆で大きくひと声、掛け声です! はい、おーう」
 みんなが、てれることもなく、大きな声でおーうと唱和した。七十人ほどの人が大声を合わせると、近辺を圧するような大音量だ。
 「はーい、それでは、きょうは坊主地獄周辺の清掃です。これから三時まで私、堀川と、こちらの大舘がご一緒します、よろしく……」堀川が大きな声でハンドマイクなしでいう。大舘も堀川と一緒に頭を下げる。そんな二人に皆が盛大な拍手で応えた。
 「はーい、それでは出発でーす! 道の左側を三列でーす」マイクで堀川が叫ぶ。

 鉄輪(かなわ)公園の坊主地獄(ぼうずじごく)はセンターから歩いて十五分ほどだ。
 作業におもむく人の列はのんびりとしている。散歩しているような気分なのである。おのおのが相変わらず雑談しながらだから、早く歩けるわけがない。
 道路脇の側溝にあるコンクリート製ふたの間からも、道を外れた空き地の岩陰や地面からも白い蒸気が噴き上がっていた。勢いのいいものはシューツという音をたてて十メートル以上の高さまで噴水のように上がっているのもある。
 そんな、温泉地でなければ見られない風景を眺めて歩くのが、入院中の人たちにとって、大きな楽しみになっていた。列の後ろを歩く恵美たちも同じだった。
 恵美は出発したときから「白いブランコ」の曲をハミングしている。逸平には、こんなに明るく楽しそうにしている恵美を見るのは新婚時代以来のように思えた。
 「ねえ、あなた、おとといは金龍地獄だったでしょ。きのうは塩山地獄、わたしたち毎日、別府の名所見物をしているみたいね、観光旅行をして……」夫の横顔に話しかける恵美の顔は歩いてきたこともあり、ほんのりと紅潮している。この恵美が末期癌患者だったとは、とても思えない健常者そのものだった。
 「ほんとだよ、なかなか来れない有名な観光地だものな。しかし、恵美、よくここまで元気になってくれたね。力があふれだしているように見える。おなかは減っていないのか?」
 「ぜんぜん、少しは減った感じだけど我慢できないほどじゃないわ。あの手術をしてから、少し食べただけで直ぐおなかが一杯になっちゃうんだもの。空いてくるのも早いけどね。体が軽くて引き締まった感じよ、あなたは?」
 「減食四日目だろ、空腹感のピークなのかな。朝は薄い三分ガユと少しのニラ炒めだけのうえにお昼はなしだよ。目がまわるほどの空腹感さ。もしも、目前に食べるものが出てきたとしたらさ、飛びつくかもわからんな。ま、これは冗談だけどね。なにせ、腹ぺこ……」
 「かわいそうに、ごめんなさいね、わたしに付き合ってもらって。でも、あなたも、この断食が終わったらきっと、よかったなあと思うかもしれないわよ。体は軽くなるし、若返るし会社の女の子たちにまた、追い回されたりして……」
 「いまさら、もうそんな年じゃないよ、恵美。今の会社ではほんとに出社したときから、女性たちは冷たいね。不思議なほどに。とても残念だけどね」
 事実、南海汽船の運航部には女性社員が非常にすくないが、他の部門の女性たちも逸平に対する態度は冷たかった。これは逸平の考え過ぎだったかもしれないが……行き交うときも軽く頭を下げるだけ。ここへ移ってからまだ二ヶ月しかたっていないが、彼女たちとは事務的会話しかしていない。千鶴とのことが、この会社へもすでに暴露しているのではないかと思えるほどである。
 「ほんと? 可哀想な逸平さん。でも、わたしはそのほうが安心だわ」イタズラっぽく笑う恵美。その脳裏に瞬間、千鶴と言う名前が浮かんだが、すぐに消える。過去のことはもう水に流していた恵美だ。明るく楽しい家庭が戻ってきたいま、過去のことなど、ほんとうに気にならなかった。どうでもいいこと。これから再出発するところなのだ。
 楽しく、明るく生きていこう! そう心に決めていた。
 「安心してくれ、恵美。恵美だけが、オレの支えなんだ!」
 恵美がびっくりするほど逸平の声は大きかったが、周囲の騒々しさのために誰もきいたような様子はうかがえない。
 「あなたそんなこと、もっと小さい声でいってね。恥ずかしいから……」
 騒ぎながら歩いているうちに、緩やかな坂道を越えた。小山の向こうには、赤茶けた禿げ山のような大小の岩が折り重なり、その向こう側から煙のような水蒸気があがっていた。
 みなは喚声をあげて走り寄る。岩に取り囲まれた茶色い泥の池に、ぶくぶくと、大小の気泡が地底から噴き出している。急にあたりが硫黄臭くなった。立ちこめる水蒸気で向こう側を見ることができない。木材の年輪模様を模したセメント作りのサクのまわりには、平日とはいえ、たくさんの観光客が観光にきていた。
 「皆さん、この池が別府温泉の高温墳気帯のひとつ、坊主地獄です。池の温度は約七十度、別府八湯の一つです。これから一時間、と少々、この近辺の清掃をします。二時四十五分までに、またここへ集合して下さい、いいですね。遠くまでいって迷子にならないようにたのみますよ」引率係りの堀川がハンドマイクで大きな声を出していう。そんな様子を通りかかった観光客が怪訝な顔つきで振り返っていく。

 「すごーい! 出てくる泡がみんな、ほんとうにお坊さんの頭みたいね。でも、この池なにか不気味な感じがしない?」池の中をのぞき込みながら恵美がいう。
 「ほんとだ、池というより熱湯の泥沼だな。こんな明るい昼間でもこんなに不気味なんだから、暗くなってからだと、不気味というより恐怖を感じそうだね。このぶくぶくという音が一層に怖さを強調しているようだ」そういうと逸平は辺りを見回す。
 「さ、恵美、仕事にかかろうか」
 そういう逸平に、近くで同じように池を見ていた初老の男が近づいてきた。センターで逸平の部屋から一つ隔てた個室で療養を続けている一之瀬登太郎である。
 「姿さん、みんな団体旅行気分のようですな。そういう私もですがね……」痩せ型の小柄の体格だが、顔の皮膚はつやつやとして若々しい。だが、染めていないため白髪が目立つ。べっ甲づくりらしいメガネのフレームが若さをかもし出しているのかもしれない。
 「あ、一之瀬先生……」逸平が大きな声で答える、恵美も笑顔で会釈した。
 「姿さん、止めてくださいよ、『先生』なんて言葉は。一之瀬にして下さい。お願いだから」
 一之瀬は福岡市内の県立病院に勤務する内科医だ。恵美たちより六日早く入院していた。
 疾患は進行性肺癌だった。夜の健康塾で隣りの席にいたことから懇意なる。
 恵美たちの入院に快く世話をしてくださったのが、ここの病院長、淺川先生の親友である国立・東京内科小児科病院の副総長、畑中辰太郎先生だということを聞くと、目を丸くして驚いていた。逸平は一之瀬から聞いて畑中博士の著名さを初めて知った。
 畑中博士は呼吸器疾患、ことに小児喘息の治療では世界的権威者で世界の内科医で畑中博士の名を知らぬ者はニセ医者とまでいわれるほど日本を代表するほどの名医だった。
 畑中はこの東洋医学療養センターの初代病院長だったが、小児喘息治療の実績から東京の国立病院の副総長とし厚生省から招請されたものだという。
 あの慈愛に満ちた温厚な畑中博士が、日本はおろか世界の医師界に君臨する名医だったことに逸平は何か身がすくむような思いをしたものだ。
 翌日の休息時間に院内電話で都合を聞いてから、逸平の部屋を訪ねてきた。自分はステージⅡの進行性肺癌であることを告げ、現代医療は癌に対しても余りにも無力であり、自分は以前から癌に著効があるといわれている断食療法に身を賭け、家族の反対を押し切ってこのセンターに入院したいきさつを話してくれた。自分が現役の医師であることは、決して口外しないでほしいという約束のなかで……
 「や、すみません、つい、お約束をたがえちゃって一之瀬さん。ごめんなさい。しかし、ほんとうにお元気ですね。本断食中なのに。脱力感なんかはありません?」
 「いや、まったくありません、軽快そのものです。空腹感もすでに消えました。それにしても姿さん、ここのスケジュールはまったくよく出来ていますね。腹がへったという感覚が極力起きないように作ってある。日課で追われるようにしてね」
 「たしかに、おっしゃるとおりです。でも、わたしは、いつも空腹感にさいなまれております。まだ、減食期間のさなかだというのに……」路上にあったコンビに袋を恵美がもつゴミ袋にいれながら逸平がいう。周囲を見ても紙くずや空き缶は捨てられていない。
 「このあたりは、きれいだな、ゴミらしいものがなにもない」逸平が呟くようにいう。
 「ここにくる人のマナーがいいのかしらね。でも、おとついの金龍地獄はひどかったわよ。そこらじゅうにお菓子の袋や空き缶が堂々と捨ててあったし、おまけに、タバコの吸殻はいっぱい落ちてたし……こことずいぶん違うわね」
 「奥さん、それは観光客の心理かもしれませんよ。きたない箇所だと、もっと汚してもいいような気持ちになる。きれいな箇所だと汚すことに気がとがめる、そんなところではないでしょうかね、人の心理というものは……」
 「そういうこ……あら、」なにか、私たちを呼ぶ声がしない?」恵美が耳をそばだてる。
 「うん……? オレにはなにも……」そのとき逸平の耳にも自分の名が呼ばれていのに気がついた。
 「姿さーん!……」百メートルほど向こうから堀川が走ってくる。ハンドマイクと携帯電話をもって。携帯電話につけられたストラップの飾りが大きく揺れていた。
 「ああ、苦しい……姿さん、お客さんです……」息をきらしている堀川の声で、聞いているほうも苦しくなる。
 「お客さん?」逸平は怪訝な顔で問い返した。
 「大分県警の人だそうです。奥様が入院されたときの病院側の対応についてお聞きしたいとかで……センターの車が公園入口まで来ていますから、それで……」
 「病院の対応だって? どの病院のことだろう……病院のなまえを何かいってました?」
 「いえ、この携帯でいってきたところでは何も……」
 「そうですか、分かりました。家内もですか?」そんな言葉に恵美が不安げな顔になる。
 「いえ、奥様にはこのまま作業を続けて頂きます」
 「はい、じゃ、参りましょう、恵美、じゃな。一之瀬さん、すみませんが、家内をよろしくお願います」一之瀬に軽く頭を下げると、逸平は堀川とともに急ぎ足で歩いていく。逸平よりずっと背が低い堀川は歩幅は逸平とあわない。どうしても駆け足になってしまう。その様子は余りにもユーモラスで、恵美は懸命に吹き出しそうな笑いをこらえていた。


 「突然に病院にまでお邪魔して申し訳ありません……」
 ロビーのソファに座り、新聞を見ていた体格のいい五十歳前後の男が立ち上がって挨拶をする。真ん中から分けた頭髪が、なにか文学を学んでいる学者を思わせる。フレームのないメガネは理知的な感じを強調した。どうみても刑事とは思えない。
 「わたし、大分県県警の瀬合と申します」名刺入れから名刺を出すと丁寧に逸平に渡した。
 「瀬合さん……」といいかけた逸平の言葉が、受付の女性の声で途切れる。
 「姿さん……」
 「はい…?」後ろを振り向く逸平。そこへ女性職員が笑顔でいう。
 「よろしかったら、こちらの応接室をお使いになったら? そこは人の出入りがありますから……」事務所の右側を手で示して、気を利かせてくれた。
 「あ、すみません。ありがとうございます、じゃ、瀬合さん、あちらをお借りしましょう」
 そういう逸平に、瀬合はどうぞ、お先にというように黙って手で逸平を促した。
 事務所の一角がパーティションで仕切られている。本革張りの応接セットが置かれていた。電話台横のちいさなスタンドには白い小菊が数輪差された花瓶があった。
 やはり、この応接室のテーブルにも灰皿はない。全館が禁煙なのだ。
 「どうぞ……」とセパレーツのシートを瀬号に指し示す。
 「や、どうも、ご都合がおありのところ、突然お邪魔して誠に申し訳ありません……早急に姿さんにお願いしてほしいと、さきほど、警視庁から依頼がありましたものですから……」
 「警視庁から?」テーブルに置いた名刺を見る逸平。

   大分県警察本部
   第二刑事部 生活安全課課長
     警視正 瀬合 忠崇

 名刺の右上には逸平もよくみるあの警察のマークが浮印されていた。
 「はい、今朝ほど警視庁の担当者からお宅へ電話をさしあげたところ、お母さまがお出になられて、いま、ご夫妻でここに入院されているということを教えて頂いて……急ぐ用件でもありましたものですから、急遽、参上したようなわけで……」
 「それで、わたしへの用とはなんですか? 家内が入院した折りのことだそうですが……」
 逸平の口調は少し抗議じみたような接しかただ。
 「はい、姿さん、いま新聞やテレビで盛んに報道されている東京の外賀綜合病院のことはご存じですよね。奥様が救急搬送された病院です。九月九日に……」
 「ええ、よく知っています。ちかごろ、いろいろと騒がれているようですね。最近のことはここへ入院しましたから、新聞やテレビは一度もみていませんので、その後どうっているかは分かりませんが、それと家内の入院にどんな関係が……?」
 逸平は瀬合を睨むようにして問いかける。どんな事情があるにせよ、こんなところまで押しかけてくる警察の態度に憤りを抑えることができない。
 「はい、ご説明します。九月九日、午後一時四十三分、奥様は外賀綜合病院へ救急車で搬送されてきました。同日、午後十時二十分頃、胃内検のため、内科医長、堀口亘の操作によって胃内視鏡の挿入が始まりました……」
 瀬合は時おり手にもつ東京から送られてきたらしいFAXのコピーを見ながら説明する。
 「……奥様は搬送時からずっと意識不明のままだったんですが、意識を戻されたときの苦痛防止のため、堀口医師は短時間用の全身麻酔を麻酔医に処置させ、内視鏡の挿入を始めたそうです。挿入開始から約五分後に、堀口医師が担当する別の患者の容態が急変したという連絡が入り、そのとき助手として立ち会っていた准看護師、この准看護師とは、見習い看護師でひとりだけでは医療業務をすることが禁止されています。このとき堀口医師はこの看護師、松川由美に、しばらくの 処置代行を細かに指示して、べつの患者の処置をし始めて三分ほどあと、堀口医師の指示を間違えた松川が指示されていた内視鏡の挿入深度を大幅に超過して挿入したため、内視鏡先端が奥様の胃壁を突き抜けてしまいました。大出血によって看護師に呼び戻された堀口医師は、この病院では処置不可能と考え、内視鏡を挿入したまま、帝北大学病院へ緊急手術の依頼をし、救急車で搬送して幸い手術は成功しました。
 このままでしたら、私たちの感知するところではないのですが、事故を起こした准看護師の松川由美が翌日の午後、青函フェリーから投身自殺をしたんです。病院関係者や家族への遺書を残しましてね……」
 逸平は鳥肌起つのを覚えた。恵美の治療をしていた看護師が自分のミスを苦にして自殺していたとは……恵美が帝北大学病院に入院していたとき、病室に毎日、看護師が届けてくれていた新聞で、そんな記事を見たような気がしたが、それがこの看護師のことだったのだ。
 ……まだうら若い、看護師が気の毒に……と、そう思いながら、なんとなく見ていただけだったが、まさか恵美を治療していた看護師だったとは……
 あのとき、恵美が帝北大学病院へ緊急搬送されたのは、そんな事故によるものだったとは……あの医師はただ、治療中に大量出血が始まったと、簡単に説明していた……なんといういい加減な説明だ。自分たちのミスを隠して、あたかも自然のなりゆきのような顔をするとは……逸平は始めて知った真実に怒りの感情が一瞬燃えたがすぐ冷静になる。
 その恵美は、いま元気になってここにいる。いまさら、昔のことをとやかくいうことはない。結果はともかく、医師たちは懸命に治療してくれたのだ。その医師を訴えるようなことはできるものではないと、逸平は考えていた。

 「遺書の内容に驚いた所轄署となった函館南警察署が警視庁に病院の存在を問い合わせたことから、次々といま報道されているような……姿さん? お聞き頂いていますか?」
 瀬合は、目を閉じて、あの日の外賀綜合病院のことを思い起こしていた逸平に声をかけるが、思い出のなかにいる逸平には聞こえない。
 「姿さん…?」瀬合は少し声を大きくして呼びかける。
 「はい、や、すみません。寝ていたわけじゃないですよ。家内が緊急搬送された日のことを思いおこしていたものですから、それで何か?」
 逸平は慌てたようにソファから身を起こす。
 「いや、いや別に。ただ、姿さんが先ほどからじっと、目を閉じていらっしゃるから、お疲れのため、眠っておられるのかと思いまして、いや、どうも失礼しました……」
 「いやいや、こちらこそ。ちゃんとお話はきいてましたよ。看護師さんが自殺したというところまで……」逸平の目からはさきほどのような怒りの感情は消えている。
 「そうでしたか、有り難うございます。じゃ、話を続けさせて頂きます。そこで姿さんへのお願いなんですが、堀口医師の奥様への処置に関して被害届を出して頂きたいのです。堀口医師に対する、被害届です」話しおわると、メガネを外してハンカチでレンズを拭く。
 警察官らしくない柔和な目が逸平を見た。
 「私が堀口先生への被害届けを?」瀬合の目を食い入るようにみながら、いう逸平。まったく瀬合がいうことに理解できない、というような顔をしている。
 「はいそうです。いま本庁では、内科の堀口医師に業務上過失傷害罪の容疑を、今までの医師法違反に加えて、再逮捕するための裏固めをしております。現在の身柄拘束事由は、無資格の准看護師に、医療業務を担当させたという医師法違反ですが、自殺した看護師の口惜しさを考察しますと、やはり、看護師への違法な医療行為を命じた堀口医師の過失を追及しないわけにもいかず、また、姿さんに看護師の医療ミスだということを隠蔽したことも重大な欺瞞行為だと思います。かれを再逮捕し、起訴するためには被害を受けた患者さん、又はそのご家族からの被害届が必要なのです。どうぞ、ご協力頂けませんか? こういう悪質な医療ミス事件を根絶するためには、被害者のご理解を頂かないことには、捜査だけでは立憲が不可能なんですよ」
 「家内が緊急搬送されているとき、担当の医師は『また、大出血が起きました。そのため、これから緊急搬送します』とだけ私に説明しました。そんな医療ミスが起きました、なんていうことはまったく伏せたまま……でも、冷静に考えてごらんなさい、瀬合さん……」
 逸平は卓上の名刺を手にとりながら瀬合にいう。
 「……誰が、『看護師のミスでこんなことになりました、申し訳ありません』なんていうことを患者の家族の前でいいますか? そんなことをいう者はバカですよ。もちろん、事実を患者、或いは家族に述べることは、医師として、人間としての道徳上の義務であることは間違いありません。しかし、それはタテマエ論なんですよ。この世の中の社会人でどれくらいの人がそれを守っているとおもいますか? ほんのひと握りの人だけだとおもいますよ。
 もし、社会生活で正直な言動を強制されることになったとしたら、その世界を生き抜いていくことは出来ないでしょう。人間という生物はミスをすることが特徴である生物なんですよ。ミスをするたびに、何も知らない人に詫びることになります。知らない人は詫びをきいても何のことかわかりません。詫びた人の苦しみが残るだけです。
 ミスは普通、隠すのが常識。家内の担当医師だったあの人も、内心は責任問題で大きく心が揺らいでいたことと思います。もちろん、それを顔に出さず、平然としていたことには憤りを感じます。しかし、冷静に考えてみると、誰でもとることじゃないですか? 先ほどもいったように、自分の医療ミスという重大な事実を、患者の家族に告白する人間が何処にいますか? いたとしたら、そんな人はこの世の中を渡ることができない敗残者です……堀口先生先生だって他に方法がなくその看護師に様々な指示をして処置を任せたのですから、その先生の行為を私が批判し、被害届をだすようなことはできません」
 逸平はゆっくりと、だが力強い口調で瀬合を見ながら話を続けた。
 「まったく姿さんがおっしゃる通りだと思います。人間の心理として、不都合なことは隠しておきたいと考えることは当然でしょう。しかし、だからといって、それを正当なことだと認めることは刑事事件では、法の理論からいってできないのですよ、姿さん。ことに人の命にに拘わることなら尚更です。堀口医師は無資格者に医療処置を任せたのです。直接の行為者でなくとも、業務上の管理責任を問われるのが……」
 「瀬合さん……」逸平は瀬合の話をさえぎった。
 「法の解釈論をしていても、ここでは意味がありませんし、時間のムダです。まず、私の結論を先に申上げておきます。被害届などお出しできません。あなたは、被害といわれますが、私も家内も堀口先生から、実質的な被害などというものは何も受けていませんよ。看護師の誤った操作によって家内に大出血が起きたといっても、そのことによって家内が命を落としたとか、大変な苦痛をこうむったわけでもありません。何の害もないんですよ、瀬合さん。
 そして家内は今、元気に東洋医学療法で完治に向けて努力しています。
 また堀口先生がその看護師に処置の代行を依頼したのが違法だといっても、その場にすぐ資格をもった看護師さんが来るという保証はないんでしょう? 深夜のことですから。任せる人がいないといって放置されたら、家内はどうなるんですか? そんなときこそ、被害が生じてしまうことになるじゃないですか? 堀口先生の処置を看護師に委譲したことは不可抗力であると私は思います。
 堀口先生の対応、事実を隠蔽していたことはともかくとして、搬送するときの、てきぱきとした対応には感謝することはあれ、問題などまったくありませんでした。こういってはなんですが、帝北大学病院への緊急搬送という先生の決断によって家内の命が甦ったのだと思います。被害どころではありません。先生に感謝しています。ミスを苦にして自殺してしまったその看護師さんは、ほんとうにお気の毒というほかありません。ご冥福をお祈りするばかりです」そういい終わると、逸平はゆったりとソファに背をあずけた。
 「そうですか、分かりました。その旨、本庁に伝えます」瀬合はそういいながら腕の時計を見る。外国製らしい銀色の時計である。
 「それはそうと、姿さん……」瀬合は内ポケットに手帖を戻しながら笑顔でいった。
 「……ここの東洋医学というのは、やはり鍼とか灸とかいったもので患者さんの治療をしているんですか?」瀬合はスーツのポケットからタバコを出そうとするが、卓上に灰皿がないのに気付き、またタバコをポケットに戻す。
 「いや、違います。この病院の東洋医学科は鍼灸ではなく断食療法です」
 「断食といいますと、食を断つという字の通りの……?」
 「そうです。わたしもここを紹介されるまで、慢性の炎症性の病気、ことに癌治療に特効があるとは知りませんでした。この東洋医学科に入院しておられる人たちは、ほとんどが癌の人のようです。家内と同じようにね。いまの癌治療で使われている抗癌剤のような副作用はまったくなく、そのうえ、完治までの時間も非常に早い理想的な治療なんですよ」
 「へえー、癌の断食療法……そんな治療法があったんですね。私は癌の治療というものはいま病院で行われている治療が最高のもので、それ以外にはないと思っていました。断食療法というのは、そんなに効果があるんですか……」瀬合が身を乗り出すようにしていう。
 「ここへ入院された患者さんのほとんど百パーセントが全治或いは大幅な癌腫の縮小が確認されて退院、まだ腫瘍が残っている人は、数ヶ月おいて、二回めの断食治療をするために再度入院して完治をめざします。家内も入院してからまだ一週間も経っていませんが、もう、半分ほどに縮小していますよ。食道、膵臓、肝臓の末期癌だったんですよ。医師からは余命二ヶ月と宣告されて……」
 「すごい、そんなに重症だったんですか、奥様は!」瀬合は信じられないといわんばかりに、頭を左右に幾度もふる。
 「まったくです。わたし自身が信じられないほどの素晴らしい経過です。しかし、それがCT検査で確認されたのです。縮小しているのが。この断食療法は、今は故人となられた千島喜久男医学博士が、四十五年まえに提唱された、千島学説という新説の一部の理論を応用したものなんです。まえにこの病院の病院長で、今は東京の国立・内科小児科病院の副総長でいらっしゃる、畑中辰太郎先生がこの理論の応用をきめられたんです……」
 一時間近く、癌の断食療法の説明を受けて、瀬合は帰っていった。突然の訪問を丁重に詫びて……

 「そうだったの、わたしには何もわからなかったけど。看護師さんがミスをしたといっても、わたしはピンピンしてるのよ。それなのに被害届なんて……」
 鉄輪公園の清掃作業を終えて帰ってきた恵美は、逸平から恵美の治療に看護師による医療ミスがあったことを聞いても驚くことはなかった。もちろん、その看護師が自殺したことなど当然に伏せていた。いう必必要もないし、いうべきことでもなかった。



(つづく)