長編小説 霧のなかの巨塔  第14回

   第一章 奈   落

   


  ■愛と惑い…②

   


 間もなくテーブル上には大皿に盛られたオードブルが運ばれてきた。
 種々の料理が色どりよく装飾品のように並べられている。
 また各々の前には焼きオマールエビのチリソーン添えがおかれる。
 「さあ、みんな……お母さんのお誕生日に乾杯しましょう。梨香ちゃんも乾杯はビールで……恵美ちゃんもビール、少しくらいはいいでしよ……?」
 「お酒は弱いんだけど、ビールなら少しだけね……」恵美のそばに座る梨香がグラスにビールを注ぐ。
 「はい、博ちゃんも、正ちゃんも、いいわね……それじゃ。みんなのお母さん……恵美ちゃん、お誕生日おめでとう。これからもまた、元気でお願いね、乾杯……」祖母、亮子の声に合わせて、みんなが、おめでとうの言葉をかける。正樹も声は小さいものの言葉を合わせていた。恵美には、そんな正樹の様子が、何よりもうれしいプレゼントに思えた。
 「ありがとう、みんな……お母さん……みんなでお祝いしてくれて……ほんとに幸せだわ……」恵美の声が涙声になる。
 「恵美ちゃんは、これで43才になったのね。ほんとの女盛りというところね」亮子は恵美を見ながらひとりごとのように言う。
 「そうかしら。私は40の声をきくと、もうコケの生えたおばさんという感じでイヤだわ……」
 「なにいってんのよ、恵美ちゃんがコケの生えたおばさんなら私はトゲの生えたおばあさんになっちゃうじゃない……」
 亮子の言葉に、めずらしく正樹が大声で笑う。
 博樹も下を向いて笑いをこらえているようだ。
 「ねえ、正ちゃん、おかしいよね……」亮子の問いかけに正樹は大きくうなずいた。
 久しぶりの家族の明るい団らんに何か救われたような気持ちになる恵美だったが、夫の逸平が何処にいるのか分からないという不安は消すことができない。
 ……「ここに逸平さんがいてくれたらよかったのに。
 いま、何処にいるの…?私にいえない何かがあるの…?まさか、梨香がいうように女の人がいるんじゃないでしょ……?
 会社へ電話したとき、吉川さん、びっくりしたような声で応えていたわ。あの様子は、私が逸平さんに電話を入れたことが不思議だという口ぶりだった……梨香がいうようにきょう、休むと伝えてあったのかしら……だから、三浦さん、気をきかせて、私に話を合わせてくれたんだわ。
 三浦さんの話、何処か不自然だった……ときどき、言葉を探しているようだったもの……
 私、大変なことをしてしまったのかしら……
 逸平さん、課の人にウソをいって休んでいたとしたら、あの人の会社での信用はなくなってしまう……
 私が電話さえしなかったら、逸平さんのウソはばれずにすんだかもしれないのに……どうしよう……!
 家族がかわす会話はまったく恵美の耳には入らない。
 頸すじやうなじを汗がつたう。そっと汗をぬぐう恵美。
 そんな恵美の様子に母の亮子は気づくが、そっとしておく。
 オードブルの皿から、幾つかの料理を小皿にとり、口にしている恵美だったが、会社へした電話のことが気になりはじめてからは、料理を味わうことはできなかった。
 母が上京するといういうことは、当然に逸平へ連絡すること、事情を知らない恵美が会社に電話を入れたことは、恵美が責任を負うことではない。しかし、その恵美の性格は長所でもあり、欠点ともいえた。自分が関連した事柄での不首尾を全部、自分の不始末、自分の責任として悩むのが常だった。
 正樹のことについてもそうだ。父親の不在、そしてその寂しさが、根底となって歪んだ精神状態が生じたのだが、凡て、自分のしつけの拙さが原因と、自分を責めつづけて今に至っている。
 どうすることもできない恵美の性格だった。
 梨香が母の様子に気づき声をかける。
 「お母さん、大丈夫……?苦しそうだけど……」
 「ううん、なんでもないわよ……食べているうちに急に暑くなっただけだわ。それより梨香ちゃん、もっと食べてね。残しても、つまらないから……」
 「残る心配なんかいらないわよ、お母さん。私もたべているし、なにせ、博樹や正樹がいるから残るどころじゃないわ……ねえ、正樹……」正樹のほうへテーブルを回しながら梨香がいう。
 「大丈夫、ねえちゃん。兄貴と二人でたいらげるから。なあ、兄貴……」いつもと違う明るい正樹に博樹は面くらっていた。正樹の顔を見つめたまま、黙ってうなずいた。
 博樹は祈っていた。……明日からもこんな明るい正樹でいてくれ……と。
 それから1時間余り後、恵美たちは3階のカウンターで清算を済ませていた。
 「お母さん、ありがとう。すっかりご馳走になっちゃって…」
 「なによ、これしきしのこと。みんなと、こんな楽しい時間をすごすのが私の生き甲斐なの。わたしのほうが、お礼をいいたいくらいよ。いつも、一人だけの食事なのよ。きょうは、ほんとに楽しかったわ……」エレベーターがくるのを待ちながら、亮子はみなの顔を見まわしながら満足そうにいった。
 横浜南京街にはまだ大粒の雨が降っていた。
 雨傘に音をたてて雨粒があたる。
 店の前でタクシーを待つ恵美たちの眉にも雨のしぶきが降りかかった。肌寒い夜だ。
 「よく雨が降るわね……きのうから、ずっとじゃない……?」
 亮子は濃いグリーンのワンピースの肩をハンカチで拭きながらいう。雨天のきょうは、なかなか空車のタクシーが通らない。
 十分近く待ってから、ようやく一台のタクシーを拾うことができた。
 JR桜木町駅のホームへの階段を上がる恵美たち。
 駅に混雑は見られない、混雑する時間はもう過ぎたのだろう。
 こどもたちは、駆け足で階段を上がってしまい、亮子と恵美だけが、ゆっくりと上がる。
 「……逸平さんから連絡なかったわ……」小さな声で亮子が恵美にいう。
 「ねえ、どうしたのかしら……会社へ帰ったのなら、私たちがいるうちに、家に電話が入るはずなのに。5時近くまで家にいたんだから……ずっと連絡がなかったということは、会社へ帰っていないか、朝から行ってないか……」恵美の声は小さくなる。
 「こういっちゃ何だけど恵美、逸平さんには何かあると思うわ……いつも、帰る時間はどうなってるの……?」
 「だいたい、12時近く……早いときでも10時ころ……」
 「恵美、ちょっと、しっかりしないとダメよ……!毎日、営業マンでもないのに、12時近くに帰るなんて、おかしいわ……」
 亮子は感情的に昂ぶった声でいった。
 「いくら、忙しいからといって、仕事で毎日そんなに残業していたら、体がもつもんじゃないよ。逸平さん、いたって元気なんでしょ……?」恵美を叱るようにいう。亮子は恵美にじれったさを感じていた。
 「うん、元気だと思うわ。ときどき、お風呂の中で鼻うたを歌っているときもあるし……」
 「ねえ、恵美……夫を信ずることは大切なことよ。でも様子がおかしいか、どうかということは感じとらなくちゃ……毎日、深夜まで残業していて、帰ってからのお風呂で、鼻うたを歌うような余裕ができて……?疲れきっているときに、とてもそんな真似はできないと思う……さっきは話題をかえたけど、梨香ちゃんが言っていたこと、間違ってないかもよ……」
 ホームに電車が入ってくる。亮子の話はそこでとぎれた。
 車内はすいていた。まとまった空席はないものの、そこここに空用が目立った。みな適当なところに分かれて座る。
 「お母さん、こっちに来て……」恵美が母を手まねく。
 「ありがとう、恵美ちゃん。田舎ものは、こういう乗りものに乗ると、どうも勝手がわからなくて……」恵美の隣に座りながら亮子は、ため息まじりで言う。髪や肩が雨に濡れていた。
 恵美はハンカチを取り出し母の髪にそっとあてる。年のわりに白髪はないと思っていたが、近くで見ると、ずいぶん白髪が増えていた。
 「大丈夫、ありがとう恵美ちゃん、すぐに乾くから……蒲田までは30分くらい……?」
 「うん、そんなにかからないわ。15分ちょっとよ……」
 二人は黙って目を閉じていた。亮子も恵美も逸平のことに思いをめぐらせていた。
 ……この雨のなか、何処にいるのか。
 どうして家に連絡をしないのか。会社へは帰らず、何処かよそへ行ったのか、それとも、やはり恵美や会社の人にウソを告げて家を出たのか。
 なぜ、そんことを……仕事のことなら会社の人にウソをいう必要はないはず。やはり女性が……?
 考えれば考えるほど頭の中が混乱してくる。
 今朝、逸平の課へ電話をしたときの様子から、会社にウソをいって休んでいるのではという疑惑は抱いていたが、梨香がいうような女性の存在など、いわれるまで考えたこともなかった。
 夫を信じきっていたから……夫を信じないで、どうして生きてゆけよう……正樹の暴力にじっと耐えてきたのも、自分の唯一の理解者であり、また自分が逸平を愛していると同様に、恵美をも愛してくれているものと信じきってきたからである。
 愛する夫に女がいるなどということは、想像するだけで、惨めだった。
 どうしよう……どうしたらいいんだろう……考えは頭のなかを空まわりするだけで、どうすることもできない。
 列車の窓に時折りパチ、パチという雨粒の当たる音がする、きのうからの、憂鬱な雨は、いっこうにやむ気配がない。やむどころか、逆に荒れてきたようだ。
 あたかも、恵美のこれからを暗示するかのように……

   


(つづく)