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長編小説 霧のなかの巨塔  第31回

第二章 灯りを求めて

■雁渡り③

ピピピ、ピピピ……床の間にある電話が鳴る。眠っていた逸平が弾かれたように立ち上がり受話器をとった。

「はい、姿です」そう応えながら腕の時計を見る。五時五十六分になっている。

・・・食堂です。お夕食の準備ができましたから、本館一階の食堂へお越しください。食堂はエレベーターを一階で下りられましたら左側の正面です。どうぞそちらへ……

「はい、分かりました。ありがとうございました」電話器に頭を下げる逸平。恵美は自分と逸平の毛布をたたみながら、その様子を笑いながら見ていた。

「あなた、電話器に頭を下げても先方さんには見えないことよ。それで、なんだって?」

「うん、食事の準備ができたから食堂へ来てくれって。丁寧な電話だったから、つい頭を下げてしまったんだ。じゃ食堂へ行こうか。あ、毛布はオレが上げる……」

恵美が片付けようとしていた毛布と枕を逸平が受け取ると押入れにしまう。

「ちょっと、横になるつもりが、二時間近くも眠ってしまったね」

「ほんと、わたしも今の電話がなかったら、まだ眠っていたわ」恵美はそういいながら、壁の鏡で髪の乱れを直している。

「あなた、お部屋のキーは持った?」

「ああ、大丈夫、ちゃんともってるよ」手にある長方形のキーホルダーを見せる。

 

食堂では、もう三十人近くの人たちがテーブルについていた。もう食事を始めている人もいる。

四人掛けの四角いテーブルが三十脚ほど。広い食堂だ。部屋のあちらこちらに濃緑色、淡黄色の観葉植物の鉢が置かれていた。室内の照明は蛍光灯ではなく、ホテルのロビーにあるようなシャンデリアが幾つもあり、やわらかいオレンジ色に近い光が室内にあふれていた。

「すごく素敵な食堂だわ! あなた、ホテルの食堂みたいね……」感激した恵美は小声でいう。

「まったくだよ、病院の食堂とは思えないな……驚きだよ」

「ねえ、ねえ、あなた、テーブルクロスを見て、ほら……ビニールじゃなくて布見たい……」

驚いたことにテーブルクロスは、本当にみな純白の布製だった。市街のレストランでも、よほどの格式ある店でないと布製のテーブルクロスを使うことがない。

「こいつはすごい! ほんとうに布製だ、なんとまあ……」逸平が驚きの声を出す。

直ぐに、奥からブルーの制服をつけた若い女性が来る。

「こんばんは、お疲れさまです。お名前をお聞かせ頂けますか?」

係員が丁寧に名前を尋ねた。

「はい、姿恵美と逸平です」

「姿様……少々お待ちくださいね」というと手にもつボードに挟んだ表を見る。

「はい、お待たせしました、姿さま。姿さまは12番テーブルです。ご案内します」

食堂の中央に近いテーブルに案内された。テーブルのすぐ傍に淡い黄緑色の観葉植物が二鉢おかれている。葉がツヤツヤと光っていた。

「姿さまは、きょうが第一日目、普通食ですね。明日からは減食期になって、少しずつ柔らかいご飯になっていって、十一日目から十日間は本断食に入ることになります。頑張ってくださいね」

係の若い女性が明るい笑顔で説明する。

「頑張らなくちゃね、わたし、三週間前に胃を取ってしまったから、おなかが空くことには慣れているんですよ。いつも断食をしているみたいなの……」恵美は明るく笑いながらいう。シャンデリアの光を受けた恵美の顔はいっそう健やかにみえた。

「ええっ、三週間前に手術されたばかり? まあ! ずいぶんお元気そう……何処も悪いところなどないみたい! 不思議としかいえないわ……あ、お客さま、どうぞ、ごゆっくりと……」

係の女性は小走りで入り口へと戻っていく。それから直ぐにお盆に載せられた食事が運ばれてきた。お盆だけはプラスチック製だったが、茶碗やお椀、皿、小鉢はみな木製や陶器だった。

病院の食器はプラスチック製だと思い込んでいた恵美は感激しきりだった。

「すごいわよ、あなた、このお椀、木で出来ている! なんていうこと、嬉しいわ……」

「陶器や木製の食器を使う病院なんて滅多にないよ、すごい、この病院の気の配り方は……何か温かい心に触れるような気がして、料理にも特別な味覚が感じられるような気がするね、恵美」

白いご飯、アジの塩焼き、モヤシと鶏肉の酢ミソあえ、ジャガイモとシイタケの煮物、白ミソ仕立ての里芋のミソ汁……ちょっとした民宿の夕食だ。

「あなた、わたし、こんなに食べられないわ、おみそ汁とジャガイモだけでいいわ……残りはおなた、食べて……」

「旅館の食事だったら、そういうことも出来るけどさ、こういう病院での食事は、食べた量のチェックをしているから、たべられなかったら残しておきなよ。そうしなさい」

それから30分ほど後、二人は夕食を終えて部屋に戻った。

 

「さあ恵美、家に電話をしよう、みんな待ってるぞ、電話器が鳴るのを……」

「ほんと、わたしたち、のんびりしていたけど、博樹や正樹、お義母さんも、心配で心配で、そわそわしていると思うわ。梨香ちゃんも待ってるかもしれない……早く電話しましょうよ」

一階ロビーの電話ボックスは六台とも空いていた。いちばん手前のボックスに二人は入る。

二人が入るとボックス内は動きがとれないほどだ。逸平はカードをいれると番号を押していく。

ガリッという音の後に…姿…ですという正樹の声が、傍に立つ恵美の耳にも聞こえてきた。

「ああ、お父さんだ、正樹か?」意外といえる沈んだ声でいう逸平。どうして急にそんな声を出したのか逸平の気持ちが恵美にはわからない。

・・・うん、そうだよ、おばあちゃん、お姉ちゃん、兄ちゃん、お父さんからだよ…・・・正樹が大きな声で皆を呼んでいる。梨香も今夜は東京にいるみたいだ。

・・・……お母さんの具合はどうだったの? 治るって?……・・・焦っているのか早口だ。

「ああ、お母さんのことだけどな……」また陰気な声を出しながら、恵美に片目をつむってみせた。その様子から逸平が何かたくらみがあることに恵美は気づく。

「……元気だったから安心していたんだが、正樹、来るのが少し遅すぎたんだって……」今まで見せたようなことがない実に陰鬱な声を出している。逸平の役者ぶりを始めてみる恵美だ。

・・・じゃ、治る確率はないということ?・・・正樹の震えるような声が伝わってきた。力のない小さな声になって……そんなとき、逸平は急に明るく大きな声になる。

「……なんて、いわれるかと思っていたらね正樹、お母さんの病気は、もうこの病院へ来る前に、40%以上も治っているんだって。お医者さんが驚いていたぞ……」

・・・ええーっ、お父さんは脅かすんだから、まったく! オレ、泣き出しそうだったんだから……じゃ、大丈夫なんだね、治るんだね、お父さん……・・・

「100%完全に治るってお医者さんが保証してくれたよ、お母さんの不思議なパワーにびっくりしていたよ。退院する前に治ってしまっているだろうって……」

・・・わあーよかった、お母さん、100%間違いなく治るって!……・・・正樹が皆に説明している声が受話器から聞こえてくる。

「あなた、電話を代わって!……」恵美がせかした。逸平は黙って受話器を恵美に渡す。

・・・もし、もし、お父さん?・・・博樹に代わっていた。

「あ、博ちゃん! 心配かけたわね……」子どもの声を聞いて恵美は涙声になった。

・・・お母さん! よかったね、もうだいぶ良くなっているんだって?・・・

「ええ、一ヶ月以内に完全に治るって、先生がいっておられたわ。お母さんの体からは、すごい強さのオーラというエネルギーの放射があって、それが病気を治す大きな力になっているんだって……先生もお母さんのように強いオーラの放射は見たことがないんだって……」

・・・オーラってなになの? おれ、初めて聞いた・・・

「そうね、帰ってからまた詳しく話すけど、地球上の生物は動物でも植物でももっている、特殊なエネルギーでね、これを見ることができる超能力がある人しか見えないの。私の担当になった先生はそれを見る力がある人だったの。お母さんのオーラは特別強かったみたい……」

 

それから四十分近く経ってから家族たちとの電話を終えた。長女の梨香も母の状態を知ってから名古屋へ戻るといって母からの電話を待っていたのである。

家族のみなが恵美の経過を喜んでくれる様子に、二人はこの上ない幸せを感じていた。みながあたかも全快して帰京するときのように、踊りだすかのように喜んでくれた。

その後、直ぐに青森にいる恵美の母、亮子にも電話をいれる。恵美の元気な声に驚き、退院前にも病気は全快するだろうと診断されたことを聞いて、亮子は嬉し泣きになった。逸平にこれまでと人が変わったように丁重な礼をいう。逸平は続けて山本常務、畑中博士、また南海汽船の権藤専務の自宅へもお礼ときょうの報告をする。山本は帰宅していて我がことのように喜んでくれた。畑中博士と権藤専務はまだ帰宅していなかったため、どちらも電話に出られた夫人に経過を報告し、また後日にお電話させて頂く旨を伝えて電話を終わる。

「あなた、いま何時?……」ロビー室を出ながら恵美がいう。

「七時五分になったところ。どうして?」

「よかった、お風呂へ行きましょうよ。八時からは健康塾だから、お風呂へ行く時間があるかなって思っていたの。いま行っておかないと、入れなくなっちゃうわよ、お風呂は十時で閉鎖となっていたから……」

「そうだった、ほんとだ、健康塾が終わったときには閉鎖されている。すぐ行こう、恵美」

恵美たちは急ぎ部屋に戻ると用意して浴場へ向かう。

逸平は十分足らずのうちに出て、浴場入口にあるベンチに座っていた。逸平は子どもの頃から長湯が嫌いで、いつもカラスの行水といわれていた。恵美も十分ほど後に出てくる。

「ああ、いいお風呂だったわ、白いお湯かとおもったら透明ね。肌がすべすべする……あなたのほうのお風呂も岩風呂だった?」

「うん、三方が岩で囲まれていたよ。大きな円形の浴槽で、総合病院のなかだというのに、いろいろな所が一流ホテルのような感覚をもたせるような工夫がされているんだね……」

「ねえ、温泉の観光ホテルへ来ているみたいね」歩きながら嬉しそうに話す恵美だ。

それからしばらく後、二人は部屋でくつろいでいた。恵美はテーブルのポットからお湯を急須に注いでいる。そんな恵美は三十歳代といえるほど若返ってみえた。

「はい、あなた、お茶がはいったわ。お風呂に入ったらノドが渇いちゃった」そういいながら恵美は焙じ茶を湯のみに注いでいる。香ばしい香りが漂ってきた。

「ありがとう、いい香りだ、ばんとにいい香りだな、番茶の香りは……」

「あなた、いまは番茶なんていわないのよ。焙じ茶っていうの。ずっとおいしい感じがするでしょ? お茶の葉を一度煎ってあるから緑茶よりもいい香りが出るの……はい、どうぞ」

「そうか、番茶なんていわないのか、焙じ茶ね……たしかにいい名だね。おいしい感じがする」

逸平は香りを楽しむようにしながら、湯のみを口にあてる。

東洋医学療養センターの第一日……癌腫の全面的消滅が退院前にも見られることが間違いないだろうという、浅川病院長や水上医長の言葉を聞いて、二人は安心感から心からリラックスした気持ちで休息していた。テレビのない部屋また外部からの音もなく、東京の自宅より静かだった。

天井にあるスピーカーからカチッという音とともにチャイムが鳴り男性の声が流れる。

・・・東洋医療科に入院中の皆さんにお知らせします。間もなく十九時五十分です。二十時より浅川病院長によります健康塾が始まります。第3教室へお越しください。第3教室は本館の三階です。筆記用具はお忘れになりませんように……かさねて……・・・

「さあ、これからは健康塾だ、ほんとうに忙しいスケジュールだね。服装はこれでいいし、名札もつけているし、そして筆記用具だ……」逸平は大きなバッグから二冊のファイルノートとボールペンを取り出して恵美に渡した。

「はい、この赤いほうが恵美のぶん、それからボールペンだよ」

「すみません、赤いファイルブック、昔の学生時代を思い出すわ。これから一ヶ月間、毎日、使うことになるのね、このファイル……」ファイルの赤い表紙を見ながら感慨ぶかそうにいう。

あと数分で八時になる。第3教室にはもう四、五十人が来ていた。教室形式に並べられた机の三分の二ほどが埋まっていた。恵美たちは中央から少し前の空いた机へ座る。

はかったかのように八時ちょうど、病院長の浅川勇一が入ってきた。教室にいる全員が拍手で迎える。小柄な体格だが、がっしりとした骨組み、全身が引き締って精悍な感じだ。きょう、診察室で説明してくれたときの浅川とは別人のような重々しさがある。それはここが教室ということがあるのかもしれない。角ばった顔に太い黒縁のメガネ、そして蝶ネクタイ……逸平は思った。

浅川のようなタイプには、はっきりいって蝶ネクタイは絶対に似合わないと。

演台に立つと軽く一礼する。

 

「いつも、拍手でお迎えを頂いて誠に光栄です。拍手を頂きますとちょっと有名人になったようないい気持ちになります。これからも拍手のほどよろしくお願いします……」

浅川のことばに、あちこちから笑い声が上がつた。

「……さて、きょうも、きのうに続いて千島学説の第1原理、赤血球分化説……そのうち『赤血球と炎症』についてのお話をしましょう……」手元のマーカーペンを手にすると、ホワイトボードに向かう。コツコツとペンの音が教室内に響いた。

「……いつもいっていることですが、わたしが尊敬している千島喜久男医博が提唱された千島学説は、前病院長の畑中から今のわたしまで、この東洋医学療養センターにおける治療基盤となっている医学理論です。しかし、現代の医学界ではこれを理解できる医学関係者はごくわずかしかいません。なぜなら、今の医学常識を書き換えねばならない、余りにも革新的な理論だからです。

医師たちも、皆さんも常識として覚えてきた医学知識とは多くの点で根本的に違っているのです。例えばここに書いた癌細胞の発生や増殖を例にとってみますと、今の医学常識では突然変異によって正常細胞が癌細胞化して、猛烈に細胞分裂して癌腫を造っていくことになっていることは皆さんもそう思っていらっしゃいますし、医者たちも疑問に思いながらもそうだろうと考えています。しかし、どんなに実験しても癌腫を造るまで細胞分裂が続いたことを確認した人は世界に一人としていません。それ以前に細胞は崩壊、すなわち壊れてしまうのです……」

浅川は話を止めて皆を見回している。みんな真剣なまなざしで浅川を見つめていた。

「……癌細胞や普通の正常な細胞も、分裂するという現象は死の直前に見せる断末魔ともいえる細胞が苦しんでいる現象……苦しみにもだえているんですよ……どうして苦しむのか……それは体外に取り出され空気に触れさせられ、さらに顕微鏡の光源という細胞にとって強い熱線を浴びて焼かれる火あぶりと同じことをされるからです。この処置によって細胞は1-2分で死んでしまいます。学者たちが見る細胞分裂というのはこの、異常現象を見ているのです……いいですか?

みなさん、正常ではない状態をみて、それが癌組織、いわゆる癌腫ができる経過だといっているんですよ。癌腫がどうしてできるのか、今もって解明できないため、架空の現象をつくりだしたわけです。患者さんたちへの、もっともらしい説明をするためにね。

真実は私たちの体のなかをくまなく流れている血液、そのなかの赤い色の元になっている赤血球が炎症を起こしている箇所で癌細胞に変わっているんです……」

「炎症……この文字が現しているように、赤くなり、そして熱をもつ状態を言いますが……」と浅川はいうと、ボードに赤いマーカーで大きな漢字を書いた。

炎症の5大特性・・・紅・腫・熱・痛・機能障害……

「はい、ここに書きましたように“炎症”というものはこの、5つの特性をもっています。いいですか? 紅、赤くなって、腫…腫れてきますね、そして、熱をもつようになり、痛みが生じますし、そして患部の働きにも異常が生じます……」浅川院長の話が続く。

「……炎症が起きたときには、程度の差はありますが、必ずこの状態が現われます。たとえば指にケガをして炎症が起きたとしましょう。ケガをした次の日くらいに傷の周囲が赤くなって腫れて痛みます。触ってみると熱をもっていて、近くに関節部があれば腫れと痛みで動かし難くなりますね……そう、これが機能障害です……」浅川は白板に向かうと、マーカーペンで大きく丁寧に文字を書く。“炎症⇒刺激による血液の集中”……

「……はい、炎症というものはどうして起きるのでしょうか。それはその箇所が血液の集中を必要としているため“刺激”という信号を出すからです。刺激の信号と一言でいっても、いろいろなものがあります。物理的なものによって生じる刺激、これはたとえば、入歯が合っていないことから生まれる“痛み”という刺激、また皮膚や内臓にできる“潰瘍”は痛みがなかったとしてもその状態自体が修復を要する異常な状態ですから、刺激という信号が出ます。また他に化学的刺激というものもあります。これは薬物による体の組織への刺激です。代表的なものが病院やクリニックで出される無数ともいえる薬剤があります。クスリというものは必ず、標示されている効果のほかに副作用という有害作用があります。化学薬品ですから当然ですよ。どんなクスリでも必ず副作用があり、それが少しずつ体内に残留していくものであることをご記憶のなかにとどめておいて下さいね。ですが、患者さんにお渡しするクスリは、病院にとっては儲けるためのドル箱なんですよ……」クスリは設けるためのドル箱だという浅川の話で教室内を笑いの渦が巻く。「製薬会社の説明書を見ていますと、驚くような極端なものがありますよ。頭痛の治療専用薬の副作用としてなんと、“継続的頭痛”と堂々と記載されているんです……」またまた教室内に大笑いの渦が起きる。浅川病院長のユーモアたっぷりの講義を人々はリラックスして聞いていた。「……こんなものは治療薬などとはいえません。ま、クスリの副作用については別の機会にお話することにして、“刺激”の項にもどりましょう。この刺激でいちばん悪質な部類に入るのが、体内環境の悪化に起因、いわゆる原因する赤血球への救援要請信号でしょうね。この場合は至る箇所からほぼ同時に発せられるはずです……」浅川は教室を見回すようにして話を続ける。

 

「今の医学常識では、皆さんもご存じのように、血液中の主成分である赤血球、あの赤い色の基になっている成分ですが、この役割というのは体に酸素と栄養分を補給し体の代謝によって生じた炭酸ガスや老廃物を運び去るのが役目だといわれていますが、そこに肝心な大切な役目を見落としています。

これは見落とすというより、分からないものとして無視しているきらいがあります。このことは間違いないことですが、実際はモット、重要な役目をしていることを見落としていたのです……」淺川はみなの顔を見まわすと、ボードに大きく『赤血球』と書く。

「……いいですか、どんな役目を見落としているかというと……」そういいながら、赤血球という文字の下に赤いマーカーで『体内の環境が正常なときには、体のすべての細胞に分化する』また『体内の環境が病的な状態にあるときは、癌細胞や炎症部の細胞などに分化する』と書き足す。

「……赤血球は役目を果たすかたわら、体の正常細胞にも、また病的細胞にも分化していくという最重要の役目も果たしているのです。この事実を指摘されても、今の医学界は顧みようとしません。前世紀の遺物といえる誤った定説を神のごとく信奉し、新しい説を発表しても、無視するだけではなく、千島先生に対しては各種学会での発表までも拒否しました。理由は『定説に対する批判的行為は学会の運営を妨害するもの』というためです。

臭いものにはフタをしておこう、というわけでしょう。「定説」というものは真実そのものだと妄信しているのだから、どうしようもありません。千島喜久男先生は生前、講演でよくいっておられました。『今の学者たちの頭は鉄のカブトで覆われていて、カブトを溶かそうと硫酸をかけても溶けない石頭を上回る鉄頭ですな』といっておられました。

今の医学界は在来の定説なるものにあくまでも固執して、疑問をもとうとしない顕著な閉鎖思考が顕著に見られます。しかし、現代医学がなんといおうが、この千島先生の説は事実のものだと私たちは確信しています、

いま、お話している赤血球分化説は千島学説の第1原理で、この理論の基盤になるものです。その要点はここに書きました、私たちの体を構成する体細胞は血液中の赤血球が分化したものであるということです。そして、体内の環境が病的になっているときは、癌細胞や炎症部の細胞、傷口を修復する細胞などに分化するのです。

この赤血球の分化現象はリアルタイムで行われています。老化した古い細胞は崩壊して吸収されたり、組織の表面に押し出され、老廃物として周辺赤血球に取り囲まれ排泄される運命をたどります。一方、器官の組織表面に付着した赤血球の塊りは、融合しあって、白血球になります。今の医学は白血球は骨髄で赤血球とは別に造血されているといっていますが、そんなことはなく赤血球の細胞への分化過程で、必ず核をもつ白血球の形を経てから体の細胞に変わるのです。ここでも今の医学は大きな誤りをおかしているのです。

不思議でしょう? みなさん。これは人間の意志に関係なく自動的に行われています。

各臓器や器官、組織への誘導は、千島先生のご子息の推測では、器官、組織べつに異なった周波数による誘導信号によるものではないかと考えられるそうです。

余り知られていませんが、人間の体では常時、筋肉内で0.1ボルトの電圧が発電されています。発電燃料は体内の酸素とグリコーゲンという体内蓄積の糖質です。この燃料によって発電された電気は筋肉というバッテリーにいつも充電されていて、需要に応じて放出されます。各組織からの誘導波もこの電気が使用されているものと考えられます。

一方、体が酸素不足とか血流が緩慢、いわゆるスムーズな流れがないときには、病的状態という体内環境になります。このようなときには、健康なときと同様の過程で赤血球は分化しますが、形態はまったくことなったものになります。

最初は血流が停止、あるいは極度に流れが遅くなると付近は強い酸欠状態になります。そこの赤血球は病的細胞、いわゆる癌細胞や炎症部の細胞に分化していくのです。そのために炎症を起こし始めていた組織は、よくなるどころか、炎症部の組織はより大きくなり先ほどいったように『腫』、いわゆる腫れた状態になります。癌腫も同じもの、典型的な炎症です。癌細胞の起源は血の流れが止まるか、緩やかすぎる、いわゆる、止まったと同じほどの流れになったところから始まります。ことに、血の流れがこういうところでは、質がドロドロで、実に汚い血液になっています。酸素もほとんどありません。こういう無酸素環境が癌細胞の大好きな環境ですから、次々と死にかけた赤血球が互いに融合、くっつき合うことですね、こうして大きな核をもつ癌細胞に変わっていきます。今の医学でいっているように健康な細胞が癌化して細胞分裂を始めるといいますが、まったく間違っています。

病的になった赤血球が癌細胞に変わる、言い換えれば、癌細胞は病的になった体内に新生するんです。体という畑が荒れていると、そこには種を蒔いてもよい作物は決してとれません。歪んだグロテスクなものしか出てこないでしょう。

現代医学は癌の発生、再発に癌細胞の「転移」……」淺川はボードに前の記述を消すと、大きな字で「転移」と丁寧な字で書く。

「……たとえば摘出手術をしたのに、一ヶ月ほど後、別の部位に癌の発生が確認されたようなとき、この転移という言葉を使います。血管、リンパ管などを経由して癌細胞が移っていき、そこに新しい癌腫を造ったというのですが、そんなことは決してありません。

それらしく説明するため考えあぐねた末の、まやかし言葉です……」教室内からは、溜息というか、どうなってるの?というような言葉にならない声があがる。

「……血管を通して癌細胞が移るといっていますが、現代の医学では血管の末端、はしっこですが、ここは閉鎖されていて、外へは開いていないことになっています。また組織の細部に分布しているリンパ管はその口径が癌細胞より遥かに細い管ですから、癌細胞が侵入することなど、まったく不可能、血管もリンパ管へも癌細胞は侵入不可能なんですよ……」

皆はただ淺川の顔をみているだけだ。ただ、分からないというだけ……

「今の医学は、説明できないことには、空想の事柄をつくって説明するんです。世界の医学界が合意でやっているんだから……それが事実ということになってしまうんですよ、実に怖ろしいことです」

 

そう話をしながら淺川は、仮想、偽装された今の医学定説をあくまでも妄信して、その内容にまったく疑問を感じないふりをしている医学界そのものに失望していた。しかし、自分たちが何をいっても騒いでも、それを契機にして医学定説が見直されることなど、決してあり得ないことである。自分たちにできることは、何も知らない患者さんたちに、病気と治療、そして予防の誤らない知識ではなく知恵というものを身につけてもらうべく、今の啓蒙活動を続けている。

そんななか、昨今、ここ東洋医学療養センターへ自らの癌を治療するために入院してくる現役医師が増加している事実は、現代医学界にもその治療策に大きな疑問を抱く医師が増えている証拠といえると、淺川は医療改革への望みを残していた。入院する医師のほとんどがステージ2を過ぎていたが、その皆が医師であることをマル秘にしてほしいと懇願した。

ここ、一年ほどのあいだに三十人余りの医師が一般患者として入院、一ヶ月、或いは繰り返しての断食を終えて医師たちは退院していった。

なかには、ステージ3近くまで進行していた胃癌が、わずか一ヶ月で「全治」し、感激の涙で淺川の手を握り退院した医師もいた。

これらの現役医師たちの入院は、その医師たちが患者に施していた癌治療というものが、効果のない誤ったものであることを自覚している証拠であるといっても過言ではないと思っていた。淺川は「千島学説」の存在を医師たちに知らしめる絶好の機会だと思いその啓蒙に全力をつくしてきたが、これらの医師たちの退院後の様子については、定期的に手紙で連絡をくれる少数の医師たちを除いて、ほとんどが退院後の連絡はない。

連絡がない医師たちのほとんどが再び不養生による再発があるに違いないだろう。再発によって一層の反省はするだろうが、再発後の経過は最短でも、最初の治癒日数の3倍はかかるはずである。悪くすれば治癒は不可能ということも十分にあること。

医師といえど、退院後の自宅における経過は、一般患者と同じように、ひと月やふた月は指示された生活を維持するだろうが、その後は次第に、入院前の歪んだ生活に戻ってしまうのが通常のケースである。そうなると、一回目の癌発生箇所や、それ以外の部位にも発生してくるのが再発の好例であり、そうなるのが火を見るより明らかなことである。

このセンターに入院してくる患者さんに退院後の生活改善策を懇切に指導し続けている淺川は、この患者さんたちもほとんどが、退院後は指導してきた生活改善策など、馬耳東風という結果になっているだろうと、人間の精神の弱さと誘惑に弱い人間の宿命を感じていた。

その夜の健康塾も終了の時間が近づいていたが、皆は熱心に話を聞いている。

 

「さあ、本題に話を戻しましょう。今の医学者たちは癌細胞は猛烈に分裂して増殖すると、もっともらしくいいますが、このような分裂する姿は普通の状態ではなく、死の直前の断末魔の苦しみの姿なのです。

癌は刺激による典型的な炎症です。この現象を発見した千島喜久男先生の理論は世界に誇ることができる卓見だと思います。癌細胞が集まりあった癌腫はその組織を網の目のように取り囲んだ毛細血管が広がり、血管から流出した赤血球も癌組織を包囲している像が顕微鏡で容易に観察することができます。このような像を見ても、医学者たちはノーコメントに撤しています。癌細胞、癌腫の起源を示していてくれるこの現象をみても、誰ひとりとしてコメントを発しないのには呆れるほかありません。

細胞診で運が悪いと、癌腫がないのに初期癌として胃や乳房、結腸などを部分、或いは全部摘出されてしまう悲劇も多くありますが、この件についてはまた別の機会でお話しましょう。予定の時間を少し過ぎてしまいましたが、きょうはこれで終わります。

あと一時間で消灯時間です。どうぞ、ゆっくりとお過ごしください」軽く頭を下げて教室から出る淺川を全員が拍手でおくる。

 

「なあ、恵美……」教室を出ながら恵美を振り返ると、しんみりとした口調で逸平がいう。

「……今の医学というものは、最高に進歩した理論で出来上がった学問だと、畑中先生にお逢いするまで思っていたんだが、畑中先生や、淺川先生の話を聞くと、まるで間違いだらけの設計で造られた傾いた家みたいものに感じられるね。驚いてしまうよ」

「ねえ、『砂上の楼閣』という言葉があるじゃない、あれと同じね。基盤が間違っているなんて土台がない家と同じじゃない。倒れるのは時間の問題よ。わたし、いま頭が混乱してる……医学というものには何も疑うところはないと思っていた。私の胃癌も治してもらったのにね……」通路を歩きながら、頭を振る恵美。ほんとうに頭の中が混乱してしまったようだ。

「畑中先生がいっていたことだけどさ、医学でも外科系の分野だけは、その基盤はともかくとして、技術と機器類の発展は飛躍的なものだそうだ。だから、恵美の場合のように内臓からの出血とか、摘出といった技術的のものは絶対不可欠な部門だと思うよ。外科系の存在意義は大きいと思うな。あ、キーを出さなくちゃ……」

部屋のドアの前に立ち。ポケットのすべてを探すがないらしい。思いついたように胸のポケットに手をあて安堵の声を出す。

「あった、こんな胸のポケットにいれていた、無意識にやっちまったとは、オレもついにボケてしまったようだ」と苦笑する逸平。

「疲れてるのよ、あなた、早くやすまなくちゃ」

「そうだな、風呂にはもういっていることだしね、そうしよう……部屋のスイッチはと……ああ、ここだ」スイッチを入れると明るい昼光色の室内灯がつく。

「ああ、ちょっと疲れたね。恵美も疲れただろう、ちょっと休もうよ」逸平はテーブルの前に座ると足を投げ出し、両腿をさする。

「わたしは、不思議なんだけど、ぜんぜん疲れというものを感じないの。癌が幾つも残っているというのにね……」

恵美は逸平の向かい側のテーブル前に座るとお盆の上の湯飲みを手にする。

「恵美、ほんとに元気になってくれたね、うれしい。ほんとうに夢を見ているみたいだ」

「うれしい、あなたからそういって頂くと……わたし、いつも感じているんだけど、おなかの奥の辺りから、どんどん力が湧き上がってくるのを感じるの。手術をしてからはほとんど何もたべていないのにね。今は、おなかが空くこともなくなったし、なんだか仙女になってしまったみたい……」恵美が明るい笑顔でいう。

「ほんとだ、恵美は仙女そのものだよ、カスミを食べて生きているみたいだもんな。胃をとってしまってから、ひと月も経っていなくて、ほとんど断食状態なのに、こんなに元気に動けるなんて、やっぱり恵美はカスミを食べているんだよ、きっと……」

「ね、不思議ね、わたしのパワー。あなた、消灯になる前にお湯のみを洗ってきておくわね。直ぐ近くに湯沸し室があるから……」

幾つかの湯飲みをお盆にのせて立ち上がる恵美。それを見て逸平が慌てて立ち上がる拍子に、テーブルの角に右足の脛を強く打ち付ける、ゴン!という低い音が出る。痛そうな顔になる逸平である。

「ああ、痛そう、大丈夫? あなた……」恵美も痛そうな顔だ。 

「なんでもないよ、ちょっとぶっただけさ。そんなことより、恵美は休んでいなくちゃ。恵美は治療のために入院していて、オレは付き添いなんだ、それはオレがやるから……」

「大丈夫よ、あなた。わたしが洗っている間にお布団を敷いておいて下さる? もうすぐ消灯時間だから……」

「うん、分かった。洗い場はわかってるの?」逸平は腕の時計を見ながらいう。九時三十分を少し過ぎていた。

「ええ、わかってるわよ、洗面室の隣りが湯沸し室になっていたから。あ、そうだ、カギをもっていかなくちゃ、入れなくなるわ」

「大丈夫、いらないよ、ノックしなさいよ、すぐ開けるから」

テーブルを玄関横のすき間に立てかけ、布団を敷く逸平。どの布団も手入れが行き届きふかふかになっている。布団と枕には水色のカバーが掛けられている。シーツもパリパリだ。

敷布団にシーツを掛けているうちに恵美が戻ってきた。

「ねえ、寝るまえにお茶を飲まない? ノドが渇いちゃった」

「うん、そうしよう、あまり時間はないけど、オレも飲みたかったんだ」

二人は布団のあいだの畳に座り、お茶を飲む。もう全快してしまったのではないかと思われるほど元気になった恵美を見ながら、この恵美が自分には、かけがえのない人であったことを改めて感じる逸平だった。その思いは千鶴の死によって、ますます強まっていく。

天井にあるスピーカーからオルゴールの『夕焼け小やけ』のメロディが流れてきた。

・・・消灯時間です。きょう一日の幸せに感謝しましょう。そして訪れるあしたの幸せを願って……おやすみなさい……・・・ 女性のやさしい声のアナウンスが終わるとすぐに、室内の灯りが消え、天上にある小さな常夜灯がついた。淡い光に室内が照らされる。

飲みかけのお茶を味わうようにゆっくりと飲み干す恵美。逸平はもう飲み終わっていた。

「こんなに早くお布団に入るなんて、子どものとき以来だわ。病院にいたときは別にしてね、おやすみなさい、あなた……」

「おやすみ、恵美」

別府市の中心から少し離れたここ鉄輪温泉は、実に静かな温泉地である。耳をすませてみても何の音も聞こえてこない。時おりセンター前の道を通る車の音がするだけだ。

恵美と逸平の東洋医学療養センター入院の第一日目が過ぎようとしていた。

 

(つづく)

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