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長編小説 霧のなかの巨塔  第25回

第二章 灯りを求めて

■三叉路①

青森港を午後12時30分、定刻通りに出港した東北フェリー第9便の函館行きは津軽海峡を順調に航行していた。海峡は風が強くやや波があるものの、コバルト色の空には綿をちぎって飛ばしたような白い雲が、幾つか風に飛ばされ流れている。

9月中旬というこの時季はまだ残暑が厳しいときだが、北海道を間近にしたこのあたりでは、東京のような暑さはない。海峡を渡る風は涼しいというより冷たささえ感じる。

夏の観光シーズンは既に終わり、また青函トンネルが開通していることもあり函館行きのフェリーを利用する一般客はほとんどいない。

2等船室、また1等船室のデッキにも人影は見えないが、特等個室C室には乗客がいた。外賀総合病院の看護師、松川由美だった。まったく化粧の跡がない顔は蒼白だ。

小さな船室の壁側にはベッドがあり、白いシーツの上には青いカバーが付けられた毛布と枕、畳まれたユカタが置かれている。まど側には壁から引き下ろすタイプのテーブルと、肘掛けと白い布カバーがついたヘッドレスト付きの豪華な回転イスが床に固定されていた。そんなイスに座って松川由美はぼんやりと窓の外の海を見ている。

目は虚ろに見開かれたままで人形の目のように動きがない。けさ、まだ暗いうちに看護師寮を出てきた由美……持ってきたものは、その膝の上にある小さなハンドバッグだけだ。

そんな軽装で何処まで行くというのだろう……急に何か思いついたように、ハンドバッグをテーブルの上に置くと、小走りに船室を出ていく。通路の左右を見回すと特等船室デッキという赤い矢印の標識を目にすると、そちらへゆっくりと歩いていった。ちょっとした階段を上がると内開きのドアがあり、それを開けるとすぐデッキだ。

一面に人工芝で覆われ、幾つかの丸テーブルとそれを囲むようにした肘掛けイスがある。そこにも人影はない。由美は真っ直ぐデッキのフェンスに向かう。ちょうど300米ほど離れた所を反対方向へいく大きなフェリーとすれ違う。船上に作業員の姿が見えた。

青森へ向かう同じ会社に所属するフェリーだろう、ボーッ……相互に長い汽笛を鳴らし合う。

その音は快晴の海峡ではあったが、何かもの悲しさを感じさせた。フェンス近くに立つ由美の長い髪が風に巻き上げられた。その髪を押さえようと頭を下げたとき、由美の体はフェンスを乗り越えて海面へと落ちていった! 頭を下にして泡立つ海中に呑み込まれていく……

あっという間の出来事だった。

 

ボーッ、ボーッ、ボーッ…… すれ違った青森行きらしいフェリーが激しく汽笛を鳴らす。

船尾デッキで作業をしていた乗務員が第9便のデッキから人が転落したのを目撃、常時携行している業務無線機で操舵室へ緊急連絡をしたのである。

この船から乗船客転落の連絡を受けた9便はスクリューを逆転させる激しい音を響かせて停船した。それから50分ほど後、2隻の懸命な捜索によって転落場所から4キロほど青森寄りの海上で、むごたらしい遺体の一部が発見される。船腹真際に転落したらしく、スクリューに巻き込まれていた。体は右胸部から左の大腿部まで斜めに切断されていて、発見された遺体はその下半身だった。救出にあたったフェリーの乗員のなかには、余りにもむごい遺体の状況に、嘔吐するものもいた。遺体の上半身はその後の捜索を引き継いだ海上保安庁の巡視船でも、ついに見つけだすことはできなかった。その後行われた北海道警察科研のDNA検査で、遺体は松川由美であることが確認される。

松川由美は19歳という若い命を、目を覆いたくなる凄惨な姿で自ら断ってしまった……その死は彼女には思いもよらない大事件へと進展していく……

第9便が函館港へ到着するまでに特等船室に残されていた松川由美の遺留品が見つかった。

函館港に接岸すると直ぐ、無線連絡を受けていた事故海域の管轄警察署である北海道警・函館南警察署の係官が乗船、検視と同時に船長立会いのうえ遺留品のハンドバッグを調べたところ2通の遺書が発見され、この事故と思われた件は自殺であると断定される。

遺書の内容から医療事故、また病院ぐるみの医師法違反があると睨んだ北海道警は、短時間のうちに大々的な捜査に入ることを決定した。

投身自殺者の身元を確認できるような所持品は見当たらなかったが、遺書にあった「外賀総合病院」の所在は道警本部の調べで直ぐ判明する。遺書の内容を重く見た道警本部は、警視庁社会経済課へ捜査協力の依頼をするとともに、厚生労働省、及び東京都庁の医療監察部門へも刑事事件としての立件へ捜査協力を依頼した。道警はその日のうちに「外賀総合病院医師法違反捜査本部」を函館南署内に設置、本部長には捜査1課長の那覇田時鐙・警視が当たることになる。

 

函館南署の捜査1課は4階建ての庁舎の2階にある。明るい蛍光灯に照らされた室内には、5、6人の私服や制服の警官が残務整理をしていた。そんな一角に捜査第3係がある。

捜査第3係は社会的犯罪、例えば暴力団の嫌がらせ、未成年者の犯罪、性犯罪などといった社会秩序の保守を主とする犯罪を取り締まっている。医師法とか薬事法といった医療問題も管轄に含まれている。ただ、今度の事件は該当現場が東京であるため、道警には主捜査権はないため、警視庁の捜査を補佐することになる。その補佐責任者が太田垣宣豊 警部補である。

捜査3係は4脚ずつが向かい併せに置かれていて、その頂点に両袖のデスクがおかれ、その上には自分の方に向けられた「係長 警部補・太田垣宣豊」という白地に黒字のプレートがあった。

午後10時を過ぎた今は、係員は誰もいない。太田垣ひとりが顔をしかめて座っている。

何かの書類を見ている太田垣は40歳後半だろうか、日焼けした顔、引き締った体はスポーツ選手のようだ。顔にはこれまでの労苦を物語るような無数のシミがが浮き出ている。丸刈りにした頭髪と目の鋭さは捜査官というより、暴力団幹部といった雰囲気がある。

しばらく書類を見ていたが、傍らの電話に手をやると、書類にある電話番号を片手でなぞるようにしてプッシュボタンをゆっくり押していく。その書類にはファックスの汚れらしい横に走る何本もの黒い筋が残っていた。その書類は『救急医療機関登録簿』で医療機関名は「医療法人東友会 外賀総合病院」となっている……

 

「あ、権藤専務、姿です……」

「やあ、姿君、奥さんの容態はどうだった? 心配してたんだよ」

「申し訳ありませんでした、きのうは他の大学病院へ緊急搬送されることで、ご連絡することができなくて、本当に申し訳ありませんでした……」帝北大学病院西病棟21階のロビー電話室から、逸平は南海汽船の権藤和明専務の自宅へ恵美の容態を報告する電話をしていた。

東洋自動車から放出され、当時の上司であった山本俊幸、筆頭常務の推薦により南海汽船の運航部次長として再就職していた。南海汽船とサウジアラビア政府が計画している現地大規模石油基地建設が進行しており、逸平が現地交渉責任者になっていた。東洋自動車時代に中東で長期間にわたりサウジアラビアに駐在していた実績が期待されたためだ。10月中旬にも現地へ調査と交渉のために出発することになっていた。

「……ええ、そうです……はい、きのう私が病院に着いたときも意識不明のままで……はい、そうです……病名ですか?……」病名について云おうとしたが、言葉を切り周囲を見回す。誰もいないのを確認すると再び話しはじめた。

「……病名は癌でした……はい、そうです。はっきり医師は私に宣告しました。胃、食道、さらに膵臓、肝臓も癌に侵されているといっていました……いいえ、大量の出血を続けている胃だけは昨夜半からの摘出手術で出血は止まったのですが、その他iついては手遅れということで……そのままになって……はい、そうです……いえ、最初に運ばれた病院でまた大出血が起きまして……ええ、そうなんです。それですぐ、ここ帝北大学病院へ移送されたんです……はい、有難うございます。一時はどうなることかと……はい、ほんとうに……有難うございます。今朝まで8時間近くの手術を受けましたが、残されたところは化学療法で治療するそうです……いえ、意識は担当の先生の話では今日の午前中に戻ったそうですが、集中治療室にいて面会はまだ不可能だということで見ていません……有難うございます、すみません…………すみません、お言葉に甘えて、しばらくは家内のそばに……はい、申し訳ありません……はい、すみません、また逐一、ご報告させて頂きます……有難うございます、よろしくお願い致します……はい、どうも、有難うございました、失礼いたします」

 

権藤専務との電話を終えた逸平は、しばらく考えごとをするように、そのまま立っていたが、またカードを入れると電話機のボタンを押しはじめた。千鶴への電話である。

今度は前と違った合成音に変わっていた。

・・・おかけになった電話は所有者からのご依頼により取り外されております・・・

もう一度かけてみたが、同じ声が返ってくる。

千鶴の行方が分からなくなってしまった! もう、連絡が不能になってしまった……!

逸平は瞬間、呆然とした表情になったが、すぐ気を取りなおし電話室から出て歩きはじめたが、思いついたようにまた、今の電話室に戻ってきた。手帖をスーツの内ポケットから出すとページをめくっていたが、受話器を肩ではさむと電話番号を押していく。

ガリガリという雑音とともに先方が出た。

「あ、山本常務さんのお宅ですか? こんな夜分に申し訳ありません、私、以前、常務さんに大変お世話になっておりました姿といいます……はい、そうです、ほんとにご無沙汰しておりまして……いえ、ほんとに申し訳ありません、その節には大変お世話になりました。有難うございました……ええ、すみません。お願いします………あ、常務、すみません、お休みのところ、こんな時間に、ほんとに申し訳ありません。その節にはご厚情を頂き有難うございました……いえ、とんでもない、有難うございました、実は今日お電話いたしましたのは家内が癌で救急搬送されたんです……ええ、昨日のことです。私は南海汽船・札幌支店での会議に出ていたんですが、息子から家内が吐血して意識不明になっているという連絡がありまして……ええ、そうなんです、数日前に神戸へ電話をくれたときには元気な様子だったんですが急に……ええ、そうなんです、それで今朝までは意識不明が続いていたんですが、大出血を続けていた胃だけは取ったもののほかにある癌腫の幾つかはそのままになっているそうです。全身に転移していて、担当の先生の話では長くて2ヶ月ほどの余命だろうといっていました。これからは化学療法を施すと……やはりそうですか……はい……」受話器をもつ逸平の手が震えていた。

「……ええ、この前、ちょっとお聞きしました……ええ、当然にそういうことになるでしょうね……ええ、やはり……そうでしょうね、それで常務、今日お電話をさせて頂いたのは、以前、常務からお聞きしたことがある名古屋の東洋医学の先生、えーと……あ、そうです、川上先生のご指導を頂くことはできないかと思いまして………畑中先生? そうですか、すみません……はい、14日の午後2時……はい、水曜日ですね、歌舞伎町の“ラ・セーヌ”……わかりました、お忙しいところをすみません……有難うございます、よろしくお願い致します」

 

かつての上司だった山本俊幸常務への電話を終えて、これからの恵美への治療における新しい道筋を教えてもらったことで逸平の足取りは軽くなったようだ。

「どうぞ……」逸平のノックに正樹は大きな声で応える。病室には正樹と姉の梨香がいた。

亮子と和江は恵美が一応だが危険の域を脱したきょうの午後、病室にいてもまだしばらく恵美との面会が許されないということから、逸平の勧めもあって自宅に帰り休養している。博樹も後期試験の途中ということもあり祖母たちと一緒に帰っている。正樹も宿題があるため、もうすぐ帰ることになっていた。みな恵美の顔は見ていないが、意識を戻しているという状態は、昨夜と比べると格段ともいえる安堵感になっていた。

病室のカーテンは開けられたままだ。窓のガラスが鏡のように室内の様子を映している。窓の外には光を反射するダイヤのように無数のネオンや街の灯りが瞬いていた。

恵美が意識を戻していて家族に逢いたがっているという担当医からのニュースは恵美の帰りを待っている家族にとって何にも比べられない喜びだった。

癌のほとんどが残されたままであるとはいえ、もうすぐこの病室に戻ってきてくれる……そのことだけでも家族にとっては快哉を叫びたい気持ちになる。

外賀総合病院からここへ救急移送される救急車のなかで見た、あの蝋人形のように蒼白な顔になり身動きひとつしなかった恵美……その恵美の顔色も見違えるほどいい顔色をとり戻したと主治医はいっていた。絶望の淵に立たされていた昨夜とはうって変わった、今夜は希望に燃えることができる夜になろうとしている。

さきほどの電話で、かつての直属の上司だった山本常務は大学時代からの友人で、世界的な内科学の権威とされる畑中博士を紹介してくれるという。この病院を円満に退院させ、別府市にある東洋医学療養センターに恵美を入院させるために。

逸平は心から山本常務に感謝していた。不倫という逸平の許されぬ行動に対して、社外放出という厳しい処置をとった常務だったが、南海汽船という系列大手の海運会社・運行部次長という特別待遇ともいえるポストを用意してくれていたのである。感謝しても仕切れない温情だった。

もし、あのまま職場に留まっていたなら、自分が招いた結果ではあったが、社内に吹き荒れる逸平への寒風に負けて、いたたまれず退職していたことだろう。再就職の当てもないままに……

今度は、恵美の命を救うべく逸平を著明な医師に紹介してくれるという山本常務の厚情にはただ感謝するばかりの逸平だった。

 

「オレ、もうすぐ帰るね。宿題がいっぱいあるんだ」テレビのクイズ番組を見ながら、正樹は父の顔を見ながらいう。その顔には笑顔が戻っている。この正樹が常軌を逸した家庭内暴力で、母の恵美を長いあいだ苦しめてきた子とは思えないような柔和な眼をしていた。そんな正樹に逸平はいいようのない愛しさを感じる。

「有難う、正樹。遅くまでいてくれて、ご苦労さま。正樹のてきぱきした働きでお母さんは助かったんだ。いろいろな所へも連絡をしてくれて。お父さん、ほんとうに感心したよ、正樹には。ほんとうに良くやってくれた。帰って宿題を終えたら、ゆっくり休みなさい。梨香も。梨香もよくやってくれたね、お母さんの代わりを。疲れただろう、家でゆっくり休みなさい」

「うん、帰ってお風呂へも入りたいけど、お父さんをひとりにするのはん可哀相だし……」

特別室の豪華なソファに座る梨香が首をくるくると回しながらいう。かなり疲れているに違いない。昨夜からずっと母への心配が続いているうえに、二人の祖母へもいろいろと気をつかってくれていた。

「梨香も正樹と一緒に帰りなさい。ここはお父さんが残るだけで十分だ。お母さんの容態も安定していることだし、もう心配はいらない。何人も残る必要はないよ梨香。大丈夫だ」

逸平はソファに座りながらいう。

「ほんと? じゃ、わたしも正樹と一緒に帰るわ……あしたの朝、こっちへ寄って、それからいったん名古屋へ戻る……」

「うん、ふたりともご苦労さま、ありがとう」

まもなく梨香と正樹が病室を出ていった。二人を通路まで見送った逸平は窓のカーテンを閉めながら、しばし窓外の夜景に見とれる。はるか下の道路を走る自動車のヘッドライトやテールランプ、また大小のビルの灯りやネオンが互いに色どりや明るさを競いあうように瞬いていた。

そんな様子をいつまでも見ている逸平。目に映る夜景の奥に、もう連絡をとることができなくなってしまった千鶴の美しい顔がかさなる。千歳空港でひとり逸平を待ちつづけている千鶴の姿を想い浮かべると胸に痛みさえ感じた。千鶴が自分との愛に決別を考えたのは当然……そんなことも考える。病室の時計は7時20分を少し過ぎていた。

 

東京・品川駅近くにある外賀総合病院の旧館1階、救急救命センターには5人の医師と7,8人の看護師がいた。今日のような連休の夜でも救急指定の総合病院では通常どおりの待機体制がとられていた。内科も外科も形成外科も麻酔科、放射線科、産婦人科も、いつ搬送されてくるかも知れない患者のために24時間のローテーションで待機が続いている。

今は夜の9時半である。

「今夜は思っていたより穏やかですね。18時以降、まだ5件ですよ。ちょっと少ないほうですよね……」長い髪を後ろで束ねた30歳前後の医師が読んでいた新聞を膝のうえに置くと、大きな背伸びをしながらいう。

「まだ、まだ、宵の口の時間帯だぞ、今は。忙しくなるのはこれからさ、ことに休日はな」テレビを見ていた先輩らしい医師が画面をみたまま応えた。

「そうですか、じゃ、これ………」若い医師は言葉を切る。救命センターの小型電話交換機のブザーが鳴り、赤色の着信ランプが点滅をはじめた。

「そら、来たぞ……! 仕事だ…!」テレビを見ていた先輩らしい医師がテレビを消しながらいう。近くにいた看護師が受話器をとる。

「はい、外賀総合病院・救命センターです……バイクの転倒自損事故、男……はい、全身のケイレン、意識なし、脈拍ほとんどなし……はい、頭蓋内出血の恐れあり……はい、5分後の到着。了解です」

「搬送中の救急車からです。バイクの転倒自損事故の男性で、意識はなく頭蓋内出血の恐れがあると救急隊の隊長はいっています。5分後に到着です」看護師が的確に報告する。

「了解。それみろ、早川君。これからだぞ、患者のラッシュは……」そういいながら医師は折畳みイスから立ち上がる。頚にかけた身分証には外科医長・中島浩二と記されていた。身長は190センチ以上はありそうで胸幅もあり堂々たる体格だ。

「五嶋君、CTとMRiの準備をしておいてくれ」近くにいる痩せ型の医師に指示する。

「分かりました。開頭術も考えられますから5号手術室を使うようにしたほうがいいかもしれませんね」

「そうだな、たのんます。バイタルチェックは看護師、三田君に頼めるかな?」

「分かりました、医長」看護師の三田は大きな声で応えると、救急処置室へと走っていった。

すぐにまた交換機のブザーが鳴る。

「おい、おい、また来たぞ。今夜は忙しくなるぞ……!」外科医長の中島は笑いながらいう。忙しくなることに喜びを感じているようだ。

「はい、外賀総合病院救命センターです。……はい?」救急車が接近していてサイレンの音がうるさくて電話の声が聞き取り難い。受話器を取った医師が顔をしかめている。 

「はい、すみません、救急車の到着でさわがしくて……函館南警察署?……はい、確かに堀口はここの第一内科医長ですが……はい、ワタルといいます。ホリグチ・ワタルです……はい、おりますよ、医局のほうへ回しますね、ちょっとお待ち下さい」

 

第一内科の医局には堀口のほかに二人の医師が当直になっていた。堀口は自分の机で新聞を見ていた。二人の医師は傍らのソファに座り、小型の治療機器らしいものを分解して修理をしている。そんなところへ内科小児科総合師長の水田が入ってくる。

「やあ、水田師長、きょうも当直ですか?」新聞から目を離し機嫌よく堀口が話しかけた。

「ええ、そうです、堀口先生もですか? これ、夕方、転院してこられた永田さんのX線写真とCT写真です。先方の看護師さんが持ってきました」水田は大きな茶封筒を見せる。

「や、ありがとう、これを……」堀口の机にある電話が鳴って言葉が切れる。

「はい、堀口です……えっ……? 函館南警察署? なんだろう、はい、回して下さい」

まったく、わけが分からないといった顔で受話器を左手に持ち替える堀口。

「はい、お待たせしました、堀口です」

・・・・堀口先生ですか? お忙しいところを恐縮です。わたし函館南署の捜査課、係長の太田垣といいますが、お尋ねしたいことがあるんですが、お時間のほうはよろしいでしょうか?・・・・

「はい、結構ですよ、それで、どんなご用件で?」

・・・・そちららに、松川由美さんという看護師さんがおられました?・・・・

おられました? という過去形の言葉を使った捜査課の担当者の言葉を聞いたとき、堀口は顔から急激に血が引いていくのを感じた。

「はい、准看護師でしたが、松川がなにか……」ソファに座って治療器を修理していた当直の医師ふたりが手を休めて堀口の顔を、水田も堀口の目を食い入るように見つめている。

今朝がた、皆で行方を捜していた松川の名を堀口が口にしたとき、そこにいた者はみな、怖れていたことが脳裏をよぎり、全身が鳥肌立つのを覚えた。電話は警察からの連絡である……

・・・・そちらの看護師さんに間違いないですね。実は松川由美さん、今日の午後、函館行きの青函フェリーのデッキから投身自殺をされました・・・・

“自殺した”という言葉を聞いたとき、堀口は目前が真っ白になる。顔が引きつっていき、言葉を発しようとしても思うように口が動かない。

・・・・もし、もし、堀口さん、聞いていますか?・・・・

「投身自殺? 事故じゃないのですか?」

堀口の声は震えていた。ようやく、そんな言葉が出てきた。心臓の鼓動が聞こえる……

自殺……という言葉を耳にした水田は空いたイスに座り込むと顔を手で覆い机に伏せる。呻くような声が漏れてきた。泣いている……あのときの強い叱責を後悔しているのかもしれない。

・・・・はい、松川さんの遺書が見つかるまではそう考えていました。松川さんがデッキから落ちたとき、ちょうど僚船の青森行きと転落現場ですれ違ったんですわ……そのとき青森行きのデッキで作業をしていた航海士がいうには、仏さん、飛び込むというより風にあおられて転落したように頭を真下にして落ちていったというんです。まるで急に意識を失くしたか、突風にあおられて転落したようにね。函館港に入港と同時に船内の検索をしたところ、船室に置かれていた仏さんの所持品が見つかりまして、そのなかに2通の遺書があったんですよ。目撃者の証言からてっきり事故による転落だと私たちは考えていたんですが自殺でした。遺書の1通は両親に、もう1通は堀口医長と師長さんの水に田んぼの田を書いた、ミズタさんというのかな、この二人の名前になっています・・・・

「…………」話の途中から堀口には、もう相手の言葉がまったく聞こえてこなかった。なかば聞き流していた。松川由美が自殺してしまった……! それも青函フェリーからの投身自殺! さらに自分や水田宛の遺書まで残し、それが警察の手にあるとは……なんということだ!

 

遺書には何が書かれていたんだ!

こいつは、ただ一看護師の自殺で終わることはないぞ!

いったい、どんなことになるんだ?

どうすりゃいいんだオレは!

 

堀口の顔や首筋を汗が流れていた。その汗を手の甲で拭う。頭のなかは空白になっていた。

・・・・もし、もし、聞いとるんですか、堀口さん!・・・・

「はっ……?」

・・・・はっ、じゃないよ、あんた! あんたの部下が自殺したんだよ。自分のミスを苦にして…ええ? どう考えているんだね、あんたは! もっと真剣になんなさいよ、まったく……死を選ぶほどに苦しんだ仏さんの気持ちを考えてやる気はないのかねえ、対策のことを考える前に・・・・

太田垣係長の声には激しい怒りの感情が込められていることは堀口にもはっきり分かる。

堀口はその声にふっと我れにかえった。

「はい、申し訳ありませんでした。余りにも突然のことで気が動転しまして……」

・・・・私は捜査の手順としていま、あなたに、いろいろとお尋ねしとるんです。しっかり、聞いとって下さい。それでと……遺書はあなたと水田師長さん宛てになっとりますが、水田さんは内科の師長さんなんですか・・・・

「水田は第1内科、第2内科、そして小児科の総合師長ですが……」水田は自分の名を堀口が口にしたとき、涙にぬれた顔を上げたがまた机に顔を伏せる。

・・・・きのう、仏さんは何かミスをして患者を死なせてしまう医療事故があったようですね、これは事実てすか?・・・・

「患者の死亡事故などは発生していませんよ。松川が胃内視鏡の操作を誤って患者の胃壁を傷つけるということはありましたが、患者は死亡などしておりません、何かの間違いでは?」

こういうときでも、堀口は医長としての職責をまっとうしようとしていた。生死の淵を彷徨わせる胃壁穿孔という大事故を起こしたことは事実。しかし、そのことをより小さな事故として隠蔽しつづけるという、したたかさをこの時も失くしていなかった。

・・・・死亡事故はなかった? それは、ほんとですか!・・・・

「はい、死亡はしておりません。出血がひどかったものですから、翌日に胃の摘出と膵臓の癌腫摘出を依頼してあった帝北大学病院に緊急手術を依頼し救急搬送しました。手術は成功し、患者は意識も回復し経過は良好です。執刀医は帝北大学病院の第3外科部長で副病院長の鬼塚喜八教授です。お疑いでしたら帝北大学病院へ確認して下さい。クランケ名は姿 恵美です」

堀口はいつもの冷静さと、ふてぶてしさが戻っていた。冷静というより開き直りだった。警察の捜査という段階に至っていては、もう自分たちにはどうすることもできない……

 

松川のヤツが早とちりしただけじゃないか

患者は命をとりとめ、快方に向かっているんだぞ

オレたちに何の落ち度かあるというんだ!  松川がミスをしたことなんだぞ!

その松川が自殺したからといって、オレたちがどうして

ビクビクする必要があるんだよ、冗談じゃないよ!

 

堀口は太田垣に対する敵意を感じていた。

・・・・そうですか、患者さんは亡くなったわけじゃないんですか。仏さん、早合点したんですな、可哀相に……見るも無残な姿になっていました。フェリーのスクリューに巻き込まれて胸から太腿へ斜めに切断されていました。両腕も失くして……切断された下肢の部分は今も海上保安庁の巡視船が捜索していますが、まだ発見されていません。しかし、本当に可哀相なことでしたな。患者は助かって快方に向かっているというのに……それはそうとして、仏さんは准看護師だったのですね?・・・・

「はい、そうです」

・・・・事故が起きたとき、松川さんの業務に指導医として立ち会っておられたのは誰だったのですか?・・・・

「私が指導しておりました。ただ担当していた入院患者の容態が急変したという連絡があって、操作法をよく指示してから10分ほどその場を外しているときに、松川君のミスが起きたのです」

・・・・そうですか、大体のところは分かりました。それでですね、明日の13時、私と警視庁の捜査員、10名ほどになるかと思います。それと東京都庁の担当者が事情をお聞きするため参上します。あなたと病院長、事務局の責任者、それから水田さんには居て頂くように、あなたから連絡して頂けますか?・・・・

「はい、承知しました。おいでになるのは明日の13時でしたね?」

・・・・はい、そうです。それからそのとき見せて頂きたい書類や資料があります。これからいうものを準備しておいて下さい。過去3年前からのものです。メモして下さい、いいですか?

はい、いいますよ。おたくの病院、全診療科に所属する医師、正看護師、准看護師、各種技師、薬剤師、事務職、アルバイト、その他この病院から給与、手当をうけている全員の名簿、出退の状況がわかる出勤簿かタイムカード、全員の給与支払い台帳、これは電算処理された台帳で結構です。それから保険点数請求票控、補助金請求票控、薬品その他全ての仕入れ・購入状況が分かる台帳と支払い状況が分かる送金関係先の控、全ての薬品の出庫状況を把握できる資料、それからこれは病院長個人に関わる書類ですが、明日までには間に合わないでしょう。一週間以内に揃えておくように病院長へお伝え下さい。いいですか、まず、院長個人名義、家族、親族名義の全金融機関の預金通帳、定期性預金証書、各証券会社の取引状況票と現在の残高証明書です。預金関係も本年8月から3年前までを揃えておいて下さい。いいですね。それから、患者が運ばれた病院は何処でしたっけ・・・・

「帝北大学医学部付属病院。執刀医は第3外科教授で部長兼副病院長の鬼塚喜八」堀口の言葉は投げやりにな口調になる。どうにでもなれ、そういった気持ちになっていた。

・・・・わかりました。明日の午後、警察病院の担当者が患者のカルテを見せて頂きに上がります。病院への連絡は警視庁のほうから致します。ほかにも幾つか準備して頂くものがありますが、これは伺ったおりにお願いすることにします。や、きょうはお忙しいところをお邪魔しました。じゃ、お願いしたもの、よろしくお願いします・・・・

受話器があたっていた堀口の左耳が赤くなっている。無意識のうちに、それほど強く受話器を耳に押し当てていたのだ。医局に居合わせた医師たち、また今は顔を上げている水田師長も押し黙ったまま呆然としていた。話の内容は堀口に訊かなくても分かりきっている。想像すらしていなかった松川由美の投身自殺とその遺書によって、警視庁という本庁が捜査する「大事件」になってしまったのである。外賀総合病院の消滅に関わるかも知れない非常事態である。

堀口は腕を組んだまま、黙って天井を見つめていた。虚ろな目で………

 

(つづく)

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