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長編小説 霧のなかの巨塔  第9回

第一章 奈落

■追憶③

静かにべットで横になっているにも拘らず、さきほどから、胃の痛みが強くなってきた。胃の内側を何かで強くつかまれるような痛みが周期的に襲ってくる。顔を歪め、体を曲げて苦痛と闘う恵美。顔からは再び血の気が失せてゆく。

さきほど、多めに飲んだ鎮痛剤が、もうすぐ効いてくるだろう……恵美は何かで見た鎮痛剤の恐ろしい副作用が気にかかり、胃の痛みにも我慢するだけで、やりすごしてきたが、ここ数週間は頻繁に襲われる激しい痛みに、もう耐えることができなくなっていた。二、三の薬局から数種類の鎮痛剤を求め、痛みに襲われるたびに飲んでいた。

多めに飲むことによってあらわれる、痛みの消失と、もうろうとした快い感覚が、恵美にとって麻薬のような魅力になりつつあった。痛みと苦悩をまぎらせてくれる……

今も、薬の効果があらわれるのを待ちながら、恵美は楽しかった過去の日々に思いをめぐらせていた。

外はまだ雨が降りしきっている。風を伴っているのだろう、時折り恋のガラスにあたる雨粒の音が聞こえる。

そのころ、夫の逸平に会社などではなく、恵美を騙し、課員をも騙して、愛人の千鶴とともに熱海にいることなど、逸平を信じきっている恵美には想像すらできないこと。

鎮痛剤が効きはじめた睡魔のなかで、逸平との出会いになったある出来事を思い出していた。

 

恵美が東洋自動車に入社し、手形管理室に配属されて一年半ほど経ち、恵美にも後輩ができ業務にも慣れてきたころだった。

五月のゴールデンウィークが終わったころ、東洋自動車の手形業務史上、最悪且つ前代未聞の手形事故が起きてしまった。

全国から送られてくる約束手形、為替手形のなかから、到着から三ケ月以内に支払期日が到来するものは、受け入れ処理後、直ちに金融機関へ取り立てに出すことになっていた。

ところが、その一部である七百七十二枚という取り立てに出すべき手形が、どうしたことか、不渡手形の京とともに、法務部第二調査課の金庫から発見されたのである。裏書き処理月日は一月八日……その全てが支払期日をニケ月も過ぎた既経過手形になっていた。なぜ、そんなことになったか、日数の経過のため調査は不可能だった。

ただ、わかることは、前代未聞のとんでもない手形事故ということ。総額は五千二百万余り……

法務部渉外第五課の課長、大堀正勝からの連絡でわかったことだが、東洋自動車の借用に拘る大変な事故に、手形管理室は蜂の巣をつついたような混乱になる。

あわてふためくだけで、すぐ適切な対処策など思いつくはずもないが、ただ、こんな不祥事はできることなら、部外に知られたくない。室長の田川は手形管理室が属する総括経理部の部長、渡辺真一郎常務に、ことの次第を報告した。

指示されたことは、先ず部外秘を守ること、総括経理部、第一、第二、第三経理部、法務部の全課・全室の部課長、室長、係長及び主査は午後六時からの対策会議に出席すること、会議の場所は21階の第八会議室……ということだった。

その会議には、手形管理室の関係部門担当者として、中垣内冴子、恵美より二期先輩の大島朱美、そして恵美の三人も室長や主査とともに出席することになる。

会議は口論のような騒ぎになった。

手形管理室の人間、特に田川室長は部課長たちからの集中攻撃を受けた。管理業務の怠慢といって……

田川はそのとき四十一才。若いときからの胃下垂で痩せ気味で蒼い顔、神経質そうな目が、度の強いメガネの奥でいつも、しばたいていた。口数の少ない男で同僚たちや室員たちから、ムッツリをもじった「ムッソリーニ」というあだ名をつけられている。

仕事に勤勉な男で、皆が帰った後も一人、夜遅くまで残務の整理をしていることがよくあったが、この夜の田川は、まさに死人のような顔色になっていた。事故に対する責任感と、部課長たちからの攻撃による精神的なショックによって。

 

……室長がやったわけでもないのに、立場上の責任はあるとしても、あんなに言わなくてもいいのに。誰だって部下の仕事の一つ、一つに気をつけていたら頭が狂ってしまうわ。えらそうなことを言っている自分たちだって、部下を信じて仕事を任せているんじゃないの。いざ、事故が起きたからといって、鬼の首をとったかのように監督が怠慢だといって、騒ぎたてることないじゃないの。みんな、よくいうわ。室長がかわいそう。ほんとに……

 

恵美は部長たちの発言を聞きながら、いいようのない憤りを感じていた。

そんなとき、出席している役職たちのなかで、彼らの態度に反論した渉外第五課の係長、姿逸平の発言に、恵美たち管理室の人間は深い感銘を受けた。

騒々しい声が渦巻く室内で、姿は手を挙げて発言を求めると、立ち上がって軽く一礼する。百八十センチを超える長身・引きしまった体格に浅黒い精悼な顔はスポーツ選手そのものだ。

姿の起立によって室内は静寂をとり戻す。

「若輩の私が、こんなことを申し上げて生意気だといわれるかもしれません。しかし、私は敢えて申し上げます……」歯切れのよい、トーンの低い姿の声は、五十名余りが姿を注視しているこの会議室の隅ずみまでゆきわたった。

「……皆さんは、どうして、そこまで田川さんを責めるのですか……? もちろん、室長としての田川さんの責任は役職上、否定できるものではありません。しかし、だからといって、起きてしまったことに対して、責めることばかりに終始していては、何も進展しません。貴重な時間のロスではないのですか……?」

姿の発言に誰も反論する者はいない。ほとんどの人間が下を向いたまま聞きいっていた。

「‥…皆さんもご存じじゃないのですか……? わずか三十余名で、膨大な量の手形管理と資金管理をしている管理室のことを……! 田川さんを始め、ここの人たちは、他の課とは比較にならないほどのハードスケジュールをこなしているんですよ。今度の事故は確かに大変な事故です。誰がこんなミスをしたか、調査することも必要です。わかれば、その担当者の責任も問われることになることでしょう。でも、それは、そうなるべき、故事すべき業務の流れと、ハードな業務量が原因になっていることも、考える必要があるのではないのですか……? それは管理室の人たちの責任ではなく、業務システムの何らかの欠陥が露見した結果ではないのですか……? 改善すべき点は幾つもあると思いますが、それはいま、論ずることではないと思います。いま、急ぐことは、即刻対処すべき既経過手形の処理策……これからの対策を協議すべきだと思います……私のこういう、考えは誤っているでしょうか……渡辺常務、ご意見をお聞かせ下さい」

姿は正面に座る常務の渡辺の方に視線を移しながら座る。姿の雄弁に、皆は体が硬直したかのように動かない。

出席している部課長、係長たちで、姿の意見に反論するものはいない。下を向いたままの者のほか、姿の顔を感心したように見つめている者も少なからずいた。

債権保全の訴訟事件、不良債権回収業務などを担当している姿の雄弁は知られていたが、このとき初めて多くの役職たちは、彼が温かさと、正しい論理を併せもつ有能な社員であることにあらためて気づかされた。

「あ、うん……いや、姿君のいう通りだ。ありがとう…よくいってくれた。さすが姿君だ……いま、人を責めて、どうなるというんだ。この会議は対処を考えるためのものだ。経理部門の最高責任者にある私がいわねばならないことを、姿君にいわせてしまった。実に面目ないことだと思っている……姿君、改めて礼をいわせてもらう。ありがとう……」常務の渡辺は、姿の言葉に感銘を受けながら聞いていたが、突然にその姿から問いかけを受けてどぎまぎしたが、全面的に支持する発言をした。

「とんでもない、常務、恐縮です。私こそ思い上がったようなことを申し上げて、すみませんでした。失礼いたしました」姿は

常務の渡辺に一礼するとともに、いならぶ役職たちにも頭を下げイスに坐る。出席していた恵美は、このとき、いいようのない感激をおぼえ涙が頬をつたう。

もし誰もいなかったら、姿の胸にとりすがりたいような感情にかられていた。

「みんなも、ゴールデンウイークが終わった後ということもあり、仕事がたまっていることと思うが、これから直ぐ、全国に散らばる272名の手形振り出し人を訪ねなければならない。もちろん電話了解による取り立ても可能だが、我が社の信用のためには、直接に振り出し人に会って、取り立ての了解あるいは、期日訂正のお願いをしたい心忙しい時期に遠方まで、それも嫌な仕事での造作をかけるが、みなで手分けして手伝ってもらいたい。この仕事は管理室の人間だけでは、どうすることもできないことはみんなも、分かっていることと思う。過ぎたことを、とやかくいうことは止めて、前向きに、お互い助け合うことを考えてほしい……」常務であり、第2経理部長である渡辺はみなの顔を見回しながらいう。小柄でやや肥満気味の渡辺だが、東大経済学部を卒業後、一社員から、たゆまぬ努力と業績への貢献を認められ、常務にまで昇格した渡辺は親分的な性格もあって、社員たちの信望も厚かった。

それからの会議はスムーズに進行し、2時間ほどの間に全国を係長以上の役職者数47人に合わせた同数のブロックに分類された。直ちに担当ブロックのクジが行われ、全員の担当区域は30分足らずのうちに決定した。

渡辺の提案として、担当役職者に手形管理室の全員、及び役職者の所属する部所から各1名が同行することとなる。

ただ、行程日数の多い北北海道と西北海道は単身での出発となる。同行者の決定もクジによるものとし、明日、それを決定することとして緊急会議は終了した。

1泊2日から2泊3日という平日の出張は、ふだん出張ということとは縁遠い手形管理室の人間にとっては大きな魅力だった。

もちろん、同行者次第では、棄権したくなるケースも少なくなかったようだが……

翌日、手形管理室でもクジ引きが行われた。恵美は京都府下27軒を訪ねることになる。その同行の相手となるのが姿だった。

恵美にとって運命的な逸平との出会いとなったのである。

その翌々日から、3日の間隔をおいて3グループずつが出発していった。恵美は出張の相手が姿と決まったとき、思わずそっと自分の耳をつねってみたことを今も記憶している。

夢ではないかと思うほどの喜びだったから。現実のことと分かると心のなかで、おもいっきり手をたたいていた。

 

姿逸平は慶応大学法学部を卒業と同時に東洋自動車に入社、法務部管理課用地係から渉外課第5係に移籍、この年の4月1日付けで係長に昇進していた。この東洋自動車で、わずか5年にしての係長昇進は異例の人事であり、話題になった人物である。

多くの民事訴訟を担当、そのどの裁判においても勝訴判決をかちえたほか、若手とは思えない度胸のある対外交渉などが、上層部に異例の人事を決定させたようだ。これは当時の社内での噂ばなしではあったが……

男性としての魅力にあふれ、思いやりがあり、且つエリート街道を爆進する姿逸平は若い女性社員たちの憧れの的になっていたが、あの日の役職連中をたしなめた勇気ある発言以来、彼の人気はさらに上がり、交際を熱望する女性社員が相当な数にのぼったという。これまで男嫌いでとおってきた中垣内冴子も、姿にだけは心を奪われたようだった。これはずっと後に、恵美が冴子からきかざれたことだったが。そんな姿との交際を熱望していた女性たちの一人が恵美だったことはいうまでもない。

姿との同行を羨ましがる同僚たちに、恵美は「そんなに羨ましいの…? なんだったら代わってあげてもよ心ただ、偶然、仕事でいっしょに行くことになっただけじゃないの。彼のようなエリートといっしょなんて、気づかれするだけだわ」などと心にもないことを云ったものだった。

若い未婚の女子社員を、たとえ役職者とはいえ1泊あるいは2泊という出張に同行させることについて、一部の関係者から異論が出されたが、日ごろ出張の機会がない女子社員のたみに、その機会を与えることに問題はないし、業務での随行で何ら差し支えばないという石原豪専務の決済によって、各グループは予定どおりのスケジュールで出発することになる。

もっとも長い行程になる北、西北海道は4泊5日の行程。北北海道へは管理第2会計課長の衣笠が、西北海道へは第5営業部業販第2係長の杉山が各々単身で出発した。

姿と恵美の二人は、それから3日後の5月13日、京都へと出発する。

東京を7時前にでる「ひかり」に乗車、京都へは9時40分過ぎに到着する。それからはレンタカーで担当する27軒を訪ねるのだが、京都市内が18軒の他、亀岡市、綾部市、長岡京市、さらには丹後半島の伊根町まで、訪問先は広範囲に分散していた。

第1日日は京都市内だけを訪ねる。

おおよその訪問時間を電話連絡してあったので、昼食をとれたのは午後3時近く。それでも未だ4軒が残されていた。

大都市で初めての家を探しだすことは想像していたより遥かに困難なこと。市内は一方通行の箇所が多く、予め電話で聞いておいた道筋だったが、家の近くまで来ても30分近くも探しまわることもあった。

「さすが東洋自動車はんは金持ちだよ。手形の取り立てを忘れていても通ってゆくんや。うちらやったら、一万円の手形やって取り立てを忘れることなんかできまへんわ。一万円は大きいんでっせ。大会社では、はした金かも知れへんけど……」

やっと訪ねあてた先で、こんな皮肉をいわれることもあり、恵美たちは嫌な思いをすることも度々あったが、みな期日の訂正に応じてくれた。京都市内での予定は終了する。

 

(つづく)

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