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長編小説 霧のなかの巨塔  第6回

第一章 奈落

■見えない糸⑤

中間試験中でいつもより遅く登校した博樹を送り出した恵美は、朝食の後片づけを終わって寝室でベッドに横たわっている。その顔は先ほどよりも血色は戻ったように見えたがまだ蒼白だった。

室内のオーデイオからは恵美の好きな映画音楽「慕情」のメロディが流れていた。

胃の痛みが治まった恵美は、何時の間にか快い眠りのなかにいるようだ。眠りのなかだけが恵美にやすらぎの時間を与えてくれた。

 

ルルル…ルルル、寝室の隅に置かれたテーブルで電話が鳴る。恵美は短い眠りから起こされた。

……誰だろう、逸平さんかな……?

急いでベッドから立ち上がった恵美は激しいめまいでしゃがみ込む。両手で顔を押さえていたが立ち上がると電話に向かう。

「お待たせしました。姿でございます」

・・・ああ、恵美ちゃん、わたし。お母さん……・・・母、亮子の声を聞いたとき、恵美は一度に心も体も軽くなったように思えた。

「あ、お母さん、お久しぶり、元気……?」

・・・ありがとう、私は元気のカタマリよ。それより、恵美ちゃんはどうなの……?・・・

「私も元気よ、大丈夫。なんで……?」母の勘の鋭さに一瞬たじろぐ恵美。しかし元気をよそおう。 母に心配をかけたくなかった。

・・・ほんと…? それならいいけど、このまえお父さんの十三回忌に来てくれたとき、顔色がひどく悪かったからね。ほんとに何んでもないのね……・・・

「あのときは飛行機が取れなくて、夜行列車で行ったからだわ。ぜんぜん眠れなくて疲れたことを覚えてるわ。今は大丈夫、なんでもないわよ」努めて明るい声でいう恵美だった。

・・・そんならいいわ、安心した、お母さん。ところで今日は何の日か知ってる……?・・・母の声は思いなしか何か楽しんでいるようだ。

「きょうは…6月28日よね。何んの日だったかしら……わからない……」

・・・しっかりしてね、恵美ちゃん。あなたのお誕生日じゃない。逸平さんも、子供たちも何もいってくれないのね、悲しいこと……・・・亮子はがっかりしたような声になる。

「ほんとだ、私の誕生日だったわ、完全に忘れてた……」恵美は自分の誕生日など、ここずっと何年もの間、頭のなかから消えていた。逸平も子供たちもいってくれたことがない。家族の誕生日はいつも祝っていた恵美なのに。

・・・逸平さん、何もいってくれないのね。しょうがない人…それはそうと、今夜はみんないるかしら…?・・・

「逸平さんはだいぶ遅くなると思うけど、博樹や正樹はいるはずだわ。どうして……?」

・・・青森を12時30分にたつ飛行機でそちらへ行くわ。あなたのお誕生祝いを、みんなとしようと思ってね。逸平さんに電話しといてくれる…? 早く帰るようにって。それから梨香ちゃんにも来れれば来てって……・・・

「ほんと…? 嬉しい……! 羽田まで迎えに行く、1時半過ぎね、着くのは……」思わぬ母の上京に恵美は嬉しくてたまらない。声も自然に弾んでくる。

・・・大丈夫よ、ひとりで行けるから。あなたは家で待ってて。夜、何処かへ食べに行きましょう、みんなで……じゃ、電話切るからね・・・

「はい、有り難う、気をつけて来てね。お母さん、外へ出ると何か慌てる人だから……」

・・・なにいってるの、それは昔のこと。今は落ち着いたものよ、じゃ、よろしくね・・・母からの電話は切れる。起きたときには激しいめまいに襲われたが、今はそのことも忘れていた。

 

恵美の母、亮子は青森の竜飛崎に近い小泊岬で小さな酒店を営んでいる。酒店といっても田舎のこと、酒類だけではなく肉類や一般の食料品、駄菓子から日用雑貨までおいていた。

夫の真一が突然の脳出血によって54才の若さで他界してからも、亮子はひとりで店をきりもりしていた。近くに同じような店がないことや、亮子のお人良しも手伝って結構繁盛し、生活の糧ばかりではなく貯蓄もある程度は出来るほどになっている。亮子は今年で64才だ。家の裏手には少しだが畑もあり自分で自家用の野菜などを作っていた。

「わたしは何時も年よりもずっと若く見られるんだよ」とよく恵美に自慢する。

恵美には耕造という4才年上の兄がいたが、ちょっとした風邪から急性肺炎を併発して1月8日というまだ正月気分が抜けないひどい吹雪の夜、6才という短い生涯を終えていた。恵美は兄の耕造のことはまったく記憶にない。2才のときだったから当然だろう。父母は耕造のことを口にすることはなかった。思い出したくないことだろうと恵美も考え、兄のことを尋ねることはなかった。

たった独りの子供として恵美は大切に、また我がままいっぱいに育てられる。もしも、兄の耕造が生きていたとしたら、恵美の人生も別の道を歩んでいたことだろう。

それほど裕福な家庭ではなかったから、東京の大学へ行くこともなく、小泊かその近くの誰かと結婚して平凡な農家の主婦になっていたかもしれない。

もし兄が生きていてくれたら

東京へ出ることもなく、逸平さんとの出会いもなかった

今のように我が子の暴力に苦しむこともかっただろうに……

どうして、兄ちゃんは死んでしまったの……

そんなことを恵美は考え、早くしてこの世を去ってしまった兄を恨んだことも幾度かあった。苦しまぎれからの思いだったが……

 

青森の母からの電話を終わった恵美は、続けて名古屋の大学へ行っている梨香のアパートへ電話していた。3回生となった今年から土曜日は講義がなくなったという。受話器からは呼び出し音に続いて留守電の自動応答が流れるだけで梨香は出ない。

・・・はい、姿です。只今、私も娘も出掛けております。発信音のあとご用件を……・・・声の主は逸平である。娘の部屋の留守電に女の声では不用心だという逸平の考えからである。梨香は嫌がったが結局は父親の意見に押し切られてしまった。

「梨香ちゃん、お母さんだけど、きょう……」恵美が留守電に入れている途中で梨香の声に変わる。・・・もし、もし、ごめん。ボーイフレンドの電話がうるさいから、いつも留守電にしてるの・・・「ああ、びっくりした、急に梨香ちゃんの声に変わるんだもの」

・・・ほんとに、ごめん。嫌なボーイフレンドの電話に出たくないもの・・・

「大変ね、沢山のボーイフレンドに悩まされて。それはそうと、きょう帰ってこれない? 新幹線代はお母さんが出してあげるから……」

・・・ほんと? お母さんが出してくれるの? どういうことなの、めずらしい……・・・

「実はね、青森のおばあちゃんが、きょう来てくれるの。夜、みんなでお食事に行こうってね。お母さん忘れていたけど、きょう私の誕生日だったの。おばあちゃん、そのお祝いに来てくれるんだって……」

・・・そう、きょうは6月28日、お母さんのお誕生日だわよ。ほんとのこというと、きょう帰ることにしてたの。アルバイトのお金が少したまったから、お母さんへのプレゼントを買ったの。それを持って行こうと思って。青森のおばあちゃんまで来てくれるなんて嬉しいね……・・・

「ねぇ、また梨香ちゃんからのプレゼント……嬉しい、どうしよう。何なのかな? 楽しみがまた一つ増えたわ……ありがとう」恵美の声は今までになく嬉しそうだ。

・・・どういたしまして、お世話になっているお礼。そうね、12時過ぎくらいの新幹線でこちらを出るから3時半頃かな、家に着くのは……・・・

「よかった、梨香ちゃんも来てくれて。じゃ待ってるわね」

恵美の心のなかに、これまでなかった様な青空が広がっていた。母も梨香も恵美の誕生日を祝いに来てくれる。二人とも恵美の誕生日を覚えていてくれて…… いつも暗い陰鬱な気持ちだった心に、抜けるような青空をもたらせてくれた母や娘の温かい心が、恵美にとって何よりも嬉しい誕生日のプレゼントに思えた。梨香との電話を終え恵美はうきうきした気持ちで逸平のデスクにつながる直通電話の番号を押しはじめる。妻の誕生日などすっかり忘れ、仕事も放り出し、愛人とともに熱海へ旅行に出ているとは夢にも知らずに……

 

・・・ご案内します。あと3分ほどで熱海です。きょうもスーパービュー踊り子53号をご利用頂き有り難うございました。お乗り換えのご案内を……・・・

案内放送が始まると車内が急に慌ただしくなってきた。乗り換え時間が余りないのだろうか、数人のグループがもう出口へと歩き出す。それにつられるように多くの乗客が席を立ち始めた。

窓の外は暗いが雨は先ほどより小降りになったようだ。

「もう、熱海ね。たった1時間半で来ちゃった……」髪を手で整えながら独り言のようにいう千鶴。「このまま下田まで行ってしまいたいね。この電車で……」逸平は頭上のグローブボックスから千鶴のバッグを下ろして手渡す。熱海に列車が到着すると大勢の乗客が開いたドアへと急ぐ。車内にいた半分以上の人がここ熱海で降りるようだ。

逸平と千鶴は改札口への地下道を人々に押されるようにして歩く。改札口の外も前夜の泊まり客らしい多くの人たちで混雑している。この雨で早めに帰宅するのかもしれない。

「わぁ、すごい人……さすが熱海駅ね。午前中からこんなに人が多いなんて……」

「ほんとに、ひどい混雑だな、まっすぐ歩けないよ」人々の間を縫うようにして歩き、逸平と千鶴は混雑のなかから、ようやく抜けることができた。

タクシー乗り場は下車した乗客のわりに並ぶ人は少ない。

「MOA美術館へは行ったことがあるかな? 千鶴は……」

「ううん、名前は聞いたことがあるけど、未だ行ったことはないわ。素晴らしい美術館らしいわね」「そう、国宝クラスの美術品がたくさん集められているんだ。他に、レーザー光線と音楽でオーロラの様子を幻想的にかもしだすホールもあって世界にも有名な美術館なんだよ」

「ほんと……? 行ってみましょうよ、そこに……」

「うん、それからお宮の松へ行こうか。その頃になったら雨がもっと小降りになるかもね……」

次々と来るタクシーで二人の前に並ぶ客は見る間に減っていったが、二人の後ろには長い人の列が出来ていた。タクシー乗り場に立つ逸平たちを、少し離れた土産物店の前からじっと見つめている初老の男……逸平の直属の上司である山本利幸に二人は気づくはずもない……

間もなく逸平たちを乗せたタクシーは山の手へと走り去った。山本の視線に見送られて……

 

逸平を知る人の目に決してふれることがない場所と確信して選んだ熱海だったが、よりにもよって山本営業推進本部長が逸平たちと同じ列車、そしてまた同じ車両に乗り合わせ、二人に気づいていたとは……『偶然』という見えない糸は、思わぬところへ絡みつくものである。逸平の不運……不運というより罪への罰といったほうが正しいかもしれない。

この日与えられた逸平への罰はこれだけでは済まなかった。ことの次第を知らない恵美が、青森の母が上京してくることを知らせるために逸平のデスクに電話を入れていた。

「青森から母が上京するために仕事が終わったら早めに自宅へ帰るよう伝えて下さい」と……

係長の三浦がとっさに働かせた機転によって、逸平が休みをとっていることは恵美に知らせなかった。しかし、逸平の指示によって休日出勤をしていた課の人間の間には、課長である逸平に対する不信の渦が音をたてて広がっていく。妻を騙し、課の人間にもウソを並べて家を出ている逸平の行動に大体の予測をつけることは簡単だった。

誰にもいえないこと……であることは間違いない。ウソから出た真というのだろうか。逸平は係長の三浦に『青森から家内の母親が上京するんだが、一緒に行かねばならない所がある。明日は出勤できないがよろしく頼む』といっておいた。決して有り得ないと思うことを休む理由にしたのだが、本当にその義母が上京することになろうとは……

この日の千鶴との旅行が、エリートコースを進む逸平にとって大変なつまづきになろうとは、当人に知るよしもない。結ばれる糸、結ばれない糸、思わぬ所に絡みつく糸……運命という見えない糸を操ることは誰にもできない。ただ操られるだけである……

 

(つづく)

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