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千島学説|新生命医学会

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長編小説 霧のなかの巨塔  第24回

第二章 灯りを求めて

■黎明③

沖中が癌細胞、いわゆるキャンサーセルの起源という細胞学の基盤にまで精通し、その批判までしたことに大河内はただ驚くほかなかった。

「大河内先生は千島喜久男医学博士をご存知ですか? 今はもう故人になられた方だけど……」

沖中の顔には……あなたは知らないでしょう……という表情がありありと覗える。

「千島喜久男医学博士……聞いたことはありませんが……」

「先生くらいの年代の人はご存知ないかもね。異端の血液学者として知られた医学者ですけど、この博士が提唱した理論に『千島学説』という、現代の保守的な医学者たちがこの理論の名を聞くだけでもイヤがる学説があるんです。私はとても関心があるんですが、その学説の一つに『体細胞は分裂増殖をするのではなく、赤血球から分化するものである』というものがあるの。そしてそのなかに、『癌細胞も同様に病的環境にある赤血球から分化したものであり、決して分裂増殖をしたものてはない』と今から50年も前に発表されているんです。大河内先生……」

そう話す沖中を大河内は唖然とした顔で見ている。何か言いたいのだが、沖中のいうことが全く理解できない。話が大河内たちが医学部で学んだことと余りにもかけ離れていた。

「……これは現代医学者には嫌われているけど有名な学説なんです。私たちがこの学説を公の場で口にすることはタブーになっているけど、キャンサーセルの起源は赤血球が体内環境の悪化から健康な体細胞ではなく、病的なキャンサーセルに分化したもの……血液の流れが淀んだり、停止した箇所の赤血球がキャンサーセルに変わるというわけ……こういう説、先生はどう思われる?……」

沖中は笑顔で大河内に問いかける。急に質問されて大河内は慌てた。一瞬、口を開けてなにかいいかけたが、直ぐ口をつぐんでしまった。

「……ちょっと頭のなかが混乱しているみたいね。でも、私は千島博士の説が真実だと思ってる……そしてまだあるのよ、千島博士の示唆が……いいこと? これが大事なところなの……」

沖中は大河内の顔を見ながら念をおすようにいう。

「……千島博士はこういっているの。『キャンサーセルは体内環境の是正による血液の浄化、血流の正常化によって短時間で元の赤血球へ逆戻りする』ということ。この現象、千島博士が発表したあと、何人かの学者がそれを確認し大阪での癌学会で発表したけど、学会側は実験方法の誤りに観察でも誤りを重ねているとして発表の中止を命じたそうよ! その発表が誤ったものという明確な証拠を示すこともせず、頭から研究そのものが誤ったものと決めつけることは、学者たちに余りにも失礼だと思われません?……」憤りが生じたのか沖中の声が次第に大きくなった。

大河内はまるで鬼塚教授の前にいるかのように緊張している。

この人は鬼塚部長以上に知識と探究心がある!

外科の総看護師長補佐というより、医療現場の教授なんだ!

そんな沖中室長にオレは何と、なれなれしい行動をとってきたんだ!……

 

沖中には教授たちも非常に気をつかう総師長補、この外科では総師長の平田ミツよりも尊敬されまた怖れられていた。今まで同僚であるかのように考えていた自分の思いあがりに怖ろしさで何か身がすくむような思いになる大河内だ。

「ええ、確かに、おっしゃる通りですね。反論するなら必ず確たる反証を示して“あなたの研究はこういう点が誤っている”と指摘すのが当然ですよね。“そんなことはあり得るはずがない”なんていうセリフは反論になりませんよ、誰がみても逃げ口上だと思うでしょう。それはそうと、その千島学説という理論、私も興味があります。こんど折りをみて教えてください。沖中室長、お願いします」

大河内は沖中がいう“癌細胞は赤血球からなる”と定義している千島学説なるものの存在を今日初めて知った。ほんのわずかな時間、沖中から聞いただけだったが全くの驚きだった。

大河内自身が学生のとき癌細胞の分裂増殖を見たいばかりに、自然状態に近い湿潤標本にして幾度となく条件を変えて観察したが一時的に分裂の様相は示すものの、増殖の段階に至ることもなく死滅してしまう。そんな経過があり一時は癌細胞の分裂増殖という神話ともいえる定説に疑問を抱いた時期もあったが、何時の間にか「定説」という変わらぬ流れのなかを漂っていた。

「あら、先生がそんなに関心をもたれるとは意外だったわ、無理しないでよ……ごめんなさい、ズケズケとほんとのこと言っちゃって」沖中は明るい声で笑う。

「いえ、ほんとです。こんどぜひ……」そういいいながら大河内は立ち上がる。沖中と話をしているうちに、30分ほどが経っていた。

「ありがとうございました室長、私は医局に戻ります。黙ってここへ来たもんですから、行方不明になったと騒がれても……また、つづきを聞かせてください、近いうちに……」

大河内はそういうと深く頭を下げて機械室を出て行く。

 

大河内よりずっと年上であり、先輩でありまた直属の上司でもある沖中だが、医師に対する尊敬の念と礼儀は誰にでもこれまで欠かしたことはない。それは沖中の心にある規律だった。機械室を出ると機器の騒音から開放されICU室の静寂さに気が遠くなるような感覚を覚える。手を上げ大きく背伸びをすると自分の席へと向かう。室内には平穏なときが流れているようだ。

 

西病棟33階3358号室の窓カーテンは広く開けられている。眼下に見える大小のビルが赤っぽい夕日を受けて幻想的な色彩をかもしだしていた。

「お姉ちゃん、見てよ。ビルがいろんな色に染まって、ほんとにきれいだよ……」

窓から外を見ていた正樹が感動を抑えた小さな声で姉の梨香を呼ぶ。午前中に主治医である大河内から母の恵美が意識を戻したという報告を受けてから、病室で恵美を待つみなの心には「生」という明るい光が差し込んできたように思え希望が湧いてきた。

手術によって取り除くことができなかった癌腫は二つも残っているが、体力が回復すれば、あの東洋医学の療法が残っている……この療法であの政界の大物、楢本代議士が僅かな日数でほとんど完治してしまったという断食療法が。暗闇のなかで逸平が見つけた一条の光だった。

「もっと小さい声でいいなさい、正樹……! おばあちゃんを起こしちゃうじゃないの……わあーきれい! エンジ、紫、オレンジ色も…… 影は白や青にかわって! なんて美しいの! まるで虹の世界にいるみたい……!」梨香も感激して、思わず声が出てしまう。夕日は沈むのが早い。その沈み具合によってビルは次々と色を変えていった。

「お母さんにも、早くこの景色を見てもらいたいね」正樹のそんな言葉に梨香も黙って頷く。

恵美がいないベッドには恵美の母、亮子が横になっている。安堵によって一気に疲れが出たのだろう。軽いイビキをかいている。顔色も随分よくなっていた。

応接セットを壁側に押しやったカーペットの空間には水色のカバーをした敷布団と掛け布団がおかれ和江が眠っている。疲れの色が濃い家族たちのために病院が取り計らった好意である。

博樹は応接セットのソファで横になって目を閉じていた。逸平の姿はない。

部屋の壁時計は5時16分を指している。恵美がいないこの病室に2日目の夜が訪れようとしていた。そんな病室の下、32階にあるロビーに逸平がただ一人いた。5台が並んだ電話ボックスの一つで電話のボタンを押している。何度も頭を傾げながら……電話が繋がらないのだ。

……おかけになった電話番号は現在つかわれておりません……何度かけ直してみてもそういう合成音が聞こえてくるだけだった。

逸平は先ほどから5回以上も千鶴のマンションに電話しているのだが、まったく繋がらない。

千鶴が逸平との永遠の別離を決心し、電話を外しマンションも引き払うことにして、今は松山の実家に帰っていることなど逸平に分かるはずもない。下の階から階段で上がってきた逸平だったが、また頭を傾げながら病室へと向かう。

通路を歩く逸平の後ろから、急ぎ足のサンダルの音がした。振り向くこともなく歩く逸平に声がかけられた。

「姿さん、姿さんじゃありませんか?」その声に驚いて振り返り立ち止まる逸平。恵美の主治医である大河内が走り寄る。

「先生、恵美にまた何か……!」逸平の顔色が不安からさっと変わる。

「いえ、いえ、違います……」大河内は慌てて顔の前で右手を振った。

「……麻酔から完全に覚められました。20分ほど前に。経過は非常に良好で意識も明瞭です」

大河内は通路を歩きながら明るい声で説明する。

「よかった、先生、有難うございました!、よかった……」

逸平は病室のドアをノックすると返事を待つこともなくドアを大きく開けた。

「みんな! お母さんが目を覚ましたんだって!」

ドアを開けるなり逸平は、喜びに満ちた大きな声で朗報を伝える。亮子も和江も逸平の大声に驚いて身を起こした。

「姿恵美さんは先ほど、麻酔から覚められました。20分ほど前です。意識はしっかりしておられますよ。今は体を動かさなければ痛い所はないと言っておられます。実に順調な回復で、うまくいけば、明日の夕方には集中監視室を出られるかもしれません……」

満面の笑顔をつくり大河内は、みなの顔を自信げに見回す。役者ぶりが身についてきた……

 

(つづく)

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