強烈な悪臭をはなつ汗が出た日を境として、志津江の体は急速に回復していった。
食欲が出て、重湯だけの食事に不満をいう志津江だったが、早く治りたい一心から我慢を続ける。
8月15日の未明、中毒性激性肝炎で救急入院したとき、担当の医師は「生命の保証はできない。たとえ一命をとりとめたとしても、最低6ケ月は入院加療が必要だろう」といっていた。
“最低でも6ケ月の入院”といったのである。それがどうだろう。わずか3週間足らずで危篤状態から意識を戻し、食欲は増進して、起きたいという気持ちをもつまでに回復したのである。
……もし、あのまま志津江を病院においていたら、いま志漢江はこの世にいないかもしれない。たとえ、命を取り止めることがあったとしても、薬剤の副作用で起きることもできない体のまま再び死を待つことになっていたかもしれない……
そんなことを考えるとき、久村はまた旭記念病院の小林医長と川上に心のなかで手を合わせていた。
千島博士の提唱する千島学説の正当性を確信していた久村だが自宅における断食療法の実践には、まったくの素人だった。
小林医師や川上の指導がなかったならば、とうてい実践の決断などできなかったに違いない。
久村は川上との親交を重ねることになった千島学説との出会い、そしてその超革新的な理論によって、妻の命を救うことができた、不思議なめぐりあわせが、ただ幸運とだけで云いきれない、目に見えない、何か神の力が、そこにあるように感じていた。
……まのあたりに見た妻の奇跡的な回復ぶりは川上がいつも云っていた“炎症性の疾患には断食が特効”という言葉の根拠となる千島学説の一理論「可逆的分化説」の正しさを証明するもの……逆分化の過程で、あの強烈な臭いがする汗や尿が排出されたのだ……肝細胞から血液への逆分化過程で、肝臓に貯溜されていた毒素が一気に排出されたに違いない……千島学説は正しい学説だった……妻を救うことができ、さらに千島学説の正当性を身をもって知ることができた。私はなんという幸せ者なんだろう……
現代医学の治療を断り、川上と小林医師の指導による断食療法……それも自宅での療法で、これほど早く妻が回復したことに、大声で喜びの気持ちを叫びたい久村だった。
病院から妻を連れ帰った日、意識の戻らない妻の顔を見つめながら、このまま死んでしまうのではないかという、不安と恐怖にさいなまれていたこと、また退院させたことを後悔したときもあった。小林医師や川上に妻の命をあずけた自分が、たとえ一時的な心の乱れだったとしても、そんな気持ちになった自分が恥ずかしかった。 「千島学説」を説く者の立場として……
悪臭のある汗と尿が出た5日後から、志津江を復食期に移すよう小林医師からの指示を受け、10日の間で次第に普通食へ移すことになる。そのころまだ、断食に近い1日1回、重湯だけの食事だったが、久村や温子が止めるのもきかず、室内の掃除をするほどになっていた。
顔や目に残っていた黄疸症状はきれいに消え、尿の色や臭いは正常に戻り、睡眠時の寝汗も完全になくなっていた。
10日間の復食期を終え普通食に戻ってから、数日が経った9月半ばすぎ、志津江は救急入院した総合病院へお礼に訪れた。
医長の棚橋は医局でカルテの整理をしていた。
看護師から久村という名前を聞いて驚いたように立ち上がる。
医局入口に立つ志津江の顔を、信じられないといったように、メガネをはずしながら見つめる。口は少し開けられ、目は幽霊でも見たかのような恐怖のいろさえ窺えた。
「……あなた、あの……激性肝炎の……久村さん……!」
「ええ、そうです。その節には大変お世話になりました……」
深く頭を下げ礼をいう志津江だった。
棚橋はまだ信じられないというふうに志漢江の顔を見つめる。
「お見受けしたところ、もう完治されたようですね。信じられない……奇跡ですよ。これは……ずっと、小林先生の病院で治療されていたんですか……?」
「ええ、ずっと。1週間ほどは自宅で復食の過程を続けました……ひどく臭い汗が出たあと、どんどん回復して……いまは、こんなに元気になりました……小林先生からお聞きしたんですが、このような肝炎には、断食療法が特効だそうです。その原理というのが千島学説の一つの理論なんですって……可逆的なんとかという理論だっておっしゃっていました……」
「肝炎に断食ですか……小林先生のご指導だから、なんですが……私たちは、肝炎に断食療法は危険だと考えています。肝機能が著しく阻害されるんですよ。治ったからいいようなものの……実に危ない療法を続けられたものですね、小林先生は……しかしまた、それで治るなんて……私には考えられない……」
髪のない頭をなでながら棚橋は困惑したようにいう。
棚橋も千島学説という名は聞いていた。もちろん、ほんの概略だけだったが……だから、断食療法によって、あの危篤状態だったこの患者が、短期間で治ってしまったこの事実を、千島学説の理論に結びつけて考えるだけの知識はもっていなかった。
後日に知らされた肝機能検査の結果は、すべて正常数値に戻っていた。全快していたのである。
それも、現代医学の肝炎治療には常識とされている、高カロリー、高栄養食とは正反対の断食療法によって。
肝炎治療に断食療法を実施すると、個人差はあるものの、7日から10日の断食経過後、血液中や尿中へ重金属類、諸化学物質、老廃物等の流出量が異常に増加する。これは断食による赤血球不足解消のため、炎症を起こしている部分が優先的に、たとえば肝炎なら、肝細胞から赤血球に逆戻りする。このとき、組織内にある有害物質を放出するためである。新しい組織を構成するための防御作用だろう。しかし、現代の医学ではこの現象を、肝機能が栄養不良によって不全をきたし、各種物質の分解が不能になった結果であるとし、高栄養、高カロリー食を与える。この処置によって有害物質の排出を始めていた肝臓は、その作用が阻止され、排出されなくなる。再び貯溜され始めることになるわけだ。
現代の医師たちは、一これで肝機能は改善されたという。
誤ったまったく逆の解釈をしているのだから、その治療を受ける何も知らない患者たちにとって、迷惑この上ない処置といえるだろう。
志津江から棚橋医長の話を聞いた久村は、もしあのまま病院にいたら、いま志津江はこの世にいない、あるいは未だ生きていても、生存不可能な体になっていることは間違いないと確信した。
“命の保証はできない”と宣告された志津江……その彼女が、1ケ月も経たないうちに、自宅治療で全快したのだ。肝炎についてだけは云える……! 現代医学の治療は受けないほうが治るんだ……! 千島喜久男博士のいうとおりだった……久村は心から千島学説の真実性に感嘆していた。
志津江のあの事故以来、現在までの7年間、久村の家族は歯科と眼科、そして3年前、娘の恵利が自転車で転んだ怪我で、近くの外科医院の治療を受けたほかは、医師の治療を受けたことはない。娘がカゼで熱を出しても、食欲がないのを幸いにして絶食させた。それが却って早く熱を下げ、治癒も早まることを体験のなかで知ることができた。
志津江が訴えていた喉のつかえ…志津江は知らなかった第3期と診断された食道ガンは、その後の検査で消滅が確認された。
あの肝炎治療の断食で食道ガンも、知らないうちに消滅していたのである。
人間の体に与えられている自然治癒力の神秘性……そして、その力を増強するためには、減食や断食が抜群の効果を示すことを、妻が肝炎と食道ガンを克服したという、貴重な体験のなかで知ることができたのである。
「千島学説の一つの理論を、川上先生、そして小林先生のご指導をいただくなかで実践することができました。そして、生涯忘れることのできない感激と喜びを得ることができたこと、両先生からへただいたお力のはかありません。ただ、ただ感謝申し上げるばかりです……」と話をしめくくる久村に、会場の人々は惜しみない拍手をおくった。1時間余りの体験発表のなか、時折り涙を浮かべて話す久村に、会場の幾人かが目を押さえていたが、浅川もその一人だった。
現代医学を盲信し、病気は医者にかかるものと思い込んでいる人々ばかりのなかで、重体に陥った妻の命を断食療法という、久村にとって初めての療法実践への決断は、余程の信頼があっても、なかなかできるものではない。
畑中も浅川も、久村の決断を心から称賛していた。
「浅川君、素晴らしい体験談だったな。わたしも決断力には自信があるつもりだが、もし家内があんな状態になったとしたら、久村氏のような決断ができるかどうか分からないよ……」畑中ははずしたメガネを布で拭きながら、しんみりとした口調でいう。
「ああ、ほんとにいい話を聞くことができたな。久村氏の決断も立派だが、川上先生への強い信頼感が勝ったんだ。それほど、川上先生の断食による臨床実績が多いんだよ。なあ、畑中君、あとで川上先生に会えるんだったな……」
「うん、今夜、熱海で会えるよ。先生には、夜までに熱海へ入ってもらうようになっている。そこで、ゆっくり話せるさ……わたしたちと一緒に宿をとってあるんだから……」
畑中はそういいながら腕の時計を見る。午後3時を少し過ぎたところだった。
「熱海に宿をとってあるって……先生は、明日も熱海で講座なのか……」タバコに火をつけながら浅川がいう。タバコはここ2年ばかりやめていたが、最近になってまた始めていた。
タバコとは、なかなか縁を切れない浅川だったが、健康状態はいたって良好だ。
「いや、講座のためじゃないんだ。今夜、楢本大二郎という代議士……次期の運輸大臣に内定している人物に、あんたと一緒に会ってもらうためだよ」畑中は声をひそめて話す。
「なんだって……! 次期運輸大臣……?!」浅川は驚きのため声が大きくなる。休憩中の会場は、ざわめいていたが、浅川の声に近くの人たちが、こちらに顔を向ける。
「ああ、そうだ……」畑中がさらに声を落としていう。
「あんたは、たいした人物なんだな、そんな大物と……」
「いや、勘違いするな……」畑中は浅川の一言葉を制していう。
「……わたしの友人に、山本という東洋自動車の重役がいるんだ。その会社が推す代議士が楢本氏で、窓口が友人の山本常務なんだよ。山本がいうには、その代議士に最近のことだが大腸にポリープが幾つか見つかってね。担当した医師からすぐ手術するように勧められているようなんだが、本人は手術を嫌っていてね……それで山本君が君のセンターを……」
「どの程度のポリープかわからんが、見つかるまで普通通りの生活ができていたんなら、そう、摘出を急ぐ必要はないと思うんだがな……」浅川は畑中の話を端折っていった。
「わたしも、あんたと同じ考えだ。山本の話によると、持病の前立腺肥大の定期検診で見つかったらしい。そんなことだから、通常の生活をしていたはずだ……」畑中はメガネをかげながらいった。休憩時間が間もなく終わる。会場にほとんどの人が戻っていた。これから4時まで、スライドによるガン巣の説明だ。
「前立腺検査でひっかかったんなら、ぼとんど直腸に近いところだろうな、部位は……」
「そうだろ……」畑中が答えようとしたとき、司会者が壇上に立った。室内は急に静まりかえり、畑中も話を途中でやめる。
「久村先生の貴重なお話しに、私も大変感激いたしました。久村先生、ありがとうございました。さて、それでは本日の最終プログラム、スライドによる“断食とガン組織の変化”です。川上先生、よろしくお願いします。」司会者の声が静かな会場のスピーカーから流れる。
会場の照明が消されると、正面の大きなスクリーンにガン巣のカラー写真が写しだされた。右上部に赤黒いガン組織が鮮明に見ることができる。その周囲の正常組織との間には、はっきりとした境界を見ることはできない。赤血球や細胞などがガン巣の周囲を覆っており、そこから無数の血管が川のように下方へ走っている。この写真は、断食によりガン巣表層部から、赤血球に分化し新しくできた血管によって、ガン巣から新生した赤血球を、この毛細管から近くの静脈へ運び去っている像だと川上は説明する。
ガン巣は人の子宮ガン組織と補足し、人体の働きの素晴らしさについて説明を続ける。
血液の主成分である赤血球は、その原料となる食物を飢餓や断食によって断たれると、体内にある現在、必要性の薄い組織から赤血球に変えてゆく。不要物が存在する場所に新しい血管をつくりだし、組織細胞を新しい赤血球に変えてゆくわけだ。
その最初に分化させられる組織が、脂肪と炎症部の細胞。当然に慢性的炎症部であるガン組織は、まず最初に赤血球に変えられてゆくことは改めていうまでもない。
自然に備わった安全機構によって、脳や心臓、肝臓など重要且つ健全組織の分化は最小限にしか対象とされない。それは大脳視床下部にある間脳に記憶された信号のためである。
間脳は知られているように体の自動制御神経である自律神経系の中枢。脂肪組織やガン巣、また炎症部組織が赤血球に分化し始めると、その周囲に新しい毛細血管が無数に現れるようになり、組織から分化した新しい赤血球をそのなかにとり込む。
大きなガン腫が、親指の先ほどに縮小したり、また消滅したりするのは、この赤血球への分化のため。
赤血球からできた、各種の病的組織細胞が、断食や飢餓時には元の赤血球に再び分化する……これが、千島学説の「赤血球分化説」であり「可逆的分化説」である……断食を終えたあと、体は痩せるが、皮膚や全身の様子が若返ったように見えるのは、新しい赤血球により、体の組織が若い細胞と入れ換わるため……川上ば、次々と変わるガン細胞の写真に説明を加える。
断食療法がガンに特に有効なことが、説明を受ける誰にも理解することができた。会場の参加者のなかから、時折りため息のような感嘆の声がもれる。
川上の巧みな話法と鮮やかなスライド写真によって、この日のフィナーレとなったプログラムは瞬く間に過ぎていった。
司会者が次回の予定をいっている。
「7月28日か……残念だな。あいにくと県の医師会の定例会だ……」浅川は手帳を見ながら舌打ちする。
「医師会だって……?何いってんだよ。そんなもの止めちまいなよ。出たって何のたしにもならないぜ。この講座のほうが、どれだけ意義があることか……」長机の上を整理している浅川の肩を軽く揉みながらいう畑中。脇の通路を人々が出口へと急ぐ。
「それは分かっているさ。無駄な会で時間のロスになるだけの会であることは。だが、今年になってからは未だ一度も出てないからな。だから来月くらいは出ておかないと、死んじまったと思われてもシャクだからな・…」そういいながら浅川は川上の方を見る。川上も机上の整理をしていた。
「先生に今夜のことを確認しておいたほうがいいんじゃないか……? 忘れていることはないと思うけどな……」
「そうだな、ま、確認はともかくとして、挨拶だけはしておこう」畑中は浅川をうながしながら、前方へ歩く。
川上はテーブル上のスライド写真の整理をしていた。
「川上先生、東京内科・小児科センターの畑中です。今日は本当に貴重なお話をどうも有難うございました。こちらは、友人で別府の東洋医学療養センターの院長、浅川勇一君です」畑中は川上に浅川を紹介する。
「あ、畑中先生、浅川先生も。お忙しいところを。東洋自動車の山本常務から、今日、おいでいただけるとお聞きして、お会いできるのを楽しみにしていました。浅川先生も、お遠いところをおいでいただいて……有難うございました」
川上は畑中と浅川に握手を求める。実に柔和な目だった。
「いや、いやどうも、今も畑中君と話をしていたんですよ。千島先生は素晴らしい後継者をもっておられたなあ、うらやましいなってね。お若いのに実によく勉強しておられる……」川上を見ながらいう浅川の顔は感激で紅潮していた。
川上の、やや目尻が下がった目が微笑んでいる。不思議な親愛感が漂い、先程の講演中のような、あの鋭い眼光はない。
「いや、浅川先生、おはずかしい……先生に、そんなふうに、おっしゃられると有頂天になってしまいますよ、嬉しくて。それはそうと、今夜は7時でしたね……」川上は浅川から畑中に視線を移して尋ねる。
「はい、そうです。熱海市内の「瑞龍」という料亭です。熱海駅から車で10分ほどだそうで「瑞龍」といえば、何処のタクシーでもわかるそうです」
「わかりました。できれば先生方とご一緒したいのですが、神田の出版社での打合せがあるものですから、それを済ませてから時間に遅れないように、少し遅れるかもしれませんが……極力遅れないようにうかがいます。山本常務にもその旨を……」
二人をかわるがわる見ながらいう川上だった。