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長編小説 霧のなかの巨塔  第43回

第三章 美しき旭日

■乱気流④

心理的に弱い面がある大塚と二人で、これから神経をすり減らす機首着陸という大技をこなさねばならない。大塚の緊張を緩めておくことがいま、機長の増田には最も大切なことだった。

機内放送に切り替えた送受話器を大塚が増田に渡す。

「機長の増田です。お客さまにご報告とお願いをいたします。ただいま浜松航空管制所からの連絡によりますと、この機に衝突した小型機は東京から松山へフライトしていたもので、乗員はパイロット一名だけでした。同乗者がいなかったこと、不幸中の幸いといえるかもしれません。このパイロットのため、私ども30秒間の黙祷を捧げたいと思います。お客さまもご賛同いただける方は、どうぞご一緒にお願いいたします。お席に座ったままで。これから英語でのご案内をしたあと、『サイレンツ・プレイア』と私がいいましたら、30秒の黙祷をお願いいたします。」

恵美たちのキャビン内で機長の呼びかけに反対する人などいるわけがない。全員が頭を下げて黙祷していた。恵美と逸平も手を合わせて頭を下げている。黙祷をしていると気のやすらぎを感じる一方で、事故で命を落としたとみられるパイロットが、見ず知らずの人であるとはいえ、新たな悲しみが生じるように逸平には思えた。

再び機長の声が機内に流れる。

・・・黙祷のご賛同ありがとうございました。さて、さきほどの衝突によってこの機の前輪格納室が破損しました。着陸時に前輪を出すことが不可能で、機首部分での滑走になります。

ショックはかなりありますが、その時間は数十秒だと考えております。これかち客室乗務員が緊急着陸時にご注意いただくことをご説明します。乗務員の説明にご協力ください。なお、着陸時に衝撃はありますが、火災やその他の事故は起きませんから、どうぞ、ご安心ください。また、必要の都度、私あるいは乗務員のほうから皆さんにご連絡します。ありがとうございました・・・

緊急着陸……という言葉がでたとき、人々の顔に一瞬不安がよぎったように感じた逸平だったが、パニックに陥るような人はいない。客室乗務員たちがキャビンの天上区画ごとにあるポケットから枕を取り出すと一つひとつ乗客に手渡していく。

全員に渡し終わった頃を見計らってチーフパーサーだろうか、男性の声で機内放送が始まった。

・・・ただいま、お渡ししました枕は、緊急着陸時の衝撃を緩めるためのものです。係員が『緊急着陸開始』といいましたら、これからご説明する姿勢になってください。はい、説明しますよ。

この枕を膝の上へ縦にして置いてください。そこへ顔を伏せます。このとき、両手を組んで頭を抱えるようにします。それから全身の力を出来るだけ抜いてください。よろしいですか?

枕を縦にして膝の上におく。そこへ顔を伏せて両手を組んで頭を抱え、そして体の力を抜く…… 簡単でしょ?

二回、練習してみましょう……「緊急着陸開始!」、はい、そう、枕を膝の上に………

丁寧に、ゆっくりと日本語と英語で説明している。

恵美たちも指示される姿勢をとっていた。

・・・はい、結構です。お分かりいただけましたね。機が着陸態勢に入りましたらこの姿勢をとってください。そのときには、改めて『緊急着陸開始!』という指示をだしますので、よろしくご協力お願いいたします。あと十五分ほどで羽田着陸です・・・

恵美は子供を抱くようにして枕を胸においている。

「緊急着陸だって、あなた…… 何かすごい冒険をするみたいね。ふつう、体験できないことよ…… この機に飛行機が衝突したというだけでも大ニュースなのに、そのうえ緊急着陸なんて……! 胸が踊るような気持ちだわ」

恵美は周囲の人たちに聞かれないよう、逸平の耳もとで小さな声でいう。これから起きる非常事態に対してまったく心配をしていない恵美に逸平は驚くというより驚異に思えた。以前のような優しく気が弱そうな恵美とは思えない、別人のような落ち着きようだ。いいようのない不安を抱いている逸平とは正反対だった。

 

緊急着陸という事態に冒険するような気持ちでいるとは……!

恵美にはやはり、神が宿っているんだ!

何の心配もいらないことを恵美は知っているに違いない。

この機は無事に着陸できるのかもしれない……

 

「おいおい、頼むよ恵美、緊急着陸…それも前輪がでないから胴体着陸のようなことをするんだぞ、大変な事態になる危険も高いんだ……」声を潜めて諭すようにいう逸平。

「だけど。あなた、機長さんが前もって原因をいって、緊急着陸になるということを乗客に知らせておくということは、安全に着陸させられるという自信があるからじゃないかしら…? よほどの自信がないと知らせられないことだと思うわ。人の心理というものは、たとえ、こんなに大きな飛行機の機長さんだって、悪い結果が生じそうなときには、最後の最後まで隠しておきたいものなのよ、そうじゃない……? 予告しておくということは、機長さんの自信の現れだと思う。だから、わたし、ぜんぜん怖さというものが感じられないの……」

「うん、まあ、そういえば……」それ以上言葉がでない逸平。

先どまで、あれほど激しく機体を打ち続けていた激しい雨が、今はすっかりやんでいる。

機の前方には青空が広がり、機体の周囲を覆っていた濃い霧も消えて窓下には雲海を見ることができた。

激しい乱気流の空域からは完全に抜けたようだ。

恵美は後方を振り返り、いま抜けてきた雲塊を見ている。

盛り上がった黒雲が遥か遠くの海上から長く連なっていた。高く聳えるような雲の頂きが、西日をうけて金色に輝いている。

実に荘厳といえる眺めだった。

「あなた、見て! あの雲の輝き……神々しいような金色に輝いている…! 一人の命と飛行機を奪ったというのに……」

「うん、また餌食に出来そうな、生け贄を誘っているようにみえる……魔力的な美しさかもな。でも、実に美しい……」

黒い雲の切れ間から太陽の光がひとすじ、サーチライトのような光の帯をつくり、低くたなびく雲の一部を照らしていた。

先程までの嵐が悪夢だったかのように幻想的な眺めだった。

コックピットは緊急着陸を控えているという緊迫感はまったく見られない。大塚はメインディスプレイに呼び出した数値を航空日誌に記入している。機長の増田は気象レーダーと対空レーダーを時折り交互に見ながら、操縦桿を握っていた。

平常と変わるところがないコックピットの雰囲気だ。

「機長、心配していた第4エンジンにトラブルはありませんでしたね。警報ランプは点灯したままですが、相変わらず表示数値には異常おりません。まったく不思議なエンジンです……」

「まったくだよ、ま、今度ばかりはこの機もドック入りするから、エンジン交換が可能かもしれん。しょっちゅう、こんな気紛れをされたら、われわれ、どんな太い神経をもったクルーでも、気疲れ……」

再び緊急用無線機の着信ブザーが鳴り増田は話を中断した。

・・・浜松航空交通管制所。JIA240便、とれるか、オーバー・・・ 前回とはまた違った男の声だった。

「JIA240便、感度良好です。オーバー」

・・・浜松管制所。羽田にはJIA240便の緊急着陸に対処するよう指示を出しておいた。1620から羽田空港は閉鎖されている。そこから羽田空港管制塔の管轄区域に入る。爾後、羽田管制塔よりの指示を受けられたい。グッラック、アウト・・・

「JIA240便い了解。ありがとうございました」

羽田空港管制塔は次々と着陸許可を求めてくる航空機の対応に追われていた。現在、羽田に向かって航行していた、ほとんどの航空機には登録フライト空域を管轄する航空交通管制所からの緊急連絡によって、中・大型機は東京に比較的近い名古屋空港と松本、富山、そして小松空港への到着地変更の指示をうけていた。

ジェット旅客機以外のプロペラ機や自家用機は離陸空港に応じて、大島や福島、仙台といった太平洋側に面した空港へ振り分けられていたが、十一機だけは既に羽田の管制空域へ入っていたため、羽田の管制塔はその対応に忙しい。

いつものように、レーダー映像を見ながらの着陸誘導とはちがって、空港閉鎖による着陸代替空港の駐機スペースを確認しながら誘導しなければならない。通常は六人体制での管制室が、急遽十人の管制官が誘導や代替空港との連絡にあたっていた。

 

・・・AMA308便、現在、大島上空を降下中。南西よりB滑走路への進入許可を願います。オーバー・・・

「羽田管制塔。AMA308便に告げる。1620より、747型機緊急着陸のため空港を閉鎖している。308便は到着を福島空港に変更されたい。308便の着地変更は福島空港に連絡済み。管制空域に入り次第、福島管制塔の指示に従われたい。オーバー」

・・・308便、了解。着地を福島に変更。オーバー・・・

「羽田管制塔。308便、グッラック、アウト」

 

主査管制官の大仁は最後の担当機308便との交信を終えるとへッドセットを外して滑走路を見回した。いつもなら今頃は、離着陸機のラッシュアワ-を迎える時間帯だが離陸機は出発を遅らせ、着陸機は着地変更で滑走路上には一機もいない。

 

(つづく)

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