長編小説 霧のなかの巨塔  第5回

   第一章 奈   落

   


  ■見えない糸④

   


 ……久村……? そんな名前の患者は診た覚えはないぞ……どういうことなんだ? 患者の数が多いから忘れちまったのか……? いや、そんなことは絶対にない……クランケの名前と病名がわかれば十年前のクランケも覚えているのに、どうしてこの久村という名前が浮かんでこないのだ……?
 東洋医学療養センターの病院長である浅川は久村の話を聞きながら、久村志津江という名前を思い出そうとしていた……しかし、どうしても記憶のなかから呼び起こすことができない。

   


 川上の事務所からセンター入院の可否を問い合わせてもらった結果、4日後の8月16日には1ケ月コースでの入院が可能だということだった。細かな入院手続きは後日ということで川上を通して入院の予約をしておく。数日の間、志津江に付き添うことにした久村は娘の恵利を祖母がいる岐阜県・揖斐川町の志津江の実家へ預けることにした。
 娘を祖母に預けて名古屋の自宅に帰ったのは別府へ出発する2日前の8月14日。揖斐川町へ行く朝、以前から気になっていた家ダニの異常発生に対処するため、久村夫妻は各部屋に発煙式の殺虫剤を大量に仕掛けておいて出発していた。午後2時頃に帰宅した二人は直ぐ、畳や床、カーペットの他手足が触れると思われる場所を徹底的に拭き取る作業を始める。久村は厚手のトレーナーに着替え、マスクにゴム手袋という完全武装で作業をしたが、志津江は暑いといってトレーナーからショートパンツに替え、ゴム手袋もマスクも外して作業した。殺虫剤の危険は知っていたが、まさかという考えに負けていた。あのような激しい毒性は想像だにできなかった……
 食道ガンであることを知るわけもなく、志津江は断食治療のためではあるが、別府まで夫とともに旅行できることではしゃいでいた。そんな気の緩みも、また久村の油断からもこの事故が起きたのだろう。皮膚からの毒物吸収から志津江の身に大変なことが起きてしまった。
 その日の深夜、志津江は40度を超す高熱を出し、同時に全身に赤黒い発疹が現れる。眼や顔には強い黄疸症状が見られるようになり、午前2時過ぎには意識不明に。余りにも急激な容態の悪化だった。午前3時頃、生命の危険を感じた久村は救急車を呼び近くの総合病院救急センターに搬送され、激性中毒性肝炎と診断された。それも重度のもので生命の危険がある危篤状態であるとして……
 その説明を担当医師から聞かされたとき、久村はめまいを覚えた。志津江が今、食道ガンに侵されていることを久村から聞いた医師は、治療には全力で取り組むが、肝臓の炎症だけではなく全身が毒物の影響を受けており、体力からみても生存の可能性はほとんどなかろうと告げ、早く近親者に連絡したほうがいいという。医師の態度は逃げ腰になっているのが明白だった。
 志津江はまったく意識がなく、屍のようにベッドに横たわっているだけ……腎機能も衰えてきたのか黄色みを帯びた志津江の顔にはむくみの症状までがあらわれてきた。
 激性中毒性肝炎……考えられることはただ一つしかない。ダニ退治に使用した発煙式殺虫剤だ。
 暑いといって途中からショートパンツに替え、ゴム手袋もとり素肌で直接に畳や床に手や膝を押しつけていた志津江。当然に多量の毒物が皮膚を通して体内に吸収されたことは間違いない。
 久村は急いで病室を出ると公衆電話を探すが見える所にはない。天井から下げられた案内盤ですぐ分かった。腕時計を見ると午前5時少し前だ。
 ブーッ、ブーッ……呼び出し音が続くが、なかなか相手は出てこない。この時間だから仕方のないこと。ガリ、ガリという雑音とともに相手が出た。
 ・・・はい、川上です……・・・
 「やぁ、申し訳ないこんな時間に電話して。久村です……」受話器をもったまま丁寧に頭を下げる久村だった。
 ・・・久村さん、どうしたんですか、こんな時間に……・・・
 「……家内が昨夜、激性中毒性肝炎で……」久村はこれまでの経過を川上に説明した。
 川上と久村は千島喜久男博士の革新医学講座で知り合った。千島博士は久村の大学時代、彼が所属していた生物学教室の主任教授で久村にとって恩師になる。遺伝学や進化論に関心をもっていた久村は卒業後、高校教師となってからも千島博士の教え子として交流が続いていた。そんなことから、博士の医学講座に講師として参加する機会が増え、同じように講師として来ていた川上との出会いがあった。川上は久村より幾つか年下だったが、二人はよく気が合い博士の没後においても親しい付き合いが続いていた。

   


 ・・・久村さん、きょう午前中に朝霞記念病院の小林先生と一緒に、そちらの病院へ行きます。このまま病院においていては決していい結果にはならない……病院から直ぐ出すには小林先生が必要。私たちが着くまで病院で待っていてください・・・そういうと川上は電話を切った。
 ……あの有名な小林先生が来てくれる…なんと有り難い……! 久村は受話器を掛けた電話に深々と頭を下げる。
 小林先生とは、大阪・難波にある朝霞記念病院の第3内科医長、小林龍三郎である。第二次大戦では軍医中佐として従軍、終戦を迎え復員すると同時に関東医大の第1内科教授となり、軍医時代から治療に取り入れていた断食とハリ治療という東洋医療を採用して大きな功績を挙げた。現在も各種の東洋医学治療を率先して実施し、東洋医学専科である第3内科へは全国から多くの患者が小林の治療を求めて病院に押しかけている。老医から若い医師まで小林龍三郎の名を知らない者はいない。小林は医学界の"生き神"のような存在になっていた。また川上の活動機関の最高顧問でもある。久村とはまだ面識はなかったが、一度だけ川上の事務所で見かけたことはあった。
 午前11時過ぎ小林龍三郎と川上が、志津江の主治医・岡本とともに病室に入ってきた。
 志津江の意識はまだ戻っていない。小林は80才を大きく過ぎた87才だが、白髪は一本もない。 七分三分に分けた髪はふさふさとしていた。頬骨が出た四角い顔は痩せてはいるものの、その皮膚はつやつやとして若者のようだ。どうみても60才代にしか見えないし、また180センチ近い長身である。縁なしのメガネからは温厚そうな眼がのぞき、日本の医学界に君臨する内科学の権威者といった奢りはまったくなかった。病室へ入るとすぐ志津江を診察する。
 「脈はどうだ……? 少々弱いが、しっかりしているな……意識はないが瞳孔反応も正常だ、まだまだ心配はいらん。岡本先生、現在投与中のものは……?」小林は志津江の顔に視線をおいたまま主治医の若い医師に尋ねた。
 「はい、5%ブドウ糖液の静脈内点滴と経鼻ゾンデによるプレドニゾロン10mgの投与です」岡本は小林に緊張したうわずった声で答える。気のせいか声が震えているように聞こえた。
 両手の掌をぴったりと両腿に付け直立不動の姿勢をとっている。
 医学界の重鎮として知られる小林の突然の来院は、この若い医師にとって恐怖の観念が先だっているに違いない。世界的にも有名な日本の名医である。岡本にとっては神のような存在であり、普通なら直接面談することなど論外のこと。この日は運の悪いことに病院長の蛭川も、副病院長の杉山もお盆休みで旅行中だった。病院の事務局から呼び出しをかけたが二人とも遠方への旅行で間に合わない……内科医長の棚橋は外出中。携帯電話で連絡はとれたが、到着まで30分はかかる場所にいる。
 仕方なく医局の医師たちのなかで少し古参である岡本が応対することになってしまった。
 小林からの細かな質問に汗を流しながら岡本は答えていたが、そこへ内科医長の棚橋が息を切らせて病室へ入ってくる。ずっと走り続けていたらしく顔や首筋を汗が流れているが、それを拭おうともしない。小林の来院は晴天の霹靂だったのだろう。
 「小林先生、第1内科医長の棚橋と申します。外出しておりまして大変失礼致しました。あいにく、病院長の蛭川も副院長の杉山も出張しておりまして本当に申し訳なく……」医長の棚橋はまだ40代の半ばに思えた。しかし見事なスキンヘッドだ。白衣と頸から下ろした聴診器がなかったなら、僧侶と見誤ることだろう。
 「やぁ、棚橋先生、突然にお伺いして……実は先生に折り入ってお願いがありましてね……」
 「ま、小林先生、ここではなんですから、どうぞ院長室の方へ。ご案内します……」
 棚橋は丁寧に頭を下げて先に立つ。

   


 午後1時頃、志津江はストレッチャーに寝かせられ、病院が用意した寝台車に移された。退院させた後の治療は小林が担当するということで、急遽の退院はスムーズに運ぶ。
 「久村さん、うまくいきましたね。あんなプレドニゾロンなどを投与されていたら、肝臓が幾つあっても足りませんよ……健康な肝臓でも見る間にやられてしまいます。副作用でね、とんでもないことだ……」小林は寝台席と運転台が壁で遮蔽されていることを確認すると直ぐ久村に話しかけた。
 「ほんとうに有り難うございました。小林先生と川上先生のお陰で……今の病院に入院させることには迷いましたが、家内の容態悪化が余りにも急だったものですから……」志津江の意識がない顔を見つめながら久村がいう。昨夜から一睡もしていないために眼が落ち込んでいた。
 志津江の顔にはまだ強い黄疸症状が出たままで意識も戻りそうにない。棚橋医長は志津江の容態について重体であり、今夜がヤマではないかと小林に告げていた。
 「先生、家内はこうなる前、本人にはポリープといってあるんですが食道ガンなんです。病院では直ぐに手術するよういわれているんですが……今のガン治療が怖ろしくて、考えあぐねた末、川上先生にお願いして別府市の東洋医学療養センターへの断食入院を決めていたのです。家内がこんなことにならなかったら明日出発の予定だったのです。こんなことになってしまって……これからでも、断食をできるだけの体力が残るでしょうか……」志津江を中央にして対面する小林の顔を見ながらいう。「奥さんの以前の体力はどうだったのですか……? 弱ってでも……?」
 「いいえ、最近になってから食事のとき何か引っかかるようだという他には何も……体力的には健康そのものと思っていましたが……」
 「そうでしょうね。意識はまだ戻っていませんが、心拍数も心電図グラフから見ても体力は十分にあると思います。体力さえあれば自然治癒力が自動的に駆動するものです。大事なことは早く毒物を肝臓や様々な臓器から排出すること。ガンはそれに付随したことですから問題ありません」小林はこともなげにいう。寝台車は吹上から名古屋高速道を出た。久村の自宅がある志賀本通まであと30分ほどだ。
 「久村さん、小林先生がおっしゃる通りですよ。これから奥さんには自宅で30日間の本断食をしてもらうけど、ま、別府で予定していたのと同じ療法を自宅でするわけだけどね。これは久村さんもご存知のように、肝炎やガンなどの炎症性疾患には特効があるんです。現代医学では肝炎に断食は禁物だとされているけど……」
 「久村さんもお聞きのことと思いますが……」川上の話の後をとって小林が説明する。
 「……川上君がいうように、西洋医学では肝炎に断食は禁忌とされています。なぜなら、断食や減食をさせると血液中や尿中に肝臓からと推測される毒物や有害物質が極度に増加するんだね……これは事実の現象です。このことから断食や減食は肝機能を極端に衰退させ、本来の解毒・分解作用を阻害するという、とんでもない誤った定説ができてしまった……まったく無知としかいえない医学者たちですね。実際はその逆なんだよ。断食などによって栄養を遮断すると、肝臓の休養によって肝機能が促進されて、蓄積していた有害物質の排出が始まるんだ。それによって炎症や肥大は急速に癒されていく。しかし、そういう自然における事実を逆に捉えた間違った定説を盲信する医者たちは、その肝臓からの排出を止めるために高カロリー、高栄養の食餌を与える。そうするとてきめんに排出が止まる。医者たちは、それで肝機能が戻ったものと安心するんですな。まったくナンセンスとしかいえませんよ。せっかく肝機能が促進されて自浄作用を始めたというのに、それを止めさせて喜んでいるんだから、無知ほど怖ろしいものはありません……」小林は背にある小さな窓のカーテンを少し開けて外を見る。町並が続く都会の景色があった。空には暑そうな真夏の太陽が輝いているが車内は適当な涼しさが保たれている。盆休み中とあって街なかを走る車の数は少ない。そんな車外の様子を見たあと小林は再び話を続けた。
 「現代の西洋医学は千島先生がいっておられた通り、間違いだらけで救いようがありません。もっと救われないのが、こんな西洋医学に頼る何も知らない患者さんたちです。病気を治すどころじゃなくて、さらに悪くさせている例がわんさとあります。まったく嘆かわしいことですよ。肝臓病治療もその悪い例の一つです。弱った肝臓をいっそう傷めつける行為が堂々と治療としてまかり通っている……弱った肝臓に高栄養を与えることは、ダウンしたボクサーに馬乗りになってさらにパンチやアッパーを加えるのと同じような実に怖ろしい行為ですね。久村さんの奥さんも、あのまま病院においていたら長くても数日で亡くなっているかも知れません。こういっちゃ酷ないい方になりますが、まずそういう結果になっていたでしょうね……でも、もう安心してください。この体力があれば十分断食に耐えることができるでしょう。断食が終わったときには、肝臓の炎症は治癒し、食道ガンの方も縮小か消滅している筈ですよ」

   


 久村の体験談を会場の参加者たちは一心に聞き入っていたが、ここで10分間の休憩になる。会場は人々のざわめきの中に、机やイスが動く騒音にあふれた。
 そんななかで浅川は「久村」という名前が思い浮かばなかった理由が解り安堵していた。
 ……ワシの記憶になかったわけだ。入院していなかったんだから。よかった、ワシのボケが始まったんじゃなかった……
 浅川は窓の外に目をやる。雨が激しく降っているのだろう、窓のガラスを雨が道をつくって流れ落ちていた。

   


   


 スーパービュー踊り子53号は小田原駅を通過している。
 「あなた、もうすぐ熱海ね……熱海での時間はだいぶあるんでしょ……?」黙って窓の外を見ていた千鶴が思いついたかのようにいう。目は窓の外に向けたままだ。
 「うん、熱海には11時ちょっと前に着くから、かなりの時間があるな……」そう答えながら千鶴の横顔を見たとき、気のせいかも知れないが何か翳りがあるように逸平は感じた。
 ……さっきから黙ったままだった。何か心配なことでもあるのだろうか……?
 逸平が聞いてみようとしたとき、千鶴が明るい声で逸平に顔を向けていう。
 「あなた、"お宮の松"って行ったことある……?」
 「前を通ったことは何度かあるけど、車から下りて見たことは未だないな、どうして……?」
 「きょう、行ってみない……? わたし、まだ一度も見たことがないの、行きましょ……?」逸平の肩に体を押しつけるようにしていう。
 「ああ、いいよ。行ってみよう。時間は十分すぎるほどあるんだから……」逸平は"あんな、お宮の松なんて全くつまらん所だよ。道の横に石碑と一本の松があるだけだ。わざわざ行って見るほどの場所じゃないよ"といいたかったが止める。せっかく千鶴が行きたいという所だ。自分も千鶴と一緒だったら何処へでも行きたかった。千鶴はまた窓の外を見ている。
 高速で通り過ぎる窓外の風景をぼんやりと見ながら、千鶴は半年ほど前から親しくしている高羽健太郎のことを考えていた。高羽とは千鶴が週に1回通っているテニスクラブで知り合う。彼は中堅商社の業務部に勤務している。千鶴より4才年上で交際をはじめてから日は浅いものの、お互いに心を引かれる不思議な親密さを感じ合っていた。今では高羽と会える日を待つようになっている千鶴。
 高羽と過ごす時間は心が弾んだ。高羽への愛を感じはじめたのは最近になってから……逸平を愛し高羽までも愛するようになった自分に自己嫌悪を覚えながらも決断をつけかねている千鶴だった。

   


 ……二人の男を愛してしまうなんて、いつから私はこんなイヤな女になってしまったの
   かしら。今の私は逸平さんの愛人にすぎないのよ……決して許されることの愛、逸
   平さんは別れなければならない運命にある人。このままではますます深みにはまっ
   てしまうわ……人に隠れて愛し合うようなことはもうイヤ……!
   つらいことだけど、早くこんな関係は断たないと……千鶴、しっかりしなさい!

   


 このごろ、逸平との逢瀬の度に、不倫の愛という罪の意識にさいなまれるようになった千鶴。
 自分を叱り、逸平との関係を清算しなければと悩み続ける千鶴……きょうの旅行も何か理由をつけて断る決心をしていたが結局は、何もいえないまま来てしまった。逸平との別離によって訪れるだろう寂しさを考えると、心とはうらはらの行動をとってしまう千鶴だった。
   高羽さん、早く私にプロポーズして……! お願い……
   私を重い罪から救い出して……! それは、あなたしか出来ないの……
   高羽さん、早くあなたと結婚したい……!
   お願い、助けて……
 窓の外に目を向けたまま、千鶴は心から高羽に救いを求めていた。プロポーズという熱い救いを。「千鶴……考える人になってしまったな……」
 「そう、わたしたちの年頃は、いっぱい考えることがあるのよ」逸平の言葉に千鶴は髪を撫でつけながら真剣な顔で答える。
 「悩み多き年頃か……悩みは一生つきまとうものだものな……」逸平はしんみりとした口調で独りごとのようにいう。
 「そんな寂しそうないい方は止めて……私が悲しくなってしまうわ……」
 不倫の愛という罪の意識のなかで苦しむ千鶴にとって、逸平の寂しそうな言葉はいっそうに罪の意識が高まるように思えた。逸平も自分と同じように千鶴との愛に苦しんでいるように思えたからだ。 逸平の言葉はいつも頭から消えない息子の正樹についての悩みをいったのだが、千鶴には分かるはずもない。自分では愛の清算をと思いながらも、その相手も同じ思いであったとしたら、それは千鶴にとってこの上ない惨めなこと。罪の意識とは別に、千鶴はこよなく逸平を愛しているのだから。
 「ごめん、ごめん、わたしも仕事のことを考えていたものだから、つい弱音をはいたようないい方になってしまったな。反省……」逸平はそういうと千鶴の足にそっと左手をかける。
 逸平は目を閉じて、きょう全員が休日出勤している課のことを考えていた。係長の三浦にウソをいって休みきょうの旅行に来ている。千鶴にも休日出勤は取りやめになったとウソをついた。もし休日出勤だと知ったら千鶴は旅行を断るに違いない。三浦をまた千鶴をも騙している逸平は、うしろめたさを取り払うことができなかった。雨に煙る車窓の景色と同様に逸平の心も暗く濁っていた。

   


 1号車階下のグリーン車ロビー室では新宿駅から乗車したさき程の男が窓側のシートに座り目を閉じていた。腕を組み何か考えにふけるかのように……
 男の名は山本利幸……東洋自動車の筆頭常務で営業推進本部長を兼務している。営業推進本部は逸平が課長を務める販売拡張課を管轄する部門。即ち、山本利幸は逸平の直属の上司だった。
 山本はこの日、京大ボート部時代からの親友である畑中や浅川とともに、川上が主宰する講座に参加する予定だった。川上は山本の妻が悩み続けていた高血圧症を、短期で治癒させてくれた恩人である。彼が主宰する講座に畑中や浅川を誘ったのは山本だった。
 しかし、昨日の朝、東洋自動車が推す衆議院議員、楢本大二郎から直接山本の自宅に電話が入る。 楢本は間もなく辞任する運輸大臣に代わり、次期大臣に任命されることが閣議によって内定していた。その楢本が自分の健康上の問題について川上と秘密裡の相談をしたいというのである。その健康問題とは最近医師から手術を勧められている直腸ポリープについてだった。
 逢う日はきょう、場所は熱海の楢本行きつけの料亭、川上の他に山本と畑中、そして講座に参加するため上京する浅川の同席も要請される。
 今朝早く立川市の自宅を出て、楢本の秘書が待つ新宿駅からこの列車に乗車したのだが、この車内に逸平と見覚えのある女性の顔を見たとき、思わず山本は声を掛けそうになったが、思い留まり階下のロビー室へ降りてしまった。瞬間、出張かと考えたが山本が許可する出張申請書は、逸平から出されていなかった。出張でないとしたら、この車内に逸平が女性とともにいるということは、何か別の事情ということになる。女性は山本が知る逸平の妻ではないが、顔には見覚えがあった。しかし、名前はどうしても思い出せない……
 山本の座席番号は逸平たちの席から二つ前。しかし、とてもその席に座る気になれなかった。何か逸平に秘密があるように感じたからだ。ロビー室への階段を下りながら山本は逃げ出す自分に苦笑していた。
     どうしてこの私が逃げねばならんのだ?
     しかし、慌てたよ、それはそうとあの女性は誰なんだ……?
     会社ではよく見かける子だ、それは確か……いったい、どういうことなんだ……?
     姿君の愛人……? 愛人と旅行……?
     あの姿君に限って、まさか……
     きょうは販拡課は休日出勤なんだぞ。それも姿君の申請で。
     わからん、ほんとに、どうなってんだ……!

   


 山本はロビー室のシートに座り、いろいろと考えを巡らせてみたが、逸平を信頼しきっている山本には、ことの真実を推測することすらできなかった。
 月曜日に本人から聞き質そうという結論に至った山本は浅い眠りに落ちていた。
 列車は湯河原駅を通過している。間もなく熱海に到着である。

   


(つづく)