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千島学説|新生命医学会

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長編小説 霧のなかの巨塔  第3回

第一章 奈落

■見えない糸②

正樹が叩きつけられた物音を聞いて、恵美が駆けつけてきた。脇腹がまだ痛むのだろう、前かがみになった姿勢だ。

「やめなさい、博樹……! お母さんは暴力には暴力というやり方は嫌いなの……!」博樹の肩に手を掛け正樹から引き離そうとするが、博樹はその手を払いのける。そんな博樹の態度は、これまでに一度としてなかったことだった。

「ちょっと待って、お母さん……! 正樹はまだ、これくらいでは分かっていないよ、もう少し思いしらせておかないと……お母さんはキッチンへ行っててよ、もうすぐ終わるから……」母を振り返りながら博樹がいう。

「ほんとに、許してやって……ね、正ちゃん、もうしないわよね……」母の優しい言葉に気のせいか微かに頷いたようにも見えた。

「ほら、正ちゃん、もうしないって言ってるんだから、許してあげて……」

「うん、大丈夫、すぐ終わるから……」母に逆らうことなどなかった博樹だが、この時は違った。

「お願いよ、博ちゃん、もうやめてね。お母さん、お勝手へ行っているから……」そう言い残して恵美は部屋を出ていく。脇腹に右手を当てている。痛みがひどいのか歩みが遅い。

「どうだ正樹、お母さんに与えてきた痛みと苦しみを、お前はもっと、もっと知る必要がある……お母さんの苦しみは、こんなものではなかったんだ……! ええ……? おい、分かっているのか……?」博樹は捻じ上げている腕の力を少し緩めながらいう。しかし正樹の反応はない。なかば失神状態になっているようだ。

「おい、正樹、オレのいうことを聞いているんか……!」正樹の耳もとへ鋭い声を放つ。

「分かったよ……分かっているよ……もう絶対にしないよ、だから腕を放して……!」そう答える正樹の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「いいか、おい……! お母さんはお前だけのお母さんじゃないんだ、オレのお母さんでもあるんだぞ……! これから、お母さんやオレになめた真似をするんじゃない、分かったな……!」正樹は兄の言葉に幾度も頷く。捻じ上げられた右腕はほとんど感覚がなくなっていた。それよりも左の足首が痛んだ。ズキン、ズキンと脈を打って……その足頸の痛みとともに、想像もしなかった敗北感に正樹は打ちひしがれていた。涙がどうしても止まらない。

「よし、やっと分かったようだな……そんならお前が投げ散らかしたものを片付けろ……オレも手伝うから……」博樹は正樹の腕を離し立ち上がる。正樹は流れる涙を左手でぬぐいながら立ち上がろうとしたが、言葉にならない声を出し腰を落としてしまった。腕は紫色から蒼白に変わっている。

「どうしたんだ、正樹……」

「立とうとしたら、左の足頸が……」呻くような声でいう。

「さっき、床に打ちつけたか……?」

「どうしたのか分からない……だけど痛い……」左肘をついて再び立ち上がろうとしたが、痛みに顔を歪めて頭からカーペットの上に倒れた。ゴンという鈍い音が聞こえた。

「ちょっとソックスを取ってみろ、見てやるから……道場でも連中がよくやるんだ……」博樹に言われてソックスを取ろうとするが顔をしかめてやめる。

「足頸が動かせないよ、お兄ちゃん……」

「動かせない……?」博樹は座ると正樹の足をそっと自分の膝に乗せ、静かにソックスを取る。足頸が少し動くだけでも正樹は苦痛に顔を歪めた。

足頸から、ふくらはぎまで、既にかなり腫れ上がっている。

 

……短時間でこんなに腫れてしまった。

これは単なる捻挫なんかではない……足頸の骨折だ……!

何ということをオレはしてしまったんだ……

たとえ仕置きだったとはいえ、弟にこんなケガをさせてしまうとは……何と言う兄貴だ……

事情はともあれ、弟にケガをさせてしまった自分にいいようのない自己嫌悪を感じていた。弟が金属バットを握り襲ってきたことへの反射的な行動ではあったが、もっと手心を加えるべき……ケガを負わせたことは弁解の余地がない……

両親以外には内密で、自分の貯金で合気道の道場に通い、約2年半の間に三段の資格をとるという道場でも屈指のつわものになっていた。合気道を習い始めたのは自分の心身を鍛えるため。弟に使うようなものではなかった。たとえ正樹が襲ってきたといっても、それを止めるだけが流儀なのだ。

博樹は自分の過剰な行動を責めていた。

「じっとしていても痛むのか?」正樹の顔をのぞき込むようにして言う博樹。

「うん、ちょっと……」

「この腫れかたは骨折かもしれない……蘇我町の村井整形外科へ行ってみよう、道場の人間がいつも行く病院だ。オレが連れて行くよ、今、10時か、急患で頼もう。電話をして来る……」

 

それから2時間ほど後、正樹は博樹とともに帰ってきた。博樹の肩につかまってタクシーから下りた。ぎこちない歩き方ではあったが玄関まではつま先立って自分で歩く。傷めた左足は膝から下がすっぽりとギブスで覆われている。履いていたジーパンは膝上から切り取られていた。

診断は踵骨骨端部亀裂骨折、全治2ケ月のケガ……

それから1ケ月余り、恵美は車で正樹を送り迎えした。中学までは家から車で7,8分の距離だったが正樹は素直に恵美の車に乗った。しかし、恵美の話しかけには返ってくる言葉はない。家でも送り迎えの車内でもずっと無言のまま……それは母親の恵美だけにではなかった。博樹にも、あの日以来、ほとんど会話らしい会話が交わされることはなくなった。責任を感じ何かと正樹をいたわる博樹だったが、受け入れを拒否し続ける正樹に結果からではあったが、博樹も言葉をかけることが次第に少なくなっていく。言葉をかけても無視されるのでは空しさが残るだけ……それは当然の成り行きだったのかもしれない。

正樹の暴力は行動面でも言葉の上でも、あれ程ひどかったものが完全に陰を潜めてしまった。 

小学校5年生の頃から今まで、4年近くも続いた正樹の家庭内暴力が、博樹との一件以来これ迄のことが夢であったかのように消えたのである。しかし、恵美にとっても博樹にとっても、会話というものを完全に拒否されたことによって、今までの暴力以上の陰鬱な精神的苦痛がのしかかることになってしまったのである。以前の正樹の行動は今から考えると、あのときは忍耐の限界に至っていたように思えたが、まったく無視されるという仕打ちに比べると未だ耐えられたような気がする。

しかし何れにせよ、もう今となってはなすすべがない。前にもました憂鬱な毎日が流れていった。 恵美たちの家庭は冷たい風がいつも吹きすさぶ冬の荒野そのものだった……

 

東京は前日からの雨がまだ降りしきっていた。6月も末というのに日中でも肌寒さを感じる。

ここJR池袋駅東口のコンコースは、肌寒い雨天にも拘わらずラッシュ時間が過ぎた朝の9時過ぎでも、乗降客や待ち合わせの人たちで混雑していた。

週末の土曜日ということが混雑に拍車をかけているのかもしれない。正面、壁画の下には5,60人が立っていた。待ち合わせをしている人たちだ。その群れのなかに逸平が立っている。190センチを超える長身と引き締まった筋肉質の体は日本人ばなれをしていて人目を引く。浅黒く彫りの深い顔が一層にその印象を強調していた。手には茶色のブリーフケースをもっているが出勤ではない。

妻の恵美には休日出勤と告げて家を出た逸平だが、愛人との一泊旅行に出掛けるための待ち合わせである。待っている相手は同じ本社の計算センターに籍を置く三品千鶴。行き先は熱海の初島だ。

千鶴は渋谷に近い自由ケ丘のアパートに一人でいる。実家は四国の松山。ここでは老舗といわれる海産物問屋である。東京の名門女子大に入学したときからこのアパートにいる。

逸平は何度かこのアパートを訪れたことがあるが、比較的モダンな4階建てで千鶴の部屋はその3階にあった。2DKのその部屋はいつも綺麗に整頓されていた。ミス東洋自動車と言われ男性社員たちの憧れの女性である千鶴との秘めた関係は、もう2年になろうとしているが、社内の人間も妻の恵美もまったく知らない。知られないように二人はこれまで細心の注意を払ってきたのだから、それは当然と言えるかもしれない。きょうの待ち合わせ場所も会社がある新宿から3つ離れた、乗車列車の始発駅である池袋にしていた。会社の人間に見られる危険を避けるための逸平の配慮である。

逸平がこの旅行を決め、乗車券類や宿の手配をしたあと、きょうの販売拡張課全員の休日出勤が決定した。その指示の出したのは課長の逸平である。

 

……今頃は課の連中はみな、月次書類の作成をしているだろう……そんなときに、オレは千鶴と

一泊旅行に出発だ。こんなことがもし会社にバレたら、オレの人生はそれまでだ……

でも、そんなことにはならないだろう……今度も細心の注意を払っているんだから。

しかし、オレがいない時に限って何か起きるのでは……?

 

千鶴を待つ間、逸平の脳裏には罪の意識と、言いようのない不安感が湧き上がってくる。きのうの朝、係長の三浦に"妻の母が急用で青森から上京することになった"ことを理由にして、きょうの欠勤を伝えておいた。考えた末、絶対にあり得ないことを理由にしたウソだった。

しかしこの日は妻、恵美の誕生日であることを完全に忘れていた。娘の誕生日をその家族と一緒に祝うため、義母の亮子が本当に青森から上京することになり、それを伝えるため恵美が逸平の机上にある直通電話のダイヤルをすることになるとは…… この日はついていないと言う逸平の運命は、これだけでは済まなかった。神の鉄槌とも言える最悪の事態が逸平を待ち受けていたのである……

 

逸平が千鶴を待っている頃、東京駅丸の内口を足早にステーションホテルへ歩く小柄な男がいた。 右手に大きな旅行バッグを提げ、左手には洋傘、そして薄茶色のレインコート……その後ろ姿はテレビ映画で知られる"刑事コロンボ"を連想させる。

男の名は浅川勇一。恵美が数ケ月後に治療を受けることになる、別府市の医療法人・東洋医学療養センターの病院長である。専門は内科学と産婦人科学。12年前、共和医科大学第2産婦人科学教室助教授という地位を捨て、東洋医学療養センターの副病院長として着任した。大学助教授時代、子宮ガンの組織研究をしているうち、ガン細胞は分裂増殖をするのではなく、体細胞から新しく生まれるのではないかという今の医学常識に、正面から批判する意見を発表したことから、浅川は主任教授である熊沢雅彦と、ことごとく対立するようになる。それから数ケ月後、浅川が主治医である子宮頸管前ガン状態の患者に対して、直ちに子宮及び両側卵巣の摘出を指示する熊沢教授と、しばらくは経過観察を続けるのが妥当と主張する浅川との対立が激化、熊沢は職権をもって摘出手術を強行した。

激怒した浅川は十日後に辞職した。話を聞いた京大時代からの親友、畑中辰太郎からの招きによって彼が病院長を務める療養センターの副病院長として大阪から赴任したのである。

畑中と浅川は京都大学医学部の同期生であり、ボート部のメンバーでもあった。畑中が8年前、京大系列である東京内科小児科センターの副総長として転出した後、浅川が病院長に就任している。

この日は畑中からの誘いで上京した。午前9時半にホテルのロビーで落ち合うことになっている。 畑中はもうロビーのソファに座っていた。浅川の顔を見ると座ったまま軽く手を上げる。

「よう、待たせたな。あんたのように足が長くないから、早く歩けんわい……」浅川は大きなバッグを足下のフロアに置きながらいう。黒縁のメガネの奥に浅川の柔和な目が笑っていた。角ばった顔にオールバックの髪、白髪はなく立派な口髭が印象的だ。

「可哀相に、おたくさんの短足は宿命だもんな。しかしまぁ久しぶりだな……」浅川と同期生とはいえ畑中は老けて見えた。細い銀縁メガネはともかく、白髪が目立つ髪と痩せ型の体型が年令よりも老けさせているのかもしれない。

「そうだな、3年ぶりじゃないかな……? あんたが別府に来てくれた時以来だもんな」浅川は外したメガネをハンカチで拭きながらいう。

「そうか、もう3年にもなるか。でも、あんたは何時になっても若さが残っているな、口惜しいことだけど。それで足が長かったら申し分のない好い男になるんだが……今もよくやってるのか? 断食を……」

「ああ、年に3回はやっているよ。後が実に爽快だからな。あんたの方はどうなんだ?」浅川が口髭を右手で撫でながらいった。

「うん、ここ1,2年ほどはしていないよ。去年からこの3月までカナダへ行っていたし、タイミングを逸してしまった。来月からでも始めてみるか……」

「そうか、まぁ、急ぐことはないさ。後が爽快だからそのうちにやってみることだな。それはそうとまだ山本君が来てないな、東洋自動車の……」浅川が出入口の扉を振り返りながらいう。

「あ、そうそう、山本君はきょう、ここへは来れないそうだ。きのう電話があったんだが、きょうの午後、熱海で代議士と会うことになって直接向こうへ行くそうだ」

「代議士と会うんだって……? われわれとは全く縁のない階層の人間だけど、大会社の役員ともなると、そういった人間と付き合うことも大事なんだろうな。しかし、せっかく山本と会えることを楽しみにしてきたのに……」浅川は耳の後を指で掻きながらいう。浅川は何か意にそぐわないことがあるとき、必ず耳の後を掻くクセが若い頃から消えていなかった。

山本俊幸も京都大学時代、ボート部の一員だった。学部は医学部ではなく経済学部だったが、畑中や浅川の3人とは妙に気が合い卒業後も親友としての交際が続いていた。

「そんなに残念がることはないよ。今夜はあんたもオレも熱海に招待されているんだ、山本にな。その代議士が自分の体の問題で、われわれに会いたいらしいんだ。お忍びでな……」畑中は代議士の話になると周囲に気をつかい声を潜めるようにしていう。

「代議士先生の健康相談か……ワシはそういった相手は苦手だよ。あんただけで行ってくれよ……」 浅川はそういいながら、また耳の後ろを掻く。

「そういう訳にはいかないんだな。山本からあんたのことを聞いて、代議士先生はあんたに相談したいというご指名なんだよ」

「ワシへのご指名か、ま、光栄と言わねばならぬところだが……」その時、館内放送があり浅川は言葉をきる。

・・・本日は東京ステーションホテルをご利用いただき有り難うございます。皆様にご案内いたします。間もなく3階「曙の間」におきまして"革新の血液学講座"が開講されます。ご参加の方は会場へお入り下さい。重ねてご案内を・・・

「おう、もう十時だよ。会場へ入ろうか、話はまた後でしようや……」畑中は腕時計を見ながら立ち上がる。手元にあったベレー帽をかぶると、その格好は医師というより芸術家のようだ。

「東京での血液学講座は5年ぶりなんだよ。この有名な基礎医学理論"千島学説"を、あんたも熱心に勉強していたな、初めて別府へ来た頃に……」畑中はエレベーターホールへ歩きながら思い出したようにいう。今の館内放送で十人ほどがロビーから同じ方向へと歩き始めた。

「ああ、あの頃、千島先生の"骨髄造血説の再検討"という著書を読んでね、定説を打破した新説を国立大学の教授でありながら、堂々と発表した先生の勇気と、その学説の内容に感激したもんだよ。ワシも骨髄造血説には大きな疑問をもっていたもんでね……」

「そういえば、内科医長の水上君も千島学説に傾倒してたな……」畑中は前を向いたまま、一人ごとのように言った。

「そう、水上君は臨床的に千島学説の正当性を立証しているよ。なにしろ、キャンサーをオペすることなく短期間で治癒させ得るのは千島先生の学説を応用するほかないものな。赤血球の分化、可逆的分化、そして腸造血説という実際を、いち早く学ぶことができたわれわれは、医師として実に幸運なことだと思っているよ……」歩きながら話す浅川の顔は満足感にあふれているようだった。

 

会場には既に百人余りの人が入っていた。会場正面には『千島学説・革新の血液学講座』というパネルが演台の上から吊され、演壇の花瓶には小振りの青いアジサイの花が立てられていた。畑中と浅川は中程の列の空席に座る。

「随分たくさんの参加者だな。4,50人かと思っていたが、これは千島学説への関心が高まっている証拠だよ……」畑中が後ろを見回しながらいう。

「そうだろう、千島学説への関心が高まるのは当然だろうな。ワシは千島学説こそ真の医学理論だと確信しているよ。キャンサーセルの起源だって、あんたもワシもセルの分裂像を見たくて何百回も条件を変えて実験を重ねたけれど、通常の状態では只の一度として分裂像を見ることはできなかった……分裂誘発薬を使わない限り……ワシたちだけじゃない、世界中の学者連中もそうだ。分裂像など自然の環境では見られる筈がなかったんだよ、千島先生の学説を知ってから分かったことだけどな……」浅川はそういいながら、受付で渡されたテキストを手にとる。表紙には『万物流転』と記されていた。…万物流転…か。千島先生の学説を象徴している言葉だ。宇宙や自然の現象に不変なものはない……千島学説発見の糸ぐちになった考えだ……浅川はテキストのページをめくりながら、そんなことを考えていた。

 

(つづく)

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