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長編小説 霧のなかの巨塔  第35回

第三章 美しき旭日

■かけはし①

恵美の心からは、以前のような夫への不信の感情はきれいに消えていた。

自分と一緒にこのセンターへ付き添い人として入院してくれた逸平である。

その心が恵美には嬉しかった。逸平の愛人だった三品千鶴が、友人とのドライブ旅行の途中で悲惨な衝突事故によってこの世を去ったことなど知るわけがない。

千鶴という女性の名は以前、初島の民宿からの問い合わせの電話で聞いたものの、一度も会ったことがない人である。その愛人が事故死したと聞けば、ふつう、妻という立場にある人は、それは天罰だと喜ぶだろうが、恵美の性格はそうではない。

恵美の心は余りにも優し過ぎる。人を責めるのではなく、そのように夫を仕向けた自分の不行届きを反省し、さらに愛人だった女性が、自分と同じように夫を愛してしまった不倫の愛というものに随分、苦しんだに違いないと思えて、憎しみの感情など起きない。逆に哀れみのような同情を感じるのだ。すべての原因は自分にあって、その結果を生じさせたと自分を責めてしまう……人を憎めないということは人間として美点であるかもしれないが、自分を苦しめる欠点でもある。もし、千鶴の死を知ったとしたら大変な苦しみにさいなまれたかも知れない。彼女を死に追いやったことは自分の夫への思いやりが足りなかった結果生じたことかも知れないとして……

 

「さあ、恵美、部屋に戻ろうか。もうすぐ起床時間だぞ、部屋の掃除をしようや」

「あら、もうそんな時間になったの? 戻らなくちゃ……」

恵美がベンチから立ち上がる。

「なあ、恵美、いつも思っているんだけどさ」逸平が改まったようにいった。

「なあに、あなた。急にあらたまっちゃって……」

「いや、そんな大したことじゃないけどね、ここの池のコイたち、ちょっと肥り過ぎだと思わないか?」池を元気に泳ぐ色とりどりの錦鯉を指差しながら逸平がいう。

そういわれてみると、どのコイも頭が小さくみえるほど、丸々と太っていた。

「ほんとだわ、そう言われると、どれも肥満体だわ。泳ぐのに体をくねらせているわね。体が重くて、うまく泳げないのよ、きっと……」恵美が笑いながらいう。

「だろう? 断食治療センターのコイなんだから、少々痩せていないとイメージ的に良くないんじゃないかな。ま、オレたちには関係ないことなんだけどね」

「あなた、今夜の健康塾のときに、淺川先生にいったら? あの池のコイ、みんな肥りすぎていますよ。ちょっと断食させて痩せさせないと、イメージダウンになるんじゃないですかって」

「冗談じゃないよ、恵美。そんなこと病院長に言えるわけないよ」恵美と二人で笑い合うふたりだった。ひと月まえには想像もできなかった光景だ。

部屋に戻るともう、熱いお湯が入ったポットが置かれていた。逸平と恵美は熱いお茶を飲みながら、淺川病院長による朝の講話を館内放送で聞いている。きのうに続いて心と体の密接な関係についての話である。

 

「前にもお話ししたことですが、癌を始めとする慢性諸病の大きな原因のひとつが日常生活における不摂生です。そのなかでもストレスの長期に亘る継続と蓄積は必ずといってよいほど、体になんらかの機能障害を起こさせます。人間の体の複雑な機能……もし、この複雑なしくみを人間がその意志によってのみ操作できるものだとしたら、一分も生きておれないかもしれません。心臓を鼓動させることをわすれたり、眠ったおりに呼吸するのを忘れたり、感情の波にあわせて血管の口径調節を忘れたりする重大ミスを重ねるはずです。そのため、体の重要な機能というものは、すべて各個人的なデータによる自動調整、自動管理になっています。この制御システムの指令センターは大脳の中心部にある間脳、間という字に頭脳の脳と書きますが、ここにあります。人体にあるメインコンピュータといえますねここは。この間脳という器官は、その人が母体のなかで、体が造られ始める頃から、もう存在を始めていた装置で、発生途中からの様々な情報をこの間脳に入力し記憶していきます。そうして、いつも各器官がベストな働きができるように、間脳が支配している自律神経を通して各種の指令を伝えます。ところがストレスの蓄積が長期に亘っていますと、この間脳の正常な働きに歪みが生じて、いつも緊張し、全身の血管が収縮した状態のままにしてしまいます。いつも血液の流れが悪い状態になってしまいます。そうなると、当然のことですが、細い血管では血液の流れが止まってしまう箇所も生まれてきます。

それは体の至る所で起きます。体内の酸欠状態の始まりで、これは自律神経の歪みが収まるまでつづきます。これは癌細胞の天国になるんです……」

浅川病院長の講話が続く。早朝の講話だが、すがすがしい朝の時間に聞くために、頭のなかで理解しやすいように恵美は思えた。逸平も黙って頷きながら聞いていた。

「……血液の流れが止まった箇所の血管は壁がなくなり、管外に出た赤血球は、互いに溶解しあって癌細胞に変わっていきます。皆さんが医師たちから聞かされているように細胞分裂して癌細胞に変わるのではありません。自分の分身である赤血球から新生するのです。その名の通り新しく生まれるわけです。この、癌細胞は新しく生まれるということをよく覚えておいて下さい。だから体の環境が悪いときには、至る所に癌細胞や炎症部の細胞が自然に生まれてくるわけです。今の医学では、癌細胞が転移したといって説明していますが、これは間違っています。その詳しい説明はべつの機会にお話しましょう。また、この生まれた癌細胞は、不思議なことに体内の環境が良好に変わったときには、正常な赤血球に変わっていくんです。この事実は故千島喜久男博士が提唱した理論によっても証明されていますが、今の西洋医学は無視しています。

この理論を応用して実践しているのが、皆さんも実践しておられる断食療法です。

体内環境が改善されると自律神経の歪みもある程度は正されて、ストレスがだいぶ残っていても軽快感が得られるでしょう。それからは、ストレスを軽減するための気分転換法、自分にあった、自分ができる方法を考え実践することが大切です。

さて、そのことについては、また明日の朝、お話しましょう。じゃ今朝はこれで」

 

朝食の案内放送がスピーカーから流れた。逸平はもう、そわそわして落ち着きをなくしているようだ。

「あなた、まだお食事に十五分もあるのよ。こんなことでは、あしたからの本断食になったら、どうなることかしら……」逸平を見ながら笑顔でいう恵美。

「心配するなって、恵美。本断食になったら、それはそれで覚悟ができているから大丈夫だと思うんだけど、未だ、食べることができると思うと、オモユだけでも楽しみなんだよ、昨日ときょうはオモユが朝と夕だけになってしまったけど、それでも楽しみだね、あの塩味だけのオモユだけど実においしい。オレと反対に恵美はほんとに、平気だね、うらやましいよ」

「もちろん、おなかは空くわよ、でも、あなたみたいに、我慢できないほどじゃないもの。胃をとってしまってから、もうひと月近くになるんだから、体が空腹感になれてしまったのかもね。たとえ、おなかいっぱいに食べるつもりでいても、ほんの少ししか食べられないんだもの。でも、ほんとに不思議なの。いつも力がもりもりと湧き上がってくる感じなの、おなかの辺り全体から……」

「まったく、恵美のパワーは素晴らしいの一言に尽きるね。病気でここへ入院した恵美のほうが、オレより元気になってしまったんだものな。ここに来たとき、水上先生が言っていた恵美のオーラの輝きが、あの時よりもっと強くなっているのかも知れないな。さらに元気になっいるもの……」

「わたしの体は癌だらけになっていたのにね。ほんとに不思議……こんなに元気になっちゃったのよ、まだ本断食に入っていないというのに。お馬さんじゃないけど、外を跳ねまわりたいような気持ち……」そういうと恵美は、立ち上がって両腕を体操でするときのように、勢いよく回転させる。

「おいやい、恵美。部屋の中で跳ねて、オレを蹴っ飛ばさないでくれ、頼むから…」

逸平は身をのけぞらせる真似をして冗談を飛ばせた。

 

それから10分ほどあと、逸平と恵美は食堂のテーブルに座っている。

・・姿逸平様・恵美様・・ 窓際のテーブルに名前が記された白いプレートが置かれていた。同じテーブルに・・坂井田貢様・・というプレートもある。

坂井田は恵美たちが入院したと同じ日に、京都から来た大会社の社長である。同じテーブルには同一過程にある人だけ同席することがある。

いつもは坂井田の方が、恵美たちより先に来ているのだが今朝はまだ来ていない。

「おはようございます、姿さんは、明日から本断食ですね」

食堂の仕事を担当している、五十歳代らしい、愛想がいいおばさんが、明るい笑顔でやってきた。

「おはようございます。ほんとですね。今日でオモユともしばらくお別れです。ちょっと名残り惜しいですが……」逸平も笑顔で答える。

「おばさん、主人たらね、朝起きたときから、ハラが減ったハラが減ったって大変なんですよ、まるで、おなかを空かせた子どもみたいに……」逸平の顔を見ながら、冷やかすようにいった。

「あらあら、明日から本断食になるというのに。明日からはお茶のほかに何も食べられなくなってしまうんだから、もう諦めないと、姿さん……」

「はい、わかってますよ、おばさん。そのときになったら、ちゃんと諦められますよ、覚悟はできていますから。ただ、食べられるうちは楽しみで……」逸平は腹をなでながら、情けないような声をだす。そんなところに坂井田が入ってきた。

「あ、坂井田さん、おはようございます」三人が声を揃えたかのようにいう。

「おはようございます。ちょっと会社に連絡用件があって電話をしていたもんですから、ちょっと遅くなりました」

坂井田は京都市郊外と沖縄に本社建屋と工場をもつ、社員数が2千人余りの航空機部品を製造している大会社の社長である。大企業の社長だが、まったく驕るところがない、きさくな人柄に、逸平たち夫婦は好感をもっていた。幾度か坂井田の部屋を訪れてここへ入院するまでのいきさつを、お互いに話しあっている。坂井田はここへ入院するまで、京都市内の公立病院へ入院していた。急性肺化膿症という診断で……

 

ひと月半ほどまえ、沖縄糸満市へ三ヶ月ほどの出張を終えて帰宅した夜、坂井田は四十度近い高熱と激しい胸痛に襲われた。沖縄に滞在中から体の倦怠感と軽いセキが続いていたことから、軽いカゼくらいに考え放置していた。帰宅したその夜は、氷枕をして寝たが、翌日になっても熱は下がらず、逆に41度を超えるようになり、呼吸困難になり意識も薄れる。驚いた妻が救急車を依頼し京都市内の公立病院へ搬送される。X線とCT映像から重度の肺化膿症と診断された。両肺の全体が化膿菌に冒されていて瀕死の状態だという。直ちに酸素吸入と大量の抗生物質、ミデカマイシンとサルアァエチアドルの投与を受けた。もちろん、この病院の処置過程は、ここ東洋医学療養センターへの転院にあたって、提出を拒否する病院側から会社の顧問弁護士介入により提出されたカルテの写しやCT写真からわかったものである。

緊急入院から三日後には熱も38度前半まで下がり、呼吸困難や激しい胸痛はおさまった。平熱に戻ったのは二週間が過ぎたあたりだったが、その頃から全身に細かくて赤黒い発疹が出始める。痒さはあまり感じないものの、今までになかった手足の関節部に鈍い痛みを感じるようになり、寝ていても心臓の鼓動にあわせて疼いた。

坂井田の訴えに担当医師は「菌が全身に散らばったのかも知れませんね。抗菌剤をもう少し増やしましょう」といったという。

三週間目が過ぎる頃には発疹は頚の後部から頭皮にまで拡がり痒みが出てくる。

その頃には度重なる嘔吐と強い関節痛のため立つことが出来なくなり、導尿処置を受けて寝たきりの状態になってしまった。

 

入院してから一ヶ月半ほど経った或る日の午後、高校時代から親しくしていた三輪健三が坂井田の病室を訪ねてくる。見舞いのために……

「おいおい、坂井田、どうなっちまったんだよ、このザマは情けないぞ! ほんまの病人づらになりおって……」坂井田の顔を見るなり耳が痛くなるような、大きな声でいう。いつものことだったが三輪の語りかけはケンカごしのかたちだ。だが心はやさしい男だった。

三輪は高校時代、京都の私大を受験するため、友人とともに受験勉強に励んでいたが、入試直前の十二月末、父親が綾部市の得意先へ納品した出先で倒れ、搬送先の病院で死亡が確認される。脳出血だった。父は京都市内では有名な和菓子店「壽屋」を経営していて売り上げは順調に経過していた矢先のことである。

父親の死という思いもよらぬ出来事によって三輪は大学への進学を諦め、店の経営を継がねばならないことになった。そして今では三輪が経営する「壽屋」は会社組織となり東京や大阪、札幌のほか十三都市に支店をもつ老舗和菓子店にまで成長する。

「よう、三輪、相変わらず声もでかいが、いうこともキツイなあ。でも、よう来てくれたなあ、ありがとう……」病院の贅沢な特別室で、ただ退屈な毎日をおくっていた坂井田には、見舞いに訪れてくれる人が何よりもの楽しみになっていた。

「おととい、早田から、坂井田が死にそうになっているから、意識がある今のうちに顔を見といたほうがいいぞ、という電話をくれたもんだから、そいつは大変だと思って急いできたんだが、お前の顔を見る限りではまだ直ぐ死にそうにはないな」

「早田のヤツそんなことを言ってたんか、ひでえヤツだな。だが、あのときには、そう思ったかも知れんな。あいつが来てくれたときは、体じゅうの痛みで苦しんでいたときだったからな……」

「しかし坂井田、お前、ずいぶん痩せてしまったんじゃないか? 去年の同窓会で逢ったときには、そんなに痩せちゃいなかったぞ、病気のせいだろう?」

三輪は応接セットのチェアを引きずってきてベッドの脇に据え腰掛ける。堂々たる体格と重さでチェアがきしんだ。

「ああ、急性肺化膿症という診断だった。入院してから一挙に痩せちまった。軽くなったのに歩くことが出来なくなっちまったよ、人の手を借りないと……」

坂井田の声は途中から気が滅入ってしまったらしく、急に声が小さくなってしまう。

「おい、坂井田よ、その顔や頚の赤黒い斑点はどうした? 医者はどういってる?」

「医者は別に何も……化膿性の病気だから細菌が全身に回っているのかもしれないとは言っていたが、そのためじゃないのかな……」

「ここの医者も、まったく誠意がないな。この発疹は間違いなく薬疹だよ。医者は言わないだけで、よく分かっていることさ。ここでこれまでに投与されてきた薬剤の副作用から、肝臓がダウンしかかっているサインだよ。肝臓がかなり傷んでいる証拠だぞ、こいつは……」三輪は自信をもって断言した。

「……結膜が少し黄色みを帯びているから、間違いなく肝臓障害がおきているぞ……」

「結膜ってなんだよ」坂井田が怯えたようなかすれ声でいう。

「目んたまの白い部分さ、肝炎の徴候は先ず黄疸現象が現われるんだが、それが結膜と爪の下に出てくるんだ。これらの部分は粘膜が薄いから、血液に混じってくる胆汁液の状態がよく見えるんだ、ちょっと両手の指のツメを見せてみろ、内側に曲げて……」坂井田が力なく差し出す両手の指のツメの色と自分のツメの色とを比べさせた。

「どうだ、分かるか? お前のツメの色とオレのツメの色のちがいが……お前のツメは白っぽくて黄色がかかっているし、オレのツメは鮮やかなピンク色だろ……お前の肝臓はクスリの副作用でかなり炎症を起こしているようだな」

そういわれて、自分のツメの色を三輪のそれと見比べたとき坂井田は愕然とする。

今まで自分のツメの色など見ることがなかったから、他人のツメの色と比較してみるなんてことは一度としてなかった。三輪の活力が感じられるピンク色のツメに比べ、自分のツメの色はあたかも死人の色ともいえるほど、血の気がない上に、間違いなく黄色味がかかっている……なんという違いだ!

……おれは死にかけているんじゃないのか!……坂井田は顔から血が引いて行くように感じた。

「なあ、坂井田。オレたち東洋医学を学ぶ者はな、必ず患者のツメの下の色を見るようにしているんだ。この、ツメの色というものは、その人の全身状態を示してくれるもの、機械でいえば表示計と同じものなんだ。実に正確に示してくれる……」

「そうか、今まで自分も他人にもだが、その色なんて全く意識になかった、そんな体調をあらわすメーターのようなものだとは……」

「初めてだろう、こういうツメの話を聞いたのは。間違いなく、お前は貧血と肝炎になっていると考えたほうがいい。多量の抗生物質で小腸の粘膜が破壊されてしまって造血機能が顕著に衰退してしまってるんだ。肝臓も同じように……お前は知らないことだが、造血器官について現代医学では骨髄で造血されているというのが常識になっているのだが、この問題について有名な『千島学説』という革新理論のなかに「腸造血説」という理論があってな、今の骨髄造血説は完全な誤りだと否定し、小腸の絨毛で食べ物を元にして造られるという学説だ。オレたち東洋医学の関係者や多くの現代医学者や医師たちも支持しているんだが、ま、これをお前に説明しても始まらんからやめとくが、言えることは、お前の肝臓と腸はだいぶやられているということだ。クスリの副作用でな。これは間違いない」

自信もって言い切る三輪。彼は父親が脳出血で急死したことから健康問題、殊に医学知識については若い医師たちより理論、応用面ともに精通していた。仕事のかたわら鍼灸治療師の免許を取得し、いまは京都南ホリスティック医学協会の常任理事をしている。

「坂井田よ、このままでは貧血のうえに、肝硬変から肝臓癌であの世行きになってしまうぞ、近い将来にな。そんなことになったら、お前の会社の二千人という社員はどうなると思う? その前に会社が臨時取締役会を開いてお前の健康不安を理由に代表取締役解任要求という動議を出されたらどうなる? 入院してから一ヶ月以上も社長業を放棄しているんだぞ。もし、オレが取締役だったらやりかねんな、会社の乗っ取り工作さ……やられかねんぞ、お人よしだから、お前は」

三輪から解任要求動議……という言葉を聞いたとき、一瞬だが目まいを感じた坂井田である。そういえばこの七月から今まで、会社に顔を出していない。七月、沖縄から九州南部に上陸した台風18号による高潮で糸満市にある第二工場が床下浸水し戸外に設置されていた電気関係の設備が壊滅状態になったため、坂井田自身が現場で陣頭指揮をとり、ようやく復旧させて自宅へ戻ったところで、今度は自分が病気で倒れてしまった。業務については、折りを見ては、実際に頼りになる筆頭常務の八街やちまた利光に指示をしているから安心はしているが、やはり、このままここに入院したままではおられない。廃人になってしまうだろう。また三輪がいうようなことになるかも知れない。早く会社へ顔を出さなくては、一日も早く!

……よく考えてみたら、オレの体は病気が悪化したんじゃない!

治療だと言われるまま、受け入れていたクスリの副作用だったんだ

オレのツメの色の悪さといったら……まるで死人のように白くなっている

それに足まで立たなくなってしまうとは!

また、体中に出ている赤黒い斑点はなんだよ

これも、この病院へ入ってから出始めたんだぞ!

このまま、ここに居たら死を待つだけだ……

 

それから、二日後、坂井田は病院を出た。息子に背負われて……病院の担当医は今後は生命への責任はもてないといって、坂井田に承諾書の提出と実印の押捺、さらに印鑑証明の提出まで求める。病院側のその態度は嫌がらせそのものの態度であり、坂井田はそんな態度をとる病院の治療姿勢は営利が主体であり治療は第二、第三においていることを明確に物語っていると思った。

……患者を素人だと思って騙しやがって

めちゃくちゃにクスリばかり入れやがった

全身の発疹は菌が回ったためかも知れませんだと?

よく考えたら、発熱もないのに化膿菌が全身に回っている訳などありえない

クスリの副作用であることを知っていながらトボケていたんだ

三輪がいっていたとおりクスリの実験台にされていたんだ!

もう少し薬の量を増やしてみましょう…だと? よういうわ

これだけ、オレの体をガタガタにしおってからに

愛想をつかされ離れていくAマル顧客に対して

口惜しまぎれの陰湿なイヤがらせまでするとは何という病院だ

たとえ死ぬことになっても二度と、こんな病院の世話になどなるものか!……

 

迎えに来てくれた長男の車で久し振りに自宅へ帰る途中で坂井田は病院側がとった態度には呆れるほかなかった。その夜から坂井田は三輪の指示どおりに断食療法を始める。食欲がまったくないから断食に苦痛はない。

食欲が出てくるまではハト麦茶による水分補充以外には、何も食べないように厳しく言い渡された。この断食こそが肝臓やその他の臓器に蓄積された毒物や、過剰に点滴で投与された栄養分を早期に排出する最適な方法だと三輪は説明する。そして、ある程度の体力回復が見られたら、別府市にある東洋医学療養センターへの入院手続きをしようといってくれた。そのセンターには自らが癌であることに気付いた医師もいるという。断食を始める朝は市販の浣腸液で大腸内の清掃をすることも指示される。

自宅で断食療法を始めて四日間のあいだ、茶色の色濃い、薬品くさいような尿が多量に出る。食欲はなかなか出ないが、食を断つことへ不思議な快適さを感じる。

何も食べていない、いわゆるエネルギー不足の体なのに、五日後の夕にはひとり自分でトイレへいけるように。そのとき、立ち上がった瞬間、少しめまいを感じたものの、足や体にあった今までの痛みが随分と軽くなっているのに気づいた。それは坂井田には理解できない現象だ。自分が今までに知らされてきた常識としては、人間は栄養を摂らないと体力がつかない、病気はクスリを使わないと治らないということだった。だから、病院でも医者に言われるままに、栄養剤やクスリの点滴、内服を受けてきたのである。だがそれがとんでもない逆効果で廃人になる思いをしたのである。

そんなとき、三輪の見舞いを受けて目覚めた坂井田だった。それから、四日間、何も食べないという断食療法に入ることにより、驚くほどの体力が出てくるとは……坂井田はただ驚くほかない。常識からいけば、絶食という栄養不足から、それこそ足が立たなくなるはず……それが逆に、病院の点滴による栄養補充で足が立たなくなり、断食によって立たなくなっていた足が自然に歩けるようになったのである。常識とは完全に逆の現象が現われたのである。

八日目の朝には空腹感があらわれ、胃がグウグウと鳴り始めた。尿からはもう、あのイヤな臭いが消えている。体内の毒素がかなり排出されたようだ。さらに驚いたことには、あれほど全身に拡がっていた赤黒い発疹が腹部や上腕部、腰の横あたりに残るほかは消えるか跡が残る程度にまで大幅に減少した。三輪が説明してくれたとおり体内の毒がかなり抜けてきたらしい。

坂井田は嬉しくなって三輪に電話で経過を報告する。そのときはあいにくと出先だったが、すぐ、携帯電話で坂井田の自宅にかかってくる。食欲が出てきたということは、もう危険な状態から脱した証拠だから、明日からは朝と夕の二回、薄塩のおもゆをふつうの大きさの湯飲み茶碗に七分目ほど、三輪が改めて指示するまでその量を守るようにすることと、副食と間食の摂取は厳禁であることも指示された。

食事量が少ないから大便が固くなり排便が困難になるため、そのようなときには、浣腸液を使って無理にいきまないようにということも。

病院を不愉快な思いで退院してから十日が経つ。坂井田はもう横になっていることが出来ず、庭木の手入れをしたり、家の近辺を散歩することも出来る体力が戻る。

あの病室で日増しに募る虚脱感と手足の痛みに、もうこれまでかも知れない……と自分の未来を悲観するしかなかったことが夢のなかのことに思えてくる。

三輪が数年まえから親交を続けている東洋医学療養センターの水上医長に、坂井田の入院を依頼したのは、それから間もなくのことだった。入院定員に空きはなかったが、十日ほどは別の肝炎患者と同室するということで直ぐの入院が可能になる。

坂井田が入院したのは、恵美たちが入院した日と同じ十月一日だった。

その頃は顔色もほぼ正常に戻り、発疹も殆ど消えていたが、ツメの色だけはまだ美しいピンク色を呈するまでにはほど遠い状態だ。クスリの副作用による肝臓障害は容易には回復しない。

 

「坂井田さんも、わたし達と同じように、明日から本断食ですね。オモユもご飯の味も、しばらくはお預けになりますよ」逸平が坂井田に話しかける。

「ほんとですね。きょうは、じっくりと味わって頂かないと……」そんなところへ、給仕のおばさんが三人のオモユをもってきてくれた。赤いお椀から盛んに湯気が立っている。

「はい、お待ちどおさま。ゆっくり味わって下さいよ。姿さんも、坂井田さんも、きょうでオモユともしばらくはお別れですよ」おばさんが笑顔でいった。

「ありがとう、おばさん。頂きまーす」湯気が立つお椀を見ながらいう恵美。

「はい、頂きましょう。オモユの味をじっくり味わいながら。いただきまーす」

坂井田はいつものように、手を合わせると感謝の言葉を添えた。大企業の社長でありながら、食事のときには何処ででも感謝の心を示すことができる坂井田に、いつも尊敬の念をもつ逸平と恵美。食事のとき恵美は必ず手を合わせて感謝の言葉を添えてから食事をするのだが、逸平は、これまで一度としてそれをしたことはない。しかし坂井田と出会ってからは、食事のときには自然に感謝の言葉が出るようになった。

逸平も恵美と同じように手を合わせ感謝の言葉を添えるとお椀を手にする。米粒がまったくない薄いオモユの味だ。空腹の体には薄塩のその味が、何よりも美味に感じられる。熱いそのオモユの味をゆっくりと味わう三人だった。

 

隠岐・西之島の浦郷診療所へ堀口が着任してからもう十日余りが経過していた。

日本海にある島だがら、秋の訪れは東京よりだいぶ早いだろうと思っていた堀口だったが、実際は東京とほとんど変わりないようだ。湿った海風のためだろうか、雨降りになると湿度が高くて東京よりも不快感が高まる隠岐の秋である。

着任してからの診察患者は菱浦の診療所を併せても十八人しかいない。その全員が軽いカゼの症状と二日酔い、熱中症的な頭痛などといった、診療を受けなくても放置していてよい患者ばかりだ。長い一日を、ほとんど何もすることなく過ごすことは実に苦痛このうえない。

四日まえ、連休を利用して妻の碧、子どもの豪と彩香の三人が遊びにきたが、三日でこの島の生活がつまらないといって東京へ帰って行った。観光なら二日もあれば十分過ぎる滞在だ。よく三日もいたものだといえるほどだ。飽きるのは当然だろう。

一日を何となく過ごすことは、東京でのハードな業務をこなしてきた堀口には、身の置きどころがない非常な苦痛になった。刺激がない生活は人間として破滅をきたすように思えてくる。前任の医師は八ヶ月で広島へ戻ったと聞いているが、よく、八ヶ月も頑張れたものだと感心するほかない。もし、ここに一年もいたら、ここで東洋医学の勉強をしようと志してきた自分だったが、この調子ではその対象になる患者と出逢うこともなく、体のほうが怠惰のためにサビついて、勉強の意欲などなくなって再起不能の人間になるに違いないという、悲観的な考えが頭に浮かぶようになる。

そんな堀口の内心にも拘わらず、島の人たちの親切さは想像以上だった。調理した魚料理、野菜、宴会の折り詰め、家庭での手作り料理など、単身赴任をしている堀口のために、せめて食事の世話くらいお手伝いしたいという優しい思いやりから、毎日、当番制にでもなっているのかと思われるほど、誰かが届けてくれる。

その親切さが堀口には身に沁みた。その一方で、この島の人たちの親切によってますます自分がサビだらけで怠惰な人間に成り下がっていくように思える。何かをしないと自分の体はクサッてしまう……オレは何をするべきなんだ? どうしても考えつくものがない……

 

そんな十一月下旬のある日曜日の午後、釣り客のひとりが、岩場から足を滑らせて転倒、岩礁で頭を打ち傷からの大量の出血があり、今も意識不明のまま、菱浦診療所へ運ばれたという区長からの電話が入る。いま、迎えの船が出たというから、もうすぐこちらへ着くだろう。外科の治療は堀口にとって研修生時代以来初めてだ。

内科が専門の堀口だが、こういう離島の診療所ではそんなことはいっておれない。すべての科を診察、治療するのが務めである。前任の医師も内科医だったが、虫垂炎の手術も診療所内の手術室で立派にこなしたという。自分で腰椎麻酔をかけて。

堀口も研修医時代は外科の診察や治療、また手術も内科以上に得意な部門だった。

胃やその他の内臓全摘出や部分摘出など指導教授が舌を巻くほどてきぱきと、また完璧にこなしたものである。しかし、そのときから二十年以上もメスを握ったことはない。外科の患者は苦手というほかなかった。

不安を抱きながらも、迎えの船で菱浦の診療所へ着いたのは、連絡が入ってから二十分ほどあとである。患者は診療所の診察台に横たえられていた。四十歳をなかば過ぎたあたりの痩せ型、長身の男だ。顔色は出血が多かったというわりには悪くない。

診察台から足が十センチほどもはみ出していた。

後頭部に打撲と擦過傷、一センチほどの裂傷が二ヵ所にあったが出血はすでに止まっているが意識は未だ戻らず、耳元で大きな声で呼びかけるが反応もない。瞳孔反応は正常で、外見上は重大な脳障害はなさそうで、単純な脳震盪を起こしているだけだろうと堀口は推測した。体のケイレンもなく、外傷の手当てだけ済ませてしばらく様子をみることにする。それから三十分ほどあと患者の意識が戻る。

意識を戻した患者には心配していた記憶障害の徴候は見られなかった。岩場から落ちたときの状態もはっきり記憶に残っている。まだ軽い頭痛は残っているようだが、脳内出血が疑われる吐き気はまったくなかった。

だが、頭部を強打していることから、このまま患者を釣り宿へ帰すことはできない。堀口は念のため、今日の予定は中止させ、診療所に一晩入院させることにした。

頭部の打撲はいつ容態が急変するかもわからない。微細な血管の破裂は長時間を経てから異常を具現するからだ。慎重に対処しなければならない。

そんな堀口の心配をよそに、患者はみるみる回復していく。収容されてから四時間ほどが経過した六時頃には空腹を訴える。頭痛も解消しているというため、堀口は患者には消化のいいワカメうどん、自分は天丼を近くの食堂に注文し夕食を共にする。

 

偶然にもこの患者は医師だった。それも堀口と同じ内科医。出雲市内の公立病院を二ヶ月まえに退職し、この十月から東洋医学を学ぶために大阪のカイロプラクティックの専門学校へ入ったのだという。きょうは休日を利用して岡山市内の自宅に戻り、趣味の海釣りのために隠岐へ来てこの災難に遭遇したわけである。

彼の名前は吉村人士、やせてはいるが背は百九十一センチ。堀口より二十センチは高い。立って話をすると堀口は見上げるかっこうになった。歳は堀口より五歳若い。

「先生はどうしてまた、公立病院まで辞めて……」という堀口の問いにたいして、

「堀口先生も私と同様の考えをお持ちじゃないかと思うのですが、内科治療の空しさというものに耐えられなくなったんです。検査とクスリ投与の明け暮れじゃないですか。東洋医学のように根本的に体の基盤を観て原因を突き止め、その原因の除去を図るための生活指導をする根本療法というものが、まったく為されていませんよね。

為されていないというより出来ない、指導をしても保険点数が極度に低くしてありますから、指導をする時間がムダになっているのです。検査とクスリの投与のほうが格段の利益になる……この実態は先生もご存じのとおりだと思います。

いたずらに検査し、病名を推測しそのうえ一時抑えに過ぎず、強弱はあるものの必ず副作用があるクスリの投与に終始するだけで、自分の技量をもって治療にあたることは皆無といえますよね。このように、悪くいえば素人でも少し要領を覚えれば出来そうな医療では……わたしのような気が弱い人間は、医師を信頼しきって治療を任せてくれる患者さんたちに対して申し訳がないという感情が先ばしりましてね、これは自分の性格の問題なんですが……患者さんはあくまで『患者』であって『家族』や『友人』ではない、感情を入れるべきではないのが医師の宿命だと、割り切って考えればいいんですが、わたしにはそれが出来なかったんです。それで医局医を辞めることになったいきさつです」そういいながら吉村は後頭部のガーゼに手をあてた。

「痛みますか……?」と堀口は問いかける。

「いえ、ちょっとだけ、大丈夫です……西洋医学を見限る決心をしたのは、疾患というものを体の全体から考察する東洋医学に、いくつかの問題点はあるものの、西洋医学では太刀打ちできない魅力を感じたのです。そして、とくに骨格の歪みと神経系の関連を重視しているカイロプラクティックの勉強をすることにしたわけです。どこまで、やっていけるものか、まったくの未知数ですが始めた以上は頑張るつもりです……」

 

吉村の話を聞いていた堀口は同じ内科医として西洋医学の治療策に対する反論などできなかった。吉村と同じような思いをしながらも、何の行動も起こすことなく、現代の西洋医学の医師であるという立場に満足しているかのように、しがみついている自分が恥ずかしくなる。つい最近になって勤務先の外賀総合病院が、一連の事件によって解散したことにより、新しい道を模索し始めたものの、そういうことがなかったら、いまなお西洋医学の治療を続けていたことだろう。

そしていま、自分も東洋医学を学ぶためにこの離島を選んで赴任したものの、東洋医学のなにを学ぶべきかのテーマすら思い浮かんでいない。そんな自分とひきかえ吉村は、悠然と病院を退職し、すぐ目的をもって東洋医学の専門学校に入学して、すでに勉学に励んでいる……吉村のその積極的な行動に敬服するとともに、自分も今こそ行動を起こすべき時期が来たのだという決意が芽生えた。

……オレは何をやっているんだ、ノラリクラリと、だらしのない生活をして!

 ただ、一日の流れに呑まれて、さすらっているじゃないか

 オレより歳下の吉村さんが、決断したら即、行動に移っているというのに。、このオレはどうしていた? 彼と同様に現代西洋医学への失望感をもっていながら、まだそこから抜け出す度胸がなかった……その態度はなんだ、恥ずべきことだぞ! よし、オレも決めた、こんな島でノンビリと暮らしていてはオレがダメになってしまう!……

「吉村先生、先生の決意をお聞きして、いまこそ自分が目覚めるときだと決心することができました。わたしのことを吉村先生にお話しておきたい。実はわたし、今まであの外賀綜合病院の内科医長だったのです……」と、堀口は外賀総合病院におけるこれまでのことについて、話せることだけについては詳しく話した。自分も現代医療体制に失望して、この離島で何か東洋医学の研究をと思って赴任したものの、具体的なことについては何の方向づけも、見つかっていないままであるということも……

吉村は堀口の話を聞いて感激する。

「堀口先生、私のような若輩ものに、よくお話して下さいました。うれしいです……ほんとうに。また、私と同じ考えをもっておられる現役のドクターにお逢いできたということも、まったくの奇遇というものでしょうか。私がケガをする、そこで治療して下さった先生が堀口先生だった……まったく、不思議ともいえるご縁ですよね」

その夜、遅くまで二人は話しがはずむ。患者と医師ではなく同じこころざしをもつ仲間として……

 

吉村はこれから新しい医学を目指すのなら、まず有名な血液学者であった故千島喜久男博士が提唱していた革新医学理論『千島学説』を学ぶ必要があるという。

堀口はその名を何かで耳にしたような気がしたように思えたが、その概略すら知らなかった。この学説は今もって医学、生物学の『定説』とされているほとんどを批判しその誤った部分を様々な証拠をもとに指摘した新説で、その余りにも広範囲に亘って誤っているという指摘に、現代医学界は拒絶反応に陥り、千島学説を口にすることすらタブーとされることになったという。千島学説の重要とされる部分は、

『体細胞も癌細胞も分裂して増殖するのではなく、赤血球の融合から分化したものである』という「赤血球分化説」、『飢餓や断食など栄養不良時には体細胞、癌細胞などから赤血球へ逆戻りする』という「体組織からの可逆的分化説」、そして、『造血器官は骨髄などではなく小腸の絨毛である』という「腸造血説」、そして、もっとも重要な考え方としてこの学説の発見契機となった哲学的理論『自然現象において不変のものはなく必ず少しずつ変化を続けている。即ち万物は流転している』という「事象の連続性を示唆した「生命弁証法」が千島学説の基盤であると吉村は説明した。

 

(つづく)

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