長編小説 霧のなかの巨塔  第10回

   第一章 奈   落

   


  ■追憶④

   


 京都市内18軒の訪問を終え市内のホテルに着いたのは、宵も過ぎた9時前だった。
 恵美は手土産として持ってまわった金メッキのミニチュアカーの重さで腕が抜けるようにだるい。嫌な仕事での出張とはいえ、憧れの姿との旅行に楽しさを夢みていた恵美だったが、姿の厳しい態度と気づかれで、楽しさなど微塵も感じることはできない。
 恵美の期待は完全にくだかれていた。
 夕食は途中のドライブインで済ませてきたため、ホテルに着くと各々の部屋に分かれるほかない。恵美の部屋は姿の部屋の向かい側にあるシングルルーム。狭い部屋だった。
 何もすることがない恵美は、疲れきっていることもあり寝ることにする。シャワーを浴びようと下着姿になったところへ、部屋の電話がなる。姿からの電話だった。まだ時間も早いから、よかったら外でお茶でも飲まないかと云って。
 自分の下着姿が相手に見られるような気がして、恵美は顔がほてるように思えた。
 朝から姿の態度に漂う厳しい雰囲気に、うんざりしていたが、思いもよらなかった誘いの電話に心がときめく。しかし、その心を読まれたくないという意識は、心とは逆に余り気乗りしないような返事になってしまう。
 「ええ、わたしは構いませんけど、姿さん、お疲れなんでしょ……? どうぞ、お気遣いなさらなくとも……」恵美の言葉は冷たいものだった。
 「さびしいな、そんなふうに云われると。男が一人だけでコーヒーを飲んでいる光景は考えただけでも惨めだよ。ちょっとだけでもいいから付き合ってくれないかな、恵美ちゃん……」
 その声はこれまでのような厳しさに満ちたものではなく、温かく優しい声だった。
 「下のロビーで待っていてくださる…? すぐ降りてゆきますから……」
 恵美がロビーへ降りていったとき姿は、こちらに背を向けて、クッションのよさそうなソファで新聞を読んでいた。
 「お待たせしました、姿さん…」恵美は姿の背に声をかける。
 昼間の白いブラウスが水色にかわっていた。
 濃いべベージュ色のブレザーが恵美の愛らしさにアクセントを添えている。
 「やあ、大林さん……じゃ、固苦しいな。恵美ちゃん、迷惑だったみたいだったな。呼び出してしまって、ごめん……」姿は立ち上がりながら、短く刈り上げた頭に手をおく。
 「いえ、お誘いいただいて有難うございます……」軽く頭を下げる恵美。特別に美人というわけではないが、愛らしさと清楚さが、姿にはいいようのない魅力として感じられた。
 「それでは恵美ちゃん、ご同伴をよろしく……」姿は笑顔で恵美に軽く頭を下げると、手に持つ新聞をそばのカウンターに置き出口のドアへ向かう。白いセーターに着がえた長身は映画スターのような感覚を漂わせた。
 5月半ばとはいえ、夜ともなると戸外は寒さを感じる。
 もう10時近くだが、ホテルのある四条烏丸かいわいは、まだ人の流れが絶えることはない。
 「恵美ちゃんは、コーヒーがいいかな、それとも水わりあたり……?」姿は恵美の横顔に問いかける。
 この京都まできて、また憧れの姿といっしょなのに、ただコーヒーだけで済ませることは味けないように思えた恵美。
 「水わりにしようかな……いい……?」そういいながら、チャメっ子のように舌を出す。
 「オッケー、そしたら前に行ったことのある“姉妹”っていうスナックへ行ってみようか。この近くにあるんだ。まだあればいいけどな……」
 「姉妹って……やはり、お姉さんと妹とでやってるお店・・?」
 「うん、韓国の人だけどね。感じのいい店なんだ」
 その店まで歩いて5分もかからなかった。小さな路地を曲がると狭い小みちの両側にスナックや赤ちょうちん、焼きとりの店などが軒を並べている。そんな路地の一角に緑地に「姉妹」と白抜きされた看板が目にとまった。
 「よかった、恵美ちゃん。前に来てから2、3年経っていたけどまだあったよ」姿は恵美を振り返りながらドアを開ける。
 中は思ったより広い。カウンターに3人の男が坐っているが、フロアにあるテープル席にはどのテーブルにも客はいない。
 カウンターに坐る一人が大きな笑い声をあげていた。
 「……あら、いらっしゃいませ…」ここのママだろうか。淡い若草色の和服だ。細おもてで切れながの目が印象的だ。
 「たしか、前に来てくださったわね……だいぶ前のような気がするけど……お名前が、ええっと…」ママの奈緒は名前を思い出そうとしているが、すぐには思い出せない。
 「また、きょうは美しい方とどいっしょに……」
 「ママ、私の顔を覚えていてくれたんだ。うれしいね……」
 「こんな、かっこいい男の人を、そう簡単には忘れないわ。そうそう、慶応のラグビー部の人といっしょに来てくださった……」そういいながら奈緒はフロアの席に二人を案内する。
 「そうだ、思い出したわ……」大きな声を出して奈緒が手をたたく。
 「姿さん……そうでしょ…? 間違いないわ……」恵美の顔を見ながらいう。
 「すごいな、ママの記憶力は……俺、一度きただけなんだぜ、恵美ちゃん……」出されたおしぼりで手を拭きながら姿は恵美に話しかけた。
 「映画の姿三四郎をイメージしていたから、すぐ思い出せたわ。こちら、恵美ちゃんっておっしゃるの? 美しいかた……」
 奈緒の優しそうな目が恵美を見つめる。
 「ええ、大林恵美といいます……」恵美の答えはそっけない。
 姿を見る奈緒の目を見て、恵美は強い嫉妬心を感じたからである。いま初めて奈緒に会ったばかりなのに。
 ……この人、姿さんのこと、忘れられなかったんだわ。
   だから2年も前に来ただけの姿さんを覚えていたんだ。こんな人に私、負けるものですか……!
 恵美はこのとき、片想いではあったが、姿への想いはもう憧れという意識を超えて、現実的な愛に変わっていた。
 「ねえ、恵美ちゃん。姿さんって、菅原謙次にどこか似ていない・…?」前に坐る奈緒が姿の顔を見つめながらいう。
 「そうかしら…私には、そうは見えないわ……」そういわれれば似ていないとも云えなかったが、姿を見る奈緒の目を見ていると、どうしても同調する気にはなれない。
 奈緒に対する嫉妬心は消すことができなかったが、人柄には好感がもてるように思えた。
 それから2時間ほど、姿や恵美の学生時代の話に花が咲いた。
 姿の慶応大学時代には有名なラグビー選手であったことを、恵美はこのとき初めて知った。4年のときにはキャプテンを務め「慶応の若大将」として新聞の紙面を賑わしたことも。

   


 話の輪が広がるなかで、恵美はいっそうに、姿への想いが募るのを感じていた。
 憧れの男性ではあったが、これまで部外の一係長としての存在でしがなかった姿……しかし、この日は同僚女子社員たちの誰も知らなかった姿の一面を、恵美だけが知ることができたのだ。
 姿の誘いによって、二人だけで行ったスナックで。
 同僚たちへの優越感とともに、姿という憧れだけだった人が、長く交際してきた恋人であるような錯覚を覚える恵美だった。
 店を出たときには、もう午前0時を過ぎていた。
 行き交う人の流れも、めっきり減っている、前を歩く姿の腕にすがりたいような衝動を、じっとこらえて歩く恵美だった。
 この日が、姿と恵美の2年に亘る熱い恋の始まりとなる。
 その翌朝、早く出発した二人は、最後の訪問先である丹後半島の伊根町を後にしたのが午後の1時過ぎだった。時間の余裕ができた二人は途中、天の橋立に寄る。出張の仕事が完了したこと、また昨夜の学生時代の話などで打ち解け合った二人は、きのうのような緊張感もなく、楽しい時間を過ごすことになる。
 その夜、東京に到着したのは午後の11時過ぎ。夜遅く若い女性を一人で帰すことはできないと、姿は回り道をして、お茶の水駅近くにある恵美のマンションまでタクシーで送る。
 「恵美ちゃん、お疲れさまでした。きょうは、ゆっくり休んでください。それはそうと、また、水割りにお誘いしてもいいかな……」マンションの前で、タクシーから降りていう姿と別れることに、恵美は涙が出るような寂しさを感じていた。もっと、いっしょにいたい……そんな思いで胸がいっぱいだった。
 しかし、まさか、そんなことは云えることではない。
 「ありがとうございました。わざわざ、ここまで……水割りは……喜んで……」
 「ありがとう。じゃ、また近いうちに……」そう云うと姿は待たせていたタクシーに乗る。
 恵美は車が見えなくなるまで、そこに立ちつくしていた。
 たった一日で、姿に対する恵美の恋の炎は、消すことのできない激しいものになっていた。ずっと後になって知ったことだが、姿もこの日から、恵美が忘れられない人になっていたのである。
 恋という縁は不思議な運命である。激しい恋によって結ばれた二人だが、恵美が別の男性と結婚していたとしたら、恵美を苦しめ続ける狂人とも云えるような正樹が生まれることはなかったであろう……また、これから恵美たちを襲う、地獄のような奈落へ陥ることもなかったかも知れない……
 それは人間の宿命というほかない。
 過ぎ去った日々に想いをはせていた恵美は、いつの間にか深い眠りにおちていた。睡眠薬による眠りではあったが、胃の激痛と、自分を責め続ける苦しみから解放してくれるのは、この眠りしがなかったのである。
 深い眠りのなかにある恵美の顔には、相変わらず強い貧血症状が現れていた。
 すでに体中が、末期のガンに冒されていたのである……

   


(つづく)