一つの学説を理解し、また正しく批判するためには、その学説を提唱する研究者の、ものの観方と考え方を知る必要があります。『学説』というものはその提唱者の心理的構造を反映しているものだからです。学説はまた単なる事実の収集や記載だけではなく、正しい理論に基づいてそれが詳しく説明され、且つ体系づけられていなければなりません。真実なるものはただ一つだけです。しかし、学説を構成するものは人間です。同一現象に対する判断の相違は、その人の思考のなかに生じます。客観性と妥当性が強く要求される科学の世界でも常に論争が生まれるのは個々の判断の基準が異なるからです。
これから本編でお話することは、現代の医学・生物学の一般常識とかけ離れたものが多々あり、従って批判の渦が巻き起きることが予想されます。
そこで本編に入る前に、生命と細胞の起源に関する研究について、千島喜久男がもっていた研究への心構えを記すことにより、本編をよりご理解頂くための資になればと思います。
① 事実を第一義的に……これは実証性を重んじる生物科学界では何よりも大切であることはいうまでもありません。しかし、『事実』という事象は考えられているほど簡単でないことから、さまざまな問題が起きてきます。或る研究者が事実であるとして提示したことが、他の人には事実として認め難いものであることは少なからずあることです。殊に生命現象は常に変化するものであり、さらにミクロという極微の世界では、真相を捉えるには非常な困難を伴うものです。顕微鏡に映る画像を機械的に目で見るだけなら、カメラ撮影で事足ります。しかし、画像から真実を総合的に把握するためには、それを読み取ることができる訓練された心の眼、いわゆる『洞察力』が必要となります。
真実を正しく把握するためには、事実と観察者の洞察力が一体になりきらねばなりません。しかし殆どの人は従来の既成学説を、完全なもので誤りなどある筈がないと信じ込んでいる人は、たとえば『細胞は有糸分裂によってのみ増殖する』と考え、稀にしか見られない、そしてまた真の分裂像でもないものを探し当てて、「細胞の分裂増殖説は正しい。自分はその事実を確認した」と主張しますがその主張は、大きな矛盾を説明することはできません。
自然の状態で観察するとき、細胞分裂像はごく稀にしか見られないのに、細胞は著しい増加を見せているという理論と実際の矛盾をどう説明するのでしょうか。
顕微鏡下の細胞を観察するとき、細胞が分裂しているのか、融合状態にあるのか、また生まれつつあるのか、死につつあるのか解らないような像があり、しかも実際にはこれが極めて重要な意味をもっているにも拘わらずこれを見逃し、又は見て見ぬふりをして、明確な像のみを追う傾向があるのではないでしょうか。また自分には都合が悪い『事実』や『新説』に対して(見ザル・云わザル・聞かザル) をとる科学者はいないでしょうか。
本編でお話することは単に説明の相違として済まされない重要なことであり、半面、誰でも率直に注意深く観察すれば容易に理解できることでもあります。
事実は第一義的です。事実の前には研究者は謙虚になるべきだと考えます。
② 生物学の設計と構想……誰でも研究結果をまとめるとき、一応は考察を試みるのが常です。しかし理論生物学的な考えを入れると、たちまちそれを邪道視したり白眼視する傾向が、この日本では強く見られるようです。物理学では理論物理学と実験物理学とが互いに助け合ってその学の発展を示しています。理論生物学(考える生物学)が生まれ、実験観察結果を正しい理論(方法論)に照らし合わせることが悪いという理由は何処にもありません。時には正しい理論からの予見が事実と合致することもあり得ます。むしろ暗中模索といった研究よりも、そのほうが能率的だともいえます。
生物学の正しい体系を樹立するためには、単なる機械的な技術者であってはならないと思います。 一つ一つのブロックを全体的な構想もなく積み重ねるのではなく、それぞれのブロックのあるべき箇所を決め、そこへ置く設計と構想をもたないとその仕事の成果は生まれないでしょう。
植物の若芽を喰っているチョウの幼虫のように、眼前の分野が全世界だと考えることなく、自分の仕事が全体に占めている位置をもう一度、遠くから見直してみてはどうでしょうか。
このような設計や構想の基本となるのが理論生物学的な観方です。技術や機械に使われるのではなく、技術や機械を使う側になる必要があります。科学者は事実を第一義的とすると同時に、正しい理論と考察によって事実を合理的に体系づけしなければなりません。
③ 既成生物学説の矛盾と混迷……現代生物学説の分野を広く観つめるとき、一つの事象に対して矛盾する複数の説が仲良く同居している場合がある一方で、激しく論争されているものもあります。 前者の例としてはダーウイニズムと細胞分裂説を主体とするウイルヒョウ的細胞観があります。また後者の例としては、獲得性遺伝を主張するルイセンコ・ミチューリニズムと遺伝子不変を主張するメンデル・モルガニズムの論争があります。また既に解決済みとされているものの、大きな矛盾を残しているものに、パスツールのバクテリア自然発生の否定と自然発生を肯定するプーセとの対立と実験があります。生命論をめぐる機械論と生気論、生命の起源に関するオパーリンの説、さらにウイルスの起源や本性を中心としての学説の対立もあります。
このような対立が統一的に理解されない理由の第一は正しい科学方法論をもっていないことであり第二には生物学の出発点である細胞に対する正しい概念が把握されていないからでしょう。
④ 動的形態学の重要性……近来、内外の生物学界はその研究方法として物理・科学的、特に生化学的解析技法がその主体になっているようです。生物現象の解明には物理化学的技法が最終最善の決定者であるという思想は今に始まったことではありません。またいうまでもなく、物理化学的技法が生活現象解明のために重要な貢献をしていることは否定できません。ただ、深く考えねばならないことは、多くの研究者が形態学は過去の旧いものとして顧みず、ひたすら化学の先端的技術を競いあっている状況です。形相と現象とは不可分なものであるのに、その一方だけを分離して追求しようとしていることに問題があります。既に確定したものと考えられている形相(形態)が実は動的なものであるのに固定化されてしまったものが少なくありません。そのような正しくない形相に生化学的結果を当てはめようとするために無理が生じるのです。
形態と現象とを並行して研究すべきであると千島喜久男医博が主張するわけもそこにあります。
生命或いは細胞の示す形態と現象を、肯定と否定という二つの手法で割り切った考えをもって峻別する今の生物学のあり方は転換する時期が来ていると思います。自然、そして生物というものは時空を通して連続的なものだからです。生物は『過去』を負った歴史的所産なのです。不連続、突然などという言葉は人間の短絡的視点からきた逃避的なものといわざるを得ません。
千島は生物現象を一つの波動・螺旋的運動形態として捉えるべきで、別の言葉にすると弁証法的発展だといっています。個体の形態発生は系統発生との関係において、広く永い見地に立って究明されるべきものです。
⑤ 連続性…限界領域の生物学……現代、生物体の構成単位は細胞だとされています。しかし、はっきり『細胞』と見なしてよいものか解らないものがあります。哺乳類の無核赤血球や細菌がそれです。しかもこれらはその量においても質においても、極めて重要な位置を占めています。
また、注目されているウイルスやリケッチアの類もまた生物と見るべきか否かについて新しい課題になっています。このような細胞か否か、生物か否かについての分極、限界領域こそ最も重要な生物学的意義をもっているのです。そればかりではありません。細胞とその環境、細胞と細胞、細胞と組織等々の限界領域にこそ生命現象を解明する真の鍵が秘められているのです。
現代の生物学は、このような限界領域にある一見『もやもやしたもの』の存在を無視し、明瞭な像だけを追っています。このような生物学では正しい生命現象を捉えることは困難でしょう。
現代生物学では細胞は生物体の基本的構成単位であり、生命の本質もこれに宿り、従って細胞は生物科学の出発点であると同時に研究の基本的対象となっています。
もし従来の細胞概念や諸原理がまったく変換を要しないものなら、生物学の様々な分野における現在の研究方針は、そのまま継続されても差し支えはないでしょうが、変換を要するような内容だとしたらそのまま継続させることは大変な問題になります。
まずここで『細胞とは何か』という解りきったようで実はよく解っていない問題から考えてみましょう。しかし、ここでは細胞の構造や性質といった従来の説について考えるのではありません。
細胞についての今日の生物学が意味している本質的な性質を挙げてその問題をつきつめていきたいと思います。さて、現代生物学では『細胞』とは形態的、物理化学的、また生理、官能的な面からみて次のような共通した性質をもっていると考えられています。
① 形態学的な性質
(1) 生物体の単位を形成している。
(2) 1個(時にはそれ以上のこともある)の核を含んだ原形質の塊である。
(3) 核の周囲には細胞質があり、外面は細胞膜又は原形質膜で被われている。
② 物理化学的性質
細胞はDNAを含む核質とその周囲にあるDNAを含まない細胞質から成る。この両者を含めた原形質は主としてタンパク質相、脂肪相、水相からなるコロイド系ゲルである。
③ 生理学的、官能的性質
(1) 細胞は官能的には栄養、呼吸、排泄、刺激に対する反応や、成長、増殖など生命現象の諸相を示す。特に特記すべきは『細胞は細胞の分裂によってのみ増殖する』、『核は核の分裂によってのみ生ずる』というウイルヒョウのグループが提唱した誤った見解が今日の細胞学の基盤となり鉄則とされていることです。
(2) 遺伝因子は主として核中の染色体上に一定の順序で規則正しい線をなして配列されており、性細胞の分裂によって親の形質を子孫に伝える重要な担い手であるとしています。
④ 無核赤血球ははたして細胞か?
無核の赤血球を細胞とみなす細胞観は今日においても不動の真理とされています。しかしこれは、重要な部分で事実と一致しない点や、他にも多くの疑問があります。例えば哺乳動物の無核赤血球は細胞学の定義からしたら当然に『細胞』としての資格をもたないことになりますが、『赤色細胞』と称され今日においてもその正否の検討はされていません。細胞の増殖は分裂ではなく新生しているのです。
① 細胞説の樹立
ドイツのシュライデンは植物について、スクワンが動物について、1838~1839年代に生物体は細胞から構成されていると提唱し、細胞学の基礎を樹立しました。この2人の学者の業績は、いま一般に考えられているよりもっと評価されるべきかもしれません。何故なら彼らは細胞新生説の提唱者でもあったからです。
② 細胞分裂説中心の時代
1870~1880年の間にウイルヒョウのほか多数の学者によって、細胞の内部構造についての詳しい研究がなされ、且つ細胞は細胞の分裂によってのみ生ずるという考えが支配的になりました。
ウイルヒョウは1858年に『細胞病理学』を著し、シュライデンたちの細胞新生説を否定し、有糸分裂による細胞連続説をたて、今もって信奉されている『細胞は細胞から』を主張しました。
またワイズマンは細胞や遺伝機構に関する論文や著書によって、ウイルヒョウ流の細胞説を強調しました。彼は遺伝と細胞の関連を基礎的に説明し、ワイズマンの生殖質連続説はその後における遺伝学説の主流となり現在に至っています。この説は遺伝学のみならず、生物学全般に対しても強い影響を与え、19世紀末から20世紀初頭にかけて細胞学はこの線に沿って異常な発展を遂げました。
③ 細胞遺伝学時代
1900年にメンデルの法則が再発見されてから、細胞学はますます細胞遺伝学に基礎を植えつける方向に進みました。モンゴメリーやボバリーなどによる研究はメンデルの法則を細胞分裂と細胞核の行動に結びつけ、ワイズマン流の染色体学説を正しいものとして説明する動機を与えることになったようです。一方、純細胞学的な面から、細胞形態学と並んで細胞生理学、細胞生化学の研究もようやく盛んになり、位相差顕微鏡の発明により生きた細胞の観察が可能になり、さらに電子顕微鏡の出現によって一段と細胞の超微細構造が明らかにされるようになります。
このようにして現在の細胞研究は形態的、生理生化学的、発生学、細胞遺伝学など各種分科的に活発な研究がなされています。しかし、ややもすると余りにも分析に偏りすぎて、各々が狭い分野の研究且つ部分的な面が強調されて、自然の現象を正しく捉えることが困難になったようです。
④ 細胞分裂万能説の再検討が必要
『日の下に全く新しいものはない』という諺があります。前世紀の半ばに唱えられたものの、その後窒息状態におかれているドイツのシュライデン、スクワンの細胞新生説を再発掘し改めて研究の目を向ける必要があるようです。
これはパスツールの狡猾な戦法に負けて、主張していたバクテリアの自然発生説を引っ込めざるをえなくなったプーセの蘇りともいえます。細胞新生説の再発掘という画期的な仕事は1936年から近代までの間になされたレペシンスカヤの細胞新生説、デュラン・ジョルダの赤血球分泌説、ボストロームの赤血球出芽説なども含まれることになるでしょう。