① 細胞の精神とシュペーマンの見解
両棲類の初期発生について偉大な業績を残したシュペーマンは非凡な着想をもっていました。
『生物の世界に対する関係は精神にあり』という彼の信念から出発した着想でした。彼はその著、(思い出)に次のような記述をしています。『私の心のなかに私に実に似つかわしい、そしてもうずっと以前から身についた根本的な確信がだんだん強くなってきた。それは全て生物にはその生命のある全ての部分の一つ一つに至るまで精神があるということである。たとえその精神の現れ方が我々自身においてその機能をよく知っている脳という器官におけるのとは異なっていようとも、それだからといって決して劣ることなく現れる精神……私は今日、自分でなした実験的研究によって、私たちの皮膚を形成すべき運命にあると思われたその同じ細胞群が、発生初期に将来脳になるべき領域に誘導されると、間違いなく脳の神経組織になる……このことを知って以来、およそ生命過程の間には、こういった基本的な連関性が、以前よりも確固とした信念として得ることができた』
細胞に精神ありというシュペーマンの確信は、さらに彼の非常に効果のある問題提起にあたり、また彼が実験結果を記述し、解釈する場合に応用した類推策の究極的な基盤となっています。
② エーゲルの細胞知能説
エーゲルは新しい生物学説に関する著書で、目的論的弁証法を唱えています。彼の根本的な仮定は『全ての細胞は知能をもっている』という主張です。胚の発生過程は体の全ての部分を構成している細胞の知的行動が成体を形成するような方向に向かって働いていると説明しています。かれのこの説は推測ですがシュペーマンの細胞観に影響を受けたものかと考えられます。
③ 本項についての考察
細胞に知能があるとか、精神があるとかいうと言葉の意味が心理学上の問題となってくるかもしれません。高等動物の心理過程と同一だとは到底いえないまでも、これと類似した特性が個々の細胞にあることは決して考えられないことではありません。生物学者のなかには、生命現象を探求する場合は、生物学として生物の心理現象を離れて、物理化学的方法によってのみ探求が可能だと考える人が少なくありません。たしかに心理学と生物学とは独立した別個の科学であるから、それぞれ専門の枠から出ないようにするということも肯けることです。しかし研究対象である生物、ことに高等動物の行動は心理現象を伴い、しかも生理現象と心理現象とは密接であり不可分の関係にあります。それなのに心理学と生物学とが別々の立場からそれを研究しているのは、研究の便宜のためといっても、原理的には正しいこととはいえません。分かち得ないものを分けようとすることに無理が生じます。
シュペーマンがいう細胞の精神について、その行動は合終極性をもち、全態と緊密、且つ有機的なつながりをもっていることは否定できません。シュペーマンの説を機械論的にあっさり割り切った考えで生物現象を捉えることは、正しいこととはいえないのではないでしょうか。
① 細胞と生物学
細胞は生物体の構成単位であることは周知の事実です。しかし、生物学研究者のなかには細胞の構造や機能をほとんど考慮することなく、非常に狭い分野の研究に専念する人や、従来の細胞学を鵜呑みにして、その上に自らの研究をむやみに積み重ね、いわゆる定説に当てはめようと努力している人が余りにも多いようです。誤らない生物学は正しい細胞観を基盤としなければならないのに、どうしても前述したような生物学的傾向が多くなっている理由には次の3項目が考えられます。
(ア) 生物学の専門化…研究者は分科に分科を重ねた狭い専門的な分野にたてこもり、自分の研究領域を明確に区分し狭く局限された自分の分野を一歩も出ないことが、立派な研究者の態度であると考えている向きが感じられます。
科学の進歩とともに研究者の範囲や研究方法が拡大し複雑になり、研究の専門化は実際上のこととしてやむを得ないことでしょう。しかしそれが行き過ぎとなり、またそれが正しい方法だとされ、他を顧みることがなくなると、部分にとらわれ全体との繋がりを忘れがちになります。
限られた専門分野のなかで単に事実を記載するには余り問題はないかもしれませんが、生命現象の神秘を探求しようとするならば、生物学の諸分科はもちろん、さらに諸科学との繋がり、及び方法論への再検討が行われない限り、妥当な判断を下すことはできません。
生物学の出発点は細胞です。この細胞に関する正しい概念をもち、生物諸科学を有機的に関連づけ新しい生物学を構成すべき時はもう来ています。
(イ) 既成学説に疑問をもたない…既成学説、いわゆる定説に疑問をもつことなくそれを信頼していることも挙げられます。たとえば細胞は分裂によってのみ増殖するという法則に合わない、当然に疑問をもたなければならない現象が目前にあるのに、研究者たちはそれを回避、或いは事実を無理に定説に当てはめようと努力したり、事実をぼかして記述したりする形跡が残されています。
(ウ) 形式論理が中心の科学方法論…科学的法則の樹立には正しい論理的な方法論による考察が必要です。研究者たちは形式論理に従って物事をはっきりと峻別し、固定化しようとしていますが、それでは実際の生命現象を正しく促えることはできません。
自然現象というものは絶えず変化し、対極の統一、換言すれば2極の不安定状態における安定という弁証法的運動として把握する必要がある場合が少なくありません。細胞の種類に関する多元説や赤血球分化能の否定といったことは、生命現象の動的見解が不足している結果といえるでしょう。
だから生命現象を正しく理解するためには生命現象を時間、空間の枠を通した一つの運動形態として促えなければなりません。
② 細胞生物学の提唱
細胞は形態、官能、物理化学的性質など、どの面から観ても生物体構成の単位であるとされる細胞は細胞学を始め、組織、解剖、分類、形態、生態、生理、生化学、生物理学、病理、心理、発生、遺伝、進化などの諸科学、さらに医学、農学その他の応用生物諸科学等の基礎であり出発点でもあるわけです。しかし、生物に関するこれら諸科学の研究が常に細胞の機能や構造と密接な関連があることを考慮しつつ進められているでしょうか。正しい細胞学が生物科学の全ての分野に徹底され浸透しているでしょうか。冷静に生物学の諸分野を見渡すとき、生物学のどの分野においても全く行き詰まりは生じていないと自信をもって断言できる人は、まずいないでしょう。
もしあるとしたら、それらの人は多分、生物学の細胞というものを従来の定説に従って固定化したまま理解し、真実の現象で定説に合致しない部分は見過ごすか、意識的に見ないようにしている人だといっても過言ではない筈です。このような表現は学者といわれる諸氏からお叱りを受けると思いますが、千島喜久男の長年の研究結果からの根拠によって僭越な言葉を使わせて頂いたわけです。
現代の発生学は受精卵の卵分割、いわゆる発生初期の細胞分裂像が生涯にわたって続くものと仮定し、それが真実の現象だと信じています。しかし、胎生6ケ月以降、さらに出生後は細胞分裂は全くなしに体細胞は増殖していることは一つの常識になっていますが、生後も体細胞が分裂増殖をしていると主張する学者諸氏はいるでしょうか。細胞分裂説に疑問はもっているが、それを追及することを訳あって控えているのかもしれません。これからは生科学のあらゆる分科に正しい細胞概念を浸透させるため、また細胞を基礎とした生命現象の統一的把握のために、新しい細胞生物学の必要性を千島は提唱しています。
③ 細胞分裂説を過大評価している現代科学
新しい細胞生物学の樹立のために最も必要なことは、従来のような細胞分裂に対する過大評価を早急に再検討することといわざるを得ません。それには先ず、定型的な細胞核が凡ての細胞に存在するという考えから脱皮しなければなりません。高等動物の細胞はともかくとして、バクテリア、単細胞藻類、酵母などに定型的な細胞核が存在するか否かについて、現在においても諸説が入り乱れ一致した意見に統一されていません。千島喜久男も観察の結果として大きな疑問が残ると述べています。
高等生物の細胞においても細胞発生の一定段階では核の存在が明確でない場合があります。さらに核分裂が細胞増殖の唯一の方法だという考えには大変な無理が伴っているものと考えられます。
多くの場合、正常状態では細胞分裂像が見られる機会が余りにも稀なため、種々の細胞分裂誘発剤(ナイトロジェンマスタード、カイネチン、その他)や物理的処置(放射線照射)によって、またカラー顕微鏡写真用の非常に強い光源の照射によって分裂像を観察できたと報告するものが多いというのが現況です。上記のような化学物質や放射線、光などが細胞分裂を誘発することは確かです。しかし生命体の自然状態における活動を研究するというのが本来の科学であって、人為的に自然の現象を従来の定説に当てはまるよう操作するのでは研究の意味が失せてしまいます。これからの生物学は、いわゆる細胞分裂に対する固定観念を改め、根本的な再検討を加えなければ、一層の行き詰まりに至ることは必定といえます。
① ウオルフの細胞新生説
17世紀にフックが細胞を発見した当時には、まだ細胞の起源について誰も知る人間はいませんでした。細胞形成に関し最初に考えを述べたのはウオルフ氏体の発見者として有名なウオルフだと云われています。彼は1759年にその著で『凡ての器官は最初、透明、粘着性、無構造の液体であるがその内部に空胞が現れ、それが栄養物質を堆積して成長し、遂に細胞となる』と述べています。
このような現象は千島喜久男の観察、即ち赤芽球から出芽様形態で無核赤血球が形成される過程とよく似ています。彼は細胞を独立実体であるとは考えず、細胞の形成は生活物質に含まれる形成力による受動的な結果だと考えました。ウオルフの細胞説の主要点は、
▼細胞は偶発的に発生する
▼均質的な生活物質中に分化によって各種の部分が体制化される
▼この体制化(有機的組織化)に際して細胞は能動的であるより受動的である
という3点に要約されています。このウオルフの説は1801年にマーベルによっても支持されています。
② スペンガルとキースの細胞新生説
スペンガルは細胞は他の細胞中に含まれている顆粒又は胞状体が液体を吸収して成長し、発生すると主張しました。その後、トレビアナスは1806年にこの説を支持し、カイザーもまたこの説をさらに進め植物の乳液中の微小顆粒は後に細胞の間隙で孵化して新しい細胞になると説いています。
カイザーの説は、もし1個の顆粒が1個の細胞になるのではなく、植物液汁の極小分子が多数集合して細胞形成に役立つ働きをするというような考察ならさらに多くの賛同者ができることでしょう。 というのは、ムラサキツユクサの雄芯の毛の細胞や多くの植物細胞、或いは昆虫の体液から、血球を新生する過程に似た現象をよく見ることができるからです。
シャープはスペンガルが『澱粉粒は後に新しい細胞になる胞状体である』と考えたのは誤りだと云っています。たしかに澱粉粒は細胞構造をもたない一種の貯蔵物質ですが、その形成方法は発芽に際してこれらの澱粉粒が細胞新生の母体となることは否定できません。だからスペンガルの見解は大局的には現代の細胞学より細胞の本質を洞察した考えだといえます。
③ マーベルの細胞新生説
彼はマーチルトに関する研究の結果、細胞形成には次の3つの方法があると提唱しました。
▼他の細胞の表面からの出芽状細胞新生
▼旧い成熟細胞中における新生(これは赤芽球の内部に胞子形成状に赤血球を新生するのと似ている)
▼成熟細胞相互間での新生
このマーベルの説に対し、シャープは出芽状の新生は一致するが、他のものは細胞分裂による増殖過程を見誤ったものだと反論しています。これは今日の生物学者と同じ一般的な見解です。しかし、植物や動物の細胞を観察していると、細胞分裂や核分裂をすることなく母細胞内に新細胞が自然発生的に生ずることを千島は幾度も確認しています。血液中に細菌が自然発生する場合も同じ形をとります。
④ モウルの細胞新生説
彼は1835年に藻類の生長に関する研究の結果、マーベルのいう細胞新生説と一致する結論を得ました。モウルが植物細胞学樹立のため、数多くの貢献をしたことを多くの人々は認め乍らも、彼の細胞新生説は誤りだったとして顧みられない現状です。これは疑いもなくウイルヒョウの細胞観に追随しているための誤謬だといえるでしょう。
メイヤンは細胞分裂は広く見られる現象だといっています。彼は細胞分裂と上述したような細胞新生説とを区別しました。賢明にも注意深い見解をとって細胞新生説というものを完全に否定することをしていません。サウスは『もしモウルの説がはっきり理解されていたなら、その後になってシュライデンのあの奇妙な細胞新生説が唱えられることはなかっただろう』と云いました。
しかし、このサウスの言に対して千島喜久男は『シュライデンたちの細胞新生説が、率直に理解されていたなら今日のような誤った細胞分裂中心の説を防ぐことになり、生物学は余程変わったものになっていただろう』と批判を加えています。
⑤ シュライデンとスクアンの細胞説樹立と細胞新生説
ドイツのこの著明な二人の学者が、1838年に近代細胞学の基礎ともなる業績を発表したことは細胞学だけではなく、一般生物学に新しい風を吹き込む契機になったことは広く認められています。 この説は『凡ての生物体は細胞と細胞の産物から構成されている。細胞は生物の構造及び官能の単位であり体制化の第一義的要素である』と云い、これと関連して細胞新生説を提唱しました。
しかし、細胞の自然発生説を極度に軽視する現在の生物学者や細胞学者はシュライデンたちの説を完全に棄却してしまいました。如何にも残念というほかありません。自然科学者を以て任ずる人々でも、いわゆるその道の権威者と称される人が提唱した説を、追試また批判することなく、権威には追随しようとする弱い一面があるようです。そのため千島喜久男は、この両学者の人柄について少し触れておくことが必要だと考えそれを紹介しています。
シュライデンはハイデルベルヒで法学を、ゲッチンゲンで医学、そしてベルリンで植物学を学び、当時第一級の植物学者となりイエナ大学の植物学教授を23年間務めました。彼は植物学における研究で有名だっただけでなく、猛烈ともいえる研究意欲でも有名でした。植物学を物理学、化学と等しく科学的基礎のうえにおくべきだと考え、また正確な観察と形態学の基礎に立って発生論的に研究することの必要性を強調しました。サウスは彼を評して『闘争することを余りにも好み、相手から傷つけられることをものともせず、ペンを以て武装し何時如何なるときでも敵を打ち破る体勢の準備を整えていた。彼はまた非常に物事を誇張する傾向があり、当時の植物学の状態においてはその時代の要求にピッタリと合った人だった』と述べています。
またスクアンは偉大な生理学者、ミューラーと共にヴルブルグとベルリンで医学を学び、ルーヴァインの大学で9年間大学教授として過ごした後、リーグに移っています。彼の性格はシュライデンとは正反対で極めて温厚でゆったりした人だったと云われています。シュライデンがスクアンと食事中、植物細胞に関する彼らの意見を交換し、スクアンが動物についてこの問題を研究していたので食後一緒にスクアンの研究室へ行き、そこで二人は植物体でも動物体でも細胞は根本的によく似たものだという結論に至ったといいます。
◎シュライデンの細胞遊離形成説
当時ブラウンが細胞核の存在を発見していたので、シュライデンはそれをもとにして、細胞の遊離形成説を提唱しました。それは『一般に細胞内容又は母液はその凝集過程によって小顆粒が形成されてその周囲に多数の顆粒が蓄積して核を生ずる。やがてこの核が十分に大きくなるとその表面に透明な胞体を形成する。この胞体はさらに増大して新たな細胞になる。しかし、新生細胞は細胞の内部に存在する核の表面にできるのだから細胞分裂によるものではない』と主張しています。
彼は細胞説の主要点として『或る一定度に成長した凡ての植物は十分個体化し独立した個々の、それは細胞も含めて一つの集合体である。各細胞は二重生活を営む。即ち独立生活と付随的な生活の部分である。しかし個々の細胞の生活過程は植物生理学や比較生理学の何れにおいても、個々の細胞が絶対不可欠の基礎を形成する必要がある……』といい、シュライデンも同様の見解を述べ、ともに細胞の新生を強調し、核は基本顆粒の凝集によって新生するとしたことは注目に値します。
細胞新生に関する諸説は他にレペシンスカヤと千島学説の細胞新生説に対する様々な論争がありますがそれは別の機会にご紹介します。