長編小説 霧のなかの巨塔  第21回

   第二章 灯りを求めて

   


  ■ 迷   路②

   


 帝北大学第12手術室では今も恵美の緊急オペが続けられている。オペ室の時計は午前3時20分を少し過ぎていた。オペ開始から約4時間が経過している。開腹した結果、外賀総合病院の堀口医師が診断したとおりに、食道下部には進行した硬性癌、胃幽門部には大きな噴火口状になった潰瘍性の癌、膵頭部にも進行した硬性癌、さらに肝臓にはヘパトーム性の潰瘍癌があり、一部は壊死状態になっていた。どれも進行し尽くしたと思えるステージⅣの末期癌だった。
 恵美の多臓器が末期の癌に侵されていたのである。大出血の原因は胃カメラ本体が狙ったかのように潰瘍状になった腫瘍中央部を深く抉り、胃壁を突き抜け腹腔へ至っていた。胃壁が直径で3センチほど外側にめくりあがっていて、よほど乱暴なケーブル挿入をしない限り、このような損傷が起きるはずがないと執刀医の鬼塚は考えていた。幸いにして動脈の損傷がなかったことで、恵美の尊い命が消えることにはならなかった。不幸中の幸いといえよう。
 もし、あのとき堀口が慌ててケーブルを抜き取っていたら損傷部をさらに拡大させ、いっきに近くの動脈まで傷めて動脈出血を引き起こし、恵美はあの処置室で命を落としていただろう。
 ケーブルを挿入したまま救急搬送した堀口の適切な判断によって恵美は「生」への扉に近づくことができたに違いない。開腹したとき、腹腔内には約1000ccほどの血液が流出しており胃内にもまだ400ccほどが残留していた。これまでに2500ccの輸血をうけていたから
 恵美は自分の血液のほとんどを失って、他人の血液と入れ替わったことになる。それはともかくとして、恵美はいま、瀕死という魔の淵から這い上がろうとしていた。

   


 執刀医の鬼塚は出血を止めるために、まず胃を全部摘出、そして外科処置が可能な部分のリンパ節もできる限り郭清した。胃は、食道下部の硬性癌と共に摘出する。胃壁が膵臓の一部と強く癒着していて、剥がすことになると却って膵臓への損傷が大きくなりここからの出血も懸念されたため、癒着部は組織ごと切除し、直ちにその箇所を結索し縫合した。膵頭部の癌腫は切除不能で、膵頭部は腫脹が激しく、十二指腸を強く圧迫、その箇所は潰瘍状になっていたため、胃とともに切除、主膵管、副膵管、共通管、胆管のすべては空腸に接続し、食道バイパスチューブを空腸に接続したが周辺のリンパ節郭清はとてもできる状態ではなかった。また肝臓にみつかったヘパトームはCT撮影の所見より遥かに浸潤部が深く手のつけようがない。
 「……ようし、食道外筋膜とバイパスチューブの吻合にかかる。ゾンデの位置は……吻合部から食道切除分の8センチをいれて、23センチ下方だ……よし、そこだ。食道切断部、十二指腸切断部、膵臓切開部、いずれも出血なし。縫合不全なし。OKだ。よし、ドレーンを留置する。
 大河内君、ドレーンの留置箇所、正位置の15センチ、なぜかということ、わかっとるな。絶対に確認を要する重要な事項だぞ……」ゾンデの位置を示しながら若い医師にいう。
 「はい、了解しています。せんだって広田教授のオペで助手を務めさせて頂いたとき教えて頂きました」若い医師は丁重な言葉で答える。鬼塚教授の助手になれたことに感激していた。
 鬼塚はそんな大河内の言葉に応じることなく処置を続ける。
 「10ミリ自在チューブ……」
 「はい……」看護師が細い透明のチューブをゴム手袋でつまんで渡した。
 「やや、十二指腸の切断部が隠れちまったな……」そういいながら膵臓や肝臓を押しのける。
 オペの開始から7時間以上も経ったというのに、鬼塚はまったく疲れを感じていないようだ。
 「5号絹糸を縫合針に……」手を休めて鬼塚が待つ。そのコメカミの辺りから汗が流れている。
 看護師はその汗をそっとガーゼでぬぐう。鬼塚は瞬間、正面を見る。
 「山下君、なぜ、チューブを腹壁に固定する?」
 鬼塚教授は突然、大河内の横に立つ痩せ気味の医師に質問した。
 「はい、オペ操作中に留置したチューブの位置が変わらないようにするためです」急に質問されて驚いたような顔をして答える。
 「答えなんか期待しとらん。君はさっきから睡魔に襲われとる……ここのみんなは、眠くともこうして頑張っとるんだ。しっかりせんか!」
 「はい、申し訳ありません……」
 鬼塚から叱責されたその医師は深く頭を下げてから、きまり悪そうに周囲を見回した。そんな彼の後ろに立っていた同年輩と思われる医師が軽く山下の肩にさわる。
 「よし、閉腹する!」
 周囲で沈黙している人たちに喝を入れるように鬼塚は大きな声でいった。8時間ちかくを要した大手術にようやくピリオードが打たれる。それから20分ほど後には第12手術室の大きな扉上にある「手術中」という赤い表示は消えていた。中央手術センター入口の壁時計は午前6時33分を示している……

   


 ■ 黎   明

   


 高層の帝北大学病院本館よりもさらに高い東病棟と西病棟の淡いブルーの壁面が明るい朝日に照らされている。南の空……東京湾だろうか、その隅に僅かな白い雲があるだけ。東京は今日も快晴である。だが、空は青ではなく白っぽい。郊外のような抜けるような青空は望めない。
 そんなスモッグの空の下、西病棟33階、3358号特別室は昨夜遅くからずっと室内の灯りがついたままだった。ベージュ色の室内の壁にはシミひとつなく、右の壁面には何処か外国の高原だろうか、遠くの山並みを背景にした林と手前には美しい花畑を描いた大きな額が埋め込まれて、窓側には革張りの豪華な応接セットが置かれていた。テーブルはすべてクリスタル製で、患者用のベッドはこれまた豪勢な木製のベッドである。
 患者から見える位置にあるスタンドの花瓶にはキキョウとカスミソウが入れられている。
 室内は病室というより豪華なホテルのスイートルームと同じようだ。突然の救急搬送のため一般病室に空きがなく、恵美たちはしばらくの間、この特別室を使うことになる。

   


 少し開けられたカーテンの隙間から、朝日が差し込み床に敷かれたコバルトブルーのカーペットに当たり明るい青色に変えていた。窓の下にはかなり広い公園があり、その向こうには高架になった高速道路が朝モヤのなかにぼんやりと見える。その向こうはモヤで何も見えない。
 応接セットのソファには恵美の母、亮子が横になっていた。いつもなら、少々のことでは疲れを見せるような彼女ではなかったが、最愛の娘が危篤になったというショックから、身も心も完全に打ちのめされていた。目を閉じている横顔にも、やつれた様子がありありと覗うことができた。閉じた目がときどき、ピクピクと微かに痙攣している。
 セパレートになったセットには逸平の母、和江と梨香が……和江は背もたれに頭をあずけ、梨香はテーブルに置いた両手の上に顔を伏せている。博樹は折畳みイスで目を閉じていた。
 逸平はカーテンの隙間から窓の外を見ている。その横顔を明るい朝日が照らす。正樹は先ほどまでベッド腋に座っていたが今はいない。誰の顔も沈みきっていた。きのうからのことが悪夢と思いたい……逸平たち皆にとって想像すらできなかったことの連続である。恵美の突然の吐血、大出血による意識不明の危篤状態、末期癌宣告、再び大出血が始まりここ帝北大学病院への救急搬送、そして7時間半以上の大手術……これだけの、誰がみてもの大事件がたった一日のうちに、たて続けに恵美を襲う悲劇として起きてしまったのである。逸平たち家族はみな、これからの方策は考えてあるものの、今はただ、どうしようもない悲しみにさいなまれるだけだった。
 今は「生」への明るい兆しはまったくなく、ただ、暗黒の奈落を彷徨う苦しみのなかに閉じ込められているだけ……窓の外の明るい日差しや青空とはうらはらに……

   


 正樹がそっと入ってきた。音がしないようにドアノブを手に握り静かに閉める。祖母の和江が小さな声で正樹に話しかけた。
 「正ちゃん、遅いわね、お母さん。ここへ来てからもう八時間ほどになるというのに……まだ今も手術が続いているのかね……」
 「うん、遅いね……連絡がないということは、まだ手術が続いているのかなあ……でも、随分、時間がかかり……」ドアをノックする音で正樹は言葉を切る。
 「はい、どうぞ」逸平はそう答えながらドアへと歩く。心臓の高まりが自分にも聞こえる。
 ドアを開けて30歳近くの医師が入ってきた。短く刈った髪形と日焼けした顔が、歳をより若く演出しているようだ。頚から「第3外科医局 医師 大河内宏則」という写真入りのネームプレートをかけている。恵美のオペで助手を務めていたあの医師だ。
 「やあ、どうもお待たせしました……」大河内は病室に入ると愛想いい笑顔で挨拶する。
 「……皆さん、ご心配だったでしょう。8時間近くかかりましたが先ほど手術は終わりました。一応は成功だったとお伝えしておきましょう……」大河内は明るい大きな声でいう。病室に漂っている陰鬱な空気を吹き払おうとする意識的な声だった。
 「じゃ、家内は助かったんですね!」逸平は喜びの感情から叫ぶような声になる。
 「ええ、一応ですよ。一応といいいますのは、出血の元凶だった胃の腫瘍と食道の腫瘍は食道の一部と胃全体の摘出で、出血部はなくなりましたが、膵臓と肝臓の腫瘍は転移が広範囲にわたっていて手術では手がつけられない状態のため、そのままになっているからです……」手術の結果が思わしくなかったわりに、大河内は明るい顔で説明した。
 「それでは先生、娘はやはり……」亮子が消え入るような小さな声でいう。その顔からは安堵の色が消えて絶望感に引きつっている。
 「いやいや、落胆なさらんでください。手術での除去ができなくても、薬剤や放射線の照射によって十分に治療が可能なんです。いまの癌治療は非常に進歩しているんですよ。治療は手術だけではないんです。これからしばらくの間、輸血と点滴で姿さんの体力を整え、それから制癌剤と放射線照射の治療を始めましょう。これは癌腫を基盤からやっつけてくれる、実に有効な方法なんですよ……」力を込めて説明する大河内。いかにも自信と経験に溢れているかのように……

   


 大河内はそう説明しながら、いつものことだが、そんなウソを平気に自信をもっていえるようになった自分に嫌悪を感じるときもあった。制癌剤の投与、放射線治療を開始した患者が、見る間にその激しい副作用に体力を喪失し、苦しみながら死んでいく現場をイヤというほど見てきている大河内だ。大河内ばかりではない。癌治療にたずさわっている医師、いや医師ならみな、制癌剤や放射線治療の恐ろしさは知り尽くしている。その処方で患者の死が一層に早まることも。
   癌を体の基盤からやっつける制癌剤?
   そりゃ、そうともいえるだろうよ
   全身の細胞を殺していくんだから基盤には違いないさ!
   なんと都合のいい表現なんだ、「基盤」とは……
   世界の何処を捜しても癌腫だけを殺すなんてクスリなどあるものか!
   もし作った人間がいたら、確実にノーベル賞だな
   制癌剤は細胞破壊剤なんだぞ! 全身の健康な細胞までも破壊していくんだ
   放射線もそう、患部に至る周辺組織も焼かれていく……
   さらに放射線は強烈は発癌物質として有名なんだぞ、何が治療なんだよ!
   われわれが「恐怖」として捉えている物質を、何も知らない患者たちに
   治療と称して、正義の使者のような顔をしてドンドン投与、照射し続ける……
   これが、本当に医師のやることなのか? 毒と知っていながら与え続ける……
   まったく因果な仕事だよ、癌担当の医師は!
   オレがもし癌になったとしても、こんな怖ろしい医学の治療など絶対に受けない!
   放置しておいたほうが、ずっと賢明だ… もっと長生きできるんだぞ!
 大河内がいつも思っているこんな胸の内を患者や家族には口が裂けてもいうことなどできることではない。それは医師としての極秘事項である。患者やその家族の不安をできる限り軽減できるように「演出」することが癌治療にたずさわる自分たち医師の責務だと、自己嫌悪のなかでもそんな本音と完全に矛盾する言葉が出るようになった大河内である。

   


 「それではまだ、助かる見込みが残されているんですね」亮子が期待を込め強い声でいう。
 「もちろんですよ、望みのない完全に手遅れになっているのなら、こんな8時間近くもかける手術などしません。開いても直ぐ閉じるだけですから1時間もかかりません。こんなに手数をかけたりしませんよ。助かるという可能性が高いからこそ治療に手をかけるんです。手術せずそのままにしてある箇所は、手術によって却って患者さんの体力を消耗させるよりも、薬剤治療にしたほうがいいと考えただけです。手の打ちようがないなどということじゃありませんから、どうぞ誤解なさらんでください」
 「よかった、お母さんは助かるかも知れないんだ!」緊張から解き放された正樹の目からは大粒の涙がこぼれ落ちる。
 「坊や、助かるかも知れないじゃなくて、助かる可能性のほうが今はずっと高いんだよ。わたしたちも全力をつくします」大河内は自分が堂々と患者の家族に、しらじらしいウソをついていることに吾れながら心苦しさを感じていた。……よくもこんなことを、ぬけぬけと……と。
 「お願いします、先生! 恵美を助けてください。みんな、よかったなあ、お母さんは助かるって……」逸平は声を出して泣いていた。溢れでる涙を手でぬぐう。そんな逸平を亮子は意外なものを見るような目で見つめている。
    この人、本当に恵美ちゃんが助かることを喜んでいるみたい
    わたしの考えは間違っていたの?
    恵美ちゃんを邪魔にしていたんじゃなかったの? この人の正体はいったい……
 そんなことを考える亮子も泣いていた。
 和江も梨香も母が助かるかもという話に安堵と嬉しさで涙が止まらない。博樹だけはじっと涙をこらえて窓の外を見ていたが、こらえ切れず声をあげて泣いた。
 「それで、家内はいま何処に……?」逸平は目を押さえながら大河内に尋ねる。
 「はい、奥さんは今、ICU、あ、こういってはお分かりになりませんね、本館の集中監視室におられます。術後の経過を24時間体制で監視している部屋です。さきほど手術が終わったばかりですからまだ1時間ほどは麻酔から覚めないでしょう。今は出血箇所がありませんから血圧も正常に戻っています。麻酔から覚めたときは意識が戻っておられると思いますよ。昨夜、ここへ緊急搬送されてきたときと見違えるほど回復しています。二、三日もすればこの病室へ戻ることができると思います」
 大河内の今日のセリフはいつもと違ってしまった。家族が大河内の言葉に感激して泣き出してしまったため、肝心の後の言葉をいえなくなってしまったのだ。
 “これだけ癌が全身に転移していては場合によってはご期待にそえないことになるかもしれません。もちろん、わたしたちは、全力で治療にあたりますが……”という肝心なセリフを……
 だが、大河内はそのときになったら癌治療担当医の常套手段、「もう少し早く診察においでになっていたら……」という一言で終わることも分かっていた。
 ……なんといっても、癌ほど医師の責任が問われ難い疾患はないよ。誰でも、癌は死と同義語のように思っているんだからな……そう開き直っている大河内である。
 もし大河内のこのふてぶてしい考えを逸平たちが知ったら、今すぐにでも恵美をこの病院から連れ出したことだろう。たとえ医師たちと激しい口論になっても……しかし、逸平たちには分かるはずもない。手を尽くしてくれた、またこれからも尽くしてくれるであろう主治医となっている大河内に手を合わせるばかりに感謝していた。

   


   


 外賀総合病院の看護師長、水田から激しく叱責された松川由美は所属する内科医局へ戻ることなく足音を忍ばせて病院裏口にある職員通用口から外へ出た。一刻も早く、この病院という場から逃れたかった。当然に同僚たちと顔を合わせることもできない……
 松川由美が起こしてしまった今日の重大なミスを院内ではもう知らないものはいない。
 いますぐにでも、この病院から逃げだしたかった。水田から叱責されることなど由美には何のことはなかった。自分の勝手な思い込みが悔やまれてならないのだ。思い違いから取り返しのつかない間違いを犯してしまった自分への、いいようのない怒りと恥ずかしさにさいなまれる。
 自分のミスによって患者の尊い命を奪ってしまった……残された家族のことを思うと、意識が遠のくような感覚を覚える由美。病院裏手にある看護師寮へ歩きながら由美は何度も、何度も自分の頭を拳でなぐる。ぐっと噛みしめた口からは押しころした呻きのような声がもれる……次々と溢れる涙が顔をぬらしていた。目前の寮の灯りが涙でかすむ。いつもならつまづくことなどないマンホールの角に足をとられ転んでしまった。白衣が土に汚れ、肘と膝には血が滲んでいた。
 涙を手でぬぐいながら、由美は走りだす。声をあげて泣きながら……
 自室に入るまで幸いに誰とも会うことがなかった。そっとドアを閉めロックすると部屋の灯りをつける。蛍光灯に照らされた室内はきれいに整理されていた。机の上に置かれた小さな写真入れには自宅の庭と思われるツツジの花を前に、笑顔で腰をかがめる両親らしい写真がある。
 由美はしばらくその写真を見つめていたが、イスに座ると引き出しから便箋と封筒をだす。とても美しい字とはいえなかったが、すらすらと書き始めた。

   


 お父さん、お母さん、武司兄ちゃんへ
 お父さん、お母さん、武司兄ちゃん、長い間ほんとうにお世話になりました。看護師を目指して今日まで私なりにがんばってきました。でも、今日でその道は閉ざされてしまいました。
 今日、わたしのとんでもないミスで患者さんの胃に機械で穴をあけてしまいました。
 その患者さんがその後どうなったかわかりません。すぐ救急車で運ばれていきましたが、たぶん助かることはなかったと思います。看護師の私が患者さんの命を奪ってしまったのです。
 とても許されることではありません。さいばんにかけられ、けいむ所に行くことになると思います。今、私にできることは、自分の命をたつことで病院の人たちや患者さん、また家族の人たちにおわびすることだけです。
 お父さん、お母さん、武司兄ちゃん、さきだつことおゆるしください。
 今までかわいがっていただいたご恩はわすれません。
 私は幸せでした。ありがとうございました。さようなら   由美

   


   平成八年九月九日

   


 その手紙を白い封筒に入れると、表にお父さん、お母さん、武司兄ちゃん と書き残す。
 それから、しばらくベッドの上のパンダの縫いぐるみを見ていたが、また便箋にボールペンを走らせる。

   


 外賀総合病院 内科医長 堀口亘先生
        看護師長 水田能婦子先生

   


 何のお役にもたてなかった私でしたが、長い間、ごしどうをいただいたご恩はけっして忘れません。こんな私が今日のようなミスで患者さんの命をうばってしまったこと、見習い看護師といったってゆるされることではありません。私が自分の命をたつことで病院のかたがた、患者さん、そしてご家族におわびします。これは卑怯なことだと思います。でも私にはそうすることしかできないのです。そしてただひとつ、お願いがあります。私たち見習い看護師に注射や点滴、胃カメラなどのそうさをさせないでください。少しの経験があるといっても、一人でするときのこわさは私たちだけにしかわからないことだと思います。
 私たちは見習い中なのです。お願いします。
 長い間、ごしどうをいただいて、ほんとうにありがとうございました。  松川由美

   


   平成八年九月九日

   


   


 朝も明けやらぬ未明、松川由美は看護師寮をあとにする。そんな時間でも早出勤務の人たちであろう、寮のいくつもの窓にはもう灯りがついている。そんな看護師寮を振り返って立ち止まると由美はじっと見つめていた。瞼の奥にこれまでの思い出を焼きつけるかのように。
 そして寮に背を向けると歩き始める。小さなハンドバックだけをもつ由美……いったい何処へ行くのだろうか。
 空にはまだ星が瞬いていたが、東の空は微かに明るくなっている。駅へと向かう由美の足どりは死出の旅立ちとは思えないほどしっかりしていた。
 由美が自室を出てから5分ほど後、部屋の電話が鳴っていた。堀口から患者の姿恵美さんが一命を取り止めたという連絡を受けた水田が、由美を安心させようとして入れた電話だ。
 そしてそれは、極秘裡に終わったということも併せて。しかし由美はもう部屋にいなかった。
 医師も看護師も、手の空いている人間は総出で近辺や思い当たるような所も捜したが徒労に終わる。松川由美の消息は、その日の夜遅くまで外賀総合病院の誰にもわからなかった。

   


(つづく)