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長編小説 霧のなかの巨塔  第46回

第三章 美しき旭日

■秋の陽炎①

安心はしていたものの、緊急着陸が無事に終わったことに、喜びをわかちあう人々の声がキャビンに満ちる。逸平たちの席からは見ることができなかったが、感激の涙をぬぐう婦人もいた。

「おぅ、消防車だ! 何台もくる、救急車も……!」かなり前の席から男性の驚いた大きな声がキャビンに響いた。

「わあ~。すっげぇ大きなクレーン車だ……!」叫ぶような子供の声がそれに続く。その声に窓側の人たちが、いっせいに窓の外を見ようと頭をあげるが、相変わらず思うようにならない。天井のスピーカーからまたカチッという音が聞こえた。

・・・機長の増田です。ただいまは緊急着陸、まことにご迷惑をおかけいたしました。皆さま、お怪我はございませんでしたか? 衝撃に大変驚かれたことと思います。少々機首部分がへこみ、滑走路を削りましたが無事着陸できました。いま、クレーンによる機首引き揚げ作業をしております。さきほどパーサーからお伝えしましたように、機体が水平状態になりましたら、脱出シュートで機外に出ていただきます。火災や燃料漏れはありませんから、乗務員の指示に従って順序よく出ていただきます。

それにつきましては、また改めてご案内します。あとしばらくご辛抱ください。本日はJIA日本国際航空をご利用いただき誠に有り難うございました。本日の事故に懲りず、またのご搭乗をお待ちしております・・・

機長の日本語に続く英語による機内放送が終わると、拍手ではなく指笛と歓声がキャビンに湧き起こった。

「ああ…ほんとによかった、恵美。みな無事に着けて……」そういうと逸平はため息をつくように大きく息を吐き出す。これまでの緊張がいちどに緩んだのだろう。

不自然な姿勢で頸が痛くなったのか、前のシートに手をついたまま頸をまわしている。逸平のそんな様子にひきかえ、恵美は平然としていた。

「ねえ、あのショックと音にはちょっとびっくりしたけど、この飛行機の機長さん、すごい腕だと思うわ。あの嵐のなかで、敏捷に相手の飛行機をかわして正面衝突を避けたうえに、脚が出なくなった、こんな大きな飛行機を無事に着陸させたんだもの……」ひどい傾斜のために今も恵美は床に向かって話している。

大きな声で言っているものの、キャビンの騒がしさで逸平にもほとんど聞きとることができない。

時折、機体が小さく軋む音が聞こえてきた。前方の窓が何かで覆われていて外からの明かりが遮られていた。

乗客のほとんどは見ることが出来なかったが、機首部分の全体を幅50メートルはあろうかと思われる巨大な金属製のリングで覆い、大型クレーン車が左右から慎重にゆっくりと機首を引き揚げていた。機体の周囲には百人以上の作業員や制服、私服の空港関係者が作業を見つめている。

十数台の化学消防車や救急車がまだ待機しており、他の作業車も赤い回転灯をつけて七、八台が機体の周りに停車していた。

まるで大事故の処理にあたっているような状況だったが、240便の機体は外部から見ても何処に損傷があるのか分からない。

小型機がダイレクトで衝突した前輪から前部貨物室部分は金属製のリングとカバーに隠れて見えなかった。

ただ、滑走路上200メートルほどの間には、機首がこすったために白線がけずられた跡が残っている。巨大なジャンボ機は滑走路の中央線を機体腹部の真下に置き、進入コースを曲げることもなく停まっていた。

主輪だけの着陸という方向安定操作が困難な状態で、これほど正確に方向を維持することができる機長は稀といえる。

パイロットの完璧な操縦技術に作業を見守る人たちはただ感嘆するだけだった。立ち会う空港関係者のなかに、機長の増田が英国のゴールドリボン賞を受賞していることを知っている者もいてその話を聞いた人たちは、他機との正面衝突を神業ともいえる操作で回避し、さらに緊急着陸も見事にやってのけた増田に、いっそうの賞賛をおくっていた。

着陸から20分も経たないうちに機内は完全に水平状態に戻っていた。スチュワーデスの声で機内放送が始まる。

・・・お待たせいたしました。間もなく脱出シュー卜を投下いたします。機の両側の非常口、合わせて8ケ所あります。ここからシュートで出ていただきます。機内にお持ち込みの手荷物は降下される折り、先に落としてください。下の係員がお客さまにお渡しします。お足下におかれたお荷物、また前席小物入れネットに入れられましたペンやメガネなど、どうぞお忘れ物のないようお気をつけください。ご搭乗時にお預かりしましたお荷物は、大分以遠からご搭乗のお客さまは国際線の、大分からご搭乗のお客さまは国内線のお荷物お渡しコーナーでお待ちください。

申し遅れましたが、お手元に搭乗券半券をご用意ください。税関通過のおり提示いただくことになります。これより、脱出シュートを投下します。どうぞお近くの非常口より順序よく降下してください。お体がご不自由な方は、どうぞ降下のおり乗務員にお申しつけください。本日は緊急着陸、まことにご迷惑をおかけいたしました。深くお詫び申し上げます。またのご搭乗を心よりお待ち申し上げます。有り難うざいました・・・

落ち着いた丁重な乗務員の案内放送が終わると、今度は大きな拍手と歓声、それに指笛が入りまじり大変な騒ぎだ。有り難う、有り難うという大きな声も加わる。

スチュワーデスが続けている英語のアナウンスはまったく聞こえないが、外国人客も周囲の騒ぎからアナウンスを聞くまでもなく皆と一緒に喜びの感情をいっぱいに表わしていた。

数分後、すべての非常口が開けられ脱出シュートが固定される……日頃の訓練がゆきとどいていて、指差し確認しながら作業する乗務員たちの敏速な動作を乗客たちは感心しながら見ていた。

羽田空港の到着ロビーでは、出迎えの人たちが案内放送をじっと待っている。10分ほど前にJIA240便が着陸態勢に入ったという報告がされていたが、もう今は着陸しているはずだ。

無事の着陸か死傷者が出たかは別として……

これまでのようなチャイム音もなく突然に案内アナウンスが聞こえた。突然なので人々はギクリとする。

・・・JIA240便の到着をお待ちのお客さま、ただ今、機は無事着陸いたしました。火災もなく乗客の皆さま、また乗務員にも負傷者はありません………

全員が負傷もなく無事だという報告にロビー内は歓声で湧きかえった。飛び跳ねて喜ぶ若い女性のグループもいる。知らない人たち同士が手を握り合って喜びあう姿も見える……

・・・……現在、傾斜した機体の復帰作業をしております。間もなく乗客の方々に機外へ出ていただきますが、滑走路からバスによる連絡のため、ロビーへのご到着は若干の時間が必要かと思われます。いま、しばらくお待ちください………

そんな案内放送の途中から携帯電話をする人、公衆電話へ走る人などでロビー内は慌ただしい雰囲気につつまれた。

「よかったなあ、みんな無事で。ほんとによかった……」

源吾は力が抜けたかのような声で博樹と正樹を見ながらいう。

「ほんとによかったね。不時着するという飛行機を見られないと、何だか余計にやきもきするね、いらん想像ばかりしてしまって……」正樹が祖父の顔を見ながらいった。先ほどまでは顔色がよくなかったが、今は普段の血色に戻っている。

この機に乗っている母のことが心配でならなかったのだ。

「でもなあ正樹、脚が出てない飛行機が着陸するところを、実際に見ていたとしたら、もっと心臓があぶつくと思うぞ。もし着陸に失敗して、目前で大惨事が起きてみろ……心臓があぶつくどころか、いくら正樹でも目を覆うことなってしまう。分からないからこそ、無事だろうという期待がもてるんだ……」博樹の理論整然とした話を、祖父の源吾は感心して聞いていた。

……兄だけのことはあるわい。人の心理をよく捉えている。合気道をやっていると人の心理というものを、よく掴むことができるようになるのか? 甘えんぼうの正樹とは、ちょっと物の考え方が違う……

それから20分ほど後、再び案内放送が流れる。

・・・ただいま乗客の皆さま全員が入国審査室に到着されました。なお、大分からご搭乗のお客さまは税関手続きがありませんので、間もなく到着ゲートにお着きです・・・

「それ! お母さんたちが出て来るぞ……」祖父の源吾が大きな声でいう。源吾は息子の逸平とは比較にならないほど、嫁の恵美が可愛かった。男ばかりで娘がいない源吾には気立てのいい恵美が我が娘以上に可愛くてならない。

過ぎたことではあるが、もし逸平の不倫を源吾が知ったとしたら、永久に心のなかで勘当したことだろう。姿家という家名に泥を塗られた恥辱、そして可愛い恵美を裏切った、この上ない不出来な人間だとして……

百人近い人たちが到着ゲートを囲むようにして立っている。

グループ旅行らしい三人の女性たちが、笑顔で話をしながら出てきた。それに続いて次々と乗客が出てくる。どの顔も嬉しそうに笑っていた。迎えの人と抱き合って喜ぶ外国人客もいる。

そんな乗客たちの列の終わりに近いころ、待ちに待った逸平と恵美の元気な顔が見えてきた。

すぐ博樹や正樹、そして源吾の顔を見つけて、逸平が大きく手を振る。淡いオレンジ色のワンピースに同色のカーディガンを肩にかけた恵美も遠慮がちに小さく手を振っていた。

源吾には分からなかったが、その顔は大分へ発ったあのときよりも、さらに健康美にあふれている。そればかりではない。若返ったようなその全身からは不思議なパワーが放散しているように源吾は感じた。

こんな清々しく、はつらつとした恵美を見たのは恵美たちの結婚式以来、いや、この輝くような恵美を見たのは初めて……そんな思いがする源吾である。

正樹が大きく手を振る。母の帰りが嬉しくてたまらない。

「お帰り、お母さん! 荷物持つ……!」正樹が待ちきれなかったというように母のもとへ走りより、大きな紙袋を手に持つ。

「正ちゃん、博ちゃん、ありがとう……待たせたわね。お義父さんも、わざわざ……」恵美の声は涙で震えていた。

皆が迎えに来てくれたことが嬉しかった。ことに正樹が、こんなふうに駆け寄ってくれたことが何よりも嬉しいこと。

思わず正樹をそこで抱きしめたい激情にかられる恵美。

「おい、おい、お母さんの荷物ばかりじゃく、オレの荷物も頼むよ、重いんだ……」逸平が子供たちに訴える。

「ごめん、ごめん、この世はレディファーストなんだよ。ヒマがない、ヒマがない……」そういいながらも博樹は父の大きなトラベルケースを持ってやる。

「ウォーッ、なんて重いの、このケースは! 何が入っててるの……?」博樹は大きなトラベルケースを提げながら、たまらん…というような顔で父を見る。

「重いだろう、一ヶ月分の様々なもんだよ、ま、ほとんどが本だけどさ。向こうで読むつもりで持っていったけど、全然読む時間などなかったよ、一度も見ずじまいだった」

立ったまま博樹と話す逸平。その顔もかなり痩せていたものの、やはり恵美と同じように若返った感がある。

「お義父さん、ほんとに有り難うございました。長いこと行かせていただいて……」申し訳なさそうに頭をさげる恵美。

「なんの、なんの恵美さん、元気になったなあ…。いまゲートから出る恵美さんを見て、びっくりしたんだよ。恵美さんの全身から何か輝きを感じるんだ。こんな恵美さんは初めて見るような気がしてね、実に不思議だ……どうなったんだ、恵美さん……」

「わたしも何だか分からないけど、いつも体の奥から力が湧き上がっているような気がするんです……大分へ行く前から……」

「そぉぉ、センターへ行く前からねえ……!」

「ねえ、お母さんも、おじいちゃんも、早くタクシー乗場へ行こうよ。おばあちゃんが待ってるよ」そういって急かす正樹の声で皆はタクシー乗場へと急いだ。荷物が重いと悲鳴を上げていた博樹だったが、ケースを軽々と右手に持って歩いている。

「ほんとに不思議なこともあるもんだな、恵美さん……」

源吾は恵美と並んで歩きながら不思議な人を見るかのように恵美を見ていう。

「……入院する前からそんなにパワーが湧き上がっていたとは……あんな大病のあとだから、いくら治ったといっても、やつれた様子が残るのが普通なのに、以前どころじゃない、新しい不思議なパワーまで得て帰ってきてくれるとは……」

源吾はどう考えてもそのことが理解できない。何度も恵美を見る。常識では考えられない事実だった。

「お父さん、われわれ五人だから、普通のタクシーじゃ無理だよ。ジャンボタクシーにしよう……」重いトラベルケースを持ったまま振り返って博樹がいう。

「OK、そうしよう、乗場は近くかな……?」

「うん、すぐそばだ。そこを曲がったところ……」博樹が指で示した空港ターミナルのはずれにジャンボタクシーが十台以上も並んで客待ちをしていた。

恵美は息を弾ませることもなく、軽快な歩調で源吾と並んで歩いている。その脇には正樹がまるで恵美のボディガードでもあるかのように寄り添っていた。

ニキビがだいぶ目立つようになってきた正樹の顔は、嬉しさと満足感で活き活きとしている。昨夜は母が帰ってくるという嬉しさで夜中に何度も目が覚めてよく眠れなかった。

恵美も別人のような元気を得たが、正樹もまた別人のような母想いの子供に変わっていた。いや、変わったのではなく、本来の正樹の姿に戻ったのである。

ジャンボタクシーには待つ時間もなく乗ることができた。

愛想のいい運転手が博樹の持つ重いトラベルケースを受け取ると、運転席脇の広いスペースに置く。「大田区鵜の木3丁目までお願いします」明るい声の逸平だった。

 

(つづく)

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