長編小説 霧のなかの巨塔  第1回

 ■プロローグ

   


  冷夏だと予想されていたこの夏だったが、8月の下旬からは関東地方から西日本まで連日35度を超える猛暑がおとずれていた。9月も半ば近くになったここ東京でも、夜半を過ぎた時刻だというのに息苦しいような蒸し暑さが残り、漂う空気にはむっとする臭いさえ感じられる。
  薄明るく濁った空には半円の月がかかっていた。
  三田の芝公園に近い日比谷通りは午前3時というこの時間でも車は切れ目なく行き交っている。その車の流れが熱い空気を一層にかきまぜているようだ。
  日比谷通りに沿って他の大小のビルを見下ろすかのような高層の建物が、上層を照らすライトアップで夜空に浮き上がっている。緩い弧を描く壁面をもつその建物は30階以上あろうか。また後方に並行して建つ棟はさらに4、5階は高い。後方の棟の屋上ポール先端には赤色の標識灯が回転していた。
  日本の大学病院における代表的存在として知られる帝北大学医学部付属病院である。正面玄関前は広いロータリーになっていて、中央の築山には5メートル以上もありそうな蘇鉄の樹が植えられ、よく手入れされた芝生とともに明るい水銀灯の光に照らされていた。
  夜明けまで未だ時間があり、また救急車の到着も今はなく病院は内外ともに静かだ。
  しかし、外部からは明かりが見えない本館3階の中央手術部・第12手術室では深夜からの緊急オペがまだ続いていた。

   


  薄みず色のタイルが張られた手術室では中年の女性が開腹手術を受けている。蛍光ボードに貼られたエックス線と断層写真のフィルムには〈姿 恵美〉という患者名ラベルが貼付されていた。   「……オペ開始からもう4時間か……ちょっと手間どってしまったな。これだけ膵頭部が癒着していたとは……クランケの血圧は……?」執刀していた体格のいい長身の医師が対面する助手に問いかけた。その目は開腹した患部を向いたままだ。太い黒縁のメガネの奥には厳しい目が光っている。
 「はい、95、53、脈拍は101です。オペ開始時から上が20下がっています」
 「うん……輸血量は1500ccだったな、中川君……」
 「はい、1500ccです、部長……」脇に立つ看護師が執刀医の汗をガーゼで拭いながら答える。
 「リンゲル500ccを追加しろ、滴下速度は現行のままでいい」
 「はい、リンゲル食塩水500cc追加、滴下速度現行のまま。わかりました」患者の足側にいた若い医師が復唱すると持ち場を離れる。
 「よし、これから腸間膜の郭清に移る。超音波メスの準備をしろ……増幅率は110ピコだぞ。いいか吉田君……
 「はい、準備は完了しています。増幅率も110ピコに設定してあります」執刀医の左に立つ助手の一人が答えた。
 「そうか、すばやい対処をしてくれたな、私とのコンビは余りなかったのに……」執刀医の目が瞬間だがなごんだようにみえた。
 「……よっし、ハンドピースを超音波メスに接続してくれ……」
  執刀しながら次々と指示を与えているこの医師は第3外科部長、鬼塚喜八教授である。この付属病院の副院長だが、脳梗塞で自宅療養中の大久保病院長が再起不能の状態にあることから病院長としての職務も兼務し、次期病院長への就任は確実だった。
  第3外科は消化器ガンを主に扱う部門で、鬼塚は胃ガン、大腸ガン治療の権威とされているだけではなく、医師でありながら手術用機器の発明家として世界にその名を知られていた。
  いま鬼塚が使用している超音波メスも鬼塚の発明によるもので、この発明によって従来の高周波メスやレーザーメスでは困難だった内臓癒着部の剥離操作が正確且つ迅速に行うことが可能になった。 この最新医療機器である超音波メスはいまや世界の多くの病院で特殊操作用メスとして使用されていた。
 「超音波メスの接続は完了だな?」
 「はい、いつでも使用可能です」医師の吉田が鬼塚を見ながら答える。
 「よし、ハンドピースの切り替えをする。フットスイッチはここ、私の右足側に……」鬼塚は左手で自分の足下を示す。
 「これから腸間膜リンパ節の郭清を始める……」鬼塚はそういいながら超音波メスのコードを右肩から下がるコード受けリングに通した。
 「……このクランケ、痩せているのに動脈周辺にまで脂肪組織が拡がっている……リンパ節が探り難いぞ……うーん……? ああ、やっと見えてきたわい……」鬼塚は無造作ともいえる手つきで開腹部を探っていたが、ようやく切離部を露出させると超音波メスを当てる。
  組織にメスが当たるとビーンという小さな音とともに薄い紫色の煙が上がった。
  麻酔装置のモニター画面を監視していた麻酔医の大堀が突然慌てたような声で、鬼塚に異常発生の報告をする。
 「部長……! 脳波に強い乱れが……! カルディグラフの表示では大動脈弁に異常のようです……」
 「血圧の状態はどうなっている……?」鬼塚は落ち着いた声で大堀に問いただした。
 「98に61です。先ほどより少し上昇しています」大堀の声は平静に戻っているようだ。
 「急激な血圧上昇による大動脈弁か僧坊弁の一過性不全だろう。念のため塩酸ニカルジピンを0.3ミリ静注しろ、吉田君。大堀君はシクロプロパンを5%増やせ、まだ3時間はかかる……」

   


  当直医から急遽呼び出された鬼塚をハウプトとした7名のチームによる緊急オペが始まったのは前夜の11時過ぎ……既に4時間半が経過し、日付は変わり9月10日、日曜日になっていた。
  外はもうすぐ夜明けだ。東の空がうっすらと明るくなっていた。

   


   


  手術台の患者は姿恵美、43才の主婦である。夫の名は姿逸平。有名自動車メーカーから、露見したスキャンダルにより、間もなく大手海運会社の南海汽船に出向を命じられることになる。
  夫が出張中のきのう午後、恵美は突然の大量吐血によって意識不明となり、近くの病院に救急搬送された。検査の結果、食道、胃幽門部、膵頭部には硬性ガン、肝臓にはヘパトーマが疑える腫瘍がみつかった。いずれもステージⅢを過ぎた末期ガンで手の施しようがないと担当医は診断する。
  このときの担当医は外賀総合病院の内科医長、堀口亘だった。ゾンデによって胃内に残留していた血液は排出したが、出血は依然として続いている。横臥させたクランケの経鼻ゾンデからは少量だが常に排出されていた。出血の原因は胃幽門部の腫瘍だと判断した堀口は腫瘍の状態と出血部確認のため念のため全身麻酔を施したうえ胃カメラの挿入を始めた。胃カメラの挿入操作など堀口にとって日常的なことであったことはいうまでもない。
  しかし、このことが堀口の医師としての生命に、さらに外賀総合病院の消滅という重大な事態にまで至ることになろうとは想像すらできなかった。
  胃カメラの操作中、堀口が担当する入院患者に心停止が起きたという連絡が処置室に入る。
  堀口は医局から准看護師の松川由美を呼び、操作の継続と終了したときには堀口に連絡するように指示し心停止患者の病室へ急いだ。それから数分後だった。事故が発生したのは……!
  万一の場合を考えて挿入したままにしてあった経鼻ゾンデからだけではなく、口からも噴き出す大量の出血が起きてしまったのである。不慣れだった准看護師が胃粘膜か腫瘍本体に重大な損傷を与えてしまったのだろう。松川からの連絡を受けて処置室へ駆け戻った堀口は、リノリウムの床が一面血の海となっている出血量に一瞬声も出ず立ちすくんだ。
  堀口は直ちに1500ccの輸血を行うと同時に、緊急手術以外にこの大出血に対処する方法はないと考え、父、鬼塚が副病院長を務める帝北大学付属病院に手術の要請をする。
  堀口亘は鬼塚喜八の次男。外賀総合病院の院長、外賀萬蔵の娘婿である。
  原則として単独での医療行為の資格がない准看護師に胃カメラの操作を命じたことは、堀口にとって弁解のしようがない失態だった。完全に医師法違反の行為である。さらにその結果として重大な医療事故を起こしてしまったという事実が外部に漏れたとき、それは堀口自身の問題だけではなく、外賀総合病院の存亡に関わる事件にもなりかねない。それを懸念した堀口は緊急オペを要請したとき、真実の事情を説明しておいた。すべて父の胸のなかに秘めてもらうように懇願して……
  経鼻ゾンデも胃カメラも挿入されたまま、姿恵美は再び救急車に乗せられる。昼間の暑さがまだ残る夜更けの街角に救急車の赤い回転灯の光とサイレンの音が次第に遠ざかっていく。
  数人の看護師が見送る外賀総合病院玄関の時計は午後10時を少し過ぎていた。

   


   


 ……ここは何処なの……? ……わたしは何処にいるの……?
   痛い……痛い……! あなた、何処にいるの……? あなたが見えない…… おなかが痛いの……
   助けて、あなた……! 何処にいるの……?
   返事して、あなた……体が動かない……
   どうなったの……? わたし……
   ああ、よかった……あなた、そこに居てくれてたのね……
   よかったわ……ありがとう……気がつかなかった……

   


  大量出血によるショック症状と麻酔効果の薄れによって恵美に幻覚があらわれていた。その幻覚のなかで夫を捜し求めて叫ぶ恵美。

   


 ……ねぇ、あなた、あそこのお花畑のところへつれていって……体がどうしても動かないの……
   どうしてかしら……ねぇ、あなた、どうして黙っているの? つれてって、あそこへ……
   そこにいるのは正樹……? ほんと、正樹だわ……ありがとう、正樹もきてくれてたのね……
   正樹、教えて……お母さん、いま何処にいるの……? あ、正樹やめて……それを投げるの……!
   どうして、そんなにお母さんのことを……お願い、正樹、お母さん……
  マスクに流入する麻酔ガスの追加によって恵美の幻覚は次第に薄れていく……

   


  10年以上にもなる夫の海外駐在の間、恵美は幼い3人の子供を懸命に育ててきた。良き母としてまた夫の健康と無事、そして1日も早い帰国を祈り続けるけなげな妻として、夫がいない寂しさを常に感じながらも一心に家庭を守ってきた。
  しかし、末っ子の正樹だけは父親がいなかった寂しさからか、あるいは末っ子として甘やかし過ぎたためか、正樹の心には複雑な歪みが生まれていた。母である恵美の愛をもってしても、父親である逸平の権威をもってしても、どうすることもできない心の硬いしこりになっていた。
  正樹の歪んだ行動は小学校5年生の頃から家庭内暴力となってあらわれた。それも母親だけをターゲットとして……
  正樹が情緒的にも成長をする大事なときに、10年以上ものあいだ海外駐在員として家を空けていた父の逸平に対し正樹は、父親として意識的に認めようとしなかった。ときどき逸平から言葉をかけても返事が返ってくることはない。逸平の存在そのものを拒否していたのである。
  そんな正樹の態度に逸平自身も次第に正樹を避けるようになっていった。
  残業あるいは出張と妻の恵美に伝え、三品千鶴との不倫の愛に溺れるようになってしまったのも、家庭での気まずい雰囲気から逃避したい気持ちからだった。
  もしこのとき、恵美が逸平の秘密を知ったとしたら、間違いなく自らの命を絶ったことだろう。ここ5年近くもの間、いつもさいなまれていた正樹の暴力に対する恐怖と孤独感に、恵美は幾度となく正樹を道連れとした死を選びかけていたからである。
  このうえ夫に愛人がいた……! 縋るところを失った恵美にはもう死しか残されていない……

   


  良き妻、また良き母として努めてきた恵美が、我が子の暴力に怯え、愛する夫には背かれ、末期ガンの激痛に苦しんだうえに医療ミスによって生死の淵を彷徨うことになろうとは……
  もしこの世に『神』という存在があったとしたら、罪なきこのうえない善人に、余りにもひどい仕打ちをされたものである。この物語は奈落を彷徨う瀕死の妻を、正しい血液学理論との出会い、そしてその実践によって死の淵から生還させた夫と子供たちの愛と苦悩、そして歓びの記録である。 

   


  6月も末というこの頃、いつもの年なら梅雨どき特有の蒸し暑さが感じられるのだが、今年はまだ暑さというものを感じない異常な低温が続く東日本の天候である。
  今日も熱海では朝から肌寒さを覚える冷たい雨が降っていた。週末ともなれば多くの観光客や釣り客で賑わう、ここ熱海の初島も土曜日というのに人影がない。夕刻近いこともあり寂しささえ感じさせる。時折り自転車に乗った地元の人が港に近い路地を通り過ぎる。天候がよければ乗船場から対岸に見える熱海のホテル街も、鉛色の雨雲と霧に隠されて見ることができない。
  雨天ということもあり、あたりはもう薄暗くなりはじめていた。こんなときでも、連絡船だけは定期的に通っていた。待つ人もいない港に熱海からの便が到着する。大きな荷物を背負った初老の婦人と親娘と思われる一組の男女……乗客はその3人だけだ。
 「あんたがたが尋ねてはったところは平田屋はんやったな」手拭いで頬かむりをした女性は背の荷物を揺すり上げながら、親娘連れらしい男女を振り向いていう。関西なまりの言葉だった。
 「ええ、そうです。平田屋さんです」若い娘のほうが答える。歯切れのいい声だった。20才前後だろうか、整った容貌である。黒く長い髪がよく似合い、美しさを強調していた。
 「平田屋はんは、そこの売店の角を右に行かはったらな、直ぐ左へ曲がる道があるさかい、曲がってからちょっと行かはったら、右に見えるさかい……」
 「わかりました。ご親切にありがとうございました」男のほうが頭を下げて礼をいう。190センチ以上はありそうだ。近くで見ると意外に若い。娘の年令から推測する限り親娘であるわけがない。兄と妹なのか……或いは夫婦なのか? 男の手にあるブリーフケースは娘が持つ有名ブランドの旅行バッグと、何かちぐはぐな感じを与えていた。
 「ほなら、きいつけて……」初老の女は軽く手を上げると歩きはじめる。
 「ほんとうにお世話になりました」歩き去る女の背に男が頭をさげた。雨が又激しくなっている。
  風を伴った大粒の雨は、歩く二人の肩や背に傘からしぶきとなって降りかかる。
  男がさしかける傘に雨が音をたてて当たった。寄り添って歩く二人のほかに人影はない。辺りは暗くなり道の街灯にはもう灯りがついている。
 「ねぇ、あなた……随分と寂しい島ね。お店はみんな閉まっているし、人も通らない……」
  心細げに娘がいう。白いブラウスの上にかけられたピンク色のカーディガンに雨滴が細かな珠のようについている。
 「朝からこの雨だものな……観光客はほとんど来てないんじゃないかな……ふだん、この初島は釣り客が多いんだが、この雨ではどうしようもないもんな……」
 「人が多すぎるのも嫌だけど……人がいないのも寂しいわね……」
 「こんな島に泊まるのは嫌になったかな、千鶴……」
 「ううん、あなたと一緒だもの……どんな所でも……」娘は急に男の腕にすがる。感情が高ぶってきたのか声が震えていた。
 「千鶴はこの島に泊まるのは初めてだったな……」
 「そう、お友だちと日帰りで、二回ほど泳ぎに来たことはあったけど、泊まるのは初めて……」
 「民宿・平田屋」はすぐわかった。
  『釣り船・民宿 平田屋』という大きな看板がライトアップされている。玄関や二階の部分は新築改造されたばかりのようだ。右手に見える庭には緑の芝生が敷かれ、松や椿の木が数本植えられている。何に使われるのか分からない大きな円錐形の籠が、幾つも芝生の上に転がっていた。
  それらが庭におかれた水銀灯の光を受けて浮き上がる。
  玄関脇の壁には沢山の釣り竿が立てかけられ、いかにも海辺の宿といった観だ。
 「ごめん下さい……」玄関の引き戸を開けると男は奥に向かって声をかけた。
  玄関を上がった右側はロビーになっており、長方形のテーブルを挟んで二つのソファがある。左側のフロントカウンター上の花瓶には紫と紅色のタチアオイの花が生けられていた。
 「はーい……いらっしゃいませ……」明るい声だ。奥のドアが開くと34、5才のおかみさんらしい女性が水色のエプロンで手を拭きながら出てくる。
 「ようこそ、いらっしゃいました。あいにくの雨になってしまって……」メガネの奥に柔和な目が微笑んでいた。
 「新宿の民宿協会からお願いしました姿ですが……」
 「はい、はい、姿さま、おききしております。この雨だから、おいでになれないのかと案じておりましたのよ。ほんとに、ようこそおいで下さいました。まぁ、そんなに濡れてしまって……どうぞ、このタオルで拭いて下さいな……」
  おかみは靴棚の上の箱から乾いた白いタオルを出すと男と娘に渡す。
 「あ、すみません、ありがとう……」娘のほうがタオルを受け取りながら笑顔でいった。
 「しかし、ほんとに、ひどい雨ですね。島も寂しいほどに静かで……」男は淡い紺色のスーツをタオルで拭きながらいう。
 「静かだったでしょ、ほんとに。うちでも今日は三件もキャンセルされて、お客さまは姿さまお二人だけなんですよ。さぁ、お疲れでしょう、お部屋にご案内します。どうぞお荷物を……」おかみは娘のバッグと男のブリーフケースを持ち先に立つ。
 「お部屋はお二階です。今日はどなたもお泊まりでないから、お気楽におすごし頂けますことよ……」二階への階段近くまでくると木の香りが漂ってくる。
 「木の香りがいいですね。新築されたばかりですか……?」男は階段の壁や天井を見ながらいった。
 「ええ、ひと月前に建て直したんですが、この夏は冷夏になると予報されてますでしょ……もし、お客さまが少なかったら大赤字になってしまいそうで……はい、こちらがお部屋です、どうぞ……」
  おかみが開けてくれたドアの上には『山茶花の間』という木札が掛けられている。
  部屋は十畳ほどの広さだ。真新しい畳が敷かれ、部屋の中央には木目が美しい茶色のテーブルと座椅子が置かれている。窓の側にも円いテーブルを挟み藤製のイスがある。
 「わぁー、舟の灯りが沢山見えるわ……きれい……!」娘がはしゃいだ声をだす。
 「舟が沢山出てるでしょ……? この辺の人たち、今日はみんなイサキ漁に出ているんですよ。うちの主人も漁協からの指示でお昼過ぎからずっと行ってるんです……」おかみは二人の顔を互いに見ながら説明する。揃った白い歯が印象的だ。
 「イサキって……アジとは違うんでしょ……?」藤イスに座った娘がおかみに尋ねる。
 「ええ、違うわよ。イサキはアジよりひとまわり大きい魚なの。このあたりから東京湾にかけて穫れるのよ。でも沢山いないから高級魚になっているみたいね……さ、お疲れのところ申し訳ありませんね、こちらのカードに姿さまと、お連れさまのお名前とお所をお願いします……」おかみがクリップボードに挟んだ薄黄色の紙を差し出す。それには宿泊者カードと印刷されていた。
  娘が何か気がかりそうに藤イスから立ち上がり男のそばに座る。
 「はい、二人の名前を書けばいいんですね……?」
 「ええ、すみませんね、お手数をかけて。ここの民宿組合がうるさいものですから……」おかみが申し訳なさそうにいう。
 「わかりました」男はボールペンを手にとると書きはじめる。達筆だ。
    146-0091 東京都大田区鵜の木3-12-1
                  姿 逸平  妻 千鶴 TEL03-3721-○○○○
 「これでいいですか……?」カードを見直すとそれをおかみに渡す。
 「はい、ありがとうございました。お夕飯のほうは何時頃になさいますか……?」おかみがカードを手元の箱にしまいながら尋ねた。
 「そうですね、今は5時だから6時半頃にしてもらいましょうか」
 「はい、かしこまりました。その頃、お部屋のほうへおもちしますね。お風呂は階段を下りられたらすぐ左になっております。お風呂は岩風呂になっていて、皆さまにご好評を頂いておりますのよ。どうぞ、ごゆっくりと……」丁寧に頭を下げると、おかみは部屋を出ていく。

   


  いま、宿泊カードを記入した男は大手企業の課長、姿逸平、女は同じ会社のOL、三品千鶴である。 二人は決して許されることのない不倫の愛に溺れていた。きょうは課員たちには休日出勤を命じておきながら、自分は家庭の事情と称して欠勤し千鶴との一泊旅行にでかけた逸平。
  この日のことによって逸平も、また千鶴の将来も、予想だにしなかった方向へ進んでいくことなど神にさえ分かる筈がないだろう。

   


 「あなた……うれしかったわ、妻って書いてくれて……」逸平の目を見つめながら千鶴がいう。
 「当たり前じゃないか、千鶴。俺にとって千鶴は誰よりも、大事な人だと思っている……大事な大事な千鶴だ……」
 「あなた、寒い……」千鶴は畳に手をつくと目を閉じ、その美しい顔を逸平の肩に押しあてる。
 「ちょっと薄着じゃないか、千鶴……セーターか何か持ってきてるんだろ……?」逸平は自分が着ていた上着をとると千鶴に掛けようとする。
 「ううん、違うの……お願い、抱いて……きつく抱いて」千鶴の声は囁くような小さな声だった。
  顔を上げ逸平の唇を求める千鶴。その頬は体の奥から噴き上がる感情で耳もとまで紅潮していた。 もつれるように畳に崩れる二人。いまはただ、愛の炎を燃やし合う恋人たちになっていた。
  きょう初めて二人だけの時間が訪れたのである。決して許されない不倫、という名の愛だったが激しく燃え上がる愛の炎を二人はどうしても消すことができなかった。
  許されぬ愛だったからこそ、尚さらに激しい炎となって燃えさかったのである。
  千鶴と愛しあいながらも逸平の脳裏には妻、恵美の寂しげな顔や、次男、正樹の暴力によって壊され首がとれた博多人形の哀れな姿、またきょう、逸平自らが休日出勤を指示したオフイスの様子などが次々と浮かんできた。

   


 ……課の連中はみんな出勤だ……いま頃はまだ仕事をしているだろうな……何も変わったことが起きていなければいいんだが……正樹がまた恵美に暴力をふるっているんじゃないだろうか……きょうは休日出勤だと恵美にいってきたんだが、俺を待っているだろう……今夜は帰れないということをどう電話しようか……

   


 「あなた、どうしたの……?」逸平の様子を敏感に感じとった千鶴が声をかける。
 「あ、いや、何でもなかった。何か足音がしたような気がしたんだ。でも何でもなかったようだ……」逸平はあわてて思いついた嘘で千鶴を騙した。
 「ほんと……? 何か考えごと……」まだ言葉を続けようとする千鶴の唇に、逸平は自分の唇を押し当て抱く腕に力をこめる。もうそのときには、逸平の脳裏には何もなく、ただ千鶴との激しい愛に溺れ、二人は深く深く愛欲の奥底へと沈んでいった。
  その日、オフイスでも、また熱海までの列車内でも最悪の事態が起きていたというのに……

   


   


  姿逸平……東京は西新宿にある自動車のトップメーカー、東洋自動車本社に勤務するエリート課長である。11年に亘る海外駐在員の職務を終え、3年前に帰国すると同時に第8営業部第2係係長から重要部所である第3販売促進部・販売拡張課課長に就任した。
  ロスアンゼルスからバンクーバーへ、そしてローマ、中東のサウジアラビア、最終地のマニラまで8ケ国の支店や系列会社に駐在し、業績の向上に著しい貢献をしたことが評価され、異例の昇格人事が行われ、業績に直接の影響を与える販売拡張課課長に44才という若さで就任したのである。同期入社の男性社員の皆が係長かそれ以下であることをみても、逸平の昇格が如何に異例なことであるかが理解できよう。
  逸平の主な業務は全国のディーラー、系列特約会社との密接なつながりを保ち、常に拡販への協力体制を維持すること。そのために各系列会社を定期的に訪れ現況を把握し、また販売促進のノウハウを提供することにある。社内においても、また各地の系列会社においても逸平への信望は厚く、近い将来には第3販売促進部の次長昇格が噂されていた。
  エリート街道を順調に進んでいるように思われる逸平だが、いまも大きな犠牲のうえにあることは逸平と妻の恵美以外には分かることではない。その犠牲とは次男の長年に亘る家庭内暴力だった。
  妻の恵美は肉体的な苦痛、また孤独感、恐怖の連続に心はぼろぼろになり、逸平は父親としての権威を完全に喪失していた。逸平の長い海外駐在生活の結果として生じたことだったが、そのことが帰国後の逸平にふりかかる地獄のような苦しみの発端になり、後には幸せへの架け橋にもなる。
  大学3回生の梨香、高校2年生の博樹については何の心配もなかったが中学2年の次男、正樹の家庭内暴力にはなすすべがなかった。帰国した逸平を睨みつけるような正樹の恐ろしい視線、母親の恵美だけをターゲットにした狂気としかいえない執拗な暴力だった……
  正樹の暴力に対して逸平は無視してきたわけではない。海外にいるときは手紙で諭し、家庭にいるときには幾度となく直接に注意をしてきた。しかし、正樹の暴力は減る訳ではなく、諭されることによってさらに暴力はエスカレートしていった。
  キッチンの茶碗や皿、グラスなどは始終買い足しが必要だったし、壁や家具、木製ドアのいたる所に正樹の拳の痕が残っている。母親の恵美の体には殴られたり、蹴られたりした箇所の内出血跡が、次々と新しく生じ、後には腹部や腰、大腿部がいつも紫色に腫れ上がっていた。正樹の暴力は精神的に異常があるのではと思えるほど恐ろしいもの…… 兄の博樹は暴れる正樹を見ても、母親を助けようとはしない。博樹も弟の暴力には手が出せないようだ。正樹が去ってから、母親を慰めたり怪我の手当をしていた。そんな博樹の優しさが恵美には手を合わせたいほど嬉しい。博樹の存在は恵美にとって精神的な心強い支えになっていた。
  ここ1、2年は正樹の状態を何も逸平に話さないようになっていた恵美である。彼女はこの問題は自分だけで耐えていく決心をしていたが、そんな正樹の暴力が、ある日を境にぴたりと止まってしまった。怒りに燃えた兄、博樹によって正樹が一瞬のうちに打ち据えられたことによる。

   


(つづく)