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長編小説 霧のなかの巨塔  第45回

第三章 美しき旭日

■陽光ふたたび②

・・・……正面衝突だけは機長の的確な回避操作で避けることができましたが、探知不能である機体下方から、そして突然の空域侵入のだめ機首下部への衝突までは回避出来ませんでした。

この衝突によって240便は前輪が作動不能との連絡です。

衝突による乗客乗員への影響はありません。全員無事です。

主輪は異常なく着陸後は機首での滑走をするという連絡が機長から入っています。幸運にもこの便の機長は世界にその名を知られた沈着さと抜群の操縦技術をもつ名パイロットです……

かならずや無事に着陸させるものと確信しています。あと十分ほどで着陸します。着陸いたしましたら直ぐ、皆様にご報告いたします。なお、屋上送迎デッキは16時20分より閉鎖しております。あと、暫くのあいだご辛抱ください。閉鎖解除のお知らせは改めてご案内します・・・

「空中衝突したんだ、お母さんの機と他の機が……!」正樹が誰にともなく興奮した声でいう。顔色はもとに戻っていた。

「ほんとだよ、そんな……でも、みんなが無事だというから……しかし、お母さんたちびっくりしただろうね、衝突したとき……」博樹が祖父にいう。源吾は動じていないようだ。

「いや、お母さんは落ち着いていたと思うよ。それよりお父さんのほうが慌てたんじゃないかな……この前のお母さんの声からそんな気がするんだよ……」

「そうかも知れないね。お母さんには眩しいほどのオーラがついているんだもの、平気だったかもね」正樹が元気な声でいう。

まだ何も分からないうちから、悪いほうへ気をまわすことはないと考えていた。今は兄の博樹よりも落ち着いている。

「機首滑走というのは、すごいショックがあるんだろうね、頭の部分で滑走路をこすっていくんだから。でも、危険性は小さいんだろ…? 兄ちゃん……」

「うん、もちろん胴体着陸よりずっと危険性は薄らぐけど、機首と路面の接触抵抗が大きくて、パイロットが反射的で的確な操作をしないと大きく滑走路を外したり、横転する可能性もあるんだ。しかし、オレたち素人がいろいろと想像していても、はじまらないよ。ねえ、おじいちゃん……」

「ああ、そうさ、オレたちには今どうなっているのか、またこれからどうなるのか、知ることはできないさ。神にも分からんことだと思うな……私たちに出来ることは。ただ待つことだけだ。

そして、お父さんやお母さんが無事に降りてくることだけを祈っていよう。それ以外にはどうすることも出来ないよ、大丈夫だよ、必ず元気に降りてくるさ……」そういうと源吾は二人の孫の顔をみながら軽く肩をたたく。

……心配するなよ……というように。

到着ロビーには200人近い人たちが、そわそわとした様子で立っていた。ベンチに座っている人は誰もいない。心配で座っているような余裕がないに違いない。公衆電話の前にはどれも行列が出来ている。家で待つ家族に電話するのだろう。

源吾は自分がもってきた携帯電話で和江に状況を知らせておいた。機の故障点検で大分出発が一時間以上遅れたことにして……

副操縦士の大塚は羽田管制塔との交信を続けていた。

「進入角度26度、速度110、高度2千フィートからA滑走路へ進入します。オーバー」

・・・管制塔。進入角度及び速度、OK。A滑走路への着陸を許可する。A滑走路のILSを受信せよ。オーバー・・・

「240便、了解。ILSに切り替えます。オーバー」

・・・万一に備え万全の配備を完了した。グッラック、アウト・・・

「240便、お世話になりました。サンクス。アウト」

 

240便のキャビンでは先はどから改めて、緊急着陸時の姿勢について練習が数回続けられている。

・・・よろしいですか? できますね。さて、いまお座席上にあるボックスに重たいもの、固いものが残っていないか、もう一度乗務員が確認させて頂いております。お近くに参りましたらご協力ください。乗務員の皆さん、確認作業急いでください・・・

チーフパーサーの声に十人ほどのスチュワーデスが走りながら確認していく。

逸平から見える範囲には異常ないらしい。確認していた乗務員は各々の座席に戻ったらしく立っているものはいない。

・・・ご協力有り難うございました。間もなく、私が『緊急着陸開始!』といいます。そうしましたら直ぐ、練習した姿勢になってください。もう一度、胸ポケットやスラックスのポケットにペンや携帯電話等が入っていないか確認してください……それでは枕を膝の上に置きましょう。はい、メガネは外して、お座席前のネット奥にしっかり収めてください。はい、よろしいですね…… ではそのままお待ちください。あと2分で着陸します・・・

チーフパーサーの落ち着いた説明に、乗客たちの不安感はすっかり消え去っていた。

「あなた、いよいよ着陸ね。不時着だっていっても、ぜんぜん怖さが感じられないわ。あなた、怖い……?」

「ほんとに平気だね、恵美。オレは怖くないなんていえない……恵美に笑われるけど、いま心臓がドキドキしてる……・」

「あなた、当然よ、恐怖に思うことは。私はひらき直っているだけなの。どんなことが起きてもあなたと一緒なんだもの……」

「恵美……」逸平は思わず恵美の手を握る。その目には涙が浮かんでいる。恵美を愛しながらも千鶴との愛を断ち切ることができなかった自分……それなのに、これほどまでに自分を愛してくれているとは……その愛に対して、逸平はただ恵美の手を固く握ることしかできなかった。

窓の外には空港周囲の建物が急速に近づいて来る。

もうすぐ着陸だ……!

・・・緊急着陸開始!・・・ パーサ-の鋭い声が上がった。

「恵美……!」逸平は本能的に恵美の名を呼ぶ。

「あなた、大丈夫よ、わたしは……」顔を枕に深く埋めているため声がくぐもっているが、恵美は力強く逸平に応えていた。

機長の増田はしっかりと操縦桿を握り、ILS装置に時折り視線を移していた。他のディスプレイ上にも故障を示す赤い表示は出ていない。このような非常時のとき、多くの機長がディスプレイ上や計器盤の数値を見落とし大小の事故を起こすことがある。

増田はそんな軽薄なミスは絶対にしない。

「ローカライザー受信に異常はないな……?」

「異常ありません」大塚の声は落ち着いていた。

「フラップ17度」

「フラップ17度、OK」フラップ角度数値をディスプレイ上で指差し確認する大塚。

「メイン着陸装置、固定確認」

「メイン着陸装置固定。グリーンランプ・オン」

「フラップ22度」

「フラップ22度確認」

「アンチスキッドーオン」増田はメインコンソールの緑色ボタンを押す。ボタン中央に赤色のランプが点灯した。

「アンチスキッドーオン確認。作動ランプ、オン」

「油圧状態はどうだ?」

「すべて正常です。アナンシェーターも異常なしです」

「OK、フラップ43度」

「フラップ43度確認」

「よし、いいぞ! A滑走路のど真中だ。フラップ52度」

「フラップ52度確認」

「さあ、もうすぐ着地だ。着地後もフラップは戻さないぞ、逆スラストをかけてからも、最後の最後まで機首上げで行こう」

「了解です、機長」

増田にとって、この機だけではなく、JIAの所属であるどのジャンボ機についても、その特徴やクセを知り尽くした我が子のようなものだった。如何なる状態にあっても、どのジャンボ機でも扱いこなす自信があった。どのようなクセがある機でも、どんな状態にあっても、増田の操縦技術には屈するしかない。

240便は前方に長く伸びるA滑走路へ向かって毎分500フィートで降下していた。滑走路の端に記された「A」という記号と、それに続く白線が遥か彼方まで続いている。

速度が落ちるにつれて、わずかにコクピットが振動を始める。

低速のために機体周囲の気流に揺さぶられているのだ。こんなことは通常の自然現象にほかならない。

滑走路が急速に近づいてきた。白線上に埋め込まれた滑走路灯が、雲間からもれる夕陽を受けてダイヤのように輝いている。

着地まで3秒……増田は二重ハンドルをゆっくり回した。

機と滑走路が並行するような姿勢になるが、機首を上げているために並行にはならない。ショックもなく静かに着地した。

「フラップこのまま。地上速度は?」

「105ノットです」

「逆スラストを入れる」増田の声は平静。通常と変わりない。

「逆スラスト、了解」

「逆スラスト角度、45度」

エンジン音の高まりと同時に急速に減速される。

「45度確認しました」

「スロットル1/3。逆スラストオフ」増田は逆スラストレバーをゆっくり戻す。

「逆スラストレバー位置、オフ確認」

「スロットル1/5」

「スロットル1/5確認」

増田はスロットル・メインレバーをぐっと手前に引いた。エンジン音が急に静まる。その間も増田はフラップペダルとラダーペダルから足を外すことはできない。機首上げ操作をあと十数秒は続ける必要がある。機首が少しずつ左へ反れていく。ラダーペダルを強く踏んで機首方向を修正した。

「地上速度」

「62ノットです」

「ブレーキ油圧は?」

「ブレーキ油圧、異常ありません」

「ブレーキ作動、フラップを戻す」

「了解」

機はガクンとするような軽いショックとともに、さらに減速する。ゆっくりと機首が下がりはじめ、操縦席からも前方にずっと続いている白いラインを数秒見ることができた。

白線上に機首をおいて直進している。

「スロットル、アイドル」

「アイドル、了解」

増田はスロットルレバーをいっぱい手元に引いた。エンジン音が一挙に小さくなる。

「よし、機首が下がり始めたぞ。頭をコンソールにぶつけるなよ、タンコブなどサマにならんぞ……!」

増田は大塚に冗談を飛ばす。

機首が下がり体が前に傾いていく……あと、2秒で機首と滑走路が接地する……。

キャビンでは乗客乗員の全員が膝の枕に顔を伏せ、両手で頭を抱えている。後方から前方を見たとしたら無人のキャビンだ。

機体は静かに着地した。主輪が接地したショックはまったくない。ゴトゴトという滑走路を走行する振動で着地が分かった。

着陸してから1、2分ほどだろうか。徐々に体が前に傾いていった。頭を前席のシートに強く押しつけていないと、体がシートからずり落ちそうになる。

突然、ゴワーッ……!という轟音と振動に機体が揺さぶられた。乗客たぢは体ごと前席へ……というより体が浮き上がって、床に落ちそうになる。みな、首筋や肩を前席に当てて体を支えるほかなかった……。

轟音と激しい振動は数十秒続いたが、始まったときと同様に突然機内が静かになる。機は完全に停止していた。聞こえていたのは微かなエンジン音だけだ。たが、それも直ぐに止まる。

煙の臭いも火災が起きたような気配もない。もちろん、機体が折れたような様子もなかった。機体が前方に大きく傾いているだけで、そのほかには異常を感じるものは何もない。

「恵美……無事に着陸したぞ、大丈夫か?」

逸平の声はわずかに上ずっていた。

「ええ、平気よ、あなた。大丈夫だったでしょ。ちょっと、体を起こすことが出来ないけど……」恵美は体を起こそうとして動いているが、前の席に両手をついていないと、床に落ちてしまいそうだ。逸平と話をするのも下を向いたまま……

「しかし、ほんとによかった……誰も怪我していないようだし……」逸平も恵美の方を向けない。床と話をしていた。

気持ちが落ち着いてくると、その様子が滑稽に思われる。

何台ものサイレン音が近づいてきたが、窓を見る姿勢がとれなない。静寂だったキャビンにざわめき声があちこちから起きた。

チーフパーサーの声で機内放送がある。

・・・乗客のみなさま、お怪我はありませんでしたか? かなり機体が傾斜しておりますが、火災や燃料漏れの心配はございません。どうぞご安心ください。ただいま、クレーンによる機首引き揚げ作業をしております。機体が水平状態になりましたら脱出シュー卜で機外に出ていただきます。ご窮屈な姿勢で恐縮ですがしばらくご辛抱ください。緊急着陸、まことにご迷惑をおかけいたしました……

つづいて英語での放送を始める。幾度聞いてもこのパーサーの英語は流暢なものだと逸平は感心していた。機内放送が終わると客席の方々から拍手らしき音が上がる。よほど器用な人間じゃないと両手を使えないので拍手の広がりはない。

恵美も逸平も拍手をしたかったが、両手を前の座席につき体を支えていないとシートベルトをしていてもお尻が浮き上がる。

頭を少しだけうえに上げるだけが限度だった。

 

(つづく)

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