「そんなに名言だったかな、ほんとにそうだもの。アメリカっていったらさ、ジャンボ機の生みの親だし、日本はそれを買って操縦法を習った側だったのに……」母の顔を見ながら真面目な顔でいう正樹だ。その顔にはまだ幼さが残っているように思える恵美だった。
「うん、確かにそうだな、そんな子供の日本人にも、ずば抜けたパイロットに成長した人間がいたんだ。お母さんたちが乗っていた機の増田機長のようにね……」
「それで、どんな状態を設定したの? 機長は……」体を乗り出すようにして博樹が祖父に訊ねる。日頃から航空機に関心をもっていた博樹には、祖父の話に胸がおどるように思えた。
正樹はただじっと祖父の顔を見つめている。
「うん、話をしているうちに、ジョンのいっていたことを思い出してきたぞ。増田機長は雷雲、わかるか? かみなり雲だな、この発達した雷雲のなかで右の主翼中央に雷の直撃を受けて燃料パイプが破損し燃料漏れが起きた。1分間に二千二百リットルの漏れ、残量十五万ガロン、約六十万リットル。最も近いジャンボ機着陸可能の空港までは今の速度で約3時間……」
「ねえ、ねえ、おじいちゃん、一分間に二千二百リットルという漏れは、どんな漏れ方なの? ジャンボ機にとって……」と正樹がいう。正樹も心はジャンボ機のコクピットに入りこんでいるようだ。
「うん、わからんだろうな正樹。おじいちゃんも確かなことは知らないが、ジャンボ機の水平飛行、つまり上空へ上がって通常飛行するときの燃料消費量は、だいたい一分間に二千八百リットルほどじゃないかな。四基のエンジンが使う量がね。だから……なぁ、おい博樹も正樹も、これは数学の問題になってしまうぞ。
頭が痛くなってしまうかもな……さて、おばあちゃん、熱いお茶を入れてくれるかな、何だか口が渇いちまった……」
源吾はテーブル上の湯飲み茶碗をかざして和江にいう。
「あ、ごめんなさい、あなたのお話を夢中で聞いていたもんだから……」和江はそういいながらポットの湯を急須に入れる。
「……おじいちゃんの話、ほんとに数学の応用問題みたい。おばあちゃん、分からなくなっちゃった……」
源吾の湯飲みにお茶を入れながらいう和江。
「ほんと、わたしも頭が痛くなりそうだわ」恵美は笑いながら両方のこめかみを押さえるしぐさをする。しかし、その実は大きな関心をもっているように眼が輝いていた。
「そうだろうな、さて、何処まで話をしていたっけな……」
「四基のエンジンがふつう使う燃料の量だよ……」と博樹。
「ああ、そうだった。水平飛行で一分間に二千八百リットル、燃料漏れが二千二百リットルだから、一時間の消失量は三十万リットルだな。使用量と消失量からいくと、一時間弱で燃料はゼロになってしまう。機体は墜落することになる……」
源吾はみなの顔を見回している。どうする……?というよう目で。学生たちを前にした以前の教授に戻ったかのようだ。
「……さらに、もう一つ困った条件が設定されていたんだ……破損した燃料パイプは、次第にその傷口が広がっていた……当然に漏れる燃料はどんどん増えていくことになる……」
皆は源吾の顔を見ているだけだった。何といっていいか分からないというように。
「いいかね、増田機長が設定した条件をもう一度言うよ。燃料の残量は六十万リットル、一時間の通常消費量は四基のエンジンで三十万リットルだ。そして燃料漏れは一分間で二千二百リットルで時間とともに加速度的に増えていく。最も近い空港までは現在の速度で約三時間かかる。さあ、どうする? というのが増田機長が設定した、アメリカの機長たちに与えた課題なんだ……これはまったく意地の悪いクイズみたいだな……」
「エンジンの二つを止めて飛行するんだよ……」正樹が大きな声で、やったぞというように得意げにいった。
「残念だね、正樹。漏れの量が加速度的に増えているんだから、それでも空港へたどり着くことはできないな……」
源吾は楽しそうに笑顔でいう。
「みんな、ちよっとタイムにしましょうよ」和江がいった。
「それはそうと誰もテレビ見てないんでしょ? テレビでもクイズ番組をしてるけど……」
いま人気のタレントをゲストに迎えての世界紀行クイズを放映していた。今日の航空機事故を中心としたニュースの時間延長のため、このクイズも三十分繰り下げて放送されている。
「あ、誰も見てないよ、おばあちゃん……」博樹がいま気づいたようにテレビ画面に目を移していう。
テレビのクイズ番組など眼中にないといった顔だ。
「うん、オレも……」正樹も祖母に答える。
「恵美ちゃんも見てないわね」
「すみません、お義母さん、わたしもお義父さんのクイズのほうが面白くて……」
「はい、はい、じゃ消しておくわね」和江が立ち上がる。
「ねえ、おじいちゃん、分かったよ。三基のエンジンを止めて一基のエンジンだけで飛ぶんだ、そうでしょ?」
博樹が得意げな調子で大きな声でいう。
「そうか、正樹はどう思う……?」微笑みながら楽しそうに源吾がいった。ビールの酔いがまだ抜けていないのだろう、顔がまだかなり赤らんでいた。
「燃料を節約するんなら、それしか方法がないとオレもそう思う……だけど、そんなエンジンー基だけで、あんな大きな機体を飛ばすことができるの……?」
「うん、まず正解から言おう。博樹と正樹の判断が正解だよ」
源吾の正解という言葉に恵美も和江も拍手をおくる。
「すごいわね、博ちゃんも、正ちゃんも。お母さんなんか、ちんぷんかんぷんだったわ。すごい……!」恵美は二人を褒めた。
「お母さん、何もそんなにスゴイことなんかないよ。2でなかったら1しか答えがないんだから、な、兄ちゃん……」
「ああ、燃料漏れが分かったときに、その側のエンジンは二基とも止めていただろうな……引火爆発を防止するために。次にする操作は左翼外側のエンジンも止めて、機体の安定を取りやすい内側のエンジンー基だけで飛ぶ……それしかないと思う……」
「博樹、航空機の操縦ライセンスをもたない博樹だけど、非常時にとるべき対処策をよく捉えているよ、アメリカの機長たちも皆、博樹がいった通りのことをしたんだ。しかし、それからの操縦が大変なことだったんだ……」源吾は博樹と正樹の顔を見ながらいう。孫たちは真剣な目で祖父を見ていた。
正樹は今日の航空機事故から兄の博樹以上に航空機への関心を強めていった。その強い関心は薄らぐことなく、高校を卒業後、宮崎市の航空大学校に合格、そこを主席で卒業すると大手民間航空会社に入社、29才で中型ジェッ卜旅客機・MD20型の機長に、六年後には大型ジェット旅客機・MD30型機長、そして44才で、800人乗りの成層圏航行・最新鋭超音速旅客機・MD80型機の日本で最初の機長資格をアメリカで取得した後、購入第1号機を米人交代機長、運行クルー3名とともに日本へ回送、ジャンボ機の2倍近くもあるその巨体を、見事に東京湾国際空港に着陸させた。敏腕機長として人々の尊敬をあつめ、また母校の航空大学校の名誉学長にもなる。その後、最新鋭巨大機で世界の空を飛ぶ名機長になることなど、当の正樹はもちろん、神々にも分からなかったことだろう。
宇宙船動力機構の世界的な権威者である祖父の能力が、逸平や博樹よりも正樹に偏って伝わったのかもしれない。
「あら、あら、あなた……こんなところで眠っちゃって。カゼをひくわよ……」恵美が大きな声で逸平に話しかけるが、仰向けになって眠ったままだ。当然に返事など返ってこない。今日一日の出来事に疲れきっているのだろう。
その逸平と比べると恵美の元気さには改めて驚くはかない。
眠たいどころか、今もなお体の奥から不思議なエネルギーが湧き上がってくる感覚を恵美は感じていた。
じっと座っていることに苦痛を覚えるほどだ。
「眠っちゃったみたいだわ。ちょっと枕と毛布をとってくるわね」そういうと恵美はさっと立ち上がる。
「あ、お母さんは休んでてよ。オレがもってくるから。おじいちゃん、ちょっと休憩だよ……」正樹はバネ仕掛けの足のようにさっと立ち上がり廊下へと走り出た。
源吾は片手を軽く挙げて、頷きながら湯飲みに手をやる。
「正ちゃん、場所わかる……?」恵美が正樹の背に声をかけると、正樹は廊下を走りながら大きな声で答える。
「大丈夫だよ、お母さん、オレの家なんだから……」
「ほんとに分かるのかしら、正ちゃんは」座り直しながら恵美は心配そうな声でいった。
「ちよっと不安だね。オレも見てやるよ……」博樹は母と目を見合わせると正樹のあとを追っていく。
「正樹も博樹も、お母さん想いのほんとにいい子だな、実に……」源吾はお茶を飲みながら感心していた。家庭内暴力で荒れていた頃の正樹を知らない源吾だった。
「お母さんが元気で帰ってきてくれたことが、もう嬉しくて仕方ないみたいだわ……」和江が廊下の方を見ながら恵美にいう。
「……恵美ちゃんたちが別府に発ってから、正ちゃんも、博ちゃんも随分寂しかったみたいよ。平気をよそおっている二人が可愛くて……寂しくてたまらないのに、おばあちゃんが居てくれるから、ぜんぜんだよ、なんて言ってくれるの……わたしに気をつかってくれて……」和江はなみだ声になった。
「でもお義母さん、ほんとはセイセイしていたのじゃないかしら……」恵美がいう。ふと、そんなような気もする恵美だった。
三人の子供たちに優しく接してきたつもりでも、子供たちにとってはうるさい母親であったことも多かったに違いない。
「なんの、なんの、恵美ちゃん……ここだけの話よ……」和江は廊下の様子をちょっと窺うと話を続ける。
「恵美ちゃんたちが別府へ行ってからちょっと後だと思うけど、正ちゃんがあなたたちの部屋でアルバムを見ていたの。どの写真を見ていたのかは分からなかったけど、写真を見ながら正ちゃん泣いていたの……きっと寂しくなって、お母さんの写真を見たくなったんだと思うわ。ときどき、強がりを見せる正ちゃんだけど、ほんとにお母さん子なんだから……」声を潜めて話す和江。
「そんなことがあったの、お義母さん……」和江が答えようとしたとき、廊下に二人の足音が聞こえてきた。
「正ちゃん、博ちゃん、分かった……?」恵美の声はよくとおる声だった。その声の張りに和江や源吾は改めて驚く。これまでの恵美にはない、力に溢れた声だった。
「うん、ちょっと探したけどね。な、兄ちゃん……」正樹は兄の顔を見ながら笑顔でいう。いまも嬉しさを隠すことができない正樹。帰りを待ち続けた母が、今はここにいるのだから……
「ありがとう正ちゃん、博ちゃんも。お父さんに掛けてくれる? 毛布を……あ、それから枕もね……」
正樹と博樹は恵美が言い終わらないうちに、父の頭を正樹がそっと持ち上げて枕をしてやり、博樹は静かに毛布を掛ける。
逸平は何か言ったようだが言葉にはならなかった。
「よく眠っているな、オヤジさんは。病気だったお母さんが、こんなに元気にしているのに……完全、逆になってるぜ……」
博樹は眠っている父を呆れたように見ている。
「今日はいろいろとあったものね。わたしに随分気を配って下さったのよ、お父さんは……飛行機と衝突したときにも、お母さんを抱くようにして守ってくれたの。不時着したときにもね……」恵美は眠っている逸平を見ながら思い出すようにいった。
「へえー、そんなことがあったの……いつものオヤジからは想像もできないな。けっこう、優しいところもあるんだ、だまっているけどね」正樹が感心したように父の顔を見る。
「そうよ、正ちゃん。お父さんは優しい人なんだから……」
「ごちそうさま、恵美ちゃん。おのろけを……あら、おじいちゃんも、何だか静かだと思ったら居眠りしてる……」
和江は源吾の肩を軽く叩いた。
「ああ、うん…? ちょっと目を閉じていただけだ、眠ってなんかおらんぞ……」源吾は頭を上げながらそういうと、卓上のグラスに残っていたビールを一気に飲み干す。
「ありゃあー、おじいちゃん、そんな一気飲みは体によくないよ、少しずつ飲まないと……」孫の博樹に注意される源吾。息子夫婦が元気に帰ってきてくれたことが、嬉しくてならなかった。
いつものように晩酌にしているビールも、今宵のビールは格別に旨く感じる源吾だった。
「ありがとう、博樹。今夜のビールはなあ、本当に旨いんだ。もう、これでやめるよ、うん……」嬉しそうに源吾はいう。
「……これで、ここに梨香がいれば、この上なしなんだけどな……」笑顔のなかにも少し寂しそうにポツリと源吾がいう。
「ほんとにね、四日前にアメリカへ発ったばかりだものね。どうしよう、どうしようって幾度も迷ってここへ電話をくれていたけど、『恵美ちゃんは大丈夫、もう、すごく元気になっているよ』っていったら決心してくれたの……」
「有り難うございました、お義母さん。可愛そうに梨香ちゃんにも心配させちゃって……でも出発する決心をしてくれてよかったわ。わたし、こんな元気になったというのに、梨香ちゃんが楽しみにしていた短期留学をやめたりしたら、わたし、ずっと後悔することになったと思うわ。帰国は確か十二月末だったわね、お義母さん……」
「ええ、そう、十二月二十日の午後、名古屋空港に着くんだって。ペンシルヴァニア州のレーク……なんていったっけ、おばあちゃん、忘れてしまったわ……」
「レークウッドでしょ、エリー湖の…」恵美が補足する。
「あ、そうそう、そのエリー湖のそばにある女子大の体育施設で共同生活なんだって……」和江が弾んだ声でいう。