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革新の生命医学情報 No.20

生命・細胞・血球の起源②

【3】動的な形態学の登場

① 形態や構造の軽視傾向

生物学の発展過程は収集、形態観察、命名、分類に始まり物理化学的分析、数学的処理などの順序で発達するといわれています。たしかに、近代における生物学の傾向をみるとき、生命現象の探求に物理的、特に化学的解析の技法を用いる研究者が増加し、この技法こそ生命問題解明の唯一、無比の強力な武器だと考えるようになっています。

生化学的に生命現象を探求することは確かに必要なことです。しかし、それを重視し過ぎる余り構造、形態の面を軽視する傾向が目立つように思えます。こういうのは極端な表現かもしれませんが、細胞の形態や構造を無視し、或いは忘れ試験管内での化学反応を殆どそのまま生体に当てはめることが誤りではないというような考えに傾くことは妥当とはいえません。

細胞の生化学を研究するからには、細胞についての正しい基礎的知識(それは決して既成学説をそのまま鵜呑みにして信奉することではない)をしっかり理解し、その基礎の上に立って判断を下す必要があります。形態と構造とは不可分の関係にあります。構造や形態は既に研究し尽くされたものとして放置し、化学的組成の分析や機能の探求のみに熱中していては、真の生命現象は何時になっても解明されないことでしょう。

② 動的形態学が意味するもの

前述したような傾向については形態学自体にも考慮を要することがあるようです。どちらかというと、形態学とは単に外形を分類し固定化し、他と選別するものだという考えをもつ人も少なくないからです。動的形態学は真の形態学ではありません。真の形態学というものは出来上がった形を分類し記載することではなく、形態形成の過程を動的に捉え、生成発展の姿を観るものです。

アメリカ生物学界の第一人者として知られるウエイスは『形態学は再び生物学の第一線に進出しようとしている。そして将来それは生物学のみならず医学、農学などと直接に繋がりをもつようになることだろう』といっています。

形態学は過去のもの、理化学的研究こそ最先端のものだとする考えは正しいものではありません。 その理由を一つ挙げてみますと、ウイルスの形態的研究は電子顕微鏡の発達とともに、急速な発展を遂げています。この分野では機能の研究が先に発達し、形態の研究が大幅に遅れています。

このことはウイルスに限らず細胞の起源や運命についてもいえることです。形態と機能は並行して研究されるべきことですが、多くの場合は交互、或いは前後になっているようです。これを一方的に順序づけしようするのは正しくありません。

生物学の研究は形と官能の両面について哲学的意味での統一、東洋的にいえば螺旋的な運動として広く永い目で考察されなければなりません。過去に執着しようとする心理は容易に消滅させることはできませんが、研究者が細胞の生化学重視という偏重から視点を変え、現れた細胞の構造、起源、分化、運命などの形態面に新たなる動向を認識されるなら、より一層に実り多き成果が得られ、生物学は形態と機能との総合的学問として新たな発展を遂げることでしょう。

もっとも、生化学を単に試験管的手法だけでなく形態学的研究と関連づけて、物質の性質とその局在性を究明しようとする組織化学、或いは細胞化学に専念する研究者も少なくないようです。

そして、これらの人々によって極めて重要な成果が挙げられているのは注目すべきことですが、化学的研究の結果が完全なものであり、最終決定を下し得るものだと誤解してはいけません。

生きた無核赤血球や脂肪組織は純粋なタンパク質でもなければ脂肪でもありません。両者を共に含み、さらに他の化学的要素も複雑に含んだものです。しかもそれは生体内で血液、或いは組織液という流体中に浸され、そのなかで自由な物質代謝を行うことができます。

これを試験管内に隔離された純粋なタンパク質や脂肪と同一視することはできません。自然界の現象は人工的な環境と自然の環境では、いくら自然の状態に近づけたとしても観察される像には大きな違いが生じるからです。

③ 形態と細胞、形相と質量

(1) トンプソンの名著とその影響……トンプソンはアンドリュウ大学で約半世紀に亘って生物学を学び且つ教壇に立った人ですが、彼の名著『成長と形態』において生物形態の数学的解釈、細胞の形態、分析と総合、又生物の形態的特徴について卓越した考えを述べ、文末は興味深い形態の移行説で結んでいます。この著書は今世紀最大の名著であると後世の学者たちが賞賛していることからも、その内容は非凡なものでした。

しかし、ケンブリッジ大学のニーダムは、自分が専門とする生化学の面からトンプソンの仕事について次のような批判をしています。『トンプソンは生物の外形を純数学的な面から探求しているが、内部的な物理化学的探求はしていない。形態の問題はおおまかな全態的外形と、生物体を構成する部分的分子構造との関係を究明する方法も必要である』と尤もな見解を述べています。しかし、現実としてただ一人の研究者がこの両面を正しく究明していくことは至難の業といえます。

(2) ニーダムの形態と生態学……ニーダムは『生物学はより大きな有機体を研究することであり、物理学はより小なるものを研究することである』といっています。

このように統一的生化学は当然に様々な体制化水準、たとえば生物個体、器官、組織、細胞、細胞核、コロイド粒子、物質分子等や、原子価、原子等の各段階とその相互移行関係を探求する必要が生じてきます。また形態学と生化学を総合的に研究するためには、生物の歴史性、とくに原形質の履歴反復性を十分に考慮に入れない限り形態形成の問題は到底、解明することは不可能でしょう。

【4】細胞起源論(第2の進化論)

① ダーウイニズムの現代的意義

1859年にダーウインがあの有名な『種の起源』を著してから百年余りが経ちます。進化論が19世紀から20世紀にかけて、生物学のみならず広く一般の思想界に及ぼした影響の偉大さは改めていうまでもありません。

ダーウインがこれによって私たちに教えてくれた本質的な点は、ひと言にしていえば生物の種は一定不変なものではなく、時々刻々また場所によって不断の変化をつづけ、単純から複雑へ、下等から高等へと変化するとしていることです。しかしこの進化思想が今日において、果たして生物学の諸分野に十分徹底しているでしょうか。残念ながら否というほかありません。

一般生物学における細胞の概念、とくにその起源と運命に関する諸説、核と細胞質との峻別、体細胞と生殖細胞との関係についてのワイズマン流の考え方など、何れも機械論的、固定的観念が主体であって、どう考えてもダーウインによる進化思想とは相入れないものになっています。さらに、その本質をあたかも調和しているが如く説き、また強いて調和させようとする試みの痕跡もあることを見逃してはいけません。このような考えはダーウイン以前の思想だといわざるをえません。

言葉のうえでのカラクリを排除し、明確な理論的考察を加え、今こそ私たちはダーウイニズムの本道に立ち戻る必要があります。しかしダーウインの進化論は単細胞生物をその出発点にしています。 そして、ダーウインは細胞の起源について『それは生命の起源と同意義をもつものであり、到底解明することは不可能である』と考えていました。当時の生物学の水準としてそれはやむをえない考えだったのでしょう。しかし、それでは進化論が十分徹底したものとはいえません。進化思想をさらに徹底させるためには細胞の起源を探求することが不可欠な要件です。すなわち、無機物から有機物、有機物から細胞への進化を究明しなければなりません。ロシアの生物学者、オパーリンが研究しているような無機物から複雑な有機物への進化を第1の進化論と仮に呼ぶとしたら、レペシンスカヤや千島喜久男が研究していた複雑な有機物から細胞(単細胞生物)の発生は第2の進化論、ダーウインの説いた単細胞生物から高等生物への進化は第3の進化論と呼ぶことができるでしょう。

また他方では一層高次な進化、たとえば生物の群としての行動と進化、種内、種間の生存競争と相互扶助、進化と退化の問題、進化の方向と要因、生物と地球環境との適応変化など、残されている問題は多々あります。これらのことは狭義の現代生物学の分野だけでは到底解明できることではないでしょう。

② 第2の進化論(細胞の起源論)

細胞はその分裂によってのみ増殖するという現代生物学の根本的鉄則は、最近ではこれに疑問をもつ人たちが少しずつではありますが現れています。これは細胞新生説を支持することにもなり、細胞分裂説の誤りが白日にさらされるときが来るという希望が生まれます。

レペシンスカヤの『鶏その他の卵黄から赤血球が自然発生的に新生するという説』また千島喜久男の『鶏やカエルの卵黄から赤芽球、間葉細胞などの新生』、さらに『消化管壁の食物性モネラから、或いは胎盤における赤血球性モネラ状物質からの赤血球新生』、『体の諸組織からの逆分化による赤血球新生』などの説や、スエーデンのボスロームや千島喜久男の研究による『栄養不良のとき1個の赤芽球から多数の赤血球が出芽或いは胞子形成様過程で形成される』という説、英国のデュラン・ジョルダが提唱する『1個の顆粒白血球から多数の赤血球を分泌する』等といった諸研究報告が、現代の狭義の生物学に新風を吹き込んでいます。

日本でも守山英雄氏の『ヒマシ油からの人工細胞形成』、東大の佐藤氏による『藻類の破片からモネラ状体の形成』という研究報告がなされています。このような注目すべき事実が多数指摘されているいま、もし研究者が率直にこれらの新しい発見と従来の細胞学とを比較し検討すれば、ウイルヒョウの流れを汲む現代細胞学観念の盲点に気づく筈です。

ゲーテが『古人が既にもっていた不十分な真理を探して、それをより以上に進めることは、学問にとって極めて功多きものである』と洞察しているように、細胞の起源の問題も正しい観方と考え方をもって、さらに深く探求していた学者も歴史の上で残されています。今からでも私たちはもう一度それを改めて検討する必要があるものと思われます。

【5】進化と細胞の履歴反復性

① モルガニズムによる進化要因の歪曲

生物進化の主要因はダーウインによれば自然淘汰であり、正統遺伝学では主として突然変異にあるとされています。ラマルクの「用不要説」は一般にはほとんど顧みられていません。ヘッケルの反復説すら今では多くの研究者から否定されようとしています。このような現状で進化要因を正しく理解しようとすることは木に登って魚を獲ようとする類といえるでしょう。

そもそも今日の進化要因論はメンデリズムの強い影響によって歪められすぎている観があります。 進化論はもともと生物学、古生物学その他の諸科学の正しい理論や事実と矛盾してはならない筈です。それにも拘わらずダーウイン以降に現れた多くの研究者たちによって、進化要因を機械論的なもに固定化しすぎた観があります。この点に関してはメンデリストもその責任の一半を負う必要があります。なぜならモルガニストたちはラマルクの用不要説を放棄し、獲得性遺伝を否定し、さらにヘッケルの反復説のもつ重要な意義をも理解しないで、進化論に対して誤ったデータと理論を与えたからに他なりません。生物はその内面性と環境との相互作用の結果として、保守的な面(遺伝)と進歩的な面(変化)という相反する二面をもっています。

生物進化は生物体と環境、遺伝と変化などの対極の統一、すなわち対立物の弁証法的発展の結果であるといえます。メンデリズム的進化論が妥当なものであるか否かを判断するには、獲得性遺伝の問題やヘッケルの反復説への深い理解が何よりも必要です。これは遺伝及び進化に関する学説を討議するために有力な助けになり得ると考えられるからです。

② 進化と環境及び履歴の反復性

内外の研究者たちによって活発な研究が進められているカビ、細菌、原生動物などの下等微生物の遺伝と変化に対する環境条件の影響について、正しく理解するためには、細胞原形質が過去において得た履歴を再び反復しようとする特性をもっていることを承認する必要があります。獲得性遺伝と進化の関係を正しく理解できるか否かの鍵はここにあるといえるでしょう。

細胞が何らかの内的(物理的、精神的)或いは外的条件による刺激に反応した場合、それがその生物体の細胞に対して快適な刺激であるときには勿論ですが、細胞に著明な有害作用を及ぼさない限り最初は多少好ましくない刺激であっても、その刺激を繰り返して受けているうちに、その刺激が快感となりそれを要求するようになります。またそのような刺激が受けられないときも、一定時間を経過するとリズミカルに以前の快感を得たときの履歴を反復しようとする傾向があることは、多くの心理的、生理的な現象にみることができます。たとえば、心理現象における習慣や記憶、条件反射などがそれに該当します。生理的、心理的な履歴反復性の存在は今日では誰も否定できない事実です。

しかしこれが、ひとたび遺伝形質の問題となると、メンデリストたちはたちまち獲得性遺伝の否定という立場に立ち、個体発生と系統発生はまったく別で無縁のものだという生理学上では考えられないような見解に固執することになります。

遺伝は生物の特性が原形質を通じて子孫に伝わる現象ですから、原形質が個体発生時に示した履歴反復性がそのままとはいえないまでも、何らかの方法で次代に特質を伝えることは当然にあり得ることだし、またこれを否定する理由もありません。原形質のこのような履歴反復性原理は、原形質を化学的に分析するだけでは到底わかることではありません。しかし、この原理こそ細胞、発生、遺伝及び進化の現象を統一的に説明するためには不可欠なものなのです。


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