新生命医学会

千島学説|新生命医学会

トップ > 長編小説:霧のなかの巨塔

長編小説 霧のなかの巨塔  第20回

第二章 灯りを求めて

■迷路①

外賀総合病院の病室で、逸平たち家族が、処置室から戻ってくる恵美を待っている頃、三品千鶴は下関行き寝台特急『あさかぜ』の車内にいた。

列車は人影がない焼津駅を高速で通過している。A寝台個室が並ぶ2号車車内では話し声などまったく聞こえない。列車の走行音以外はしない静かな車内である。

そんなF室の少し開けられたカーテンの隙間から車外の灯りが、矢のように後方へ過ぎ去っていく。室内灯を消し、虚ろな目で外を見ている千鶴の横顔を、通り過ぎていく車外の灯りが時おり照らしだした。その美しい顔は止めどなく流れる涙でぬれている……

 

千鶴は1週間後の9月20日で、3年間勤務していた東洋自動車・第1経理部計算センターを退職する。すでに8月初旬、退職願は提出していた。愛する逸平が不倫の交際発覚を理由とする処分で、前例のない厳しい処分、社外放出で提携運輸企業である南海汽船へ、出向という名で追放されたいま、その不倫の相手が自分であったことまでは知られていなかったが、このまま職場に残っている毎日が耐えられない苦痛になっていた。

逸平が社内にいなくなったという寂しさもあったが、それ以上に社内の人たちの目が怖かった。

誰の目も口には出さないものの、姿課長の不倫相手は自分であることを知っているように思えてならない……自分のいないところでは噂の的になっているのではないかと気になる……そんな毎日がつづくことに耐えられなくなったのである。

退職願を出してから千鶴は、わずかではあったが、心のなかの苦しみが軽くなったように思えた。千鶴が所属する計算センター・登録第5課の同僚たちは退職理由とした「結婚」という語が

突然であることに驚きながらも皆が祝福の言葉をかけてくれた。

「結婚」という理由はまんざらウソではない。事実、千鶴は高羽健太郎からプロポーズされていた。ただ、承諾はまだしていない……結婚するか否かはこれからの課題である。高羽との結婚など千鶴が心から望むことではない。逸平への想いを断ちたいという、捨てばちともいえる気持からそうしようか、と思っていただけである。高羽には申し訳ないと思いながらも、千鶴にはいまの寂しさと悲しみから逃れるすべは、高羽との結婚しか思いつかなかった。

逸平が赴いた先、神戸の住所と電話番号は手紙で教えられていたが、千鶴は決して電話などしないつもりだった。逸平のため、また自分のためにも電話することはいけないこと……ことに8月から9月初旬までは、奥さまもいるという……そんなときに電話などできるわけがない。

逸平の声を聞かずにいれば、そのうちにこの思慕も薄れてくるだろうと、自制していた千鶴だったが、電話をしてはいけないと思えば思うほど、声だけでも聞きたいという感情が募っていった。身も心も捧げつくした男への想いを、どうしても断ち切ることがない千鶴だ……

9月初旬の土曜日、ついに自制心をなくした千鶴は、思い切って神戸にいる逸平のマンションに電話をした。“もし、奥さまが電話に出たら……”そのときのため、すぐ切れるように受話器のフックへ指をかけている。受話器からの呼出音が続く。千鶴は自分でも胸の鼓動が聞こえた。

期待と怖れが絡みあった複雑な感情だ。呼出音だけで、やはり誰もでない……

……誰もでない、留守なんだわ…… そう思って電話を切ろうとしたとき、受話器が外れる雑音とともに、想いつづけてきた逸平の声が聞こえてきた。

……はい、お待たせしました、姿です…… その声を聞いた千鶴はときめきのため、直ぐには声が出てこない。思わず涙ぐんでしまった。愛してやまない男の声である。もし、電話でなかったなら、その胸にすがりついていたことだろう。

北海道旅行に誘われたとき、千鶴の意識のなかに瞬間だが高羽のことがよぎったが、逸平との旅行という予想もしていなかった喜びに高羽のことは意識から消えていた。逸平の声を聞いたことによって千鶴の理性は狂ってしまう。……もう、どうなってもいい、もう、あなたから離れないわ!…… と心に決めていた。

 

東京・自由が丘の閑静な住宅街でも、日中の暑さが夜になっても残っている。ここでも、さまざまな臭いが入り混じり、大都会のよどんだ空気が漂っていた。

そんな街の一角にマンション“セゾン・グリーンパレス”の一室で、千鶴は明日からの北海道旅行の準備をしている。室内は冷房がよく効き快適だ。逸平との旅行に心が弾み、ハミングしながら目の前に並べたものをバッグに入れていたが、ときおり、手をやすめて窓のカーテンを見つめている。何か迷いが強まった様子だ。つい、さきほどまでの楽しそうなハミングもしていない。

冷静さをとり戻していた千鶴が、自分の行動へ急ブレーキをかけたようだ。

 

……このまま、北海道へ行ったらどうなる?

今までのわたしの理性は何だったの? あの人への想いを断つためじゃない!

なのに今、誘われるまま行ったら、どうなるのか、分かっていないの?

もう、あの人と別れられなくなるのよ、千鶴!

また、あの人も、自分も、もっと深い泥沼のなかに堕ちこませてしまうのよ!

高羽さんを騙して、あなた自身も罪悪感で毎日苦しむことになるよ、あなた……

あなたは、そこまで悪女なの? いつまでバカな女になっているの?

あなた、よく考えなさい、あなたは、あの人の愛人なの……不倫という罪なのよ!

感情に溺れていてはダメ……もっと賢い行動をとりなさい、千鶴!

 

千鶴の理性が誘惑に打ち勝った。旅行の準備をやめた千鶴は、そばにある座卓にしばらく顔を伏せていた。閉じた瞼のなかに逸平の顔が浮かび、つづいて父母の笑った顔が浮かぶ……

さっと立ち上がると机の引き出しから便箋と封筒を取り出すと、座卓で手紙を書き始める。書き終わると自分のバッグから封筒を出し、なかの航空券を確認するとそのまま、折った便箋にはさんで封をすると、卓上のメモを見ながら美しい字で宛名を書いていった……

千鶴は考えぬいた結果、逸平との決別にふみきった。札幌に宿泊しているホテルの電話番号は電話をくれたときに聞いているが、千鶴は敢えて連絡しなかった。一方的に約束をやぶることによって、今度こそ逸平と永久の別離をすることにしたのだ。このマンションを出ることでも。

手紙に切手を貼ると、千鶴は左右に大きく両腕を広げ背を伸ばすと、カーテンを開けると窓も左右に広く開ける。むっとする都会のよどんだ空気が一気に室内へ入ってきた。

高台にあるこのマンションの窓からは、少し下方にある自由が丘商店街のネオンや街灯、商店や住宅の明かりがよく見える。そんな夜景を見ている千鶴の顔には、愛しつづけている男との別離を決断したとは思えない微笑が浮かんでいた。

“おおう……!”という声をあげると窓を閉め、カーテンを閉ざす。外気と入れかわった室内は暑さを感じたが、再び千鶴は旅行の支度を始める。故郷の四国へ帰るために……

……明日の夜行で久しぶりに松山へ帰ろう。会社へは松山から電話すればいい……

千鶴の業務引継ぎはすでに終わっている。千鶴は久しぶりに帰る故郷の松山へ思いを馳せていた。思いついたように電話の前に座ると番号を押していく。高羽の電話番号だった。

その翌日、千鶴は高羽とともに夕方までアパート探しに奔走した。運よく山手線田端駅近くに比較的新しく、気にいった賃貸マンションがみつかり、7日後から入居するという契約も高羽が保証人となって決まった。その日、高羽と逢う前に千鶴は近くの電話局に即日の取り外しと、連絡するまでの局預かりを依頼する。休日だから処理は出来ないという局員に“毎晩、何回も無言電話に苦しめられている”とウソをついて承諾させることができた。

今夜からしばらくは東京にいない千鶴。電話がない不便さはなかった。夕刻近く、千鶴は高羽の車で東京駅へ向かう。一緒に簡単な食事をしようと誘う高羽に、会社の同僚たちが駅で待っているとウソを告げて断った。列車の発車時間が迫っていたことより、逸平への想いが重くのしかかっているいま、とても高羽と一緒に食事をするような気になれない。

東京駅の八重洲口で高羽と別れた千鶴は、ひとりコンコースへ歩いていく。

発車時刻まで一時間余りということに、連休中ということも重なってB寝台券は売り切れていて数枚のA寝台券個室があるだけだった。そんな、もったいない……という気持ちになったが、広島・宇品から松山へのジェット船の便を考えると、『あさかぜ』に乗るしかない。

A寝台券を購入するとホームへと歩いていく。もう6時半を過ぎていたが、空腹感はまったくなかった。逸平との別離を決意し、新しい人生への出発を目指している千鶴だが、千歳空港で自分を待っていてくれただろう逸平のことを考えると、いま歩きながらも胸を締めつけられるような苦しみを感じていた。

 

下関行き寝台特急『あさかぜ』は深夜の名古屋駅を発車している。2号車の個室寝台では千鶴の静かな寝息をきくことができた。少しまえまで室内灯を消した暗い室内から、車外をぼんやり見ていたが、今日一日の疲れが出てきたのだろう、悲しみも苦しみも、しばしのあいだだけでも忘れさせてくれる深い眠りのなかにいた。

列車は次の停車駅、岡山へと夜のしじまをひた走る……

 

夜も更けた外賀総合病院の本館病棟は、通路を歩く看護師か医師のサンダルが床をこする音が時折りするだけ……静かに時が流れていく。何処かで金属製の器具でも洗っているのか、金属がぶつかり合う高い音が聞こえてきた。

2階の第3処置室では恵美の内視鏡検査が行なわれていた。10分ほど前、エコーの映像でようやく胃の出血がとまっていることが確認され、内視鏡検査が始まったのである。出血が止まったといっても恵美の顔色に変化はない。生きている人とは思えない蒼白さだ。開口リングで大きく開かれた恵美の口内へ慎重に、少しずつカメラケーブルが挿入されていく。

ひたすら夫のため、子どもたちのために尽くしつづけてきた、けなげな恵美が、なぜに、いつまでも苦しみつづけねばならないのか!

あれほど恵美を苦しめてきた正樹が、こんなに母想いのやさしい子になって、恵美が想像もしなかった明るく、楽しい家庭が戻ったばかりだというのに……

 

逸平と結ばれてから18年、いま病に倒れるまでの長い年月、海外に駐在していた夫のためにただひとり、子育てと家事に追われてきた恵美だった。逸平や子どもたちとの楽しい思い出などない。帰国しても1週間ほどでまた任地へ戻っていく。帰国中もほとんど会社へ出勤し、家にいる時間はほとんどない。恵美の生活は金銭面にはまったく心配しないものの、生活のすべてがシングルマザーそのもの……任地へ戻るときも“これから急遽任地へ出発しなければならなくなった、たのむ……」という会社からの電話連絡だけで直接出国してしまったことも少なくなかった。

家族そろって楽しい時間を過ごすなどといったことはほとんどない。そんな、家庭を犠牲にした逸平の業務最優先の生き方が、今の異例ともいえる昇進の原動力になったことは事実だが、恵美にとって、そんなことは望んでもいないこと。ただ家庭にいる逸平が欲しかっただけなのだ。

逸平の留守を守るのが自分の務めだとして、寂しさに耐え、正樹の暴力に耐えしのんで、いちずに家庭を守ってきた。

逸平の留守中、正樹の狂気ともいえる家庭内暴力で、毎日のように傷つけられる体の痛みに耐えながら、これは自分の育て方が間違っていたからだと自分を責め、夫の仕事に支障をきたすことがあってはいけないと考え、まったく伏せつづけてきた。正樹の暴力を逸平に打ち明けたのはつい最近になってから……それも恵美の様子を不審に思った逸平に問い質されて、仕方なく答えることになったもの。そのときでも、正樹をかばって殴られたのは自分が悪かったからといって

真実は話さなかった。真実を話せばまた“ちくった”といって暴れることが分かっていたから。

正樹が眠るベッドの脇にそっと立ったことが幾度となくある。果物ナイフや文化包丁を手にして……

……正樹、ごめんなさい、お母さんと一緒に、苦しみのない世界へ行こうね

お母さんはもう、あなたに、どう接していいのか分からなくなったわ

どうしてあげればいいの? もう分からない

お母さんを許して正樹…! あの世でまた、お母さんと逢いましょうね

お母さんも、すぐ行きますから……

ナイフや包丁を正樹の胸や背中に構えるとき、正樹の幼いときの可愛い顔が浮かんだり、後に残される家族のことが思い起こされるとき、いつも冷静さを取り戻して、そっと部屋を出ていく恵美だった。狂気の状態にあったのは、正樹ではなく恵美のほうだったかもしれない。

いつも苦痛にしいたげられてきた人間は、時として正常心をなくしかけるもの……それは生きている者には当然といえるだろう。

10年以上もの長いあいだ、積み重なってきた苦しみ、絶望感、そして孤独感は、恵美の心をさいなんできただけではなく体も少しずつ蝕まれていった。心も体も傷つきすぎていた……

今日まで命をもたせ続けてきたことが奇跡といえるほど、恵美はガンに侵されていたのだ。

恵美の体を支えてきたのは、愛する家族を想う強い精神力だけだったのである。

 

新館305号室では重苦しい沈黙のときが流れていた。意識不明のまま、恵美が処置室へ運ばれてからもう1時間以上が経過している。

恵美の体が衰弱してきたことには気づいていた逸平たち家族だったが、ガン、それも悪化しつくした末期のガンになっていようとは、想像すらつかなかった。後悔と悔しさを噛みしめたものの、それは過ぎてしまったことで、これからどうしたらいいものか思いもつかない。

つい先ほど、恵美の母、亮子が飛行機に間に合ったといって青森から駆けつけてくれた。

恵美の入院と、青森からという遠路の疲れでやつれた顔を、立ったまま恵美がいないベッドに向けている。あたかもそこに、恵美が横たわっているかのように……目は虚ろに見開かれたいた。

正樹からの連絡を受けたとき、胃潰瘍くらいではないかと楽観していた亮子だったが、医師からの宣告を逸平から聞かされたとき、無言のまま床に座り込んでしまった。そばにいた和江と正樹が慌てて抱き起こし、恵美がいたベッドに座ってもらう。

気丈な亮子だったが、余りにも重篤な愛娘の容態を知らされて愕然としていた。

「本当に申し訳ありません、お母さん。逸平が余りにも至らないばかりに……」そういう和江の声が震えているように思えた。

「いえ、いえ、お母さま、お母さまは何も……」亮子が少し立ち上がり、深く頭をさげる。

「お母さん、こんなことになろうとは……ほんとに、申し訳ありません。恵美の体をここまでも悪くさせてしまって……」頭を下げて詫びる逸平に、亮子は何もいわず目をそむけた。逸平の顔を見るだけで、怒りがいっそうに強まりそうだ。爆発しそうな感情を懸命にこらえていた。

6月の下旬、恵美の誕生祝に上京したとき、余りにもやつれていた娘のことを思い出していた。

どんよりとした力のない目、目前の料理にもほとんど手をつけない恵美に、何か不吉なことが起きるような懸念を感じたあの日のことを思い出していた……

 

……「恵美ちゃん、どうしたの? そんなにやつれちゃって。何処か悪いんじゃないの? 逸平さんたら、こんなになるまで、あなたをほっておいて。今日は恵美ちゃんの誕生日だというのに会社にはいない、また何処へ行ったかも分からないなんて……逸平さん、どうかしてるよ、まったく!」

「ごめんね、お母さん、あの人会社の仕事が大変なの。休日の出勤も多いのよ。とくに月末近くの土、日は全国の車の登録台数統計をとるため、必ず出勤になるの……」

「でもね恵美ちゃん、月末はともかくとして、毎日が12時過ぎの帰宅だなんて……課長だけがそんなに遅くまで仕事することはちょっと変だよ。それに、さっき恵美ちゃんがいってたみたいに、疲れて帰ってきたのに、お風呂で鼻唄を歌っているなんて、絶対に普通じゃない! 女がいるんじゃない、逸平さんに!」

「まさか、お母さん、あの人、そんなことが出来る人じゃないわ。お母さんの思い過ごしよ……それから、わたしが痩せてきたのは、いつもの梅雨時ばてなの。今ごろから梅雨明けあたりまで、ぐっと痩せちゃうの、不思議よね。夏になると元にもどるの……」……

 

亮子はそんな恵美との話を昨日のことのように覚えている。青森へ帰ってからも恵美の体への心配や逸平への疑いを打ち消すことはできなかった。日増しに娘へのいたわりがない逸平への怒りが募っていく亮子。そうして、今日という日が来てしまった。

ベッドの脇に座る亮子の体は怒りの感情を抑えている反動だろう、小刻みに震えている。

……悪くしてしまって、だって? 何いってるの、冗談じゃない!

遠く離れているわたしが、恵美ちゃんの体の異常に気づいていたのに

いつも顔を見ていたこの人が、異常に気づきながらほっておいた!

気づかなかったなんて言わせないよ! この人は娘を邪魔にしていたんだ!

あの日も会社へ行くとウソをついて、女と一緒にいたんだ、間違いなく

愛人がいるから、恵美ちゃんが邪魔になった……病気をいいことにして

恵美ちゃんが病気で死ぬことを待っているんだ、きっと

愛人のために、この可愛い恵美ちゃんを殺そうとするなんて

なんという人、この男は! ひと殺し!

母の亮子は、恵美の誕生日だったあの日、逸平は愛人と行動していることを直観として感じとっていた。恵美にそこまではいわなかったが…… 恵美が会社へ電話をしたとき、電話をとった課の人が困ったような対応をしていたと恵美がいったとき、それは間違いなく家族にも会社にも秘密の行動をするためウソの届けをして会社を休んでいたに違いないと想った。

秘密の行動……それは誰が考えても愛人との密会ということになる。

そう思う亮子は逸平をこの場で打ち据えたいという感情にかられたが、いまはどうすることも出来ないことと抑えつけていた。恵美がいないベッドを虚ろに見ていた亮子の目から、涙が止めどなく流れ落ちるがそれを拭おうともしない。悲しみの感情というより悔しさに耐える涙だった。

亮子の推測は実に的を得たものだった。事実はそのとおりなのだが、第三者的に見たときには証拠がなければ、それは単なる推量にすぎないことになる。そういって感情を抑えようとしていると怒りがなおのこと噴きだし、亮子の忍耐がついに爆発する。

「逸平さん! あなたは……」ヒステリックな大きな声だった。みなが驚いて亮子を見る。

「はい、お母さん……」答える逸平の声は沈んでいる。

「あなたという人は、どう……」と言いかけたが、急に言葉を切る。亮子の胸にたまっていた燃えるような怒りの爆発が、残っていた僅かな冷静さが自制させた。

「はい、お母さん、なんでしょうか……」怯えた細い声でいう。

「ううん、ごめんなさい、なんでもない……」目を閉じて答える亮子。間違いないと確信している逸平の行動だったが、証拠がない今は推測の域にあること。それをここで詰問しては自分にも恵美にも得策ではない。否定されたらそれまでだし、お互いに不信感だけ残すことになる。

……いま、この男を問い質しても、否定されたらそれまで

間違いないと思っても、証拠がないのだ

口にだしたら、わたしだけでなく、恵美ちゃんまでが笑い者に

ここにいる誰もが、この男に疑いをもっていない

こんど、この男と二人だけになったときは

かならず、こいつの化けの皮を剥がしてやる!

 

逸平の母、和江はそんな亮子の横顔をじっと見ていた。亮子の下瞼が絶えずピクピクと痙攣している。怒りの感情を懸命に抑えようとしていることがはっきり感じられる。亮子と会う機会はほとんどなかったが、これほど感情的になっている彼女を見ることは初めてだった。

……もし、自分が亮子さんの立場だったら、きっと同じように逸平へ怒りをぶつけていたわ……

恵美ちゃんをここまでほうっておいたんだもの。恵美ちゃんが神戸から帰ったときの痩せかたは

ふつうじゃなかった……頬も手足も骨だけのように、やつれていた

逸平たち家族は、どうしてもっと早く、病院へ連れていかなかったの!

もっと簡単に考えていた、なんて、理由にならないわよ、逸平!

亮子さんが怒るのは当たり前だわ なにをぼんやりしてたの、逸平は! ……

和江は亮子を見てそんなことを考えていたが、亮子の怒りは逸平に愛人がいるらしい行動をとっていることへのものであることは知るよしもなかった。沈黙のなかにある病室は、誰でもいたたまれなくなる息苦しい淀んだ空気だ。そんな雰囲気が正樹の声で終止符をうたれる。

「お父さん……」ぼんやりと母のいないベッドを見つめていた正樹が、きゅうに頭を上げると、かすれたような声で父に問いかけた。

「うん……?」

「……もしさ、お医者さんがこれから手術をした結果として、お母さんの癌はもう手のつけようがなかった、治すてだてはありませんといわれた時さ、ほかにお母さんを助けられる治療法というものはないの?」

「いや、ないとはいえないと思う。お父さんもさっきから、ずっとそのことを考えていたんだが、まだ、具体的に思い出してこないんだ。以前、耳にした東洋医学の治療法なんだよ……」逸平は話をしているうちに、だいぶ前に東洋自動車の常務、いわゆる逸平の上司だった山本常務がいっていたことを思い出した。医師に見放された数々のガンが東洋医学でいう断食療法で、完全に治癒したというたくさんの例を……

「……うん、思い出してきた。お父さんが出向する前の会社、東洋自動車の常務取締役がね、東京の大きな病院の副総長と親しいんだ。その先生は内科の権威者である一方で、東洋医学の治療でも有名で、それが正樹がいったように病院でもう手遅れだといわれて出された多くのガン患者が、短期間で完全に治ってしまう療法で断食療法というんだよ。正樹、よく思い出させてくれた。

この治療法が残されていることをね……」正樹のひとことから、逸平は暗黒の闇のなかに一条の光がさしてきたように思えた。

「じゃ、ここで手遅れだといわれても、お母さんを助ける方法は残されているんだね!」正樹は今までの絶望感が一転して希望がうまれた大きな声でいう。

「そうだよ、正樹にいま言われるまで頭が混乱していて思いつかなかった……」

「お母さんのように余命が少しだといわれている人でも……?」ベッドのマットに頭をつけて顔を伏せていた梨香が、まだ涙が乾かない顔を上げて細い声でいった。

「ああ梨香、山本常務の話だと、この断食療法はある程度の体力が残っていれば、余命1ヶ月といわれていた人でも、この療法をすることで3週間でガンの腫瘍が半分から、時によってはそれ以下にまで小さくなることもあるそうだ、自然にね……」

「そんなに短期間で、自然に?」博樹が本当にそんなことがあるのかという疑問の声を出す。

「ほんとうだ。もちろん、誰でも同じ経過をたどるわけじゃないぞ。その有名な先生は、よい結果は患者の体力、治ろうとするその意志、そして努力があるかないかによるそうだ。その有無によって治るまでの日数に大きな違いが出るというわけだ。もちろん、努力や意志が足らなかったとしても、日数が余計にかかるだけで、経過が悪化することは決してないらしい……」

話をしているうちに逸平は、いますぐにでも恵美をその病院へ入院させたいという衝動にかられる。常務からの紹介を一日も早くうけて……

「そんなにいい治療法だっていうのに、どうして広くみなに知られていないの? わたし、初めて聞いたわ……」和江は信じられないというような口ぶりだ。

「うん、そうだと思う。常務がいうには、今の医学は断食療法というような東洋医学に対して極端ともいえるような偏見をもっているんだ。自分たちの領域である西洋医学こそ真に正しい医学であり、東洋医学は前世紀的な古典医学で理論的に証明できるものは何一つない、正規の医学とはいえないものだと決めつけているんだよ。実際に東洋医学でも確実な目覚しい治療効果が出ているんだが全く認めようとしていないんだよ。商売がたきとして敵視しているんかも知れないね。

昔からの体験と知恵によって組み立てられてきた素晴らしい治療法が東洋医学のなかには沢山あるんだけけど、今の西洋医学はその普及に反対している。そのために、東洋医学療法の多くが健康保険の適用外になっているんだよ。全額が個人負担なんだ……」

「そう、そんなことになってるの。ずいぶん押さえつけられてるんだね。商売の邪魔だといわんばかりに……」和江が納得できたように頷く。

「これはみんなに相談することなんだが、お母さんが意識を戻したとき……もちろん、ここの先生とも相談しなければならないことだが、手術をしても助かる見込みが薄いということだったら、無理に手術をしてお母さんの体力を無駄にすることはないと思うんだ……それより、この断食療法にお母さんの……」

「逸平さん。わたしは……そんな断食療法なんていう古い治療に恵美ちゃんを預けることなんかしません。反対します。いまの癌治療は進歩しているって聞いている……みんなもそう思わないこと? 抗ガン剤も年々新しくて効果が高いものが作られているようだし、やはり、どんなことがあっても今の治療を受けるのが絶対に安全だし、助かる見込みもずっと高いと思う……」亮子が逸平の提案に強く反対した。いまの亮子には逸平のいうことは何も信じることはできない。

逸平を信じられない亮子には、逸平が恵美をなきものにしようと謀りごとをしているように思えてならないのである。

「お母さんは反対、ほかの人、意見があったら聞かせてくれ、反対か賛成かを……」

逸平は亮子以外の顔にひとり、ひとり視線を移しながらいう。

「ねえ、お父さん、常務さんがいっていたというその話、間違いないことなの? 末期で手のつけようがなくなったガンでも1ヶ月ほどで小さくなったという話……」

博樹がはっきりとした大きな声で問いかけた。

「うん、事実のことだ。これからわたしが話すことは、絶対に口外しないでほしい。これはごく限られた人しか知らない極秘にされている話だ。みんな気をつけてくれ。この前、8月下旬のことだったが、『楢本運輸大臣、東洋医学で自己刷新』という見出しが新聞に出ていたんだが、誰か見て居なかったかな……?」

「オレ、見たよ、お父さん。楢本代議士が1ケ月余りの断食によって体重を12キロも減量させて、そのうえいっそうに精悍さを身につけてきたという記事、たしか東京日報だったと思うけど覚えている! ついこの前のことだよ。別府の……うーんと、何といったけな、忘れてしまったけど、なんとかセンターに入って断食をしたと書いてあった……」

博樹は今までの悲しみが吹き飛んだような弾んだ声になる。

「そうだ、別府の東洋医学療養センターに入っていたんだ。山本常務はそこの前病院長だった畑中辰太郎医博と京都大学時代からの親友でね。畑中博士が東京内科小児科センター副総長として転出してからもずっと交際が続いていたんだ……」

逸平の説明をみな真剣なまなざしできいていた。絶望的だという恵美の命が救われることになるかもしれない逸平の話……それも大抵の人が知っている政界の大物代議士、現代の大久保彦左衛門と称されている楢本大二郎がかかわる話なのである……

「……山本常務は会社として後援している楢本代議士との連絡窓口役をしていて、いつも懇意に代議士と交流していた。そんな常務の自宅に6月のある日、東京からタクシーで楢本さんひとりが訪ねてきた。彼の話によると定期的に検診を受けてきた主治医から直腸に5ミリほどのポリープが3つあるから、悪性に変らない今のうちに摘出する手術をしたほうがいいと勧告された。

楢本代議士は手術をすることは嫌だったので、切らなくても治せるような方法が何かないかと考え、以前常務から聞いたことがある畑中博士に問い合わせてもらいたいと訪ねたわけだ。

そういう診断を下したクリニックの住所や連絡先を告げて。

調べてまた連絡するという約束で常務は翌日すぐ畑中博士に電話をした。もちろん、極秘中の極秘としてね。その日のうちに畑中博士は直接、そのクリニックを訪れ詳細な診断経過の報告を求めたそうだ。ふつう、部外者に患者の個人情報を漏らすことはできないことだが、呼吸器学の世界的権威とされる畑中博士本人が直接来院し説明を求めたのである。拒否するなどということは間違ってもできないことだよ。

主治医が説明するところではそれはポリープなどではなく、かなり進行した直腸ガンだった。

すでに周囲まで広がる気配を示していたという。畑中博士もそのCT写真で確認したそうだ。その頃楢本さんは次期運輸大臣に就任することが内定している重要人物だったから、本人にガンだからすぐ手術したほうがいいなどとはいえない。だからポリープが悪性に変ることもあるから早く手術するように勧めたそうだ……」通路に足音が聞こえたため話を中断した逸平だったが、足音が遠のいていくのを確かめるとまた話を続ける。

「……その主治医の話によると、深く組織を穿ったガン組織は部分切除をしても直ぐ再発することは間違いなく、そのときは直腸の全部摘出しか方法はないといっていたそうだが、楢本さんはそんなことを知るよしもない。

常務は畑中先生と打ち合わせをして楢本さんに、別府の東洋医学療養センターへ入院してもらうことにした。入院したのが7月下旬のこと。入院したとき、ここの病院長の浅川勇一と楢本さんの主治医となった水上医長から第2期を過ぎた直腸ガンであること、さらにそれ以上危険な状態になっているのが、いつ脳出血をおこしても不思議がない高血圧症であることを宣告されたという。しかし、さすが名の知れた代議士だけあって、ガンや高血圧症の宣告をされても顔色ひとつ変えることがなかった。やはり、そうでしたか、と涼しい顔だったそうだ。それから30日後に退院してきたが、楢本さんと主治医以外は知らないことだが、直腸のガン巣は5分の1ほどに小さくなり、侵食されていた腸の粘膜ばかりでなく、危険だった血圧も同時にほとんど正常な状態に回復していた。退院後の指示された食養生の実践を条件に1回だけの療法でほぼ全治とされたんだ」話を終えた逸平の顔は、さきほどまでの蒼白さから今は紅潮している。あたかも恵美が回復したかのようにさえ思えた。

恵美が救われるかもしれないという、ワラにもすがるような微かな期待ではあったが、ここにいる皆にとっては大きな希望である。

「すごいんだな、その断食療法というのは……オレ、ぜんぜん知らなかったよ」正樹がうわずったような声を出す。わずかだが母を救う道が見えたのが嬉しいのだろう。

「ねえ、おばあちゃん、お母さん、その病院へ入院してもらおうよ。意識が戻って、少し体力が戻ってきたら、ね?」博樹が青森の祖母である亮子に同意を求めた。

「そうだわね、あの楢本運輸大臣がその療法で治っていたとはね。でも、お母さん、その療法を受けれるだけの体力がこれから戻ってくれればいいんだけど……」博樹と正樹の顔を見ながらいう亮子。その顔には先ほどまでのような激しい怒りの感情は見られない。そこには覗えなかったが、逸平への怒りは当然に消えることはないだろう。また急患が運ばれてきたようだ。救急センターのあたりでサイレンを響かせてきた救急車が止まる。

「別府はずいぶん遠くだから、よほど恵美ちゃんの体力が戻らないと……でも、さういう施設があということ……」通路をこちらへ走ってくるサンダルの音で和江は口を閉ざした。サンダルの音がこの病室の前で止まると、ノックもなくドアが開き、若い看護師が駆け込み叫ぶようにいう。

「姿さん! どなたか付き添いのできる方、すぐに正面玄関まで来てください! 患者さんの容態が急変して、いま帝北大学病院へ救急搬送されます……!」

 

(つづく)

ページのトップへ戻る