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長編小説 霧のなかの巨塔  第44回

第三章 美しき旭日

■陽光ふたたび①

上空また地上にも航空機が見えない巨大空港は、殺伐とした光景だった。閉鎖された羽田空港はこれまでに幾度も経験した大仁だったが、いつものようにその後で起きることは「緊急着陸」ときまっている。その都度、大仁を始めとする管制官たちは全神経をすり減らしてきた。

こんな事態が起きるたびに、六年前にこの羽田で起きた悲惨な墜落事故が、きのうのことのように思い出される。

 

六年前の五月十八日二十時過ぎ、右主脚がでない東南航空の767型機が失速し墜落した。右翼側主輪が完全に固定されたことを知らせる確認ランプが点灯しないこの機の機長は、片輪着陸は転覆の危険が高いと判断、全輪を引き上げて胴体着陸をすると羽田管制塔へ連絡してきた。

残燃料を東京湾上で投棄、着陸態勢にはいったが減速に失敗、再進入をはかるべく高度を上げようとするが上昇せず失速し、滑走路南端に墜落した。炎上は免れたものの、乗員乗客132名のうち121名が死亡、11名が重軽傷を負った。

着陸装置が出ていないときにおける減速効率の計算ミスと、急激に機首上げ操作をした単純な操縦ミスだと航空機事故調査委員会は事故原因を結論づける。

機長、副操縦士とも死亡したため、フライトレコーダーとボイスレコーダー分析だけの推測による結論である。フライトレコーダーからみた減速効果率は誤差が余りなく、ほかに何かの原因があるはずだという疑問が最後まで残ったが、結局は操縦ミスとして結論されてしまった。運航乗務員が死亡してしまった場合は、よほど明確な証拠と事由がない限り、ほとんどすべての事故がパイロッ卜の操縦ミスとして処理されるのが通常である。

 

JIAの機長さんよ、頼むぞ!

あんたは、巨大機ジャンボの機長なんだ。

乗員乗客を278名も乗せてるんだぜ。いくら、小型機に衝突されたといっても、着陸の責任者は機長のあんただ!

ミスなんかするなよ、絶対に……

ミスがなくても不都合が起きたら、何もかも、あんたのミスで通されちまうんだぞ!

頼む、無事に着陸してくれ!

 

機影のない広い大空港を眺めながら大仁は、これから緊急着陸をするジャンボ機の機長に、心から着陸成功を願っていた。

そんな大仁の耳に管制官が大仁を呼ぶ声に気づく。

「チーフ、240便が管制空域に入りました……!」

「よう、待ってたぞ!」大仁はへッドセッ卜をかけると、マイクの位置を調整し送信ボタンを押す。

「240便、羽田管制塔、主査管制官の大仁だ。感度は? オーバー」

・・・JIA240便、感度良好。機長の増田です。現在、真鶴沖の相模湾上空を通過しました。現在、高度1万1千フィート、なお降下中です。このまま高度を下げ、東京湾上空2千フィートから着陸態勢に入ります。オーバー・・・

「羽田管制塔、了解。小型機との正面衝突を回避できたこと、見事な操縦技術と賞賛するばかりだ。A滑走路への進入を許可する。現在、羽田の天候は曇り。視界はおよそ20マイル、風速3ノット、方位は19度だ。着陸には何の支障もない。空港は1620から閉鎖している。重ねていう。A滑走路だ。オーバー」

大仁は機長の増田という名を聞いて、記憶の底に何かが残っていたが、交信中に思いあたる。

……そうだ、あの機長だ! まちがいない……

・・・240便、A滑走路へ進入します。お手数をかけます。ただいま燃料三千ガロンを投棄、東京湾上空でさらに一千ガロンを投棄して着陸します。いま……主輪は完全に下りてロック確認です。前輪は昇降油圧パイプ折損のため作動させていません。

主脚着陸で極力機首上げ滑走のあと減速、機首滑走します。

少々、滑走路センター部から逸れるかもしれませんが、機体破壊には至らないはずです。私の推測ですが。オーバー・・・

「羽田管制塔。お手やわらかに願います。フライトレベルは良好。燃料投棄には付近船舶に十分注意されたい。燃料のスコールを浴びたら船長が怒り狂う。オーバー」

大仁はこの機の機長が、世界の航空界に知られている『キャプテン・マスダ』に違いないと思いながらも、その確証を得たいがために、管制官としては常軌を逸した行為、交信中の冗談をいれてみた。あの増田機長なら必ずその反応があるはず……

・・・240便、ご忠告有り難うございます。船長から会社あてに目んタマが飛び出すような、莫大な請求書が送られないよう十分に留意します。有り難うございました。これより着陸リストのチェックを始めます。十分後に改めて進入許可を頂きます。よろしく。オーバー・・・

「羽田管制塔、了解。連絡を待つ。アウト」

主査管制官の大仁は、このジャンボ機の機長が、あの、キャプテン・マスダに相違ないと確信した。この緊急事態のなかで、冗談をとばせる豪胆な機長は滅多にいるものではない。

世界のパイロットたちにその名が知られているキャプテン・マスダ以外には……

……1998年2月、成田発アンカレッジ経由、パリ・ドゴール空港行き747型機の機長が増田譲二だった。北大西洋上空五万フィートを時速550キロで水平飛行中、左右の主翼に結氷を生じたため、高度三万五千フィートまで降下した。

近辺空域には四万フィートを超える発達した積乱雲域があったが、主翼の結氷は非常事態だ。放置しておいたら重みとフラップ作動の不能によって墜落は必至である。やむを得ず降下中に左翼ディスチャージャー付近に被雷、翼端が6メートルほど欠落し、第一エンジンが火災を起こした。

エンジン火災は消火装置で間もなく消えたが、左翼欠落部からフラップ作動装置用の大量のオイルが漏れ始める。循環メインパイプの破損だった。このままでは油圧系統の装置はすべて操作不能になってしまう…… 被雷後すぐに左右主翼のフラップ作動が重くなる。急激なオイル不足だ。多量のオイルが機外に飛散している! このままだと一時間以内に機の操縦系統オイルは完全に抜けきってしまい、操縦不能になることは確実だった。

機の状態からいってアンカレッジに引き返すことも、ドゴール空港まで飛ぶことも不可能……エンジンのことは残り3基で、ドゴール空港までわけないことだが、油圧系統のオイル漏れ、それもメインパイプ破損による大量の継続した漏れだけは補充を続けるほかには対策がない。補充するオイルがなければ、その結果は明白だ。操縦不能による墜落しかない。

このとき増田は成田を出発するときチェックした積み荷のなかに東亜石油会社からパリの自動車会社に出荷されたテスト車用エンジンオイルが千ガロン積まれていることを思い出した。

幸運にも油質は、いま必要な油圧装置の補充オイルに最適だった。それが積まれている後部貨物室へは機の尾部にある与圧隔室から容易に行くことができた。

増田は副操縦士の岩井とパーサー2名に指示して、前部貨物室側壁にあるオイルコンプレッサ補助タンクに、そのオイルを補充させた。約50ガロンの補充だけでフラップやラダーの油圧も正常に戻ってくれる。だが、このままドゴール空港まで飛ぶことは到底不可能だった。補充した分は直ぐ左翼メインパイプから流出していく。いま使用している積み荷のオイルは五時間以内に消費されてしまうだろう。

何はともあれ増田は、男性乗務員にオイル補充当番表を作らせて常時、規定オイル量になるよう補充を続けさせた。

被雷してから五十分ほど経過したときには、左主翼から後方の機体は噴霧されるオイルで汚され、左側窓からは外部を見ることができなくなる。ただ、このオイルは引火点が高く、エンジンの噴射熱で引火する危険はまったくない。

ただ乗客が心配して数人が乗務員に知らせてきたが、機長の機内放送による説明で乗客は安心した。男性乗務員たちが交代でオイル補充をしているとき、増田は近くで緊急着陸が可能な空港を探す。幸いに一ケ所だけあった。着陸許可が得られればだが……

そこへ着陸できなければ、乗員乗客322名は機と運命をともにすることになる。

唯一の空港はイギリス・グラスゴウにあるペイズリー空港だ。

近くといっても現空域から2千キロ彼方…… しかし、その空港以外にはない。また、幸いにそこまでなら、どうにかオイルがもちそうだった。増田はペイズリー空港にHF帯無線によって緊急着陸の要請をする。フライトマップによると、この空港はイギリス空軍との共用になっており、ジャンボ機の離着陸が可能な6千メートル滑走路を2本もっている。

現在の状況を増田から説明された空港当局者は即時、着陸許可を出すとともに空軍を中心にJIA機救援チームを編成して緊急着陸への対応をした。JIA機の現位置から空港接近時刻は21時前後と推測し、レーダーが機のエコーを捉え次第、戦闘機2機が誘導のため発進することになっていた。

20時41分、JIA機は2機の戦闘機に誘導されて、ペイズリー空港に通常どおりの完璧な着陸をする。

左翼は当初よりも破損範囲が広がり翼端から8メートルほども脱落していた。残ったフラップは垂れ下がり、第1エンジンは既に脱落している。左主翼から後ろ、巨大な垂直、水平尾翼まで全面がオイルの皮膜を被り、右後部の機窓までもオイルで汚れていた。投光機の眩しいような光をあてられたJIA機は、油地獄から抜け出してきた怪物のように輝いている。痛々しいジャンボ機の姿に、集まった救助関係者や報道関係者たちはみな、こんな状態でも墜落することなく、またひとりの死傷者もなく、あの完璧な着陸をやってのけた機長、増田の操縦技術に驚嘆した。

世界でも稀なパイロットだ!………といって。

その翌日、イギリス全土のテレビや新聞はトップニュースや特集を組んで、この不時着を大々的に報道した。

『大空の英雄、キャプテンーマスダ……

冷静な判断と操縦技術でジャンボ機を救う!』

『被雷した日本のジャンボ機、ペイズリーに不時着…

翼を失いオイル漏れの機が機長の機転で無事生還!』

増田を賞賛するニュースがマスコミを通して伝えられると、イギリス国民の気質もあったのか、この機長の稀ともいえる操縦技術と沈着さが322名の乗員乗客を救ったのだとして、ゴールド・リボン賞の3人目として表彰すべきだという声が全土に広がる。

それからニケ月後、増田は英国航空連盟から航空界に大きな功績があった世界のパイロットに授与されるゴールド・リボン賞、3人目の受賞者になった。

そのうえ、エンジンオイルのメーカーだった東亜石油会社からは、商品の優秀性を世界に示してくれた謝礼として五億円が増田の所属する日本国際航空へ寄付されたのである。

この240便を操縦している機長は、世界にその名を知られた国際線の名パイロットだった……ただ、それは知る人ぞ知るという事実であったが……

……そうだった、あの増田機長だったのだ、この機の機長は!

あの沈着、冷静さは増田機長だからできること。

彼なら出来る、この緊急着陸を。間違いない……

大仁はこれまでのような危惧ではなく、大きなゆとりをもてる気持ちになっていた。

羽田空港の到着ロビーは出迎えの人たちで大変な混乱が生じていた。人々の声と場内放送とが入り乱れ、広いロビー内に反響している。羽田への到着予定便が周辺の空港に着地変更された旨の案内放送が幾度となくされていた。

周辺といっても札幌を発った便が小松空港や松本空港へ、仙台や大阪を発った便は途中で出発空港へ引き返したり、福岡発の便は名古屋空港へ……この着地変更が大混乱の原因である。

案内カウンターの女性係員にくってかかる婦人もいたが、係員の親切な説明を受けて、うなづきながら帰っていく。

博樹や正樹と一緒に、祖父の源吾も恵美たちの出迎えにきていた。愛娘のように可愛い恵美の顔を見たさに、家でじっと帰りを待つことなど出来なかったのだ。

「おじいちゃん、ほんとについてないね。よりによってお母さんたちが乗った飛行機が故障を起こしちゃうなんて……!」

正樹は落ち着かない顔をして、到着時刻表示盤と祖父の顔を見比べるようにしながらいう。

「係の人は故障の詳しいことは言わなかったのか……?」博樹は兄らしく平静をよそおった口調で正樹に聞くが祖父が答えた。

「ああ、正樹と案内カウンターに行ったら、そこの係員が到着予定の一機が故障のために緊急着陸するために、いま空港が閉鎖されている、というだけなんだ。どういう故障か、どの便かということも言わないんだよ。ここでは分からないらいうだけで…… 何処へ行けば分かるのかと聞くと、3階の管理部で聞いてくれという。どうも箝口令……」

場内放送のチャイム音で源吾は話を中断した。今までの女性の声ではなく男性の声だった。

・・・空港管理部からお知らせします。緊急着陸を要請しておりましたホノルル発、台北・大分経由、JIA日本国際航空240便は、定刻より約七十分遅れてまもなく着陸します。機長からの連絡によりますと、遠州灘上空2万フィートの乱気流空域で、猛烈な上昇気流によって巻き上げられてきた小型機と……」

到着ロビーは先ほどまでの騒々しさから、水を打ったような静けさに変わっている。みなが正樹たちと同じように天井のスピーカーを見つめていた。

・・・……空中衝突しました……・・・その言葉でロビー内には悲鳴のような、また叫びのような、言葉にならない声が湧きあがるように広がっていく。

 

(つづく)

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