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長編小説 霧のなかの巨塔  第7回

第一章 奈落

■追憶①

新宿駅西口のビル街に東洋自動車の本社社屋がある。地下3階地上27階、淡いブルーのそのビルは付近の高層ビルのなかでも一際目立つ存在である。土曜日のきょうは、いつもならビル全体に見える室内の灯りがほとんど消えていた。ただ8階の一部だけ室内の蛍光灯が点いている。

8階の全フロアが販売促進部。このフロアにはいつも90人ほどの人が働いているが、休日のきょうは20人余りの人間だけが出勤していた。姿逸平を課長とする販売拡張課の人たちである。

部屋のほぼ中央に2列のデスクが並んでいる。壁側は仕切られた部屋になっていて、分厚そうなガラス越しにコンピュータの端末機らしい8台のディスプレイやプリンタ、ファックス類、さらに数台のマイクと大型の無線機らしい機器が頑丈そうな台上に据えられて、数人の係員が操作していた。

内部からの音は防音装置のためかまったく外部には聞こえない。

窓を背にして大きなデスクがある。白いカバーで被われたハイバックのシートに座る人はいない。 デスクの上には既決、未決と朱書きされた処理箱と3台の電話がある。逸平の課長席だ。

 

静かな室内に突然、課長席の電話がテンポの早いミュージック音を出す。社外からの直通電話である。近くのキャビネットで資料探しをしていた吉本佳代が青色の電話にでた。

「はい、東洋自動車、販売拡張課でございます」

・・・お早うございます。あら、佐田さんも休日出勤なの? ご苦労さまです。姿です・・・

「あ、おはようございます。すみません、私、吉本と申します」何となく言い難そうにいう吉本。

・・・まぁ、ごめんなさい。お声が似ていらしたものだから…すみませんが姿をお願いします・・・ 母の上京を早く逸平に知らせたい恵美は気ぜわしそうにいう。

「はっ……? 課長ですか……? ちょっとお待ちくださいませ」課長への取り次ぎを課長夫人から頼まれた吉本は戸惑った。課長は今日、家にいるはずなんだから……

 

……吉本さん、驚いたような困った声を出していたわ。どうしてかしら……外出でもしてるのかな?…でも、外出だけならあんな驚いたような声にならない筈だわ。変ね、どうして……?

受話器から流れるオルゴールの音を聞きながら恵美は、吉本佳代が戸惑っていたわけを考えていたが分かるはずもなかった。

「係長、課長の奥様からなんだけど、課長をお願いしますって。課長はおうちなんでしょ、きょうは……どうなってるの? ちょっと代わってください」吉本は困惑顔で課長席の前に座る係長の三浦に受話器を渡す。受話器を受け取りながら今度は三浦が困惑顔で吉本佳代の顔を見上げた。

「いったい、どうなってるんだ? 奥さんは課長がここにいると思ってるんだ。どう、返事すりゃいいんだ……なぁ、佳代ちゃん……」そんな三浦の言葉にどうしようもないと、両手を広げて見せる吉本佳代……

「あ、もしもし、係長の三浦です。お待たせしました」

・・・三浦さん、ごめんなさいね。お忙しいところへ電話しちゃって・・・

「いえ、とんでもない、いま課長をお探ししてるんですが、ちょっとお見えにならないみたいなんです。さっきまでおられたんですけどね課長は。課長、ときどき消えてしまうことがあるんですよ。また近くの喫茶店へ行っておられるのかも……」三浦は額の汗を手で拭っている。冷や汗に違いない。・・・三浦さんに黙って消えてしまったのね。仕様のない人…それじゃ、いつ帰って来るかわからないわね・・・

「お昼までには帰って来られるとは思いますが……」そういいながら、三浦は顔がほてるのを感じていた。ぬけぬけと夫人にウソをついている自分にイヤ気さえ感じる。

・・・ほんと? じゃ、帰ってきたら伝えていただけますか? きょう、青森から母が出てくるって先ほど電話がありましたの。それで早めに帰ってきてほしいって・・・

「はい、分かりました。帰られましたら必ずお伝えします。でも、ときどきですが、課長は鉄砲玉のときがあるんですよ。そのときには、ちょっとお伝え出来ないんですが……」休んでいる課長に伝言など出来る筈がない。三浦はとんだトラブルに巻き込まれない逃げ口をつくっておいた。

・・・まぁ、鉄砲玉のことがあるの? ほんとに困った人ね・・・

「ええ、時々ですけどね……」事実、時間的には行方不明になることが往々にしてあった。

・・・そぅお…もし、きょうも、そんなふうだったら仕方ないわ。三浦さん、気にしないでね・・・「まず、そんなことはないと思うんですが、万一のときには……」重ねて念を押しておく三浦。

・・・よろしくね。お忙しいところへ電話しちゃってすみません。じゃ、失礼します・・・

恵美からの電話は切れる。

「課長には困ったもんだよ、まったく。どうしたらいいんだ、休んでいる課長に伝言とは……!」

三浦はポケットからタバコを出して火をつけると大きな声を出す。背もたれに体をあずけ大きく反り返りながら……課長の姿に煮えくり返るような怒りを感じていた。

 

……青森から母親が来るといっていたが、その連絡はさっき急に入ったというじゃないか。そのうえ奥さんには会社へ行くとウソをいって出ている……おかげで関係のない自分までが立場上からウソをつくはめになってしまったじゃないか! 何を考えているんだ課長は! オレたちには休日出勤を命じておいて、自分は皆に隠れて何処へ行ってるんだ……いいかげんにしておけや……!

 

雨に煙る窓の外を見ながら三浦は、これまで信頼しきっていた課長に裏切られた口惜しさを、すぐに消すことはできなかった。そんな三浦にキャビネットを閉めながら吉本佳代が尋ねる。

「課長の奥さん、なんだって……?」

「急に青森から母親が来るって電話があったんだってさ。それでそのことを課長に伝えてほしいって……課長、きのういってたんだぜ。その母親がきょう来ることになったから休むってさ。それなのに奥さんは今朝、電話が入ったんだって、急にね。わけが分からんよ……それに課長、奥さんには会社へ行くといって家を出てるんだ。課長、秘密の行動をしている……!」三浦は吸いかけのタバコを乱暴に灰皿でもみ消す。腹立ちをそれにぶつけるかのように。

「課長、私たちや奥さんを騙して何処へ行ってるんだろうね。浮気じゃない?」吉本は手にもったファイルで課長席のヘリを叩く。

「どうだろうかな。人にいえない秘密の行動をしていることは確かだけどね」窓の外に目をやり独り言のように三浦がいった。

「あの課長にも秘密の生活があったのね。意外だったわ、ね、佳代ちゃん……」三浦の隣に座る山岸奈美子が立っている吉本佳代を見上げながらいう。しんみりとした口調だ。

「でも、うまいこと課長をかばってたわね、三浦さん……」山岸が外を見ていた三浦の背にいう。

「誰がかばうものか、奈美……」三浦は山岸のほうへ向き直りながらいった。

「……もし、奥さんにほんとのことをいってみろよ、これからずっと課長に恨まれることは必定じゃないか奈美。自分を守るためのセリフさね」

「わたし、課長を信じることができなくなった。あんないい奥さんを騙すような人だったとは……」 山岸奈美子が吐き捨てるような口調でいう。信頼していた自分がバカだったかのように。

 

この課、また社内の女性たちにとって、今も逸平の人気はナンバーワンを維持していた。恵美が憧れていたときと同じように。男らしさと正義感、たくましい体に秘められた優しさは不思議といえるほど昔と変わっていなかった。しかし、きょうの出来事によって今まで順調につちかわれてきた姿逸平という人物像が音をたてて崩れていくのを三浦は感じていた。そしてそれは誰も止めることはできないこと。課員たちに休日出勤を命じておきながら、その課長が課の人間、さらに妻をも騙して何処へ行っているかも分からないとは……こんなことは社内において前代未聞のこと。このまま済まされることではなくなってしまった。

係長の三浦がたとえ内密にしたと仮定しても、女性社員たちが納得できることではない。

恵美が何げなくかけた電話が、課の人間にさまざまな憶測や疑惑を抱かせることになってしまったのである。それも逸平の地位を根底から揺さぶるような……

「愛人でもいるのかもね、課長に……奥さんにはともかく、私たちにまでウソをいって休むなんて普通じゃないわよね」並ぶデスクのなかほどにいた佐田美津子が隣りにいる大滝あかねに小声でいう。「課長に愛人……?」大滝は思わず出してしまった大きな声に慌てて自分の口へ手を当てた。

近くの数人が仕事の手を休めて大滝を見る。

「こりゃ、あかね。急に大きな声を出すんじゃない。びっくりするじゃないか」

「すみません、だって美っちゃんが真面目な顔して、おかしなこというんだもの」大滝あかねは佐田の顔を見ながら弁解するように今度は小さな声でいう。

「なぁ、みんな。憶測を始めたらキリがないぜ。課長はオレたちにもいえない理由があって休んだんだよ。あの課長に限っておかしな行動なんかとらないとオレは思う。ま、皆がどう想像するかは自由だけど……」三浦はそういいながらも、佐田美津子と同じような考えをもっていた自分を、敢えて否定するようないい方をした。

係長という立場から上司のスキャンダルになるようなことは、冗談にもいえることではない。しかし、他の課員たち佐田以外の者も口には出さなかったが、自分や佐田と同じ憶測をしていることは間違いないだろうと考えていた。

室内にはまた以前の静けさが戻り、三浦は皆に背を向け窓の外を見ている。

月曜日、課長が出社したら如何に対処すべきか考えていた。できれば、こんなことは放置しておきたいこと。もう済んだことだ。だが、このままにしておいては課員たちの士気に影響してくる。

せっかくの休日を課長本人からの指示によって雨のなか出勤してきた人たち。各自の都合も犠牲にして……それなのに休日出勤を指示した課長本人が、出社すると妻に伝えて家を出たあと行く方知れず……このままでは課の連中に示しがつくはずがない。しかし、三浦の対処次第では、彼自身にもとばっちりが来ないとも限らない事態になっていた。先ほどまでの軽快だった三浦の気持ちは姿課長への憤りと憂鬱感に一転する。窓の外に見える暗い鉛色の空のように……

 

逸平と千鶴を乗せたタクシーはMOA美術館前のロータリーに着いていた。雨は小降りになり、空が少し明るさを増したように思えた。

十数台の観光バスが駐車場に止まり、一般の駐車場も満車の状態だった。ロータリーの一帯が人波であふれるようだ。

「すごい人ね……! なかも人でいっぱいみたい。ゆっくり見れるかしら……」千鶴が気落ちしたようにいう。

「まったくだ。館のなかも大混雑かもな。雨だから、行き先を変更してここに来た観光客が多いんじゃないかな、きっと……」

逸平は入口の方へと歩きながら周囲の人波を、うんざりしたような目で見回す。もっと静かな様子を思い浮かべていた二人だったが、そんな期待は完全に裏切られていた。

「混んでいるようだけど、せっかく来たんだから入ろうや」

「ええ、モア美術館て、よく名前は聞くけど、熱海市の経営なんでしょ……?」逸平の顔を見上げながらいう千鶴。耳もとのおくれ毛が千鶴の美しさに愛らしさを添えている。

「千鶴、ここはモア美術館というんじゃないんだよ。エム・オー・エー美術館といってね、アルファベットのMOAという宗教団体の所有なんだよ。その教祖の岡田茂吉という人の頭文字をとって名付けられたんだ。だから、熱海市の経営ではなくて、その宗教団体の経営なんだ」

「ほんと…? 知らなかったわ。わたし、ずっとモアって名前だとばかり思ってた。だって友達もみんなモアっていってるんだもの……」

「そうだろう、事実、ほとんどの人がモアといってるものな……知る人ぞ知るというやつだ。千鶴はまだ知らないけど、ここの2階の球形広場では、レーザー光線と音による幻想的なショーを体験できるんだ。1時間に1回だから、行きか帰りかに寄ろうよ」千鶴のカーディガンを濡らす雨滴を、ハンカチで拭いてやりながら逸平がいう。

入場券売り場にもちょっとした列ができていたが、十分ほどで館内に入ることができた。長いエスカレータが2階の球形広場へと入館客を運ぶ。

広場入口には次回のショーは午後1時からと案内されていた。ちょうど前回が終わった直後だ。

「惜しかったな。もう十五分早く着いていたら、待たずに見れたのに……」立ち止まり、思わず逸平は愚痴をこぼす。

「仕方ないわ。先になかを回りましょうよ。まだ一時間近くもあるもの……」

「ああ、そうしよう。この広場、何かの絵画展をやっているみたいだな。うん……? 第三十五回・日展入賞者絵画展となっている……千鶴、いま見ていくか……?」

「ううん、私はあとでいいわ。あなたは……?」

「ああ、こういっちゃなんだけど、わたしは余り絵画には興味がないんだ。じゃ、あとで時間があったら見ることにしよう」

二人は人ごみのなかを通路の矢印に従って歩き始める。

「千鶴、迷子になるなよ。この混雑だから……手をつなぐのは少々気になるからな……」逸平は小声で言う。それに黙って千鶴はうなづいた。

この二人は真実を知らない人には、誰の目にも親娘づれとしか写らないことであろう。

人の流れに押されるようにして歩く。ここでは二人に注がれる視線はなかった。

「そうだ千鶴、もうお昼を過ぎている。ここには、和食がおいしい“くるまや”という店があるんだ。予約をしておかないと、ひどく混んでいる店だから、席空きまでだいぶ待たされてしまうから、いま、電話で予約しておこう。公衆電話は何処かな……」

逸平はそういいながら周囲を見回す。

「いま来た通路の脇にあったわ……ほら、あそこ……」千鶴が後を振り向きながら指差す。

「ありがとう。ここでちょっと待ってて。電話してくるから」

急ぎ足でいま来た通路を戻る逸平。千鶴はロビーになっている通路の一角に立ち、大きな窓から見える外の風景をぼんやりと見ている。木々の向こうには鉛色の空を映した暗い海が広がっていた。沖の小さな島影が流れる霧のなかで見えかくれしていた。

館内の騒々しさとは対象的に、いかにも寂しく寒々とした感覚をさえおぼえさせる。逸平との不倫の愛に苦しむ、千鶴の暗く空しい心が、そこに映しだされているかのようだった。

 

……おかしな吉川さん。なんで逸平さんへの取り次ぎを頼んだだけなのに、あんな困ったような声を出すのかしら……探しにゆくのが面倒だったんたわ、きっと。逸平さん、鉄砲だまになるのは、昔と変わってないわ。課の人たちが大変、探すのが……私のときも、ときどきあったもの、何処へ行っているのか分からないときが……

窓を打つ雨音を聞きながら、ベッドに身を横たえ、恵美は逸平との出会いのころに思いをはせていた。

 

(つづく)

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