長編小説 霧のなかの巨塔  第4回

   第一章 奈   落

   


  ■見えない糸③

   


 9時を少し過ぎたころ、千鶴が改札口から出てきた。
 白いブラウスに水色のカーディガン、そしてベージュ色のキュロットスカート……清楚で愛らしい装いは千鶴の美貌に品位を添えていた。背に流した長い髪がよく似合う。立って待っている逸平を見つけて二重の切れ長な目が微笑む。手にはビトンのバッグをもっていた。
 「お待たせ……だいぶ待った……?」駆け寄ると逸平を見上げながらいう。
 「いや、わたしも5分ほど前に着いたとこ……千鶴、すごく綺麗だな……」語尾は囁くような声だ。 逸平の口からそんな言葉が出るほど今日の千鶴は美しさがきわだっていた。
 「ありがとう、あなた……誰かさんが綺麗にしてくれたの……」いたずらっぽく両目をつむって見せる千鶴のしぐさに、逸平は思わず抱きしめてやりたい衝動にかられた。
 「あなた、会社へ出掛けるときと同じかっこう……?」
 「ちょっと、おかしいだろ……? あした帰りに横浜の湘南オートに寄ろうと思ってね、夜になってしまうと思うけど。特約店契約の更新日が近いもんだから、そのことで……」逸平はここへ来る途中で考えてきたウソをいう。休日出勤だといって出てきたなどと言えることではない。千鶴を暗い気持ちにさせることが分かりきっていたから……
 「たいへんね、日曜日の夜もお仕事なんて……」逸平を見つめて気遣うようにいう千鶴。
 「販拡課の宿命みたいなもんだよ、さぁ、ホームへ行こうか。もう9時10分だ……」
 「電車は何時発なの……?」千鶴が電車の発車案内盤の方を見ながら逸平にきく。
 「9時27分だ。ここ池袋が始発だから列車はもうホームに入っているだろう……」逸平は歩きながら改札口の上にある発車案内盤を見上げた。
 「スーパービュー踊り子53号……2番線から発車だ、千鶴……」
 「ずいぶん長ったらしい列車名ね」
 「そういえばそうだね。この電車はさ、新造車両で鉄道マニアや一般の人の間でも、特に人気が高くて特急券がなかなか取れないんだ。きょうのは発売と同時に購入したし、グリーン車ということもあって直ぐ取れたけどね……」千鶴に説明するというより独りごとのようにいう逸平だった。
 2番線には既に列車は入線していたが、乗客でホームは混雑している。扉がまだ開いていない。
 「わぁ、すごい人……もうこの駅で満席になるくらいね……」ホームの混雑を見て千鶴は驚きの声を上げた。ダークシルバーの車両を囲むようにして乗客が群れている。
 「ほんとにすごい混み方だな。早く扉を開ければいいのに……」逸平たちは待つ人たちの間を、縫うようにして歩いていく。
 「何号車なの……?」逸平の背に大きな声でいう千鶴。
 「1号車。いちばん前なんだよな。この人混みだから大変だよ……」この列車は全車両が指定席だから乗客は並んでいるわけではないが、車両を取り巻くように立っている人たちの間を抜けて行くことは、事実大変なことだった。そんななかでホームにアナウンスが流れる。
 ・・・お待たせ致しました…間もなく2番線に停車中の列車の扉が開きます。2番線の列車は9時27分発、伊豆急行線直通の特別急行スーパービュー踊り子53号、伊豆急・下田行きです。列車は前から1号車、2号車の順で一番後ろが10号車です。この列車は全車が指定席になっております……このうち1号車と・・・ ホームの中ほどあたりまで来たとき列車の扉が開いた。乗客は扉のまわりに集まってホームの後ろは歩きやすくなる。ようやく1号車まで来たときには、乗客のほとんどが乗車を終わっていた。幾組かのグループが先頭車をバックにして写真を撮っている。1号車は2階建のグリーン車で指定席は2階、1階はグリーン客のロビー室だ。もう10人ほどが座っていた。逸平たちは2階への螺旋状階段を上がる。席は空席が目立つ。多分、階下のロビー室にいるのだろう。
 「えーっと……6番A、Bは……ここだ、千鶴……」逸平は窓側の席を指し示す。
 グリーン車内は航空機のキャビンのような感覚だった。網棚はなくそこはグローブボックスになっている。座席は右側が一人掛け、左側は二人掛けになっていた。
 「ねぇ、あなた……グリーン車なんて、わたし初めてだわ……すごくリッチになった気分……」
 逸平の耳もとに囁くような小さな声で千鶴がいう。
 「わたしも同じだよ。でもきょうと明日は特別だ。千鶴と一緒の旅行だからな……」そういうと逸平は千鶴の膝を軽くたたく。列車はいつの間にか池袋駅を発車していた。直ぐに新宿駅へ到着する。
 グリーン車へは3、4人が乗り込んだだけだ。そのなかの一人の男が逸平と千鶴を見かけると驚いた顔になる。60才を少し過ぎたあたりだろうか、白髪が目立つ髪は丁寧に分けられ、グレイのスーツに紺色のネクタイがよくマッチしていた。細おもての顔には長年の苦労を象徴するかのような幾つもの大きなシミが現れている。銀縁のメガネからのぞく眼には、まだ訝しげな表情が消えていない。 逸平の方へと歩きかけるが、急に思い直したように背を向け下のロビー室への階段に向かう。
 千鶴は窓の外を逸平は目を閉じていたため、その男にまったく気づくことはなかった。もし、その男に声を掛けられたり、逸平や千鶴が気づいたとしたら、二人で旅行をする気分など完全に消え失せていたに違いない。
 列車は山手線の貨物線を次の停車駅、横浜へとひた走る。大きな窓から見える大都会の風景は、降りしきる雨のために暗く味けない。時折り窓に当たる雨がパチパチと音をたてる。
 まだ朝のうちだというのに外は夕暮れのように暗い。雨がまた強くなったようだ。
 「ねぇ、熱海もこんなに雨が降っているのかしら……」窓の外を見て居た千鶴が呟くようにいう。
 「うん、熱海はここよりずっと南だからな。もっと強く降っているかもな……」
 列車は大崎駅を通過し急カーブを描いて、山手線から分かれ横須賀線へと入ってゆく。

   


   


 土曜日は雨の朝だった。休日出勤だという逸平を送り出した恵美はまたダイニングルームへ戻る。 正樹はいつものことだが朝食もとらず無言のまま登校してもういない。中間試験中の博樹は2時間目からということでまだ食事の途中だった。この暗い家庭のなかで博樹との会話だけが、恵美にとってささやかな安らぎを得ることができる貴重な時間になっていた。
 夫の逸平と会話がないわけではなかったが、帰宅時間が遅いうえに恵美の話しかけに対し、何か虚ろな返事が返ってくるだけで会話にならないことが多い。仕事に疲れきっているためだろうと恵美は思っていたが、実際はそうではなかった。もちろん、仕事の疲れがまったくない訳ではなかったが、逸平の頭のなかはいつも千鶴のことでいっぱいだった。できることなら家庭に戻ることなく、ずっと千鶴とともに過ごしたかった。
 家庭においては自分の居る場がなく、いつも追い立てられているような錯覚にとらわれていた。
 千鶴とともにいるときだけが、逸平にとっての安らぎの時間となっていたのである。恵美に不満があることなど毛頭ない。正樹の暴力にひたすら耐えながら家庭を守ってくれている妻……言葉や態度で感謝の気持ちを表したことはなかったが、その念は絶やしたことがなかった。そういう気持ちの一方で恵美のやつれた顔や凶暴な正樹を見るのが辛くそして怖ろしかった。
 正樹の狂気ともいえる暴力……逸平はその現場を見たことはなかったが、正樹の逸平を見る残忍性をのぞかせた冷たい眼から容易に想像できた。そんな正樹に恐怖感を抱く逸平。正樹の暴力をやめさせる父親としての威厳は自分にはないと思い込んでいた。そんなふうに思い込むことで正樹から自分を逃避させていたといったほうがいいかもしれない。
 長い海外駐在員としての生活に終止符を打ち、帰国したときから正樹の逸平を見る目は父親を見る目ではなかった。他人が自分に無断で家に上がっているといった、怒りと冷酷の眼で見ていた。そんな正樹を見るとき逸平は自分から目をそらせてしまうようになっていたのである。
 逸平は父親としての信頼と威厳を取り戻すための努力をするまえに、その義務を果たすことから逃避していた。妻に対する我が子の暴力を見て見ぬふりで無視している自分の卑怯さ、妻への申し訳なさと不甲斐なさで次第に自己嫌悪に陥っていく。その心の裏にはけなげな妻を裏切って不倫の愛に溺れていることに、無意識のうちの自責の念があったのかもしれない。
 雨はいっこうに止む気配がない。
 夫を送り出した後、少しばかりの朝食を摂っただけだったが、直ぐ差し込むような胃の激痛に恵美は襲われる。その痛みは今までにない激しいものだった。思わず胃のあたりに手をおきテーブルに右肘をつく恵美に、食事をしていた博樹が驚いて立ち上がる。恵美の顔は苦痛で歪み、見る間に血の気が引いていった。耳は黄色みを帯びたような白さに変わっている。博樹はこのように苦しむ母をこれまで見たことがなかった。正樹の暴力によって傷めつけられたとき以外には……
 「お母さん、どうしたの……! 胃が痛むの……?」駆け寄った博樹は母の背中をさすり、顔をのぞき込むようにしていう。
 「ありがとう、博ちゃん……ちょっと急に胃が痛くなっただけだわ。大丈夫、すぐ収まるから……」顔を上げて答える恵美だが、その顔は蒼白で目は閉じられたまま。またすぐ顔をテーブルに伏せる。「……いつもの胃ケイレンよ、きっと……博ちゃん、学校に遅れるわよ。お母さんは大丈夫だから早く支度して……」顔を伏せたままの声は消え入るように小さな声だった。
 「時間はまだあるよ。お母さん、顔色が……」
 「心配ないわよ、博ちゃん……少しよくなってきたみたい……もう大丈夫だわ……」激しい痛みは未だ続いていたが、恵美は両手をテーブルにつきながら立ち上がる。これ以上、母想いの博樹に心配をかけたくなかった。ひとりで激痛に耐えることに心細さはあったが、そのために博樹を引き止めることのほうがもっと惨めに思えた。
 「博ちゃん、ごはんが途中じゃなかったの……?」テーブルを片付け始めた恵美が気づいていう。左手をまだ胃のあたりに当てている。
 「うん、だけどもういいや。びっくりしたら腹がいっぱいになっちまったよ」下腹を軽く叩きながらいう博樹の顔にはわずかな安堵の色がうかがえる。
 「ほんとに、ごめんね。びっくりさせちゃって……」
 「なにいってんだよ、お母さん、そんなこと気にすんなよ。そんなことより、無理しないで少し横になって休んでないと……」博樹の優しい言葉で恵美は痛みが薄れていくように思えた。
 「ありがとう、博ちゃん。そうするわね」努めて笑顔をつくりながらいう恵美。だが、その顔には未だ血の色が戻っていない。
 「じゃ、オレ、学校へ行くけど、ちゃんと寝ているんだよ……」
 「はい、はい、分かりました。ここを片付けたら直ぐに休むわ。行ってらっしゃい……」博樹を振り返りながらいう恵美。激痛を耐えながらつくる笑顔は悲痛さを感じさせる。ダイニングルームを出ていった博樹が直ぐ戻ってくる。スリッパの音から推測すると走ってきたようだった。
 「ちょっと、聞いておきたかったんだけどさ、お母さんの胃がそんなに痛むようになっていること、お父さんや正樹は知ってるの……?」博樹の言葉には父や弟に対する非難が込められていることを恵美は感じとっていた。
 「知らないと思うわ。話したこともないし、さっきのような痛みは今までになかったし……」
 「やっぱり知らないのか……お父さんも、正樹も。ま、お姉ちゃんはここにいないから別として、みんなお母さんを気遣う気持ちがなさ過ぎるよ、まったく……ほんとに気づいていないのかなぁ……」 博樹はずっと以前から母の顔色が悪くなってきたこと、またよく胃のあたりを痛そうにさすっている母の様子に気づいていた。しかし、そのことを母に問いただすことが怖かった。

   


 ……オヤジや正樹は、お母さんの様子がだんだん悪くなっていることに、本当に気づいていないのか…?
 毎日オレと同じようにお母さんと顔を合わせているというのに、オレだけに分かってオヤジや正樹には分からないなどという筈はない。目に見えてお母さんの状態は悪くなっているんだぞ……!
 顔色ばかりじゃない、なんで急にこんなに痩せてしまったんだよ……今年の初め頃にはもっと、ふっくらとした顔をしていたのに。
 それがどうだ……今は頬はこけてしまい、目も濁ったような色になってしまって……こんなお母さんの変わりように気づかないなんて、そんなバカな……!
 オレと同じように気づいているけど、お母さんに聞くのが怖いんだ。お母さんの体に何かただならぬ異常が起きているんじゃないかという、自分たちの予測が当たるのを怖れているんだ……!
 やはり、ガンなのか……? お母さんの様子はただ事じゃないぞ。このままほっておいていいのか……?
 取り返しのつかないことになったらどうするんだ……!

   


 食器を洗っている母の痩せ細った背を見つめながら、博樹はいいようのない不安にさいなまれた。 そんな博樹の視線を感じたのか恵美が振り向いていう。
 「ねぇ、博ちゃん、お父さんは会社の仕事で大変なの。だから、わたしのことで余計な心配はかけたくないの……お母さんの気持ち分かってくれる……? 正樹はあんな状態だから、どうしようもないしね。大丈夫よ、博ちゃん。そのうちよくなるから……だからお願いよ、お父さんには何もいわないで……」博樹に背を向けたまま懇願するようにいう恵美。
 「お母さんがそういうんだったら何もいわないけど、絶対に無理しないでよ。そして早く病院へ行って診てもらってよ……」博樹には母のいうことが分からないではなかった。しかし、急激にやつれていく母の姿を見ることが耐えられなかった。
 「わかったわ、博ちゃん。月曜日に病院へ行く。約束するわ、お母さんも安心したいから……」
 恵美はなんとかその場をつくろっていう。恵美自身が自分の体の異常にはずっと以前から気づいていた。胃の痛みだけではなく食道の奥に何か異物感があり、食べ物が時折りつかえる感覚もあった。 また、この5ケ月ほどの間に体重が15キロ以上も減少していた。耳鳴りとともに、急なめまいに襲われる回数もここのところ増えている。しかし、いまさら病院で診断を受ける気はなかった。
 恵美には診断結果が分かっていた。もう手遅れになっている末期のガンであると……
 命ある限り、せいいっぱい生きて行こうと考えていた。博樹や正樹、また梨香のため、もちろん愛してやまない逸平のためにも……
 「約束だよ、お母さん。じゃ、行ってきます、ちゃんと休んでて……」そういいながら博樹はダイニングルームを出ていく。
 「ありがとう、行ってらっしゃい」痛みは相変わらず続いていたが、痛みが治まったかのように明るく博樹を送り出した。このとき、恵美の食道下部、胃幽門部、さらに膵頭部、肝臓は、まったく手の施しようがない末期のガン腫に侵されていた。まさに恵美の予知どおりの状態だったのである。それから3ケ月後には意識不明の危篤状態に陥り、死の淵を彷徨うことになろうとは、恵美にもまた誰にも分かることではなかった。

   


   


 東京ステーションホテルの『あけぼのの間』では定刻に講座が始まっていた。きょうのテーマは「炎症疾患と断食療法」だった。講師はあの著名な血液学者、故千島喜久男医博の後継者、医事評論家でありルポライターでもある川上武治である。
 会場は二百人近い受講者で空席はほとんどない。その人々の視線は演台脇に立つ司会者にそそがれていた。司会者は川上のプロフィールを紹介している。
 ……川上武治は千島博士の晩年に出会い、その革新的な医学理論に心から感銘を受けた。当時、川上は名古屋市に本社を置く健康産業メーカーの企画編集室長をしていた。
 会社創立十周年記念の式典開催にあたり、その記念講演会の講師を千島博士に依頼することが決定した。その交渉担当が川上だったのである。
 現代医学、生物学の定説とされる多くの理論を根本から覆す革新の医学理論『千島学説』を勇敢にも提唱した学界の異端児、千島喜久男博士と新しい医学理論との出会いは、川上の生き方に大きな変化を与えた。超革新といわれた千島学説の各理論は、川上の直観のなかで真実なるものと確信した。 そのときから千島博士を師と仰ぎ、博士を会社の最高顧問として迎え入れることを役員会に進言し実現した。それから博士がこの世を去るまでの6年間、各地で開催される講演会、講座には必ず博士に同行し徹底的に新しいこの理論を学んだ。後には講座を博士と分担し、講師として全国に赴くまでに至る。博士の没後、数日にして会社が別の医師を最高顧問に据えたことから会社に反発、1ケ月後に会社を退職すると同時に、『革新医学推進センター』を名古屋市に設立、千島学説の普及とこれを応用した独自の東洋医学療法と心理療法を考案し普及と指導に活躍している……

   


 紹介された川上武治のプロフィールはざっとこのようなものだった。演台に立つ川上は温厚さが感じられる小柄な男だった。無造作に分けられた髪には50才という年令にしては白髪が目立つ。黒縁のメガネからのぞく目は話しのなかで時折り鋭い光を放つかのように思えた。
 ……この男はただものじゃない…! わずか数年の間にあの哲学を基盤とする新理論をマスターしてしまったんだからな……話しぶりも自信に満ちている…! 千島博士は素晴らしい人を後継者にもたれたものだ。わたしもこんな人を跡継ぎにできたら……
 畑中、浅川は同じようなことを考えながら川上の話のなかに引き込まれていった。
 午前中の総論にかわり、午後は減食や断食などの食養生の実践によって病気を克服した人たちの体験発表である。川上の指導によってガンや子宮筋腫を治した人、激性肝炎から妻の命を救ってもらった人、ひどい高血圧が短期間で軽快した人などの発表があったが、畑中や浅川は激性肝炎の妻を断食療法で全治させた夫の体験発表に強い関心を抱いた。久村光司という高校教師の発表である。

   


☆            ☆              ☆

   

 久村もその妻、志津江も共に名古屋市内の公立高校教師である。4年前、泣きっ面にハチともいえるような事態が起きた。久村が36才、志津江が33才のときである。
 その数日前、志津江は中期の食道ガンと診断されていた。担当の医師は志津江に食道ポリープと説明していたが、電話で呼び出された久村に医師は第3期に入った食道ガンですぐ手術しないと数ケ月の余命だろうと宣告した。
 志津江はここ最近、食事のときに食べ物が通り難いと訴えることが多くなっていた。
 病院を訪れた日には朝食中に嘔吐した。これまで病気らしい病気をしたことがなかった志津江だった。安心のために病院を訪れ良性の食道ポリープと、事実とは違う説明をされた志津江は医師の指示に従って手術を受けることにしたと久村に告げる。久村は悩んだ。今のガン治療は余りにも疑問点が多すぎると友人である川上につねづね聞かされていたからである。自分が知るなかでも検診による初期ガンと称されるものはともかくとして、進行ガンで入院した人間が元気になって退院したという話は聞いたことがない。病院で死亡するか退院させられて間もなく死んだという話ばかりだった。
 ……志津江をそんな目にあわせてたまるか……! 久村は決断する。川上がよくいっていた別府市の東洋医学療養センターへ入院させることに……

(つづく)