長編小説 霧のなかの巨塔  第37回

   第三章 美しき旭日

   


  ■ み な み 風 ①


 「恵美さんの退院は今月三十一日だったな、和江……」廊下から降り始めた雨を見ながら源吾が和江を振り返っていう。
 「そういってたわよ、このまえの電話で。三十一日午後の便で大分空港を発つって。だから夕方までには家に着けるでしょうね。順調に退院の許可が出たら……」
 「そうか、あと四日だな、恵美さんが帰ってくるまで……」
 「おじいちゃんは、いつも恵美さん、恵美さんて、ほんとに可愛いみたいね、娘みたいに。うちには女の子が生まれなかったもの……男の子二人だけで……」和江が少し申し訳なさそうな顔をして言った。
 「いや、和江、うちに娘がいるとかいないとかいうことじゃないんだよ。恵美さんの気立てが好きなんだよ。ま、たまにしか会うことがないから、余計にいい面ばかりしか見えないためかも知れないが、あの子の気立ては……」
 ホァン、ホァン……テレビ台の横にある電話台の子機が鳴り始めたため源吾は話を止める。
 「今ごろ、誰かしらね……」和江はそういいながら立ち上がると受話器をとる。
 「お待たせしました、姿でございます……あら、恵美ちゃん!」和江の声が急に弾んだ高い声に変わった。
 「いまも、今もおじいちゃんと話をしていたのよ、退院まであと、四日だなあといって。おじいちゃん、いま来てるの。恵美ちゃんを羽田まで迎えに行くといってね」
 源吾が二階への会談下へ行って大きな声で孫たちを呼んでいる。
 「博樹、正樹、お母さんから電話だぞー!」
 祖父の声に応える大きな声が手前の部屋から聞こえた、正樹の部屋からだ。
 「お母さんから?」
 「あーそうだ、早く下りておいで」
 「おーい、兄ちゃん、お母さんからだぞー!」
 正樹が兄を呼ぶ声が終わらないうちに、博樹の部屋のドアが、めずらしく乱暴に開けられ無言のまま博樹が飛び出してくると、正樹の前を駆け抜ける。正樹も負けじとばかり階段を転がるようにして下りて行った。
 「ええ、そうなの。五日も前から恵美ちゃんを羽田で出迎えるんだっていってもう来てるよ……ええ、ほんとに待ちきれないみたい……それで、どうなの? 予定どおりに帰って来れそう……?」和江と恵美の話しを博樹と正樹、そして源吾も和江をかこむようにして聞いている。正樹が急に立ち上がると、祖母がもつ受話器に耳を近づけて聞く。もう、じっと待っておれないらしい。
 「……えっ、ほんと? どれもみんな消えているんだって? 治ってしまったってこと?」和江の声は感情の高ぶりから震えていた。受話器に耳を近づけて聞いていた正樹は祖母のそばを離れると、嬉しさでドジョウ掬いを踊り始めると、博樹も弟につられるようにして一緒に踊りだした。子ども二人の喜びはどうしたらいいのか分からないほど。踊りだすしかないようだ。そんな孫たちの様子を源吾も笑いながらみているが、心境は自分も一緒に踊りだしたい気持ちだったが、和江のてまえ、そんな子どもっぽいことは出来るわけがない。
 「全部が消滅してるって……? ええ……ええ……ほんとによかったわねえ、いま、ここに博ちゃんも、正ちゃんもいて喜んで二人とも踊っててるわよ、代わるね……」
 祖母の話に踊っていた正樹が走り寄ってくる。
 「おばあちゃん、オレに代わって……」といって受話器を受け取った。踊りのペースが速すぎたのか息が弾んでいる。
 「お母さんよかったね。完全に治って……うん……うん……すごいな、未だ強さが変わってないの? すごいよ、おかあさんのパワーは。前も皆に自慢したんだよ、超能力者だもんね、お母さんは……うん……わかった。三十一日に帰れるんだね、お母さん……」博樹に背中をつつかれて正樹は指で○印をつくり了解を伝える。
 「……うん、じゃその時間に羽田までいくね、おじいちゃんと、兄ちゃんと、じゃ兄ちゃんと代わるよ」
 「お母さん、すごいね、断食治療というのは。今の医学では治せないといっていたのに、この療法なら何の苦しみも痛みもないうちに自然に治ってしまうんだものね……ほんとだね、そのオーラの強さというのも超人的だよ、お母さんは……うん、羽田まで行くからね。じゃ、おじいちゃんと代わるよ……」
 それから二十分ほど経ってから恵美と東京で待つ家族たちとの電話が終わる。このひと月のあいだ、安心感はあったもののやはり、一抹の不安感というものは消し去ることが出来なかったが、それが一度に吹き飛んだ。
 家族の喜びはいい表すことができないほど。一時は出血多量による極度の貧血から意識不明の重体に陥っていた恵美が、驚異としかいえないような生命力の発動によって、倒れるまえよりも元気になってこの家へ帰ってきてくれるのだ。
 あの外賀総合病院の病室で処置室へ運ばれていて、恵美がいないベッドの上をぼんやりと、また無言で見つめていたときの気持ちを思い起こすとき、今の喜びは、それこそ天国と地獄との違いそのものだった。


 東京で留守を守る家族たちに喜びの電話をした翌日から、恵美は退院前の最終検査に追われる。各部位のX線検査を始め、MCHC、MCV、クリアランス、GOTにピリルビン、FBS、US等々、検査室まわりで大変な忙しさになる。CTとMRI検査は淺川と水上の考えから内科検査には入院時以外には使用しないことになっている。脳外科の救急患者とX線やエコー検査では診断不可能な場合以外にはその被爆放射能の危険性から使用を禁止されている日本国内でもまずない病院である。
 三日間にわたる精密検査でも、恵美の体には何処にも異常はなく、また癌巣についても何処にもその痕跡すら見当たらなかった。
 主治医の水上はこれだけ早く、あれほど大きな癌腫が幾つもあったのに、ことごとく完全消滅したのは、胃の全部摘出を受けたあと、ほぼ断食状態が続いていたことに加え、これから幸せが待っているのに、いま癌などで死ぬことが出来るかという生きるための強い意志と希望によって、驚異としかいえない異次元のエネルギー、いわゆる驚異的な強さのオーラの放射が始まりあの幾つもの癌腫を駆逐したのだろうと説明する。
 「あなたの、その眩しいばかりの素晴らしいオーラを、これからも絶やさないように、ご家庭に戻られてからも頑張って下さい」というコメントも添えてくれた。
 退院の前日に行なわれた尿中ケトン体とタンパク検査の結果は退院当日の午前中には知らされる。まったく異常がないことは経過のなかで分かっていたが、検査メニューにはいっているから除外することはできない。それにパスすれば、いよいよ十四時十五分、大分空港を出発するJIA便で家族が待つ東京へ帰れる……一ヶ月ぶりに、そしてこの上ない喜びのなかで。

 恵美たちが退院する朝がやってきた。別府の空は恵美たちの退院を祝福するかのように快晴である。気象情報では紀伊半島のはるか南方海上には超大型台風18号が四国から九州方面へ向かって北上中だときょう、部屋担当の職員、下村がいっていたが恵美たちが搭乗する時間はまだ影響はないだろうといっていた。
 今の状況は台風接近中などということは想像もできない好天である。
 ここ、鉄輪温泉の東洋医学療養センターでは、午前の全員作業である庭園清掃が始まっていた。秋とはいえここ温暖な別府では、まだ十月下旬では落ち葉などほとんどない。清掃するというより庭内を散策していると同じようなこと。十人余りは池の周囲を、七、八人は新館近くのイチョウの木近くといった具合に、庭内のあちこちに分散している。逸平はいつものように池の周囲で雑草を抜いたり談笑したりしているが恵美の顔は見当たらない。退院時診察を受けている。
 草とりをしていた何人かが笑い声をあげた。話をしているのは逸平だ。
 「……ほんとですよ、こういってはまた、ゴチソウサマといって笑われそうですが、わたしにとって妻は、かけがえのない大事な存在なんです。もちろん、家内がいるところでは、こんなこと言えることじゃありませんよ、照れくさいことです。いないから平気で言えることですが……」
 また笑い声が上がる。誰の顔にも病気治療のために入院しているというような暗さや陰りなどはまったく見られなかった。みなが自分の病気は全快、あるいは軽快して帰れるものと確信しているのに違いない。
 「姿さん、奥さんのために健康なあなたも入院されたということ、その奥さんへの思いやりは我々には真似が出来ない、素晴らしいことだとおもいます。だけど、こういっては姿さんを責めるような言い方になってしまうんだけど、奥さんを癌にした原因の50%は夫の側にあると淺川病院長が講義でいっていたでしょう? 奥さんの場合は末期も末期、一時は意識不明の重体にまで陥っていたとあなたは話しておられたけど、そこに至るまで奥さんの異常に気がつかなかったということは、はっきりいって姿さんに大変な落ち度があったということですよ、倒れるときまで分からなかったのでは……これは結果論になりますけどね」
 そう言ったのは五十歳くらいの見事に髪の毛が抜けてしまった入道ような男性が、真剣な顔つきでいった。癌患者特有の淡い黄褐色の顔色がまだ消えそうにない。やや吊り上がったような目が印象的だ。
 「五十嵐さん、ほんとに、おっしゃる通りなんです。まったく気付かなかった訳じゃないんです。言い訳がましいんですが、ここ十年近くの間、いま中学の次男の行動で家内が毎日のように苦労していたものですから、その精神的な負担が原因で体調を崩したものと思い、病院で診察を受けるようにと時々いったのですが、どうも行った様子がなく、気にはなっていたんです。その次男も二ヶ月ほど前から急に母親想いの子に変わりましてね、これで長年続いた悩みも解消して十年ぶりで楽しく明るい家庭が戻ったと家内も喜んでいた矢先に、倒れてしまったのです。まさか末期の癌に侵されていたとは夢にも……」
 「ま、何はともあれ、ほんとうによかったね。すべての癌腫が完全に消えたんだものな奥さんは……奥さんの元気さと顔色のよさもだけど、明るさがいいよね。誰がみたって、入院している癌患者なんて見えないよ。パワーが全身に充ち溢れているようだよ、素晴らしい人だよ」
 直腸癌で入院している望月が太い声でいう。六十二歳だというわりにかなり老けてみえる。そして痩せているのに声だけは意外に太く低い声だ。
 「ほんとだね、実に元気で明るくて、そして美人ときてる。姿さん、ほんとに、あなたは幸せものだよ。あんなに素晴らしい奥さんがいるんだもの。これからは、もっともっと大事にしてあげないとバチがあたるよ、あんた……」
 胸に留めたネームカードには大河原 肇と記されている。それほどの歳ではないようだが、髪は銀髪に近い男がいった。
 「ありがとう、大河原さん。もちろん、これからは……」
 背後から名前を呼ばれて逸平は言葉を切る。声をかけたのは坂井田だった。みんなのようなトレーナーではなく、ダークブルーのタブルのスーツ姿だった。
 「やあ皆さん、私はこれで退院します。長いこと皆さんに大変、お世話になりましたね、有り難うございました」深く頭を下げて礼をいう坂井田。
 「おめでとうございます。よかったですね、予定どおりに退院することができて」逸平は笑顔でいう。親しくしていた坂井田も予定どおりに退院できたことが我がことのように嬉しかった。
 「いや、残念ながら完全じゃないんですよ。一ヵ月後に再入院です。まだ脾臓の炎症は残っていますし、肝機能がまだ正常ではないそうです。まだ、あとワンサイクルの断食治療が必要なんですよ。ですが、私の感覚としては、ここに入院したときと比べますと随分よくなったように思えるんですが……検査の結果を知らされなければ、ほんとうに治っていると思っていました」坂井田は皆の顔を見回しながら話す。そういわれると気のせいか、まだ少し顔に黄色味が残っているように思えた。
 「そうですか、大変ですね。もう一度の入院とは……」望月が残念そうにいう。
 「ええ、少々ね。足が立たなくなったあの病院のときと比べたら、比較できないほど回復はしたんですから、経過としては順調といえるかも知れませんが、悪くなり過ぎていたんですからね。あと一度、入院するだけで殆ど治癒といえるほど回復した状態になるそうですから、実に有り難いことです。あのまま前の病院にいたら私は天国か地獄かの何れかに送付されていたでしょう」坂井田の話に皆は大きな声で笑う。
 「じゃ、皆さん、タクシーが待っているもんですから、私はこれで……どうも、有り難うございました、皆さん、頑張って下さい」坂井田が急ぎ足で立ち去っていった。


 朝のうちは眩しいほどの太陽が照りつけていた別府市だったが、正午近くになった今は黒い雲が空全体に拡がって青い空は時折り雲の切れ間からのぞくだけになる。
 天気の崩れは急速だった。風もでてきた。日本の遥か南の海上にあるという超大型台風18号の影響がもうでてきたらしい。黒い雲が風に飛ばされていく。
 ここ大分西港も、ときどき強い南風が吹き抜けていた。さきほどセンターを出るとき受付の女性から聞いたところでは最大風速が七十メートル以上の猛烈台風が九州地方をねらって進んでいるが、今日いちにちは各航空の便は平常どおりの運航を予定しているという。
 恵美たちの予定では当初、大分空港までは来たときと同様に、タクシーで向かうつもりだったが、センターの職員から大分空港へは大分西港から出港するホバークラフトに乗ったほうがいちばん快適だし速いと教えられ、タクシーは大分西港で下りる。この港から空港埠頭までの所要時間は25分だという。タクシー所要時間の三分の一だ。西港の埠頭にはベージュ色の船体に赤のストライブが二本入った大きな船が、海上ではなく陸上に停泊していた。曇り空の下でも二本の赤いストライブは鮮やかに映えている。
 「わあー、大きな船! ホバークラフトってもっと小さな船かとおもっていたけど、随分大きな船なのね、初めてみるわ」船を見た恵美が子どものようにはしゃいだ声でいう。乗船センターの2階にある可動式の乗船通路から乗る。つよい風のために僅かに通路が揺れていた。
 船内は広く七、八十人は乗れそうだが、いま二十人ほどしか乗っていない。座席は全席が指定になっていた。ガラガラといった感じである。窓側に位置する座席を買った二人は指定された席に座る。周囲には誰もいない。足元にはフットレストがあって列車のグリーン車のようだ。座席のクッションも申し分がない。
 二人は指示されているシートベルトを着装した。船内の数箇所には操舵室から前方の様子を投影するビデオの大きな受像機が置かれている。
 「ねぇ、あなた、この船で東京まで行きたいくらい。ほんとに豪華だもの……」
 恵美が逸平の横顔に話しかける。うきうきとしたその頬は子どものように上気して紅潮していた。
 「うん、ホントに豪華だね。だけど恵美、いくら高速のホバークラフトだっていっても東京に到着するのは、早くても二日後だぞ、もしかしたらそれ以上だよ。途中で何回も港によって給油を受けなければならないからな、大変だよ……」
 逸平は窓側にすわる恵美の手に自分の手を重ねながらいう。熱い手だった。熱でもあるかのように。今も激しいオーラが放射されているのだろう。
 船は定刻どおりの十三時ちょうどに出港する。港外に出るまでは微速で航行していたが、高い防波堤を越えると軽い衝撃とともに加速され、背がシートに押し付けられる。飛行機が離陸滑走をするときとまったく同じ感覚だった。猛烈に加速されているわりに船内での振動やエンジン音はまったく感じられない。ジェット機のキャビンよりも静かなくらいである。窓外の海面は矢のように後方へ飛びすさる。飛沫がひどく風の力も加わって視界はまったくきかない。
 「ものすごい飛沫だわ! まるでシャワールームのなかを突き進んでいるみたいだわ、何も見えない……」恵美は顔を窓につけて外を見ながら不満げだ。
 「風向きのせいたよ、この飛沫は。ふつうはこんなシブキが上がるはずはない、ほら、恵美、向こう側の窓を見てごらん、だいぶ、こっち側より景色がみえているだろ? あちら側の席に変わろうよ、席もたくさん空いていることだし……」
 二人はシートベルトを外すと反対側の窓のほうへ移る。
 「さあ、恵美、またシートベルトをしておかなくちゃな……」
 「はい、わかった。まるで飛行機に乗っているみたいね。こちら側はよく見えるわ……あ、小さな島に灯台があるわよ、ほら、あそこ……」子どもが乗り物に乗って喜ぶようにはしゃぐ恵美を逸平は、このうえない幸せのなかで見つめていた。
  ……よかった、ほんとによかった 恵美がこんなに元気になってくれて
    あのとき蝋人形のように透きとおった蒼い顔で、
    救急車のストレッチャーに横たわっていた恵美とは別人になっている
    いまも強烈なエネルギーとされる異次元の現象であるオーラを
    強烈に放射しているに違いない 水上医長がいっていたような
    輝かしい光の束が空中に向かって放射されているのだ!
    オレにも見ることができれば、どんなに素晴らしいことだろう
    優しい天女ともいえる恵美に どうしてそんな強烈なエネルギーが
    生じたのだろう 正樹がいい子になったからか?
    それとも、十年ぶりに明るい家庭が戻った喜びのためだろうか?
    ただ それだけのことか?
    ひょっとすると千鶴の若いエネルギーが恵美の体に宿ったのか?
    恵美が急速に元気を回復してきたのは、ちょうど千鶴が亡くなった
    あたりと合致する! しかしまさか、そんなことは……

 「あなた見て、ほら、あそこに飛行機がゆっくりと降りていくわ。ほらほら見て……」
 恵美の大きな声で逸平は我にかえる。
 「うん、飛行機? どこに……」逸平は窓に顔をつけ、恵美が指を差す方を見る。かなり大きな飛行機が海面から数百メートルのところを下降していた。
 「ほんとだ、一、二分で着陸というところだろうな。飛行機が着陸する様子を空港以外のところで見るのは初めてだよ。遠くから見ても、飛行機っていうものは、けっこう大きいもんだなあ……」
 「ほんとね。ねえ、あそこが大分空港みたいね。別府からはかなり離れてるけど……」
 「そうだな、でも、恵美。ここはまだ近いほうだよ」
 「えーっ、これでも?」恵美は大きな声を出した。ほんとうに驚いたらしい。
 「都心部から大抵の空港は離れているんだよ。成田、千歳、また関西国際空港も、中部国際空港あたりも特急列車で一時間近くかかるし、仙台空港、山形空港なども直行バスでそのくらいかかってしまう。その点、いちばん都心から近いのが福岡空港。市の中心部にあるから地下鉄で直ぐなんだ」逸平は恵美と窓外を交互に見ながら説明する。
 「そういえば、成田空港は遠かったわね。バスだったけど……」
 船が埠頭に近づき急減速をしたため、恵美たちは前のめりになる。
 「もう大分空港についたわ。二十五分なんて、直ぐ経っちゃうわね」恵美がつまらなそうにいう。逸平との旅をもっと楽しみたい恵美。驚異的な体力をもつことになった恵美は二人だけの旅は何十年ぶりという喜びなのだ。もっともっと旅が続いてほしい……


 土曜日だというのに、大分空港の国内線発券ロビーは閑散としていた。十数人が発券カウンター付近にいるだけの、余りにも寂しい雰囲気だ。東京方面という逆方向のせいなのか? 逸平はどうもおかしいと思わざるをえない。こんなにガラガラとは!
 「あなた、人がいないわね。欠航なんていうことはないでしょう?」
 「まさか……でも、ほんとうに人がいないよ。どうなってるんだろう」
 逸平は、また周囲を見回しながらいう。
 「十四時十五分発となっているから、もう四十五分しかないんだぞ。もうだいぶ搭乗客が来ているはずなんだが……」そういうと逸平は出発案内の表示盤を見にいく。
 「恵美! 十四時十五分発の東京行きなんて表示はでてないぞ、どういうことだ?」
 表示盤を見ながら、後ろにいる恵美に慌てた大きな声でいう。
 「でも、センターの人がその時刻を教えてくれたんでしょう?」
 恵美は落ち着いた声で答えた。
 「うん、そうなんだが、この表示盤には欠航という表示もないし、だいたいその時間の出発機がないんだよ……ちょっと訊いてくるよ」そういうと周囲を見回す。発券カウンターの脇に綜合案内という表示があるカウンターが目につきそこへ急ぐ。
 急ぎ足で近づいてくる逸平に気づいた若い男性係員が笑顔で立ち上がる。
 「どうかなさいましたか?」
 「すみません、十四時十五分発の東京行きというのが出発案内にないんですが、どうなっているんですか?」
 「はい、お客さま、その便は国際線の臨時便、JIR日本国際航空の240便なんです。本日の就航はホノルル発の台北、大分経由の東京行きとなっておりましてね、国際線ということで、ご搭乗はこのビルの左側、歩かれて十分ほどの国際線ターミナルでご搭乗の受付を致しております。恐縮です。そちらのほうへ。機の到着が遅れましたため、出発は四十五分ほど遅れて十五時ちょうどの出発予定になっております。時間は十分にありますから、ごゆっくりと移動していただければ……」
 「そうだったんですか、国産線の臨時便だったんですか、この便は。びっくりしました。間違っていたかと思って……」
 「恐れ入ります、よろしくお願いします」係員は丁重に頭をさげた。
 「ありがとう、どうも」逸平も係員につられて頭を下げる。
 「恵美、どうりでお客がいない筈だよ。発券カウンターも搭乗口も別の、国際線ビルなんだって。ああ、びっくりしたよ、ほんとに」
 「センターの人、国際線の不定期便ということ何もいってくれないんだものね。わたしたちは旅馴れていると思ったのかもね」
 「どうだろうな、たいてい、言い忘れたのだと思うよ」
 逸平は大きなトラベラーケースを手で押して、ゆっくりと歩きながら笑顔で話す。
 その顔には先ほどのような狼狽した表情は消えて、いつもの逸平に戻っていた。

 大分空港の国際線ターミナルビルは三階建てになっている。屋上は送迎デッキになっているのか、数十人が細かな金属製らしいネットの内側でたむろしていた。
 空は先ほどよりさらに雲の量が増えて青空はどこにものぞいていない。雲の流れも速く、はるか遠方の洋上にあるというのに、猛烈台風らしく早くも接近を知らせているのだが、まだ雨は降り出していない。
 「ねえ、あなた、急に風が強くなってきたみたい。飛行機ちゃんと飛ぶわよね……」
 恵美は歩きながら不安げに空を見上げていった。
 「なあに、大丈夫だよ、このくらいの風は。まえ、成田空港からロスァンゼルスへ発ったとき、暴風雨のように荒れたときでも平気で離陸したんだから、竜巻の発生でもないかぎり、このくらいの風なんかはそよ風みたいなもんだよ、恵美」
 「それならいいけど、急にお天気が崩れてきたから……」
 「大丈夫だよ、心配しなさんなって……やっと、着いたぞ国際線ターミナルに……」
 ターミナルは人々で溢れている。二百人ほどはいるだろうか、いや、もっと沢山だろう。騒々しさがロビー内に満ちていた。やはり有名な温泉地ということがあり、外国人が圧倒的に多い。さすが国際線ターミナルである。
 「うひゃー、大変な数の搭乗客だな、恵美」
 「ほんとね、びっくりしちゃった。逆方向だからガラガラだと思ったのに……」恵美は大きな声でいったのだが、騒々しさで逸平にはまったく聞こえていない。
 「恵美、搭乗券を買ってくるからここで、待ってて。動かないで」トラベラーケースをそこに置くと、急ぎ足で歩いていく。日本国際航空、JIRの発券カウンターはすぐ分かった。カウンター後ろの壁に『JIR240 14:15 東 京 空席 遅れ45分 出発予定15:00』 という表示がされていた。
 「エコノミーで東京まで二枚お願いします。できれば窓側で……搭乗申込票、いま書きます」


 国際線ターミナル3番スポットには日本国際航空、JIR240便、ホノルル発の東京行き臨時便747ジャンボ機が、四つのエンジンをアイドリングさせて駐機していた。通常なら離陸15分まえの始動になっているのだが……
 そのコクピットでは副操縦士の大塚智成がメインディスプレイの表示を見ながら、しきりに頭を傾げている。微調整でもしているのか、オーバーヘッドコンソールのダイアルをいくつか慎重に回しているようだ。
 「機長、やはり、どうしても第4エンジンの加熱表示が収まりませんね。微調整をしても石垣上空からの状態と変わりません……」
 大塚の左側にある機長席の増田譲二は気象地図を見ていた。
 「うん? まだヒート気味なのか。原因はサーモスタット・スプリングかもわからんな。こいつのエンジンは改良前の旧型式で悪評がたかいんだ、まあ、今まで何十年も飛んできたんだから余り気にするな大塚君。加熱警報が出たら、そのとき対策を考えよう」増田は落ち着いた冷静な口調で副操縦士の大塚に指示する。目は気象地図に置いたままだ。
 機長の増田はジャンボ機の機長になってから一万八千時間という滞空時間をもつ超ベテランの機長である。四十八歳で身長は百九十八センチ、体重は八十三キロという堂々たる体格で、体は若者のように引き締まり、日焼けをしたその顔には精悍さと冷静さが容易にうかがえる。ホノルルから台北を経由し、ここ別府で四時間の給油、整備と待機時間がある。搭乗客の多くが、この時間を使って別府温泉の観光をしたり入浴したりする。このあと十二月から四月までは成田・ホノルル間の直行便になる。
 途中の経由地が多い機を操縦するときには当然、精神的疲労が大きくなるし、もし不慣れな副操縦士と乗務するときには、一層に気疲れが増えることになる。
 通常ならば経由地が多くても、副操縦士に離着陸操作をさせることが多いので、機長の疲労感はかなり軽減されるのだが、きょうの乗務ではそうはいかなかった。
 きょうの相棒となった大塚は一ランク下の767型機の機長ライセンスはあるが、747型ジャンボ機の副操縦士になってからはまだ、千時間にも至っておらず、まったくの初心者パイロットである。そのためにこの機の操縦は離着陸を含めて、すべて増田が担当していた。僅かながら疲労感がある。

 「でも、機長、サーモスプリングの状態は点検しましたが異常は指示していません。考えられることはサーモセンサーの異常しかないように思えるんですが……」
 「圧縮比には異常ないのか?」
 「はい、デイスプレイ上の表示数値には異常が見られません」大塚の声は緊張のために、普通でも高く細い声が一層に高い声で答える。
 「スプリングにも圧縮比にも異常がないとすると、リレーの異常以外には考えられんな……ここ大分にはJIAの整備士はいないし、交換部品もない……」増田は両目を手でこすりながらいう。かなりの疲労が蓄積しているようだ。
 「どうします? 欠航にしましょうか?」
 「いや、そんな必要はない。この機のエンジンは最も旧式のJT9型だ。こいつの最悪のクセがサーモ系の過熱表示なんだよ。他の機でもこれと同型のエンジンを積んだものに共通して出てくる症状だ。大丈夫だ、大塚君。たとえ、万が一エンジン出火があったとしても、消火装置で一発で消える。のこったエンジン三つで千歳まででも完璧に飛べるよ、その後の温度上昇はないんだな」
 「はい、変動はありません」
 「よし、注意するのも大切だが、あまり神経質になるな。どの機ににもいろいろなクセがあるんだ。こればかりに注意を払っていると、ほかへの注意力の弊害にもなりかねんからな。よし、離陸前マヌアルのチェックを始めよう、読み上げてくれ」
 「はい、わかりました」大塚はセンターコンソールのキャビネットから、黒表紙のファイルを取り出すと青いゲージで挟まれたページを出して読み上げ始める。相変わらず緊張した声に変わりはない。増田はそんな大塚を見ながら苦笑した。

 ・・・大塚君よ、もっと力を抜くことが出来んのか。そんなに緊張を続けていてはお前の体がもたんぞ。そんなにいつもコチコチだから、君とクルーを組む連中が皆んなイヤがっているんだ。相棒までが疲れてしまうじゃないか、なんとかならんか・・・
 「INSスイッチセット……」 「セットオン、OK」 機長が答える。
 「ブローブヒート・オン」  「オン・OK」
 「ヒューエルヒーター・オン」  「オン・OK」
 「コントロールサーフェス」  「OK」
 「フラップメカニズム」  「OK」
 「トランスポンダー・オン」 「オン・OK」
 「アナンシェーターライト・オン」  「オン・OK」
 機長と副操縦士による離陸前チェックはまだまだ続いている。数年前まではジャンボ機のような大型機には機長、副操縦士のほかに、機関士と航空士の二人が加わって四人が一クルーとなって操縦室で乗務していた。しかし、合理化策の結果、コクピットからは各種計器の殆どが消え、簡単な操作で各種のデータがデイスプレイ上に表示されるようになり、操縦操作も必要なときには離陸、着陸まで切替スイッチによってコンピュータ制御で完璧におこなうことができるまでに、航空機器の技術は発達した。実際は今の航空機乗務員は万が一のときの対処要員としての存在であると言っても過言ではないかもしれない。
 もちろん、離着陸時の誘導路走行はパイロットの力によるしかないが……
 最終的には人間がもっとも優秀な思考力と反射的操作が可能であり、如何なる機器にも真似ができないことも事実である。電子制御が進んだ航空機でも人間による操作が欠かせないわけである。そういうことから、今は大型機でも深夜の運行は交代要員が二人加わり交互に4時間の仮眠を操縦室後部の仮眠室でとることになっている。
 もちろん、設定した目的地までのコースに乗ってからはオートパイロットによって自動飛行をするため、機長も副操縦士も前方監視レイダーと警報音に注意を払うだけでいいことになる。小さな航空機より大型の航空機のほうが操作が容易ともいえる。
 しかし、二人乗務による操縦に完全に慣れている超ベテラン機長の増田でも、相棒の信頼度が大きな精神的疲労になることは否めない。
 この240便はホノルルから台北までは途中で交代する機長と副操縦士が乗務するが台北からは昼行便となって国内線と同じ二人体制になる。二人乗務でも副操縦士にベテランの相棒が当たると、なんの心配もいらないのだが、大塚のような初心者に当たると大きな精神的疲労が加わる。また、きょうのようにエンジンの不調を知らせる、いつもの悪いクセが出てくると、間違い数値だろうと思いながらも、やはり気になるものである。気を緩めることは決してできない。
 いつ実際のエンジン過熱が起きて大事に至らないという保証はまったくないのだ。
 JIR240便の機体はそんな性ワルな航空機だった。


 搭乗手続きを終え,手荷物を預けた逸平は軽やかに歩いてくる。恵美の周囲にも人が立っていて、真っ直ぐに恵美のところへ行くことができない。人たちの間を縫うように歩いて恵美の前までやってきた。
 「お待たせ。恵美、二階の搭乗ロビーへ行こうよ。ここは人がいっぱいで座る場所もないよ、騒がしいし……」逸平はうんざりしたような声でいうと、二階へのエスカレーターを指さしていう。
 「すごい数の人ね、団体の人が多いのかしら。外人さんが多いわね」
 「うん、外人が多いね。さすが国際的にも有名な別府温泉に近い空港だけのことはあるね。それにしても搭乗客が多すぎる感じだね」ぼやくように言いながら逸平はエスカレーターのほうへ歩く。それもやはり、ひとびとの間を恵美を見失わないように後ろを見ながら歩かねばならない。
 国際線のターミナルだが、国内線搭乗券をもつ二人は税関手続きがないから、係員に指示されて直接、搭乗ロビーにはいる。ここも人で溢れていて唖然とする二人。
 「ウッヒャー! 大変なことだよ、この混雑は。どうなってんの?」外国旅行には馴れている逸平だが、こんな混雑する空港は経験がなかった。東京行きと表示された2番ゲートを中心として黒山のように人々が群がっている。三百人はいるだろう。
 「こんなに沢山の人、下もそうだけどみんなが飛行機に乗れるのかしら……」
 ロビーを埋める人たちを見て心配する恵美。
 「心配することないよ、恵美。この便はジャンボ機なんだ。四百人以上が乗れるんだから、ここの人や下の人がみな乗っても空席があるほどだよ」
 逸平は笑顔で旅行馴れしたところを見せる。
 「えっ? わたしたちが乗る飛行機はジャンボ機なの?」恵美が大きな声でいう。
 「そう、始発がホノルルで台湾と大分経由の東京行きなんだ。十一月いっぱいまでの臨時便なんだってさ」
 「わあー、ハワイから来た飛行機なの? すごい、それなら私たちも人から見るとハワイ帰りの観光客ね」
 「そういうことになるな。恵美がレイをかけてなくても、あの大きな荷物をもって下りると間違いなく外国帰りになるだろうな」逸平が楽しそうに恵美にいった。
 「ねえ、あなた、時間がまだあるからお土産を買って帰りましょうよ。別府のものを何か。博樹や正樹がまっていてくれるし、梨香ももうすぐ研修旅行から帰ってくるから……お義父さん、お義母さんにも、また青森の母にも……」
 「ほんとだ、恵美。人の群れに気を取られて忘れていたよ、ありがとう」
 恵美たちはロビーの奥にある大きな売店へ急ぐ。
 店のなかも搭乗予定機の出発が遅れていることから、多くの人たちがショッピングを楽しんでいた。店内も圧倒的に外人が多い。それから二十分ほど後、二人が店から出てきた。逸平は大きな紙袋を提げている。沢山の土産品を買ったようだ。
 「あなた、おうちに電話しておかないと。出発が四十五分遅れるっていうことを……」
 恵美が思いついたようにいったが、周囲の騒々しさで逸平に聞こえない。
 「うん? なんだって?」逸平の問いかけに恵美は咳払いすると大きな声でいった。
 「おうちに電話しておかないと、出発が45分遅れるということを」
 [あっ、ほんとだ、みんな恵美に教えられるな、ありがとう、電話は何処だ?]
 あたりを見回す逸平だが、すぐわかる。
 「あそこだ、恵美、荷物をもっていてくれ。電話してくる」
 五分ほど後、逸平が笑顔で戻ってきた。
 「うん、おふくろが出た。よかったよ電話をしておいて。いま、博樹と正樹、オヤジが家を出るところだったよ。オヤジ、家にじっとしておれないらしいよ、恵美を出迎えに出たくて……」
 「まあ、おじいちゃんが……」恵美は涙声になる。子どもたちばかりか、義父までが自分の帰りを待っていてくれたことが嬉しくてならなかった。
 「おふくろから直ぐ正樹に代わってさ、お母さんは元気にしてるかって、今も心配してたぞ。ほんとにお母さん想いの子になってくれたな。博樹以上だよ」
 涙で声がつまってしまい言葉が出せない恵美。次々と涙が流れて止まらない。逸平はスーツのポケットからハンカチを出すと、恵美の涙を優しく拭う。
 周囲の人目を気にすることなく、、そんなしぐさが出来るようになった逸平だ。
 「ありがとう、あなた……」泣き笑いになる恵美だった……



(つづく)