長編小説 霧のなかの巨塔  第41回

   第三章 美しき旭日

   


  ■ 乱 気 流 ③


 JIR240便は猛烈に発達した積乱雲のなかに突入していた。機の窓からは稲光によって周辺がオレンジ色に輝くのが見える。機体を激しい雨が叩き騒音が激しい。
 そんな嵐のなかでもジャンボ機という超大型機は順調なフライトを続けていた。
 わずかな揺れはあるものの塔乗客が不安を抱くような揺れではない。キャビンの投影スクリーンには人気タレントたちのタイ旅行がビデオで写されていた。
 恵美はイヤホーンをつけてビデオを見ており、逸平はキャビンアテンダントが持ってきてくれた週刊誌を見ていた。機外の乱気流を感じさせないほど平穏な状態で飛行している。逸平が何か思い出したように恵美の膝を軽く叩いて話しかけた。
 「なあ、恵美……」
 「え……? なーに?」イヤホーンを外し恵美が優しく逸平を見る。
 「東京へ戻ったらさ、明日か、あさってに畑中先生のところへお礼に行ってこようよ……もちろん、山本常務のお宅へも」
 「そうね、私もそう考えていたの。山本常務さんも畑中先生も私の命の恩人だわ。乗務さんや先生のご都合を聞いてからね。あしたは日曜日だから畑中先生の病院へ伺うのは月曜日でしょうね」
 「うん、そうなるだろう。常務も畑中先生も、恵美の元気な顔を見ると喜んでくれると思うよ、きっと」そういうと逸平は見ていた週刊誌を閉じ窓の外に目を移した。
 夕暮れにはまだまだ時間があるというのに、窓の外は薄闇といえるような暗さになっている。窓には機内の様子が映っていた。絶え間ない稲光が周囲の雲をオレンジ色や白色に輝かせている。
 「ひどい天気になってしまったな、集中豪雨だよ、これでは。外界では大変……」
 「外界だって、あなた……神様になったようなことをいってる……」恵美は逸平の言葉に対して声を出して笑う。
 「うん、ちよっとエラそうな言葉だったな。言い直すよ。地上では、といえば妥当な表現といえるんじゃないかな」と真面目な顔でいうと恵美の膝を軽く叩く。
 「外界……だって。おかしかったわ。帰ったら正樹や博樹に聞かせてあげよう、お父さんたら……」恵美が話しているとき、突然、機体が急降下した。
 シートベルトをしていた体がシートから浮き上がり、恵美は逸平の腕にすがった。
 一秒ほどだったのか数秒だったのかは分からなかったが、落ちていく感覚は長く感じられた。機内のあちこちから女性の悲鳴があがる。もしシートベルトを締めていなかったら乗客の全員が天井か座席上にあるグローブボックスに頭を打ち付ける大きな事故になっていたに違いない。逸平は胃が喉もとまで引き上げられるような痛みと吐き気に襲われた。恵美の様子を見ると平気な顔で顔色も変わっていない。
 男の自分がたじろいで胸をさすっていることに何かきまり悪さを感じる逸平。
 機の落下感覚は始まったときと同様にふっと止まった。機内にざわまきが広がる。
 カチッという音が何処からともなく聞こえる。機内放送のスイッチ音だった。
 ・・・機長の増田です。ただいま激しい下降気流域に遭遇し急激に3千フィート、約900メートル降下しました。ご気分が悪くなった方、お怪我をされた方、どうぞシートの乗務員コールボタンでお知らせ下さい。あと15分ほどで安定した気流の空域になりますが、それまでは突然の気流の乱れも予測されます。どうぞ、座席ベルトはしっかりとお締め下さい。決して立ち上がったりすることがないように重ねてお願いします。なお、乱気流によって機の操縦に支障が生ずることはありません。ご安心下さい。あとしばらくご辛抱願います・・・
 機長の落ち着いた説明で機内のざわめきは完全におさまった。前方を見ている逸平の目にアテンダントが立ち歩く様子は見られない。幸い負傷者などはいないようだ。
 「ちょっと、びっくりしたなあ、こんな落下感覚は初めてだよ、恵美」
 逸平はまだ胸を撫でおろしている。
 「ねえ、ちょっとだけ。でも、墜落するような感じじゃなかったから、怖さはなかったわ。あなた、胸が痛いの? さっきから胸を撫でているけど……」
 「さっきのショックでちょっとね、もう大丈夫……」そういっている間に、今度は巨人の手で掴みあげられるかのように急上昇した。その感覚は先ほどのように長いものではなく不快感もない。機長の説明後ということもあり塔乗客は落ち着いていた。
 雨が機体を打つ激しい音をかき消すゴーッという乱れのないジェットエンジンの噴射音がキャビンの乗客に安心感を与えるのかもしれない。ジャンボ機は豪雨のなかをかなりの揺れはあるものの順調なフライトを続けている。


 パイロットの遺体を乗せ両翼を失った小型機は、激しい気流に翻弄され続け、なおも上昇しながら渦に巻き込まれた木の葉のように回転し続けていた。
 機首が真下を向いたかと思うと、次の瞬間には着陸脚を上にして裏返しになる……
 垂直尾翼は引きちぎられてなくなっていた堂本の愛機は、空中ですでに残骸になり果てている。操縦席にベルトで固定されたパイロットの遺体は機体の激しい動きで頭や腕が不自然な形で前後左右に、あるいは機の回転に合わせるかのように動いていた。パイロットの棺となった小型機の残骸は、ただ気流に身を預けていた。
 折りしも接近してくるジャンボ機に向かって、計算された軌道を進むミサイルのように、気流にのった猛烈な速度で嵐の空域を突き進む……もし、パイロットの堂本が生きていたなら、右上方から接近してくる巨大な航空機の航空標識灯や明るいキャビンの窓明かりを発見して慌てて回避行動をとったことだろう。しかしいまは、操縦する人がいないミサイルと同じような凶器ともいえる存在になっていた……


 JIR240便のコクピットでは機長の増田が自動航法装置をオフにしたままのマヌアル航法で、レーダースクリーンとメインディスプレイ上に次々と表示される数値を見ながら、両足をまるで機械でもあるかのように動かして、昇降舵や方向舵を操作して機の安定を保っていた。この言語に絶する嵐のなかを平常と変わらぬ落ち着きでこの巨大機を操縦する増田機長に、副操縦士の大塚はただ感嘆するばかりである。
 増田は気象レーダーの測定域を今の10マイルから20マイルに切り替えた。その走査線上には赤く輝く強雨域は消えている。あと数分でこの乱気流域を切り抜けることができそうだ。
 高度は許可された2万フィートを正確に維持している。しかし、間もなく悪気流域から脱することができそうだからといって油断するような増田ではない。着陸してエプロンに停止するまで全神経を操縦に集中しろ……これが増田の信念だった。
 「20マイル先はもう乱気流域はない……」そう増田がいいかけたとき、突然、大塚が叫ぶような大声でいった。
 「機長! 2時の方向に黄色の小型機! 下、半マイル……衝突します!」
 さすがの増田も大塚の叫びにギョッとする。今のいままで見ていた気象レーダーにも対空レーダーにも、それらしいエコーはなかった。まさか下方からとは!
 コクピット内に合成音声と鐘を打ち鳴らす警告音が鳴り響く!
 ・・・衝突! 衝突! 機首を上げよ! 機首を上げよ!・・・
 ・・・衝突! 衝突! 機首を上げよ! 機首を上げよ!・・・

 増田は2時の方向を見た。主翼も尾翼もない葉巻のような胴体だけの機体が機首を上にして240便のコースを正確に交差するように左下方から上昇してくるのが見えた。この機のコクピットに正面から衝突させるように……
 増田は反射的に操縦桿をいっぱいに引き上げると同時に右方向に急バンクすべく、右方向舵をいっぱいに踏み込む。一瞬でも操作が遅れたら、あの小型機の残骸がコクピットを直撃することは間違いなかった。ジャンボ機は急上昇をしながら、右への急速なバンクを図る。真下からの航路侵入ではふつうでは回避不能である。しかし、本能的といえる超人的な増田の回避操作によって数メートルという高度差が生まれ、小型機の残骸は操縦席の真下へもぐり込むような形で入っていった!
 増田の目から相手小型機の操縦席が瞬時見えた。白髪の男が不自然に頭を反らせた姿勢で座っている……その光景が視野から消えたとたん、コクピットの下側からドドーン! という大きな衝突音と機首が押し上げられる衝撃に続き、機体が引裂かれるようなガリガリッ、ガガガー! という鋭い金属音が振動とともに伝わってくる。
 小型機がダイレクトでジャンボ機に衝突した……!
 この巨大機と比較したら尾翼の一部にも相当しないような小さな機体だが、高速で衝突するとき、双方の速度が加わるのだから想像できないほどの破壊力になる。もしコクピットや主翼に衝突していたとすると、その結果は墜落しかない……
 いまは増田の機敏な操作でコクピット直撃はまぬがれたが、操縦席から見えないが小型機が衝突したジャンボ機の前輪格納室周辺は大きく陥没し、そこから後部にかけて15メートルほど機の腹部を切り裂き貨物室に大穴を開けていた。小型機の燃料に引火、爆発しなかったことは不幸中の幸いといえる。衝突した瞬間、機首を上に向けかけたが、増田の反射的な操縦桿操作で水平飛行に戻し、また急速変更した高度と方向も当初のコースに戻されていた。
 客室乗務員からの呼び出しチャイムが鳴る。
 「はい、大塚です」意外に落ち着いたトーンで大塚が応えた。
 ・・・チーフパーサーの今泉です! この衝撃は衝突ですか? ファーストクラスやエコノミークラスのお客さまが黄色の小型機と衝突したと騒いでいますが・・・
 「乗客も見ていたのか、その通りです」といって説明を続けようとする大塚に、増田は自分に代わるようにと大塚に手で合図すると、コンソール脇から機長席の送受話器を取る。
 「ああ、増田です。乱気流に巻き上げられてきた小型機が操縦席下部に衝突した。操縦にはなんらの影響はない模様だが、これからチェックする」
 ・・・まかり間違うとコクピット直撃でしたね、よかった。すみませんが、機長から機内放送で伝えて頂けますか? お客さまの気持ちが昂ぶっているようなので・・・
 「了解、わたしから直ぐ説明する。以上」
 大塚は機長がインターホンを切るとすぐ、頭の上にあるコンソールのスイッチの一つを操作すると増田がもつ送受信機マイクの背面に緑色のランプが点灯した。
 「ありがとう」増田は緑色のランプを確認すると機内放送によって、相変わらず落ち着いた口調で乗客への説明を始める。
 「機長の増田です。ただいま、やむをえず急激な方向変更と急上昇をいたしました。お客さまにはお怪我はなかったでしょうか。突然、機の直下から乱気流に巻き上げられてきた小型機を発見……」
 増田はいま起きた衝突事故の概略を説明する。こんな状況においても低く落ち着いた声で整然と説明する機長に乗客たちはさすが国際線のジャンボ機機長だと納得して安心感を強めたようだ。

 それより数分まえ、キャビンの前方から女性の叫び声が上がった。叫びというより恐怖の声だ。本能的に出る死を目前にした声だった。
 「ああーっ……! 飛行機! 飛行機にぶつかる!」その声と同時くらいに、
 「黄色の軽飛行機が上がってきたぞ、立ち上がっている! 棒立ちだあ! 衝突するぞーっ……!」とヒステリックな声で叫んだ。
 エンジンの噴射音と豪雨が機体を叩く騒音のなかでも、その叫び声は機体の後部にいる逸平の席までも聞こえてきた。そんな叫び声を聞いた逸平は鳥肌立つ恐怖を感じて思わず恵美を抱きしめて叫んだ。
 「恵美! 頭を両手で抱えて膝に伏せろ!」逸平の怒鳴るような大声に、付近にいた人たちも同じような姿勢をとる。機内の乗客全員が死の恐怖に包まれた。
 急に機体が浮き上がる感覚と同時に右へ大きく傾いた。
 「おおーい、誰か…! 操縦室へ……」男の大きな声を上げた瞬間、ドドーン…! 物凄い衝突音と、機体が突き上げられるような衝撃に続いて、ガガガーッ ギギーッ ギリギリーッという耳が痛くなるような高い金属音が重なった。
 「恵美! 衝突してしまったぞー……!」逸平が狼狽した大声で叫ぶ。
 「……よりによって、オレたちの機に……!」逸平の声は死に瀕したような声だ。
 キャビンには悲鳴と叫び声が入り混じる。しかし、シートベルトを外して立ち上がるような客は一人もいなかった。大きな衝撃と音だったが、機はすぐに安定を取り戻している。ジェットエンジンの音も先ほどまでと変わっていない。単調で力強い音を響かせていた。怖れていた客室の分断やエア漏れも、墜落していく感覚もない。
 窓際に座っていた人たちは窓外に見える主翼や尾翼の状態を確認をしようと、体を捻って見ているいるが、見える範囲内では異常はなかった。
 それでもまた、改めて仔細に外見を点検する乗客たち…… しかし、何処を見ても衝突の跡はみることができなかった。次第にキャビン内は安堵による騒がしさに満たされ始める。
 「飛行機が衝突か接触したみたいだけど……その飛行機の人たち大丈夫かしらね。あの衝撃では大変なことになっているような気がするんだけど……」恵美はまったく恐怖を感じたような顔をしていない。搭乗したときと同じように健康的な顔色だ。それより、衝突したらしい相手方搭乗者の安否を気づかっているのだ。
 「……でも、ほんとうに嬉しかった。わたしを強く抱き締めてくれたとき……」恵美は声を潜めて、逸平の耳もとにささやいた。
 「恵美、ほんとうに落ち着いているね、すごいよ。こんな滅多にない非常事態が起きても平静さを保っていられるなんて……やはり、あの強烈なオーラのせいかもな」
 恵美とそんな話をしているときに機内放送で機長の状況説明がある。
 ・・・機長の増田です。ただいまやむを得ず急旋回と急上昇をいたしました。お怪我はなかったでしょうか。機の真下から突然、乱気流に巻き込まれた小型機が飛び出してきました。下方からの侵入は監視装置も直前まで感応せず、発見による急上昇と急旋回で操縦室への直撃は回避できましたが、機体下部への衝突は回避できませんでした。衝突によって貨物室に損傷が生じた模様ですがこの機の操縦にはまったく影響はありませんから、どうぞご安心下さい。なお、まことに残念ではございますが小型機を操縦していたパイロットと搭乗されていた方は絶望と思われます……・・・
 衝突した小型機の搭乗者は全員が絶望という機長の説明があったとき、機内にはどよめきが起きる。恵美は思わず手を合わせ、パイロットと搭乗者の冥福を祈った。逸平もまた近くの人たちも日本人は手を合わせ、多くの外国人は胸で十字を切って冥福を祈っていた。
 機内はいま、増田の英語による状況説明が終わったところだ。小型機激突のあの衝撃を感じたとき、この機の下で何人もの命が消えていったことを思うと、それは見知らぬ人ではあるのだが、何か近親者の死であるかのよう思えてならない。
 恵美の顔は涙で濡れていた。あの衝撃と同時に何人かの命が失われた……その瞬間を知っていることで、いっそうに悲しみが募ってくる……事実は衝突する前からパイロットは死んでいたのだが、そんなことは知る必要もない……
 「気の毒なことになったな、あの機の人たちは。でも、これは、ひとつの運命なんだよ。これに逆らうことは誰もできないことなんだ……」
 逸平は優しく恵美の肩を抱きよせていう。その逸平の目も涙でうるんでいた。
 逸平は考えていた…… 自分たち乗客全員が助かったのは機長の機敏な回避操作にあったことは間違いない事実であり、それによって助かったのも我々を幸運に結びつけた運命だったのである。そしてこの機の全員が無事という運命に結びつけてくれたのは、あの水上医長が超人的だといって驚いていた揺らぎながら眩しく放射している恵美のオーラという超自然の神の力ではないかと……


 「浜松航空管制所、JIR240便機長、増田より緊急連絡。感度ありますか、オーバー」
 ・・・浜松航空管制所、感度良好。240便オーバー・・・
 「16時13分、駿河湾上空2万フィートで、乱気流に巻き込まれた小型機が機首下部に衝突、今のところ操縦装置には異常ありません。なお当機の乗員、乗客388名に負傷者はありません。衝突した小型機は瞬間の確認では両主翼は脱落しておりパイロットの様子は死亡している様子。他の同乗者の有無は不明です。衝突空域は北緯35度20分、東経138度15分、駿河湾上空2万フィート。オーバー」
 ・・・浜松航空管制所、小型機の侵入経路、機種はわかりますか、オーバー・・・
 「JIR240便。突然、機首直下に向かって上昇してきたため、機体が黄色であったこと以外、機種、航行軌跡は不明です。オーバー」
 ・・・浜松航空管制所、了解しました。確認します。衝突空域は北緯35度20分、東経138度15分ですね。オーバー・・・
 「JIR24便。その通りです。衝突前、浜中航空管制所より当該1万フィート空域を松山へフライトするファミロン機と行き違うはずだと聞いております。オーバー」
 ・・・浜松航空管制所、了解。当該小型機の航行許可は確認しましたが、当方のレーダーではファミロン機のエコーは捉えておりません。積乱雲による電波障害も考えられますので直ちにこの機の捜索を海上保安庁に手配します。オーバー・・・
 「JIR240便。小型機の捜索方ご依頼します。これより操縦装置のチェックを開始します。ありがとうございました。アウト」
 ・・・浜松航空管制所、了解。グッラック アウト・・・


 「さてと、異常個所チェックだ。アナンシェーターは何かいっとるかね?」増田はゆっくりとした口調で副操縦士の大塚にいう。緊張し続けているであろう大塚の気持ちを落ち着かせるための配慮だ。
 「はい、機長。ちょっと困ったことが起きています。あの小型機、前輪格納室へもろに衝突してくれました。格納室開閉油圧シリンダー破裂、前輪昇降油圧パイプ折損、
 それから、前部貨物室の室温が急速に降下しています。21度の設定が現在は1.7度になっています。かなり大きな漏孔ができた模様です。前輪格納室の油圧装置は格納室メインバルブを閉鎖しましたからこれ以上のオイル漏れはないはずです」
 「すでに、メインバルブを閉鎖してくれたか、ありがとう。さすが大塚君だな。こんな状況のなかでよくやってくれた。大塚君が相棒でよかったよ。新米さんだったら、バルブ閉鎖を忘れて慌てふためくことになったかもな。それはそうと、前輪が使えなくなってしまったか、ちょっと弱りましたな……主脚関連は大丈夫だろうな」
 部下を褒めることを忘れない増田。次年度から国土交通省が指定する747型機の機長資格取得試験の検定官という現役機長における最高の位置に就任することになっている。JIRだけでなく、国内で747型機を保有する五社へ国土交通省の検定官として赴き操縦技術の審査をして機長職への合否を決定するわけである。
 部下たちの緊張をほぐしてやることも機長としての自分に課せられた重要な責務だと常ひごろ考えていることだった。もちろん世界の航空業界において、増田の卓越した技術と部下を大事にするという人望はずっと以前から知られていることだ。

 「はい、主脚格納室の各バルブ、シリンダーに異常はありません」
 「了解。主脚が健在ならそう心配はいらん。機首滑走で十分いけるよ。ま、もちろん緊急着陸には違いないがね。まあ、オレに任せておけ、大塚君……」増田は笑顔で大塚にいう。この非常時においても笑顔で会話ができる機長に大塚はこれまで以上に尊敬の念を高めていた。
 「前部貨物室の室温が1.7度だって?」
 「はい、今は2.1度、少し上昇はしていますが……」
 「かなり大きな孔を開けられたな。ここに生き物はいなかったのか?」
 「はい、積載貨物リストを調べましたが前後部貨物室とも動物、植物といったものの積み込みはありません」
 「よかった、今のところは前輪の使用不能と貨物室の漏孔だけだ」
 「いつもだと、大抵は何か生き物の積載があるんですが、ラッキーでした。操縦関連として第4エンジンを含めて異常なし、主脚起動装置、ヒューエルバルブ系統、エルロン、フラップ、ラダー、ダイナモ、及び各種調整装置、INS、トランスポンダー、主制御装置、すべて異常ありません」
 「了解。その旨を運行司令室に専用回線でテレックスしておこう。送信電文をいうから暗号変換してインプットしてくれ。いいかな……」
 増田は空中衝突事故の報告を専用テレックスで運行司令室に送信する電文をゆっくりと大塚にいってディスクに入力させる。それを大塚が数字による暗号文として送信するのである。一般回線での送信、とくに事故報告は絶対に盗聴されない方法をとる必要があるため、専用テレックスで、それも暗号文として送信することが義務づけられている。大塚に渡した電文の要旨は小型機の乗員は何人いたか不明で、浜松航空管制所を経由して調査依頼をしていること、東京湾上空で燃料を千ガロンだけ残し全燃料を放出すること、羽田では機首滑走するため、当該滑走路の閉鎖を依頼すること、そして空港当局に緊急着陸に対する配備要請だった。
 ジェット燃料の海上投棄はこの燃料に混入されているケロシン、いわゆる灯油の揮発速度がガソリンと比較して遅いため、環境汚染防止策として禁止されているが、今のような緊急時には例外とされている。だがトラブル防止のため要請文中に記載することにした。
 「機長、暗号化しました。ディスクで確認して下さい」大塚はディスクが挿入されたプレートを受け取る。グリーンの液晶画面に暗号数字が黄色に表示されている。
 機長の増田はその暗号文を一字一字確認していった。
 「OK、ありがとう、このまま送信してくれ。直ぐに」
 「了解しました、送信します」大塚はメインコンソール下のテレックス送受信機のディスクドライブにディスクを挿入し送信ボタンを押す。カチッという音とともに送信中を示す赤いランプが点灯した。
 「大塚君、暗号文の作成や送受信テクニックを完全にマスターしたな。君が機長を務める767型機にはこの装置はないのに優秀だぜ。抜群の記憶力だ」
 部下を褒め励ますことを忘れない増田だった。
 「有り難うございます、機長。どうにか……」
 送信完了の小さなブザー音がする。作動中の赤ランプが消灯してディスクが戻ってきた。そのディスクを抜き取る大塚の様子からは先ほどよりさらに落ち着きが感じられる。増田の褒める言葉によって大きな自信をもったようだ。
 「テレックスを受けて運航司令室では心配しているでしょうね」
 「なあに、心配なんかしてないさ。機首滑走するだけのことじゃないか。心配なんかしてないさ。ただ、羽田空港を一時的に閉鎖することに対する損害を請求されることへ頭を痛めるかもしれないが、これも相手小型機の保険会社に請求するだけのことで済むだろうし、この機体だって100%、小型機の保険が適用されるから、JIRには何の損害も生じないと思うよ。機首滑走しても、乗客や乗員にはかすり傷ひとつさせないから、ま、安心してくれや、大塚君」
 そのとき、緊急無線送受信機のブザー呼び出し音に続いて音声が流れる。

 ・・・浜松航空交通管制所、JIR240便、感度ありますか、オーバー・・・
 浜松航空交通管制所からの呼び出しだ。さきほどまでの浜中航空管制所やこの浜松航空管制所は空港にある管制塔とは違って担当空域を通過する全航空機が通過を登録している航空機か否かをリアルタイムで識別する航空機の関所といえるような役目をもち、もう一つの職務は船舶とすべての航空機からの緊急無線を受信しその発信元の船舶、航空機とコンタクトをとり適切な処置をとる空と海の110番のような存在になっている。管制所のレーダーに捉えられた航空機が無登録であり、管制所からの誰何に応答しないときには、不法侵入機として自衛隊に緊急通報され、戦闘機のスクランブル発進ということになる。
 「JIR240便、感度良好、オーバー」増田は大塚に録音の指示を出す。
 ・・・浜松航空交通管制所、240便に衝突した小型機の所有者と操縦者が判明したので連絡する。所有者及び操縦者は堂本幸一郎、機名はファミロン7A型、加入保険会社、大東洋航空保険、多摩飛行クラブ所属、同乗者はなし、多摩飛行場を離陸後、高度1万フィート空域のフライト許可を得て松山空港へ向かっていた模様。機体墜落現場の駿河湾周辺は猛烈のシケで捜索活動は不可能。天候の回復を待って海上保安庁の巡視船と航空機をもって捜索を始める予定だ。240便、損傷箇所の程度は? オーバー・・・
 「240便、ご連絡有り難うございました。当方の損傷は前輪格納室破損による前輪操作不能、及び前部貨物室の漏孔発生によるエア漏れだけです。操縦系統には異常なく乗客、乗員にも負傷者はありません、オーバー」
 ・・・浜松航空管制所、操縦系統異常なし、乗員乗客負傷者なし了解。不幸中の幸いだった。羽田では緊急着陸になるが羽田管制室には連絡しておきますか? オーバー・・・
 「240便、お世話になります。お手配お願いします。本機からも所属運航司令室に緊急着陸の要請はしてありますが、そちらからもそろしくお願いします。オーバー」
 ・・・浜松航空管制所、了解、グッラック アウト・・・
 さきほどの交信時とは別の管制官の軽快な声で交信を終えた。
 「交信内容、録音してくれたね。大塚君」
 「はい、このディスクに全部」大塚がレコーダーから抜き取ったディスクを示す。
 「ありがとう。こういってはあの操縦士には申し訳ないが、不幸中の幸いだったよ。乗員はパイロットだけだった。あの空域に小型機で突入するとは無謀な操縦だったが彼の冥福を祈ろうや」
 「いいことですね、機長、どうでしょうか、乗客乗員みなで黙祷しては……事故で皆が衝撃を受けているでしょうから……」
 「ああ、そうしよう。大塚君、いいことをいってくれた、ありがとう……」
 「いえ、どういたしまして」笑顔で答える大塚だ。これから、まもなく緊急着陸を控えているというのに、コクピットでは和やかな雰囲気が漂っていた。



(つづく)