長編小説 霧のなかの巨塔  第40回

   第三章 美しき旭日

   


  ■ 乱 気 流 ②


 大塚は軽く咳払いするとマイクを手にとり機内放送を始めた。
 「副操縦士の大塚です。操縦室からお客さまにお願いします。ただいま座席ベルトの着用サインがでております。気流の状態が悪い空域を通過しております。少々機が揺れることがあるかも知れませんが機の操縦には影響ございません。座席ベルトはしっかりとお締め下さい。座席ベルト着用のサインが消えますまで化粧室、電話室のご使用、また席を立たれることはご遠慮ください」続けて今度は立て板に水といえるような英語で放送する。その声を聞きながら機長の増田は……真面目になんとかが付くような大塚君だが、英語だけは、オレの上を確実に超えているわい……と感心するほかなかった。
 「機内放送を完了しました」
 「ありがとう。レーダーにスコール域のエコーが現われてきたぞ、大塚君。猛烈に広いスコール域だ。ここはまだ序の口……この先は三千フィートから五万フィート以上まで全面が赤だ。こんな発達した積乱雲層は世界でもマレだよ、とてつもない乱気流に見舞われるかもしれんぞ!」そう言いながらも増田の声は沈着そのものだ。
 「そんなことになりそうですね。現在、高度二万四千フィート、速度マッハ、コンマ79です」
 「了解、これから着陸までマヌアル航行だ。大塚」ヘッドセットの位置を調整しながら増田が応えた。
 コクピットの分厚い強化ガラスの向こうには鉛色というより真っ黒といえるような雲の塊りが機の進行方向に立ちはだかっている。それはまるで見上げるような絶壁となって南北に長く連なっていた。
 この積乱雲塊の最上部は6万フィートを軽く超えているものと増田は推測した。
 国際線の機長として世界を馳せてきた増田だったが、これほど大規模の積乱雲層に遭遇したことはない。超大型台風18号の影響であることは間違いない。感覚では南北の長さは500キロを超えているように思える。その四分の三以上は海上にあるはずだから、内陸へコースを変更すれば完全にスコール域を脱することができるが、ジェット旅客機の飛行ルートからは大きく逸脱し大事故の原因になりかねない。
 さきほどJAAのMD10型という大型機がこの空域で乱気流に巻き込まれたときから、積乱雲層は更に発達したようだ。
 レーダーは設定空域を大幅に超えた雨域のため遠州灘上空の飛行進路は画面全体が猛烈な雨域を示す赤で塗りつぶされていた。
 前方は無限の恐怖が秘められた分厚い雲の壁だ……機はすでに濃霧のなかに突入していた。数分まえまで雲をとおして微かに見えていた太陽は完全に黒雲に隠されて急速にたそがれのような暗闇がおとずれる。
 「これからひと汗かくことになるぞ、わたしも、大塚君も、またとない体験ができそうだ、かんばろう、大塚君!」


 堂本幸一郎は愛機ファミロンの操縦を始めてからの滞空時間がもうすぐ3千時間になろうとしていた。アマチュアの小型機パイロットとしてはまずまずといったところの操縦経験者である。
 きょうもいつもの週末のように多摩飛行場を離陸してから孫たちがいる愛媛県・松山空港までのフライトを楽しむつもりだ。堂本は先週、69歳の誕生日を迎えた。
 いつも週末には松山空港に近い伊予市に二男夫婦と三人の孫がいる二男、賢次の家を訪れるのことが唯一の楽しみである。長男夫婦には子宝に恵まれなかったが、二男には、高校一年生の長男から小学校二年生の三男まで、男の子ばかりの三人の子どもがいる。堂本幸一郎は調布市郊外に工場と本社屋をもつ従業員数700人余りの電機器具部品メーカーの会長である。
 社長の座は五年まえに長男の賢一に譲り、いまは会社のお目付けといった存在のヒマな毎日をおくっていた。会社の業績は年々発展しており、次年度にはベトナムに工場を新設し比較的安価な人件費での製造ラインをスタートさせることで着々と現地での準備が進んでいた。堂本幸一郎は毎日、定時の朝9時には出社し、本社ビルの会長室で退屈な時間を過ごし、午後5時の退社時間が来ると、車で10分ほどの所にある自宅へ、時計のように決まった時間に帰宅する。ゴルフもマージャンもすることなく、ただ愛機の操縦だけを楽しみにしていた。いつもは妻の美津も同行するのだが、きょうはカゼ気味のため堂本ひとりだけのフライトである。

 多摩飛行場を14時ちょうどに離陸した堂本は飛行許可を得た高度1万フィートの空域を横須賀上空を経て松山空港へと機首を向けた。離陸前、多摩飛行場の航空管制官から駿河湾から遠州灘にかけて猛烈に発達した積乱雲層があるからその空域に近づいたら5千フィートに降下して乱気流層を避けるようにという指示をうける。
 そして、この空域のフライト予定機はないが、積乱雲層を回避困難と判断したら、直ちに引き返すようにとも指示されていた。
 抜けるように青く美しい空には眩しい太陽が輝いている。濃いサングラスをかけていても、機のサンバイザーを下ろさないと強い陽光には耐えられない。
 眼下一万フィートには相模湾の海面が太陽光を反射してギラギラと輝いていた。
 しかし、機の遥か前方、遠州灘上空あたりには発達した不気味な積乱雲の壁が高く聳え立っていた。南北に海上を遮った暗黒の壁は、高さが六万フィートを遥かに超えているようだ。一万フィート上空からでも、南北の境界線など見えない完全に逃げ道を断った恐怖の崖にほかならない。
 こんな竹トンボのような小型機ではこんな高い雲の上空まで上昇して乗り越えることなどできないし、たとえ上昇が可能だったとしても、管制塔の許可なく勝手に飛行空域を変更することはできない。とんでもない事故につながることが確実だからだ。
 堂本は一旦は引き返そうと考えたが、ここまで来たのにそれはもったいないと思い高度五千フィートまで降下し、少しだけ突入することに決める。もしも危険を感じるような状態だったら、直ぐ引き返せばよい……そんな気楽な考えだった。
 高度五千フィートまで降下すると、黒雲の崖に向かって突入していく……
 今まで眩しく輝いていた陽光が、あっという間に濃い霧に覆われてしまった。上も下も、左も右も灰白色の霧以外に何も見えない。機の現在の姿勢すら掴めない……
 少しだけと思って積乱雲の崖のなかに突入してみた堂本だったが、これ以上、この雲塊のなかをフライトすることは危険だと判断し、方向舵ペタルを大きく踏み込み左へバンクした瞬間、猛烈な上昇気流につかまってしまった。機体を五十度近くも左に傾けたまま千フィート以上も跳ね上げられた。堂本は本能的に操縦桿を押し下げ、機首を下に向けようとしたが、猛烈な気流によって操縦桿は動かない。油圧系統がやられたらしい。堂本は気づいていないが、肝心のプロペラも止まっている! 一瞬のうちに航空機ではなくなっていた。 気流の状態はますます悪くなっていく。
 風向が変わったと思った瞬間、大粒の雹が機体に叩きつけてくる……耳を両手でふさいでも頭が割れそうなほどの振動と音だ。小型機は地獄のストームに巻き込まれていた。様々な方向へ機体を引き込もうとする悪魔の力が小型機の周囲に渦巻いていた。
 機を餌食にすべく荒れ狂う……
 「おーい、誰か……たのむ、助けてくれーい……! 助けてー!」と声を限りに叫ぶだけである。気が動転している堂本は分別を失くしていた。気が狂ったようにただ、助けを求める声を上げながら機能しなくなってしまった操縦桿を押したり引いたりする動作を続ける壊れた人形になっていた。突然、思い出したかのように傍らの無線機のマイクに手を伸ばす。だが、慌てているために起動スイッチの位置が分からない……ようやく指で探りあてオンにした。
 グリーンのランプが点灯したのを確認するとマイクの送信ボタンを押して叫ぶ。
 「メイデイ、メイデイ……! こちら駿河湾上空、ファミロン7A、乱気流に遭遇し脱出不能。海上に不時着する。救助を請う。機体は黄色。以上。繰り返す……」
 トークボタンから指を離してマイクを耳にあて応答を待つが、ザーという空電雑音以外に何も聞こえてこなかった。
 機体を激しく叩いていた雹から今は滝のような雨が機体を叩きつけている。ワイパーは動いているが豪雨と視界不良で何の役にもたっていない……数分まえまで3千フィートを示していた高度計は9千フィートを示している。数分で6千フィートも急上昇していた。しかし、堂本には高度計を見る冷静さなどはなくしている。
 「メイデイ、メイデイ……! こちら駿河湾上空……」再び遭難信号を送るが何の応答も返ってこない。機は急に降下を始めた。慌てて操縦桿を引くが油圧がかかっていないためブラブラだ。受信状態にしたままの無線機からは何の応答もなくただ空電雑音が聞こえるだけだった……
 「おーい、誰か返事してくれ! たのむ、返事してくれ!……おーい……」堂本はマイクに向かって叫び続けるだけだ。恐怖と焦りによって無線機の取扱いも忘れてしまう初心パイロットに戻っていた。ふつうのパイロットなら決してミスすることなどない簡単な切り替え操作を忘れていたのだ。いま、叫んでいる無線機の設定チャンネルは通常通信、いわゆる特定された相手、この機の場合は、多摩飛行場の管制塔との交信専用になっていた。そのため離れたこの空域から多摩飛行場などに通じるわけがないのだ。遭難信号を出すときには、マイク上部にある「EM」という赤文字が彫られたプレストークボタンを押さねばならないのだ。そうすると、通常交信回路は自動的に遮断され、この機の通信機は最大出力になって規定の遭難信号専用の周波数に切り替わり最寄の航空交通管制所、付近を航行中の船舶や航空機に救助要請が着信するようになっていた。だが堂本はそんな基本操作をすることが最後までできなかった。
 手にもっていた無線機のマイクをコクピットの壁に叩きつける。
 もう、どうすることもできなかった。機の周囲は薄闇に閉ざされ、ひっきりなしに稲光が濃い雨雲を照らしだす。機は前後左右に引きちぎられるかのように激しく揺さぶられた。「もう、だめだ! 墜落する……」 堂本は絶望の声をあげた。
 その数秒後、機は突然に猛烈な気流の渦に巻き込まれる。機首を真上に向けて棒立ちになった瞬間、右の主翼が付け根近くから、左の主翼は中間部から脱落した。機首を上にしたまま、機体はコマのように回転しながら天空へ向かって上昇していく。
 機体が回転を始めたとき、その衝撃で堂本の頚骨は折れていた。機体に加わった瞬間的な捩れ運動で堂本は何の苦痛もなく即死していた。いつの間にか垂直尾翼もなくなっている。
 遺体を乗せた小型機の残骸はなおも回転しながら上昇を続ける。操縦席の高度計は一万フィートを超えたあたりで故障し動きがない。つむじ風に巻き上げられる紙飛行機のように荒れ狂う上昇気流に翻弄されながら、棒立ちになったり横向きになったり、また逆立ちになったり、と両翼と尾翼も失った小型機は激流に巻き込まれた木片のように不規則な回転をつづけながら気流に押し上げられていく……



(つづく)