長編小説 霧のなかの巨塔  第38回

   第三章 美しき旭日

   


  ■ み な み 風 ②


 子どもたちだけではなく、義父までが空港まで子どもたちと一緒に自分を出迎えるため、長崎からわざわざ上京して、待っていてくれることが嬉しくてならなかった。それから十分ほどあと、女性の声で搭乗案内のアナウンスが場内に流れる。
 アナウンスの声に、それまで騒々しかったロビーが急に静かになった。英語による案内に続いて日本語の案内に変わる。
 ・・・JIA、日本国際航空より搭乗のご案内を致します。十四時十五分発、JIR240便、遅れの東京・羽田行きにご搭乗のお客さま、大変お待たせ致しました。
 間もなく二番ゲートより搭乗のご案内を致します。ファーストクラス、ビジネスクラスのお客様は二番A搭乗口から、エコノミークラスの列番号一番から二十番までのお客さまは二番B搭乗口から、列番号二十一番以降のお客さまはC搭乗口からご搭乗のご案内を致します。どうぞ二列に並んでお待ち下さい。かさねて・・・
 「やっと、搭乗の開始だな恵美。オレたちの番号は三十二番のIとJだからC搭乗口ということになるな」しばらくすると、それぞれの搭乗口から整然と搭乗客がキャビンへと入っていく。半数以上が外国人だ。世界的に有名な湯の街、別府を僅かな給油整備時間を利用して回ったらしい。
 多くの人たちが逸平たちと同じように紙袋を提げていた。手土産を買い求めたのだろう。機内の通路は世界の何処へいってもそうだが、自分の座席番号を探す人のために混雑していて歩きにくい。ようやく恵美たちは指定の席に座ることができた。
 機体の後部に近いまど際の席だ。
 「わぁー高い! ビルの窓から見てるみたい……」窓から下を見た恵美が子どものような大きな声をだしたが、機内の騒がしさで周囲へも聞えない。
 「なぁ、さすがジャンボ機だな。こんな大型機を操縦するパイロットは大したものだよ。ビルの四階ほどの高さにある操縦室から巨大な機体を操るんだからな」感嘆しているのか感心しているのか分からないような口調で逸平がいう。
 「でも、あなた、ここがこんなに高いところにあっても、お空に上がったら高さは何も関係なくなるわよ、小さな飛行機と同じことになるわ……」
 えみははういって、楽しそうに逸平をからかう。
 「まったくだ、恵美に一本をとられたな。まいった……」恵美の膝を軽く叩いて笑った。そんな逸平を恵美はやさしく微笑みながら見つめた。
 「ほんとに恵美、よくここまで元気になってくれたね。まえのことが夢みたいだよ。あの闇のなかのことを思い浮かべると……」
 逸平は恵美の顔を見ながらしんみりという。機は軽いショックとともに後方へゆっくりと動きだした。これから誘導路を経て離陸地点へと地上滑走をすることになる。
 「あなた、お願い、あのときのことはもう言わないで。あのときのことは過ぎ去ったことなの。思い出したくない……忘れ去ったことなの……」
 「すまない……余計なことをいって。でも、畑中先生や淺川病院長、水上先生のお世話になったご恩は感謝しないとな……」
 「ほんとよね。先生がたにはほんとうにお世話になったわね。畑中先生のお陰で帝北大学病院をスムーズに退院できたうえに、センターへは特別早く入院させて頂くことができたし、淺川先生や水上先生には貴重な講義をして頂いて……水上先生は退院時検診で退院後の注意もして下さったわ。決して油断しないこと。油断して生活に乱れが生じると前よりもひどいことになるから、くれぐれも気をつけて、今の素晴らしいオーラを絶やさないようにって……」
 窓の外に目をやりながら思い出すようにしていう恵美。
 「油断するなっていうこと、よく淺川先生もいっていたな。健康講座のたびに……しかし、この断食療法の効果を医学的に証明した千島喜久男博士の功績は実に素晴らしいものだと思うな。医学界が話し合わせたように博士の研究成果を無視するなかで、黙々と自信をもって研究を続けておられたのだ。赤血球分化説、可逆的分化説、また腸造血説と、おれたちが……」機内アナウンスの声で逸平は話しをやめる。
 ・・・お待たせを致しました。大分空港の出発が大変送れましたこと深くお詫び申し上げます。定刻より四十五分遅れて間もなく離陸致します。羽田の天候は曇り、気温は二十六度という連絡が入っております。これより瀬戸内海上空から駿河湾上空を経て羽田まで参ります。このままいきますと羽田到着は十六時三十分を予定致しております。この機の機長は増田譲二、副操縦士は大塚智成、チーフパーサーは木下充です。客室乗務員は十五名で皆さまのお世話をさせて頂きます。なお機内でのラジオ、携帯電話などのご使用は操縦室内計器の誤作動をまねく原因になりますので……・・・機内アナウンスはまだ続いていた。
 恵美たちが搭乗しているジャンボ機は誘導路を離陸滑走路へ向かって誘導路を進んでいる。窓から見える空はますます雲が厚く重なりもう切れ間は見られない。鉛色の空から今にも雨が落ちてきそうだ。
 「せっかくの空の旅だというのに、台風のために悪くなる一方だな……」窓から外を見ながらいう逸平。「……もちろん、上空へ出てしまえば雲の上になるんだけど、下の景色はなにも見えないよな……」
 「景色なんか見えなくてもなんでもないわ。あなたがそばに居てくれるだけで……」
 逸平の耳もとで恵美がささやくようにいう。
 「恵美……」思わず目をうるませる逸平だった。


 「テークオフ、フラップ、スタンバイ……グリーンライト、オン……」管制塔との交信に追われている副操縦士の大塚に代わって機長の増田が離陸前の最終チェックを行っている。「アンチスキッド・ライト、オフ、アナンシェータライト、オン、OK……」
 増田は右手の指でマルを作り、最終チェック完了を副操縦士に知らせた。
 離陸直前のコクピット内は規定項目のチェック呼称と管制塔との交信が並行して行なわれ、室内の緊張が最たる状態になる時間だ。離陸前チェックのすべては駐機場にいるあいだに完了しており、誘導路に入ってからは機長は誘導路上の地上滑走に専念し、管制塔との交信は副操縦士の担当となる。但し副操縦士が十分の体験を積んでいるときには、地上滑走も離着陸時の操縦も副操縦士の熟練過程として行なうのだが、この機の副操縦士はまだ滞空時間が浅いため機長の増田が担当していた。
 誘導路を走行しているとき、B747型機、通称ジャンボ機の操縦席はちょっとしたビルの四階に相当するため、その速度感覚は自動車などとは根本から違う。とくに走行速度というものは実際の速度より遅く感じられるので、航法機器の地上速度計から目を離すことはできない。また、管制塔や航空管制所、また他の航空機との交信はすべて世界の標準語とされる英語で行なわねばならない。だが、ここでは便宜上で日本語で記述している。
 「JIR240便、離陸準備完了。離陸許可を求めます」
 「こちら管制塔。JIR240便、離陸を許可する」
 機長の増田は滑走路上の左右、前方、上空を確認する。何処にも障害物はない。
 「JIR240便、離陸する」今度は増田が管制塔へ伝えた。
 「グッラック、アウト」管制官の声は陽気だ。
 「サンクス」交信を終えると増田は右手でセンターにあるスロットルレバーを握る。
 「離陸パワーにセット! ブレーキ、オフ!」
 ブレーキによる制動から解放されたジャンボ機はドーンという力強い音と軽いショックのもと、弾丸のように滑走を始めた。三百トンという総重量が圧縮されたジェット燃料の爆発によって生じた猛烈な噴射流によって矢のように突進していく。
 高い位置にある操縦席から見る地上の速度はイライラするほどじれったい速度にしか感じられないが実際はすでに時速200キロを超えている。
 増田は左右の方向舵ペタルを軽く踏んで機体の進行方向を維持する。噴射される猛烈な気流によって巨大な両主翼が振動しそれがコクピット内にも伝わってきた。
 「V・1、通過! 速度130ノット」副操縦士の大塚が叫ぶような声で報告する。
 「V・1通過了解、離陸する!」
 V・1とは大型機が離陸するよう指定した標識で、この位置までに120ノット(地上滑走速度が220キロ)以上に達する必要があることを表示した位置をいう。
 機の速度は230キロを超えている。離陸するには今をおいてしかない。
 増田は操縦桿をぐっと引き寄せると、浮き上がる感覚と同時に操縦桿にかかる負荷が消える。主輪が滑走路面を離れ離陸したのである。
 離陸、着陸といった操作はこれまで何千回もこなし機の操縦に従事してきた増田だったが、いまもって慣れたという意識をもつことができなかった。747型機という巨大な旅客機が大空に向かって離陸させ、高空を飛行させること自体が自然の摂理に反した行為であり、いつなんどき大自然の怒りが爆発するかも知れないという認識がいつも増田の意識から消えないためである。とくに着陸時にはエンジンの推力を失速寸前にまで落とさなければならないことに、いまでも全神経を集中して操作するのがクセのようになっていた。これがジャンボ機のような大型機の操縦条件として絶対に不可欠な要件として考えていたし、そのようにパイロットたちにも指導してきた。
 操縦への慣れ……これこそもっとも事故が起こりやすい要因なのである。

 「着陸脚格納!」増田が大塚に指示する。
 「着陸脚……格納完了。グリーンランプオン、OK」
 「フラップ15度、高度1500フィート、INS、セット確認しろ」
 「INS、セットオン確認しました。速度300ノット」
 「了解」増田はそう応答しながら、相棒、大塚の固く緊張した声を聞きながら、この男の形式張り過ぎた真面目さに少々閉口している自分を感じていた。
 もっと、もっとリラックスできるよう自分で努めないと大塚は精神的に負けてしまうタイプの人間に思えた。こういうタイプの人間はいざという突発的な事態が起きたとき反射的な回避行動がかなり遅れる傾向がある。副操縦士の大塚は中型旅客機の767型機の機長としては一万時間近い滞空時間をもつまず平均的位置にあるパイロットだが、弾力性がない真面目過ぎということから、彼と乗り組むクルーたちとの歯車が合わないため乗務中に苦痛を感じるという話を往々にして耳にすることがあった増田だったが、初めて大塚と乗り組んだ今回で、そのクルーたちの気持ちをつくづくと身をもって納得することができた。
 ……大塚君よ、その堅苦しさとリーダーシップの不足では、根本的な人間改革ができない限り、747型機の機長になるのは君の資質からいってどだい無理な話だよ。もちろん慣れてしまってはいかんが、もう少しでもいいからリラックスしろや大塚君……副操縦士の大塚を横目で見ながら増田はそんなことを考えていた。


 大分空港の搭乗ロビーでは、あれほど騒がしくしゃべりあっていた人たちだったが、機内に入ってからはほとんど大きな声はしない。恵美たちが座る後部座席には多くの空席がある。恵美たちの席も三人掛けだが、逸平の隣りの席も空席だ。
 離陸滑走中の機の窓からは格納庫やさまざまな建物、樹木が後方へすさまじい速度で流れていく。タイヤからの振動に加えてエンジンの噴射音のためにキャビンが振動と轟音に揺さぶられる。そして瞬間、ふわっとした感覚とともに振動がなくなり、グオーッというエンジン音だけになる。窓下の景色が見る間に遠のいていった。前方には雲と同じような色に見える別府湾が広がっている。太陽光がない海は不気味だ。
 恵美たちの席から少し離れたところにあるビデオスクリーンには遠ざかっていく下方の景色が映し出されていたが、曇天のために画像も余りはっきりしないし、色がなくモノラル画像をみているようだ。
 「いよいよ、これで一ヶ月もいた別府ともお別れね。嬉しいんだけど、どこか寂しいような気にもなるわ。不思議ね……」
 「ほんとだな。長いように思えた一ヶ月だったけど、過ぎてみるとアッという間だった……一日のスケジュールが、あれだけぎっしりと詰まっていると、そのスケジュールに追われているうちに一日が終わってしまった。空腹感なんて、いま思い起こすとほとんど感じなかったようにも思えるな。そういえば恵美よ! オレたち、まだ昼めしを食べていなかったぞ!」逸平は腹が減ったぞといわんばかりに腹をさする。
 「そういえば、ほんとね。まだだったわ。でも、わたしは全然すいてないけど、食いしん坊さんのあなたはペコペコでしょうね、可哀想に……」笑いながらいう恵美。
 機が厚い雲の上に出たことで秋の午後の陽射しがまぶしく恵美の横顔を照らしていた。陽光を受けた恵美の肌は艶々として十歳以上も若返って見える。


 あの外賀綜合病院からストレッチャーで救急車に乗せられたとき、蝋人形のような顔色だったときとは全くの別人、健康人そのものだ。顔や首筋は淡い紅色がさし、耳やマニキュアをしていないツメも美しいピンク色になっていた。
 胃は全部摘出を受けたものの、幾つもの癌腫が処置不可能の末期状態だとして放置されたままだった恵美。その恵美が手術後、ほぼ断食状態だったことと、『何がなんでも生きるんだ』という「生」への強烈な意欲が、すべての癌腫を駆逐し、恵美を完全以上の健康人間に変えた最大の要因になったようである。
 畑中博士は断食療法の効果についてその概略を説明してくれたが、その話を聞いたときにはこれほどの効果が生まれるとは想像もしていなかった。癌の進行を少しでも遅らせるか、止めることが出来たら……という淡い希望のなかで断食療法を始めたのだった。それまで、逸平も恵美も病気になったときは体力をつけるため、栄養分の高いものを食べて抵抗力を高めることが理想的な食養生だと信じていた。
 恵美は胃を摘出されている。そのうえ、これからさらに断食という生きるために、いちばん大切だと思っていた「食べもの」を絶つという荒療治ともいえることに恵美が耐えられるだろうか? 自分が末期の癌だということを知った恵美が、なげやりの気持ちになってこの療法を選んだのではないだろうか……
 畑中博士の言葉を信じセンターへの入院を決意していながらも、逸平は心に潜む不安感をどうしても消し去ることができなかった。だが『癌などに負けてたまるか!』という強固な意識が涌き上がることによって、驚異的な精神的エネルギーが発生して様々な病気を駆逐することができると、水上医長がいっていたが、それが正に恵美の体で実証されたのである。逸平には期待はあったものの、完全に治ってしまうとは想像すらしていなかった。
 東洋医学療養センターへ入院してから、逸平たちは自分たちがこれまで一般的な常識と考えていた『病気治療の根本』というものがその基盤から組み立て直す必要があることを目前の実際から知ることになる。断食という古来からの療法と、強固な意識によって今まで以上の健康を取り戻し、そのうえに驚異的な超エネルギーまで身につけてしまった恵美……逸平にはただ驚くほかなかった。
 恵美が得た超エネルギー、オーラは水上医長が驚いたほど並外れた超人的なものらしい。そしてそれはセンターに入院して断食療法を始める前から強烈なオーラを放射し始めていたようだと水上医長がいっていた。この超エネルギーは体の浄化と生きようとする強固な精神力によって体内で自然に発生する電気的なものだという。
 恵美と同じように水上の診察を受けてきた逸平には、オーラのことなどまったく話がない。いや、一度だけそれに関するような話は聞いたことがある。
 「姿さん、あなたの方が奥さんの何倍も治療を必要としているかもしれませんね。全身の活力が衰退気味で、あなたのパワーは奥さんと比較することもできません。これからは日常的に減食と菜食傾向になるように心掛けて下さい」と。
 死の淵から甦った恵美……眩しく揺れ動きながら放射されるオーラという超エネルギーに護られて……それは現代の科学者たちには理解できない、超常現象が演出する現象というほかないだろう。

 東洋医学療養センターでの講座で、淺川病院長が繰り返していっていた、千島喜久男博士が提唱した癌と心の密接な関係という理論がある。長期に亘るストレスの蓄積は全身の血管を慢性的に収縮状態におくことになる。その結果、体内の血液循環は悪くなり局所的には血流が停止したような箇所が生じることになる。そのような箇所は当然に酸素欠乏状態になる。このような環境は癌細胞がもっとも好むところとなり、血管外に出ていた赤血球(グロミュウ現象)は自然に集まりあって、時間の経過とともに癌細胞に変わっていき、癌腫形成へと進行していく。体内においては通常では決して細胞分裂はしない。よく映像で紹介される細胞の分裂像は光源の強い光に照射されることにより細胞が死に瀕している時の断末魔の様相であり間もなく死を迎え細胞分裂をやめる。
 決して細胞分裂を続けてそのまま組織を形成することにはならない。すべてか死に至り溶解し消滅する。細胞のこの死への経過は公表されることはない。これまでの医学定説の誤りが露呈するからであることはいうまでもない。
 体内環境の悪化から死にかけた赤血球から分化して生じた癌細胞その他の様々な病的細胞は、体内環境の是正によって、また健康を自分の力で取り戻す!というような強い意識をもつことによって癌腫、癌細胞、また癌細胞になりかかった赤血球の集塊なども健康な新しい赤血球へ戻っていくのだ。
 『生き甲斐』という目的をもつことによって全身の血管は拡張を始め、血液循環を正常に戻し、さらに断食の実践を並行させることにより、消化器系、循環器系、代謝器官系などが休養のときを得ることから機能が正常化し、いままでの歪み気味の機能が改善され全身が活性を得るようになる。その結果、体内の各組織に蓄積してきた有毒物質、不要物質を体外に排出するようになり健康への道すじが開けてくる。
 さらに『生きるんだ!』『こんなことで死ねるか!』という強い意志が加わることによって体には爆発的ともいえるパワーが発生し体力が強化され、体から病気というものの存在が駆逐されることになる。
 「病気には栄養強化」ではなく『病気には減食か断食』を実践することが何よりも大事なことだと畑中博士がいっていたが、恵美の体に生じた事実から、博士が逸平に説明してくれたことが真実であったことにただ驚くしかない逸平だった。そしてその事実が、逸平の体にも起きていた。退院間じかの頃だったが、右肩上部にあった親指のツメほどの大きさがあったシコリがいつの間にか、小さなイボほどにまで縮小していたのである。数年まえからそこにシコリがあることに気づいていたが、痛みがあるわけでもなく、また大きくなっていくこともないために放置していたのである。
 退院前の検査のおり、逸平は肩のシコリを見せて水上医長にその事実を告げた。
 「ああ、これはれっきとした脂肪腫です。いわゆる液体脂肪の塊りで、できる経過も癌とは違いますよ。性質も癌腫とはまったく違います。過剰になっている血液中の脂肪分が普通は組織中の脂肪層に変化するのですが、同じ過程のなかで脂肪が嚢をつくってそのなかに液体状で溜まるものも現われます。なぜ脂肪層にならず嚢のなかに溜まるのかは分かっていませんし、私も分かりません。原因は不明のなかでこの脂肪腫は全身の何処にでもできます。これも癌腫と同様に体には邪魔なものですから、断食や減食といった体への『兵糧攻め』作戦を始めますと、不足する赤血球をつくるための材料として癌腫などと同様に、脂肪腫も分解されて赤血球に戻されるのです。
 それが千島学説の第2原理『血球と組織の可逆的分化説』による現象なんですね」と水上医長はごく当然のことのように説明した。
 逸平はこの断食療法というものの効果が、千島喜久男博士の提唱する理論によって証明されているのにも拘わらず、現代の医学が癌治療に、どうしてこの理論を大々的に応用しないのか理解できず水上に質問してみた。
 「どう説明したらいいのかな……世界の医学がもっと意識改革が必要だといわなければならないですね。古来から癌やその他の慢性疾患には断食療法が特効を示すことは医師たちもよく知っているのですが、この東洋医学の療法というものを古典医学と見なしていて、古典医学など治療につかえるものか! というおかしなブライドと偏見をもっているんです。自分たちがやっている西洋医学の治療が暗中模索の状態になっているというのにね。しかし、そのうちには自分たちの誤りに気づく時期が来るものと思います。来てくれないと患者さんが困りますよ、ほんとうに……」
 そのとき水上の顔に一瞬だが憤りのような感情が浮かんだように逸平は感じた。
 現代医学の最前線にいる現役の医師自らが、この東洋医学療養センターへ、あの懇意にしていた一之瀬のように、医師であることを伏せて入院している人もいつも数人はいるらしいということからも、断食療法の癌への特効が医師たちの間にも、知る人は知るという程度であろうが浸透しているようだ。淺川病院長がよくいっていた。
 「千島学説に反発している医者たちも、きっと近い将来には千島学説の各理論を一般的な定説として認めざるをえないときが来るだろう。そうでなければ、全く何も知らず診療に訪れる患者さんたちが、特に癌治療において現代医学の方法より有効無害であるうえに特効を示す、断食療法という手段があることを知らず、ヤミの中に閉じ込められたまま苦しむことになる。これでは、いつになっても夜明けが訪れないことになり、こんな悲劇が続くことはあってはならないことだ!」と。
 逸平はこれから自分の周囲で癌に苦しみ、悩む人がいたとき、本人に逸平の話を聴く意志があれば、末期の癌にあった妻が完全治癒した断食療法のことを話し、またその治療法を専門に実施している東洋医学療養センターの存在も教えてあげよう……そしてできることなら、この治療の基盤となっている千島学説のことも……そんなことを考えていた。この素晴らしい療法と、それを実践できる場所があることを、癌に悩み苦しむ人たちに知ってもらうことは自分の務めのようにさえ思える逸平である。


 「お腹はペコペコだけどさ、今まで忘れていたんだから、余りたいした空腹じゃなかったんだよ。断食によってオレの胃袋がだいぶ小さくなってしまったことは、間違いない事実なんだ……」
 「あら、ほんと? 入院してからも長いあいだ、腹が減った、腹が減ったといって泣いていたのに、やっぱり、あなたでも胃が小さくなるなんてことがあるのかしらね」と恵美は理解できないというような顔で逸平を見る。
 「恵美、まるでオレが餓鬼で、一生を食べることのために生きているように思っておられますようだけど、オレも生身の人間だよ。一ヶ月も断食をしていたら、この胃袋だって縮まるさあね……」笑いながらタンカを切る逸平。
 「あらあら、それはどうも、失礼申し上げましたわね、おみそれ致しました」
 いたずらっぽく頭を下げる恵美。そのしぐさが実に愛らしい。
 「いやいや、どう致しまして。ま、冗談はこれくらいにしてさ、さっき電話をしたとき、おふくろがさ、皆には手巻き寿司を、恵美にはワカメきしめんを作って待っているって云っていたよ。二人ともおとといまで減食期間だったのに食べられるかなあ。せっかく、おふくろが作ってくれたんだから、食べなくちゃ悪いしな……」
 「お義母さん、大変だぁー、人数が多いから。でも、嬉しいわね、ご馳走つくって待っていて下さるんだもの。でも、あなたも、わたしも、余り食べられそうにないわね……あなた、少しだけなら食べられそうだというけど、その場になったらガツガツと食べてしまいそう。よく噛んで、ゆっくりと食べないと、胃や腸が大変なことになるわよ、気をつけてよ……」
 「大丈夫だよ、恵美。心配しないで、ちゃんと自制できるから。それはそうとして、オレはこの断食で8キロ弱減ったけど、恵美はどのくらい減った?」
 「わたしは3キロ余りだけ。水上先生がいっていたけど、わたしには、おなかの癌以外には分解するものがないんだって。ここセンターに入院するまえに、もうおなかの大掃除は終わっていて、残っているのは細かいゴミだけだったみたい……」
 「そうか、やっぱりな。恵美がここへ入院したときには癌腫のすべてが半分近くまで小さくなっていたんだものな。帝北大学病院で2回目の手術を終えたときから、もう恵美の体では、不思議なエネルギーが生まれたいたんだ。ほんとに見る間に元気さが戻ってきたもんな。退院の日でも止めるのも聞かないで、病室を整理するオレたちと一緒に手伝うんだもの。退院したら今度は次の日から家の掃除やキッチンの仕事まで始めてしまった……ほんとにヒヤヒヤしたよ、無理をして悪くならなければいいと思って……」
 「ごめんなさい、心配かけちゃって。まえにも言ったように無理してやっていたんじゃないのよ。ジッといておれないの、体が動いてくれっていって。意識のなかでも体の深くから力が湧き上がってくるのが感じられるの。痛いところはないし、体が軽くてほんとにジッととておれなかったの。いまもそう、熱いくらいに感じてる……」
 「ほんとに不思議な現象だね。あんな大病からそう日が経っていないのに、顔色は見違えるように良くなったし、声も力強くなったし……実際、健康人以上に健康だもんな。いま思えばあの頃から恵美の体からは強烈なオーラが放射されていたんだな。オレにはそれを見る能力がないけど、体が熱く感じるのはそのためかもね」
 「そうかも知れないわね。入院してから一週間ほど後の検診で、水上先生が言っておられたわ。“姿さんの体はもう健康体そのものですよ、あなたのオーラは今も眩しい金色の光になって強烈に放射しています。この強いオーラのもとではどんな病気も存在することはできないのですよ”って。だから私のなかにあった癌はみな追い出されたのだわ。不思議なオーラというエネルギーで……」



(つづく)