長編小説 霧のなかの巨塔  第8回

   第一章 奈   落

   


  ■追憶②

   


 逸平のデスクへの電話後、恵美はまた胃の痛みを感じていた。
 その痛みは朝のように激しいものではなかったが、鈍い痛みが周期的に襲ってきた。
 ……母が来るまでに、もっと治しておかなくては……
 そう思いながら目を閉じていると、逸平との出会いのころが、瞼の奥に浮かんできた。
 結婚してから二十年近くも経った今でも、逸平との恋愛時代に患いをはせるとき、様々な悩みや苦しみが、一時的ではあったが薄れてゆく恵美だった。
 逸平と恵美は二年余りの愛が実り結婚した。逸平二十八才、恵美が二十四才を迎えた秋のことだった。
 恵美は青森の高校から聖美女子大・英文科に入学、卒業と同時に東洋自動車本社に入社、配属先は総括経理部・手形管理室だった。そのころ、東洋自動車の各支社には、その管轄地域の特約販売会社からの車両代金決済金として、購入者の振り出した約束手形や、特約会社振り出しによるディーラー手形が毎月未をピークとして、大量に持ち込まれていた。
 それらの約束手形は、本社到着・毎月五日午後十時という〆切り時間に合わせて全国の支社から、郵送あるいは係員の持参という方法で続々と送り込まれてくる。
 また海外の支社、特約会社からは銀行取立業務の繁雑さを避けるため、全て現金支払として銀行口座に送金されてきた。
 これらの銀行資金管理も手形管理室の業務になっていた。
 恵美が配属された、この手形管理室は、毎月集まってくる百数十億円という約束手形と現金送金分の管理、更には現金出納業務まで、三十余名の人員でこなすことを強いられている。十六階のこの部屋はいわば、社内の「銀行」としての存在だった。
 総括経理部のフロア半分が、厚いコンクリート壁で囲まれ、周囲から隔離された部屋……コバルト色の特殊強化ガラスがはめられた三つの窓の内側には、いつも薄い遮蔽膜が下ろされていて、人影以外は内部を見ることができない。
 通路側には頑丈な鉄格子がはめ込まれた現金出納用の小窓があり、その脇に係員たちの入室用ドアがあった。このドアは入室専用の自動ドアで、係員や登録された人間各自に与えられた8桁の暗証番号の打ち込みのほか、指定された操作以外では開けることのできない、実にやっかいなもの。
 以前から、関係部所からもっと簡略化するようにという要望が出されていたが、上層部の人間は何時の場合でも、頭を縦にふることはなかった。出口専用のドアも、二年前までは入口同様のシステムになっていたが、これは幾度かの要望書提出によって、簡素化された自動ロックシステムに変わっていた。
 しかし、その代わりに、当時では未だほとんど普及していなかった60日用監視録画カメラによる、入退室者監視が始まっていた。係員たちの出入りが、日時入りの画像となって保存されるのである。
 社内の人間たちは、この部屋を「刑務室」と呼んでいた。
 電子ドアに監視カメラ、さらに夜間用の赤外線警報システムと刑務所なみの防御機構にかこまれた手形管理室は、刑務室という呼び名がぴったりの部屋といえる。
 このような部屋で働くことに、係員たちは異様な束縛感を抱く反面、責任ある特殊業務にたずさわる人間として優越感をもっていることも共通した感情だった。

   


 入社間もないある日、恵美は渉外第6課へ銀行から返却されてきた、不渡手形を持参し、受領書を受け取った帰り、管理室のドアロックを解除する自分の暗証番号がどうしても思い出せないことがあった。いつまでもドアの前に立っていることもできず、急いでトイレに入り、思い出そうとしたが、焦れば焦るほど肝心な数字を思い出すことはできない。額に汗がにじんできた。
 機械に登録されている各自、8桁の暗証番号は極秘事項としてメモとして残すことは禁じられている。また、別にメモしなくとも、これまでは簡単に番号が出できたのだが、このときには、どうしようもなかった。
 思い余って恵美は、エレベーターホールにある、受付カウンターへ走る。受付にはいつも、庶務課の女性が二人いた。一人は幸いにも恵美と同期に入社した渥美ゆきだった。
 「ごめんなさい、ちょっと電話を……」
 「どうぞ、どうしたの……? 恵美ちゃん、そんなにあわてて…」渥美が恵美に笑顔でいう。
 「入室の暗証番号がどうしても浮かんでこないの。いままで、こんなことってなかったのに……」小声で答える恵美。
 「背番号を忘れたなんて、恵美ちゃんとしたことが。春はもう過ぎているのよ……早く電話を」
 「うん、ごめん……」恵美は先輩である中垣内冴子のデスクに電話する。すぐ冴子がでる。
 ・・・あら、恵美ちゃん、どうしたの? 電話なんか・・・冴子が怪訝そうにいう。
 「すみません、中垣内さん。ドアの暗証番号がどうしても思い出せなくなっちゃって……」
 ・・・ありゃりゃ‥‥‥行きはよいよい帰りはこわいってやつね…いま何処から電話してるの・・・?
 「十六階の受付カウンターからです」
 ・・・じゃ、ドアまで来たら、キーボードのゼロを3回、五を1回押しなさい。ロックが解除されるから・・・
 「わかりました。ありがとうございました」そっと受話器をおく恵美に渥美がいう。
 「叱られたでしょ、中垣内女史に……J
 「ううん、べつに。そんな怖い人じゃないわよ。中垣内さんは……あ、いそがなくちゃ、ごめんね。おさわがせして……」
 恵美は軽く頭を下げると急ぎ足で総括経理部の室へと歩く。
 管理室のドア脇のキーボードに教えられた番号を打ち込むと、赤ランプが緑色のランプに変わり、カチッという軽い音とともに両開きのドアが開いた。
 皆が自分を注目するのではと、ドキドキしていた恵美だっだがだれもドアのほうを見る人はいない。機器の作動音のなかで、各自の業務を続けていた。
 「すみませんでした。中垣内さん……」中垣内のデスクの前で頭を下げる恵美。そんな恵美に中垣内冴子は笑顔を向ける。
 「恵美ちゃん、暗証番号や金庫室の番号はメモするなといわれているけど、それは原則だけのこ七なの。だれでも、いままで難なくできていたことが、ふっと思い出せなくなることがよくあることだわ。だから、メモしていつも持つようにしていなさい。帰るときにポケットやロッカーの中にメモを忘れないようにしないといけないけどね……室長の田川さんも、第三会計課の衣笠課長も、ちゃんと手帳にメモしてるわ。私もだけど……」 いたずらっぽく片目をつむって見せる冴子だった。
 中垣内冴子は都立高校を卒業と同時に入社、現在までの六年間をずっと手形処理業務ひとすじに従事してきた。手形処理のプロとして、社内ばかりではなく、特約会社にも「女史」という一種の尊敬語をつけて呼ばれていた。
 中底内冴子は二十四才。恵美と年令はほとんどかわらないが、姐御肌の性格で、後輩女子社員の面倒見もよかった。
 背は高く痩せ形で「ミス東洋」といわれるほどの美貌でもあった。勝ち気さと男嫌いという定評は社内外で知らぬ者はいない。
 父親は秋葉原で大きな電器店チェーンを経営し、会社が推す国会議員の後援会役員を務めていることから、筆頭常務の山本利幸とも懇意な交際をしていることを知る、社内の部課長たちは冴子に一日をおいていた。そんな冴子と恵美は妙に気が合い、恵美の退職後も親しいつき合いが続いていた。
 あの日から恵美は、小さなアドレス帳に自分に関連する暗証番号や幾つかの必要と思われる番号を控えて、ポシェットに入れて持ち歩くようにしたが、結局それからは、一度もそのメモを見なければならないようなことは起きなかった。
 何事も用意しているときは不必要に終わり、不用意なときに限って必要に迫られるもの……恵美はその後、このことを一つの教訓としたものである。

   


   


 胃の痛みを忘れようと、遠い昔のこととなってしまったが、逸平との出会いから、二人が歩んだ愛の道のりを思い起こしているとき、やすらぎの世界から急に、現実へ引き戻されてしまうことがよくあった。
 それは必ず、正樹の暴力の場面と恐怖が脳裏をよぎるためだった。そのときの恐怖が眼前いっぱいに広がってゆく……
 いまも、逸平が長い海外勤務を終え帰国して間もないころの、思い出したくない出来事が、甘い思い出を打ち消して記憶のなかに割り込んできた。
 逸平の長い海外勤務によって、正樹は父を父として認めていないことを思い知らされたあの正樹の言葉と憎悪の目を。

   


 逸平は訳もなく正樹の暴力を無視しているわけではなかった。
 注意することは、かえって正樹には逆効果になると考えたからだ。恵美への思いのなかで、何とかしなければと焦りながらも、結果的には父親としての威厳を放棄した形になっていた。
 そのときは、恵美に対する正樹の言葉に、逸平が今までになかった強い口調で正樹を叱った。
 正樹のそのときの言葉は恵美に思いだせなかったが、逸平の強い言葉は恵美の耳に今も残っていた。
 「バカもの……! それが、お母さんに対して使う言葉か……!」その一喝に恵美は飛び上がるほど驚いたが、正樹は平然として、冷たく言いはなった。
 「あんた、何様だと思ってんだよ。誰なんだよ、あんたは…!オヤジ面するんじゃねぇよ。オレのオヤジはな、オレが小さいときに死んでるんだよ。オヤジでもない、あんたが、オレにえらそうなクチをきくんじゃねぇよ、バカ野郎……!」
 廊下に立ち、逸平を見据えながらいう正樹の目は怒りに燃えていた。怒りというより憎悪の目だった。
 正樹を見る逸平の顔は青ざめている。正樹はしばらく逸平と恵美をにらみ続けていたが、背を向けると立ち去っていった。
 逸平は立ち去る正樹の背を黙って見つめるだけだった。
 正樹に返す言葉がなかったのだ。逸平が後日になってから恵美に話したことだが、我が子から、このような憎悪に満ちた態度に出られるとは想像もできなかったこと。父親としての自分なら、ある程度の威厳をもって正樹に接することができると考えていた……その考えは甘過ぎた。正樹の心は複雑にもつれ、歪んでしまっていたのである。逸平はいいようのない悲しさと、惨めさに打ちのめされていた。
 そんな逸平に恵美はどう言葉をかけていいかわからない。
 「……お父さんにまで、なんという言葉を……」 つぶやくようにいう恵美。
 逸平は腕を組み、気を鎮めているのか目を閉じたままいう。
 「恵美……事実、正樹のいうとおりかも知れないな。私の仕事のためとはいえ、正樹の幼いときに、遊んでやったことも、抱いてやったことも、ほとんどなかった……いまさら正樹に、オレを父親として認めろというほうが無理だろうよ……」目を開けると正樹がいた廊下をぼんやりと見ながらいう。
 そんな肩をおとし寂しげな、力の失せた逸平を今まで恵美は見たことがなかった。
 「あなた、そんな悲しい言い方はやめて……正樹はこのごろ、何か気が立っているみたいなの。だから、あなたにまで、あんな心にもない、ひどい言い方を……」
 「仕方がないよ、恵美……いずれにしても、オレを父親としてlま認めないという気持ちは確かなんだよ。まぁ、刺激をしないようにして様子を見ることにするよ……」
 その日から逸平は正樹に注意を払うことがなくなった。また恵美も、逸平の苦しみを知るだけに、正樹のことは口に出さないようにした。恵美ひとりだけが、正樹の暴力の矢おもてに立つことになったのである。恵美の家庭は、正樹の存在さえなかったならば、なに不自由ない幸せな家庭だったのだが……
 自分だけで正樹への苦悩を背負ってゆこうと心に決めた恵美の毎日は、針のムシロの上にすわっているようなものだった。
 あるラジオ局の教育相談に、何度かの申込み後、ようやく相談できる機会を得ることができた。
 担当者は『こどもがそういう態度に出たとしても、真実は父親としての存在を認めているもの。こどもが反抗的な態度にでたからといって、様子を見るという形で、事実上の放任状態にしておくことは、結果を悪い方向へ進める危険性が高まる。こどもは反抗しながらも、親の強い態度というものを期待している場合が少なくない。暴力の真には、自己の存在を主張する心理が働いている。強く対処するか、温かく抱擁してやるかは、そのときの親の決意によるほかない。多くの場合は、事の尊悪はすべて理解していながら、一種の歪んだ甘えとしての家庭内暴力が、ことに母親に対してふるわれる。そんなとき、事後であっても、父親の穀然とした態度が必要。こどもが何と言おうが、その言葉に恐れることなく、諭すこと。逃げてはいけない…』と、一つの理想論をいうだけだった。いわれることは恵美には相談するまでもなく、わかっていること。そんな理想論だけで、現実は解決できる事態ではなかったのだ。
 自分の育て方が悪かった……自分の責任なのだと思い込んでいる恵美は、教育相談のことも逸平には話さなかった。
 正樹の出生を幾度となく呪った恵美だったが、幼いころのあどけなさを思い起こし、やはり、正樹を今のようにしたのは、自分以外にはないと、おのれを責めつづけるばかりだった。
 父親としての存在を正樹から拒否された日以来、逸平は恵美や正樹を見ることに、例えようのない苦痛を感じるようになっていた。自分が居る場が家庭にはないように思えた。その意識が、以前から逸平に好意をよせていた、三品千鶴との不倫の愛という、逸平の前途までも狂わせた、泥沼にはまり込むきっかけとなったのである。業績アップのためなら、何事にも負けない、企業戦士としての逸平でも、心の中にあけられた、一つの空洞はどうしても満たすことはできなかったのである。

   


(つづく)